富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「イエスの宣教開始とナザレの人々の反応」

2015-01-25 21:14:34 | 聖書

〒981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

           日本キリスト教 富谷教会 週報

年間標語 『いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝しましょう。』

聖句「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝をこめて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」  (フィリピ4:6)

 降誕節第5主日   2015年1月25日(日)   5時~5時50分 

   礼   拝    

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21)  492(み神をたたえる心こそは)

交読詩編     116(わたしは主を愛する)

主の祈り    93-5、A

使徒信条    93-4、A

聖 書   ルカによる福音書4章14~30節       

説 教   「イエスの宣教開始とナザレの人々の反応」    辺見宗邦牧師

讃美歌(21) 431(喜ばしい声ひびかせ)

献 金

感謝祈祷          

頌 栄(21)     24(たたえよ、主の民)

祝 祷

後 奏

                   次週礼拝 2月1日(日)夕礼拝 午後5時~5時50分 

                    聖 書  ルカによる福音書8章4~15節

                    説 教   「教えるキリスト」

本日の聖書 ルカによる福音書4章

 14イエスは“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。15イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた。

 16イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。17預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。

  18「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、19主の恵みの年を告げるためである。」

  20イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。21そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。22皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」23イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」

  24そして、言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。25確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、26エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。27また、預言者エリシャの時代に、イスラエルにはらい病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」28これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、29総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。30しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。

   本日の説教 

  イエスはナザレを出て、ヨルダン川に向かい、ヨハネから洗礼(バプテスマ)を受けました。そのあと、イエスはユダの荒れ野に行き、そこで40日、悪魔を受けました。悪魔に打ち勝たれたイエスは霊の力に満ちてガリラヤに戻り、公の宣教を開始しました。その評判は周りの地方一帯に広まりました。イエスが宣教を始められたときはおよそ30歳(ルカ3:23)でした。イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられました。

 イエスはお育ちになった故郷のナザレに来て、いつものとおり安息日に礼拝をするためシナゴ―グと呼ばれる会堂に入りました。聖書を朗読しようとしてお立ちになりました。会堂の係りの者(会堂司?)から預言者イザヤの巻物が渡されたので、お開きになると、イザヤ書61章の次のよに書いたある場所が目に留まりました。イザヤ書61章1、2節の言葉です。旧約聖書には、次のように記されています。

 「主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人には自由を、つながれてる人には解放を告知するために。主が恵みをお与えになる年、わたしたちの神が報復される日を告知して、嘆いている人々を慰め……」(イザヤ書61・1、2)

 イザヤ書56章から66章までは、第三イザヤ(B.C.539~441)と呼ばれる預言者の書です。ユダヤ人の祖国帰還と第二神殿再建(B.C.515年)直後まで活動した預言者です。第三イザヤはバビロン捕囚からイスラエルが解放されることを、主によってモーセが定めたヨベルの年と関連させて預言しました。ヨベルの年とは、すべての負債は取り消され、奴隷はみな解放され、所有物は最初の持ち主に戻る年です(レビ記25章10節)。これは、貧しい人々にとって福音でした。バビロンからの解放もヨベルの年のようになるだろうと第三イザヤは預言したのです。囚人は釈放され、敵の圧迫によって打ちひしがれていた者は解放されるであろう。彼らは喜びつつ故郷に帰ることができるだろう。バビロンからの帰還は<主の恵みの年>となるだろう、と預言したのです。

   しかし、バビロン捕囚から実際に解放されて聖地に帰還しても、彼らが待ち望んでいたことは実現しませんでした。ユダヤの国の人々が、いつまでたっても自分たちの国が解放されないままに生きて、望みを失いがちになったとき、なお、繰り返して望みを新しくしようと励ました言葉がイザヤ書65章です。

 「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。初めからのことを思い起こす者はない。それはだれの心にも上ることはない。代々とこしえに喜び楽しみ、喜び躍れ。わたしは創造する。見よ、わたしはエルサレムを喜び躍るものとしてその民を喜び楽しむものとして、創造する。わたしはエルサレムを喜びとし、わたしの民を楽しみとする。泣く声、叫ぶ声は、再びその中に響くことがない。」(イザヤ書65章11~19)

