↑ イエスのガリラヤでの宣教活動:ティルスとシドン地方でのカナンの女のいやし
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日本キリスト教 富 谷 教 会
週 報
年間標語 『キリストに結ばれて、聖霊によって、日々心を新たにされ、
キリストに似た者に造り変えていただこう。』
聖句「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。これらすべに
加えて、愛を身につけなさい。キリストの言葉があなたがたの内に宿るようにしな
さい。いつも感謝して心から神をほめたたえなさい。すべて主イエスの名によって
行いなさい。」(コロサイ3:13~16の抜粋)
降誕節第8主日 2017年2月19日(日)
午後5時~5時50分
礼 拝 順 序
前 奏 奏楽 辺見トモ子姉
讃美歌(21) 206(七日の旅路)
交読詩編 103(わたしの魂よ、主をたたえよ)
主の祈り 93-5、A
使徒信条 93-4、A
聖 書(新共同訳)マタイによる福音書15章21~31節(p.30)
説 教 「心身の病(やまい)をいやすキリスト」辺見宗邦牧師
祈 祷
聖餐式 72(まごころもて)
讃美歌 356(インマヌエルの主イエスこそ)
献 金
感謝祈祷
頌 栄(21) 24(たたえよ、主の民)
祝 祷
後 奏
次週礼拝 2月26日(日) 午後5時~5時50分
聖書 マタイによる福音14章22~36節
説教 「奇跡を行うキリスト」
讃美歌(21)355 403 24 交読詩編107篇
本日の聖書 マタイによる福音書15章21~31節
21イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。 22すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。 23しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」 24イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。 25しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。 26イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、 27女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」 28そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。
29イエスはそこを去って、ガリラヤ湖のほとりに行かれた。そして、山に登って座っておられた。 30大勢の群衆が、足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、口の利けない人、その他多くの病人を連れて来て、イエスの足もとに横たえたので、イエスはこれらの人々をいやされた。 31群衆は、口の利けない人が話すようになり、体の不自由な人が治り、足の不自由な人が歩き、目の見えない人が見えるようになったのを見て驚き、イスラエルの神を賛美した。
本日の説教
「イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。」(21~22節)
「そこをたち」とは、イエスがファリサイ派の人々や律法学者たちと論争した場所のことで、イエスの活動根拠地のカファルナウムの町と思われます。イエスはそこを立って、ティルスとシドンの地方に行かれました。
「ティルス」と「シドン」は、シリア国のフェニキア地方にある地中海東岸の町で、「ティルス」はガリラヤの国境から、20キロほど北にあり、「シドン」は、ティルスよりさらに北にある町です。現在のレバノン共和国のスール(=ティルス)とサイダー(=シドン)です。
イエスがこの異邦人の地方に向かったのは、ユダヤ教指導者との執拗な追及を避けて、静かに神との交わりをもつためだったとする説があります。しかし、もしそうであれば、これほど遠くまで行く必要はなかったでしょう。イエスがこの地方を目指して行ったのは、これまでの戦果で離散したイスラエル人がこの地方に大勢住んでいるの、イエスはこのイスラエル人に福音をもたらすためであったと思われます。
すると、この地に生れたカナンの女性が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫びました。イエスの名声は、すでにこの地方にも行き渡っていたのでしょう。「主よ、ダビデの子よ」という呼びかけは、メシアを指すことばです。カナンの女がこの称号を使ったことは驚きです。
「カナン」とは、現在の「パレスチナ」を指す地域のことです。ペリシテ人が住み着く前の呼び名です。カナン人はパレスチナの古くからの住民です。
「しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」(23節)
異邦人の女の助けを求める叫びに対して、イエスは何も答えませんでした。叫んでいるのは異邦人の女だからでしょうか。そうではありません。イエスはガダラで悪霊に取りつかれた異邦人を癒しています(8:28~34)。イエスは、「主よ」と呼んで助けを求めるこの女性の信仰が、一時的なものかどうかを確かめようとしたのです。
女が執拗に叫びながらついて来るので、うるさくて困った弟子たちがイエス近寄ってきて、「この女を追い払って下さい」と願いました。ただ追い払うだけなら、主に願う必要はなかったはずです。弟子たちは、彼女の叫びに応えて、イエスにいやしてもらい、一刻も早く家に帰らせてほしいから願ったのです。
「イエスは、『わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない』とお答えになった。しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。」(24~25節)