 それ以後500年も過ぎても、第三イザヤの預言は成就しませんでした。バビロニヤ帝国の支配から解放された後も、彼らは以前として、ペルシャ帝国、マケドニヤ帝国、ローマ帝国に征服され、支配された打ちひしがれている民でした。

  福音書記者ルカは、イザヤ書52章1、2節を、次のように記しています。

主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからであるがわたしを遣わされたのは捕らわれている人に解放を目の見えない人に視力の回復を告圧迫されている人を自由にし主の恵みの年を告げるためである。

  主イエスは、ナザレの会堂で、この神による解放を告げる言葉を読んだ後、巻物を巻いて係りの者に返し、席に座られました。会堂にいたすべての人の目がイエスに注がれました。イエスの言葉には権威があったからでしょう。

 そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。」と話し始められました。皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚きました。

   イザヤ書61章にある「わたしに油を注がれた」というのは、元来はイスラエルの王について言われる言葉です。王に就任するとき、祭司から任命の印の油が注がれるからです。当時は、王だけでなく、救世主を指すことばになっていました。イエスはこの預言を自分と結びつけ、預言が成就したと告げたのです。

  [ヘブライ語の<油注がれた者(マーシアッハ)>は、音訳(短く発音)すると、<マーシアッハ>が<メシアマーシア)>となります。<マーシアッハ>も<メシア>も、ギリシャ語では<キリスト(クリストス)]という訳語になります。元来は<油注がれた者>を意味していた王を指す言葉が、救世主を指すことばとなります。]

  <主の恵みの年>は、元来ヨベルの年、五十年ごとに民のすべてが自由になる年(レビ記25:8~12)ですが、ここでは、それがイエスの救いの業に当てはめられています。ヨベルの年を宣言するごとく、赦しによる解放と回復へと人々をキリストが導くことが語られています。 

 <今日、…実現した。>とは、 神の国はここに来ている、ということです。今は神の恵みの時である。神の約束が成就され、神の目的が実現する終末の時が、来たのだ。貧しい者や不当な扱いを受けていた者、抑圧されていた者のための変化が、今日現れるのだ。これはヨベルの年の始まりである。そのように主イエスは宣言したのです。

 イエスに対する反応はさまざまでした。イエスをほめる者もいましたが、「この人は、ヨセフの子ではないか。」と言って、イエスを疑問視し、その神的権威を認めようとしない者もいました。

   イエスはその心中を見破って、「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」と言われました。

 人々がカファルナウムでイエスが行った奇蹟の噂で聞いて、郷里の人々が、ここでも見せてもらいたいと思ったいたことを突いたのです。郷里の人々はイエスへの近しさから、特別意識を抱いたのです。ナザレの人々は、自分たちには特権があると思っていたならば、イエスが、ナザレではない他の人々に、特にカファルナウムの人々に与えたということに対して憤慨したのです。それは当時のカファルナウムには、非ユダヤ人が数多くいたからです。

 イエスはさらに言われました。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。」と言われ、旧約の預言者エリヤ(列王記上17:8~14)もエリシャ(列王記下5:1~17)も、神の恵みを非ユダヤ人に与えたことを話しました。

 「エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。」

 エリヤ(B.C.870~850年頃活動)は、北イスラエル王国の七番目の王アハズの時代に活躍した預言者です。アハブは北イスラエル王国の中でも最悪の王で、公然と異教の神バアル礼拝を行いました。エリヤはアハブ王に神の裁きとして干ばつが続くことを予言し、神に命じられテヨルダン川の東にあるケリト川のほとりに身を隠しました。川の水が涸れると、エリヤは神に命じられて、シドンに近い、地中海に面するフェニキヤのサレプタに行き、そこに住む貧しいやもめに養われました。この女の息子が病気になって死んだとき、エリヤは神に祈って、その息子を生き返らせました。「イスラエルには多くのやもめがいたが、エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた」と話しました。

 「また、預言者エリシャの時代に、イスラエルにはらい病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」

  エリヤの後継者エリシャ(B.C.855~800年頃活動)の時代は、北イスラエル王国ではアハズヤ、ヨラム、イエフ、ヨアハズ、ヨアシュと国王が変わりました。彼は様々な奇蹟を行ったことで知られていますが、アラムの軍司令官ナアマンの皮膚病をヨルダン川の水で癒した(5:1~14)のは、その一つです。

  アラム軍の司令官ナアマンは、王に重んじられる勇士でしたが、重い皮膚病(悪性皮膚病)を患いました。妻の召使いをしていたイスラエル人の少女が、女主人に、「サマリアの預言者のところに行けば、その重い皮膚病をいやしてもらえるでしょう」と言ったことから、ナンマンは王にそのことを伝え、王は承諾を得て出かけ、エリシャの家に来て、その入口に立ちました。エリシャは使いの者をやってこう言わせました。「ヨルダンの川に行って七度身を洗いなさい。そうすれば、あなたの体は元に戻り、清くなります。」それを聞いて、ナアマンは、患者の自分を診ることもしないで、ヨルダン川で身を洗えという、エリシャの指示に憤慨しました。しかし、ナアマンを家来たちがいさめたので、預言者の言葉どおりに下って行って、その通りにしました。すると、彼の体は完全に元に戻り、清らかになりました。エリシャは、治療が呪術によるのではなく、全能の神への信頼によることを明らかにしたのです。ナアマン一行は、ヨルダン川から引き上げてきて、「イスラエルのほか、この世界のどこにも神はおられないことが分かりました。」と言って、イスラエルの神への信仰を告白しました。「イスラエルには、らい病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」とイエスは話しました。

   このシドンのサレプタのやもめも、シリアの将軍ナアマンも、イスラエルの人々から見れば、ほんとうは救いから漏れていた異邦人です。イスラエルの人々は自分たちが救われるのは、アブラハムの子孫であり、神に選ばれた選民として当然だと思い込んでいました。主イエスはナザレの人々も同じような思い込みに生きていると言われたのです。イエスによる救いは、民族宗教の枠内に制限されるものではなく、それを超えるものであることをエリヤ、エリシャの例で示したのです。

  カファルナウムでイエスが行った奇蹟を、郷里のナザレでも行うべきではないかと思っていた人達は、サレプタのやもめやナアマンのような異邦人よりも神の恵みを受けるにふさわしくないと見做されたのです。神の恵みは、ただ信仰によって与えられるものであり、神の救いはすべての人のためのものです。神がアブラハムと結んだ契約(創世記22:18)によれば、神の恵みはすべての人々に及ぶものでした。それを知っているはずなのに、異邦人は汚れた民としているイスラエルの人々は、神の恵みが異邦人に及ぶことを是認することのできないのです。それは彼らの狭い民族意識によるものであり、彼らの誤った誇りによるものです。

 イエスの説教を聞いた会堂にいる人々は、今や暴徒化し、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとしました。しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られました。故郷で排斥されたイエスはガリラヤの町カファルナウムに下って行き、安息日には人々に教えられました。人々はその教えに非常に驚きました。

 イエスのナザレで受けた排斥は、やがて律法学者やファリサイ派の人達や、エルサレムの民衆によって排斥されることになり、主イエスは十字架と復活への道を歩むことになるのです。このような苦難の道を私たちの救いのために、主イエスは歩まれたのです。

 

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「洗礼のヨハネの出現とイエスの洗礼」

2015-01-18 15:39:43 | 聖書

                      ↑ ヘロデ大王死後の領地の四分割統治

〒981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

   日本キリスト教 富谷教会 週報

年間標語 『いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝しましょう。』

聖句「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝をこめて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」(フィリピ4:6)

降誕節第4主日      2015年1月18日(日)  5時~5時50分 

        礼   拝    

前 奏                  奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21)  495(しずけき祈りの)

交読詩編      46(神はわたしたちの避けどころ)

主の祈り    93-5、A

使徒信条    93-4、A

聖 書   ルカによる福音書3章1~22節       

説 教 「洗礼のヨハネの出現とイエスの洗礼」   辺見宗邦牧師

讃美歌(21) 441(信仰をもて)

献 金

感謝祈祷          

頌 栄(21)     24(たたえよ、主の民)