「イスラエルの家」とは、神と契約を結び、神の民とされたイスラエルの民にたいする言葉です。「失われた羊」とは、この民が羊飼いを失った羊のように、神の導きを求めてさまよう有様を示しています。イエスはそのようなイスラエルを救いに導くことが自分の使命であり、イスラエルの民のところにしか神に遣わされていないと、自分の任務を説明しました。イエスは弟子たちを伝道に送り出すときも、ほぼ同じことばで命じています(マタイ10:6)。
イエスは弟子たちの「追い払ったください」とのの願いに対して、お答えになったのでしょう。そのイエスの答えを、弟子たちから聞かされた女は、それでもあきらめず、イエスのもとに来て、どうしても助けていただきたい、そういう切なる必死の思いに駆られてイエスの前にひれ伏しました。そして「主よ、どうかお助けください」と、娘のいやしを願ったのです。
「イエスが、『子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない』とお答えになると、女は言った。『主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。』」(26~27節)
カナンの女の求めに対して、イエスは再度、自らがユダヤ人のために派遣されたことを説き続けます。「子供たち」とは、むろんユダヤ人です。「子犬」とは、異邦人を指します。「パン」は、イエスが与える祝福であり、いやしを象徴しています。イエスの与えるパンは子犬のためではなく、子供たちのために用意されたものであることを強調します。「子犬」という言葉は、差別的意識からではなく、ことわざのようなものであって、気にさわるものではなかったと思われます。イエスの発言は、彼女の信仰を試すものでした。
カナンの女は二度にわたるイエスの拒否の言葉に批判や反抗を投げ返さず、「主よ」とイエスに呼びかけ、「ごもっともです」とイエスの語られたことをそのまま受け入れました。それだけではなく、「子犬」という言葉を逆手にとって、「子犬でも主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」と機知に富んだ言葉を返し、必死になって食い下がりました。ここに彼女の謙虚さ、熱心さ、そして何よりも信仰を見ることができます。イエスが「子供たち」と呼んでいる人物(ユダヤ人)を、カナンの女は「主人」と言い直しています。
「そこで、イエスはお答えになった。『婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。』そのとき、娘の病気はいやされた。」(28節)
彼女のねばり強さは、事態をより良い方向へと変えることのできる神を信じる信仰に基づいたものでした。イエスは彼女の信仰を絶賛し、彼女に限りない愛を示されました。これまでのイエスが示された無視の態度や拒否の言葉は、異邦人の女の信仰を浮き立たせるためのものでした。
イエスは、「あなたの願いどおりになるように」とカナンの女に言われました。イエスの言葉は権威あるものでした。そのとき、娘の病気は癒されました。
「イエスはそこを去って、ガリラヤ湖のほとりに行かれた。そして、山に登って座っておられた。大勢の群衆が、足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、口の利けない人、その他多くの病人を連れて来て、イエスの足もとに横たえたので、イエスはこれらの人々をいやされた。」(29~30節)
イエスはガリラヤ湖畔に帰って来ます。「山に登って」の山は、どの山だったかははっきりしえいません。「座っておられた」は、教えを説くときの様子です。様々な病気に悩む大勢の人々が癒されたという編集的な要約文を記しています。連れて来られた病人は、「足の不自由な人」、「目の見えない人」、「体の不自由な人」、「口の利けない人」、「その他多くの病人」でした。この記述は、イザヤ書の預言の実現です。
「そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。」(イザヤ書35章5~6節)
神の約束である預言を実現し、その言葉通りに救いをもたらす者はメシアに外なりません。
「群衆は、口の利けない人が話すようになり、体の不自由な人が治り、足の不自由な人が歩き、目の見えない人が見えるようになったのを見て驚き、イスラエルの神を賛美した。」(31節)
「口の利けない人が話すようになり」、「体の不自由な人が治り」、「足の不自由な人が歩き」、「目の見えない人が見えるようになった」のを見て、」群衆は驚きました。これまで見聞きしたことのないいやしの奇跡が、今、群衆の見ている前で起きたのです。そこに集まった人々は、このようなみ業の背後に神の特別な力が働いていることを認め神を崇めました。「イスラルの神」という表現は、ユダヤ人は使わなかったので、そこに集まっていた人々は異邦人であったことを暗示しています。場所がガリラヤであることは、マタイ4:15~16節を思い起させます。そこでは、イザヤ書9:1~2の引用によって、「異邦人のガリラヤ」に救いの光が差し込んだと記されています。
マタイによる福音書8章には、山上の説教を終えたイエスが山を下りてから、「重い皮膚病を患っている人」をいやし、「百人隊長の僕」をいやし、「ペトロのしゅうとめ」をいやし、「悪霊に取りつかれた大勢の者」から悪霊を追い出し、病人を皆いやされたことが記されていました。「それは預言者イザヤを通して言われたいたことが実現するためであった」とあります(マタイ8:17)。
「彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った。」(イザヤ書53:4)
神の子イエスは、苦難の僕として、わたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担って、それを癒してくださったのです。主イエスは、肉体の病だけではなく、心の病も癒してくださる方なのです。
讃美歌21の433番の4節、6節は、次のような歌詞です。
「こころの痛手に 悩めるこの身を イェス医(いや)したもう、み許にわれゆく。
あるがままわれを かくまで憐れみ、イェス愛したもう、み許にわれゆく。」
イエス様の身許に、身を寄せて、心身の病いを癒していただき、とがも罪も潔(きよ)めていただき、救いと永遠のいのちをいただこうではありませんか。