祝 祷

後 奏

             次週礼拝 1月25日(日)夕礼拝 午後5時~5時50分 

             聖 書  ルカによる福音書5章1~11節

             説 教  「イエスの最初の弟子たち」

本日の聖書 

1皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、2アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。3そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。4これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである。

「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。5谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、6人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」

7そこでヨハネは、洗礼を授けてもらおうとして出て来た群衆に言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。8悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。9斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」10そこで群衆は、「では、わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。11ヨハネは、「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と答えた。12徴税人も洗礼を受けるために来て、「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」と言った。13ヨハネは、「規定以上のものは取り立てるな」と言った。14兵士も、「このわたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。ヨハネは、「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と言った。

15民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。16そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。17そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」18ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた。19ところで、領主ヘロデは、自分の兄弟の妻ヘロディアとのことについて、また、自分の行ったあらゆる悪事について、ヨハネに責められたので、20ヨハネを牢に閉じ込めた。こうしてヘロデは、それまでの悪事にもう一つの悪事を加えた。

21民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、22聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

       本日の説教 

 福音書記者ルカは、イエスの先駆者ヨハネの活動を記すにあたって、当時の歴史的状況の中に、ヨハネ登場の年代を記します。

  ローマ皇帝ティベリウスは、初代皇帝アウグストゥス(治世:B.C.27~A.D.14/8/15)の後を継いだ2代目の皇帝で、その治世は、A.D.14~37年でした。その治世の<第十五年目>は、紀元27~28年になります。ポンティオ・ピラトは、サマリアを含めて<ユダヤの総督>だったのは、A.D.26~36年でした。

  ヘロデ大王が紀元前4年に死んだあと、皇帝アウグストゥスはヘロデ大王の王国を四つに分割し、三人の息子たちとヘデの妹による4分割統治にしました。

アルケラオ(ヘロデ大王と妻マルタケとの子)は王の称号は与えられず、民族指導者として、ユダヤ、イドマヤとサマリヤを統治しました。アルケラオは他の兄弟たちより悪評が高かったので、紀元6年に、在位10年にしてガリア[ローマの属州:フランス南西部]に追放され、ユダヤはローマ皇帝の直轄領となり、総督がローマから派遣されていました。

ヘロデ・アンティパス(イエス誕生当時のヘロデ大王とサマリヤ人の妻マルタケとの子)は,B.C.4~A.D.39年までガリラヤとペレヤ(ヨルダンの東岸地方)の領主でした。

フィリポはアンティパスの義兄弟(ヘロデ大王と妻マリアンメ二世との子)で、レバノン地方の<イトラヤ>と、ダマスコ南方の<トラコン(トラコニティス)>の領主となり、」紀元34年に死去しています。

④ヘロデ大王の妹だったサロメ1世は、地中海に面したヤブネなどを含む地域と、エリコの北のヨルダン川西岸のごく狭い土地(現ヨルダン領)を相続しました。サロメ1世の娘がアリストブロスと結婚したベレニケ(ヘロデ大王の姪)です。その息子が、使徒言行録12章に出てくるヘロデ・アグリッパ1世です。ヘロデ・アグリッパ1世は王の称号を皇帝ティベリウスから与えられました。

  ダマスコ北西のシリア州<アビレネ>は、リサニア(ヘロデの家系とは関係ない人)が継承しました。

  アンナス紀元6年から紀元15年まで大祭司であったが、人心はアンナスを死ぬまで真の高位祭司としました。

    

          ヘロデ大王の領地の四分割統治

  彼の後を継いだ義理の息子カイアファは紀元18年から36年まで大祭司でした。アンナスの影響が大きかったので、二人の名を挙げられています。ヨハネによる福音書でも、イエスはその裁判の場で、アンナスとカイアファの前に現れています。(ヨハネ18:12~28)

   この二人が大祭司だったとき、神の言葉が荒れ野にいたザカリア(ルカ1:59)の子ヨハネにのぞみました。                                             ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しをさせるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えていました。

        

   「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」(イザヤ書40:3~5)      

   ヨハネの宣教は荒れ野の中で用意され、イザヤ書の預言は成就されます。ヨハネは、イエスの先駆者として、異邦人を含めた全人類のキリストによる救いを預言します。

  洗礼を授けてもらおうと出て来た群衆に<蝮(まむし)の子等よ>とヨハネは呼びかけます。神の選民の資格を失った神の敵対者だという弾劾(だんがい)のことばを、イスラエル全体に向けて語ります。そして<悔い改めにふさわしい実を結べ>とせまり、ユダヤ民族の血縁を誇るなと告げます。

   <斧は既に木の根元に置かれている>(イザヤ書10:33~34)は、悔い改めるのは、神の怒りがまだ起こっていない今がその時だ、今でしょう、と語ります。そこで群衆は、<では、わたしたちはどうすればよいのですか>と尋ねました。

   ヨハネは、生活につながる具体的な改心の実を結べと語り、改心の具体化は、自分の周囲の人との関係を愛と公正によって律することだと、社会正義を要求しました。ヨハネのメッセージは、無実であるという思いや、罰を免れることが出来ると思っている人々に対して、生活と行為が、実らない木という運命から逃れさせてくれるのだ、と説いたのです。ヨハネはただ単に非難して叫んでいるだけでなく、群衆を、罪を意識し、畏れを抱くようにしているのです。

  民衆は皆、ヨハネをメシアではないかと思いますが、ヨハネは民衆に向かって言いました。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」

  ヨハネの<水の洗礼>は、霊によってもたらされる洗礼への準備段階としての罪からの改心の洗礼です。<聖霊による洗礼>は救いをもたらすイエスによる洗礼です。ヨハネの洗礼は、エッセネ派(パリサイ派、サドカイ派に比べ、熱烈にメシア(救世主)を待望しており、律法を学び、厳格な戒律を守り、生活の細部にわたり清浄さを保ちながら修行に明け暮れ、農業を中心とする修道院的共同生活を営む人達)が行う繰り返しなされる清めの洗礼や、改宗者の洗礼とは違っていました。<聖霊と火>は<風と火>とも訳すことができ、ヨエル書3:1の成就としての聖霊降臨の神の力強い臨在の象徴であり、また裁きのシンボルです。

  脱穀で麦をふるい分ける表現は神の裁きの表し、殻を消えない火で焼くという表現は、神の決定的な刑罰を表しています。ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせ、イエスによる福音の準備をしました。

  ところで、領主ヘロデは、自分の兄弟の妻ヘロディアとのことについて、また、自分の行ったあらゆる悪事について、ヨハネに責められたので、ヨハネを牢に閉じ込めました。こうしてヘロデは、それまでの悪事に、ヨハネを投獄するもう一つの悪事を加えました。(マタイ14章3節で<フィリポの妻ヘロディア>とありますが、この記述は、ヘロデ大王のもう一人の息子で、エルサレム私的生活をしていたヘロデ・ポエトスという人物の名と取り違えて伝承された誤記とされています。[①現代聖書注解マタイによる福音書p.292・日基出版局発行、②聖書の世界p.281]、③ヨセフス著「ユダヤ古代誌」第18巻5章4節]

   いずれにしても、ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスは、自分の兄弟の妻であったヘロディアを奪って妻とした不法結婚(十戒の10番目の戒め、レビ記18:16、20:21)や、また自分の行ったあらゆる悪事のことで、ヨハネに責められたので、ヨハネを死海近くの要塞マケルスの牢に投獄しました。

  ルカ福音書では、7:18~35で、再びヨハネのことが記され、彼の偉大さがイエスによって語られます。9章9節で、ヘロデは「ヨハネなら、わたしが首をはねた」と語っています。マタイとマルコはヨハネの投獄と死とを、さらにくわしく報告しています(マタイ14:3~12、マルコ6:17~29)。

  民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来ました。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえました。

  神の子であられる主イエスはただ一人、悔い改める必要のない、罪のない方であられます。その主イエスがどうして洗礼を受けるのでしょうか。マタイによる福音書では、ヨハネが、「わたしこそあなたから洗礼を受けるべきなのに」と言って、主イエスに洗礼を受けることを思いとどまらせようとしています。イエスが受けた洗礼は、この世に対して救い主が公に現れたことを宣言したものであり、イエスは民衆の罪を負って十字架に架かったように、ここでも民衆の罪を一身に負って、ヨハネの洗礼を受けられたものと思われます。

  洗礼を受けたイエスに、天が開け、聖霊が鳩のような姿で降って来て、イエスは聖霊で満たされました。第三イザヤは神に次のような祈りをささげました。「あなたの統治を受けられなくなってから、わたしたちは久しい時を過ごしています。どうか、天を裂いて降ってください。」(イザヤ書64:19)イザヤが、天が開け、神が出エジプトの時のように再び訪れるように祈ったのです。旧約時代の最後の預言者と言われるマラキ以後、400年以上も預言者は現れませんでしたが、ここに「預言者以上の(預言)者(ルカ7:26)」とイエスが評価した洗礼のヨハネが現れ、ヨハネが「来るき方」といったメシア・イエスが現れたのです。イザヤが待ち望んだ新たな時代が始まったのです。

  聖霊と共にイエスに与えられた天からの声は、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という詩編2篇7節の言葉です。父なる神様が、ご自分と主イエスとの間に父と子という深い愛の関係があることを明らかに示すことばです。神の御子が現れたのです。

  「わたしの心に適う者」という言葉は、イザヤ書第42章の1節のことばです。そこに「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を」とあります。そこには、主なる神様のみ心に適う僕が選ばれ、立てられ、遣わされることが語られています。父なる神は、もっともふさわしい救い主メシアを送ってくださったのです。

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「ヘロデ王と神のみ旨に従ったヨセフ」

2015-01-11 14:25:25 | 聖書

     ↑  イエスの家族がエジプト滞在していた期間の一時期住んでいたと言われる、エジプトのオールド・カイロにある聖セルギウス教会の地下。(カイロの南327kmのアシュート州にあるガバル・カスカム(Gabal Qussqam)の麓の西側に、アル・ムハラク修道院があります。聖家族は6ヶ月以上、ここの洞窟に滞在したという伝説があります。後にこの洞窟には聖母教会が建てられました。この場所は、聖家族が滞在した中でも重要な場所の一つで、第二のベツレヘムとも呼ばれています。)

        〒981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本キリスト教 富谷教会 週報

年間標語 『いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝しましょう。』

聖句「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝をこめて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」 (フィリピ4:6)

  降誕節第3主日   2015年1月11日(日)    5時~5時50分

礼   拝    

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21)  355(主をほめよ、わが心)

交読詩編      46(神はわたしたちの避けどころ)

主の祈り    93-5、A

使徒信条    93-4、A

聖 書  マタイによる福音書2章13~23節       

説 教 「ヘロデ王と神のみ旨に従ったヨセフ」   辺見宗邦牧師

讃美歌(21) 358(小羊をば、ほめたたえよ)

献 金

感謝祈祷          

頌 栄(21)     24(たたえよ、主の民)

祝 祷

後 奏

                           次週礼拝 1月18日(日)夕礼拝 午後5時~5時50分 

                           聖 書  ルカによる福音書3章15~22節

                            説 教  「イエスの洗礼」

本日の聖書 

 13占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」14ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、15ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。

16さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。17こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。18「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、慰めてもらおうともしない、子供たちがもういないから。」

19ヘロデが死ぬと、主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて、20言った。「起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった。」21そこで、ヨセフは起きて、幼子とその母を連れて、イスラエルの地へ帰って来た。

 22しかし、アルケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、そこに行くことを恐れた。ところが、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり、23ナザレという町に行って住んだ。「彼はナザレの人と呼ばれる」と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。

本日の説教 

  クリスマス・シーズンが終わりました。クリスマス・シーズンは、教会暦では12月25日のクリスマスの前の待降節(アドベント)から始まり、クリスマスの日から数えて12日後にくる1月6日の公現日までとなります。待降節はクリスマス(降誕日)を迎えるための準備期間であり、クリスマスの4回前の日曜日から始まります。(11月26日に一番近い日曜日。この日を第一主日といいます。)クリスマスから公現日までの降誕節は、御子の御降誕を祝う期間です。

 1月6日の公現日(栄光祭・エピファニー[顕現の意味])のルーツは、東方教会で、イエスの誕生から少年時代を経て、バプテスマのヨハネによる洗礼、カナでの最初の奇跡までを祝う祭りでした。キリストの出現により、神の栄光が世界に現されたことを祝ったのです。西方教会では、この日を、東方の占星術の学者たちがキリストを礼拝した日としました。

 今日の聖書の個所は、東方から来た占星術の学者たちが、ヘロデのところへ帰るなと夢でお告げがあったので(マタイ2:12)別の道を通って自分の国へ帰って行った後の話です。

学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れ、「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている」と告げました。

   ヨセフは、起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、ヘロデが死ぬまでそこにいました。これは主なる神が預言者を通して言われた、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」(ホセア書11:1)と言う預言が実現するためであった、とマタイは記しています。

  この預言は、イスラエルの民がエジプトを脱出して、国を形成したことを語っています。本来はメシア預言とは無関係だったこの聖書の個所を、マタイは、イスラエルの民がその歴史の始めに経験した出エジプトをイエスも経験するメシアとなることを表します。ホセア書11章2節には、「わたしが彼らを呼び出したのに、彼らはわたしから去って行き、バアルに犠牲をささげ、偶像の香をたいた」とあるように、最初の出エジプトでは、イスラエルの民は神に不従順でした。ところがイエスは、神に全く従順であることによって、イスラエルの不従順を克服し、イスラエルを真の神の民として下さるメシアとなり、ホセア書11章1節の預言が成就するためであった、と記したのです。

  エジプトの首都カイロの発祥の地、オールド・カイロにあるコプト教の聖セルジウス教会の地下にある洞窟が聖家族(イエス、マリア、ヨセフ)が避難した時に過ごした場所とされています。そこを訪ねたとき写真撮影が禁じられていたので、求めた絵葉書の写真を始めに載せました。

  5世紀にその洞窟の上に教会が建てられ、何度も焼失しました。現在の聖セルジウス教会の建物は12世紀のものです。コプトの伝承によると、ヘロデの殺戮を避けてエジプトに避難した聖家族は、ヘロデが亡くなる紀元前4年まで、三年間エジプトに住んでいたということです。この伝承に従えば、イエスの誕生はヘロデがなくなる三年前の紀元前7年という事になります。

   さて、一方のヘロデ王ですが、占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒りました。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させました。当時のベツレヘムの人口は凡そ500人位、1000人未満とみて、二歳以下の男の子は、10人位、多くても20人ぐらいだろうと思われています。幼児殺害という残虐な事件ですが、聖書の記録以外に、このことを記した記録はありません。だが、ヘロデが、ユダヤ人(ハスモン王朝)の血を継ぐ二人の息子、アリストブロスとアレクサンドロスを処刑した時期とベツレヘムの幼児殺害事件が重なっています。

   こうして、「預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した」とマタイは記します。ここでは主が言われたことが実現したとは言っていません。結果的には旧約の言葉どおりになったのですが、ヘロデの残忍行為までが神の計画であったのではないということです。神が警告されていたことが、罪深い人間の手によってその通りにおこなわれてしまったということです。

  実現したエレミヤのことばは、エレミヤ記31章15節に記されています。「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、慰めてもらおうともしない、子供たちがもういないから。」

   「ラマ」は、エルサレムの北約8キロにある町で、伝説によれば、ここにラケルの墓がありました(サムエル記上10:2)。彼女はヨセフとベニヤミンの母なので、北イスラエル王国住民の祖先であり、したがって北王国の滅亡によってイスラエルの人々が捕虜となってラマを通過したとき、墓の中のラケルが子孫の悲劇のために泣いた、という悲しみが表現されています。他方、彼女の墓の所在地については別の伝承があり、それによれば、「ラケルは死んでエフラタ、すなわち今日のベツレヘムへ向かう道の傍らに葬られた」(創世記35:19)とあり、ラケルの墓はエフラタ(ベツレヘム)にあったことになります。ベツレヘムはエルサレムの南約7キロの地ですから、ラマとは全く別であり、ラケルは南のベツレヘムの住民(ユダ族)の祖先ではないはずですが、マタイはこの伝承に従い、ヘロデによるベツレヘムの悲劇をエレミヤ書の文と関連づけ、ラケルの泣いた悲劇が再び繰り替えされたとしたのです。しかし、このラケルのについての悲嘆の表現は、新しい契約(エレミヤ書31:31~34)を含む、未来の希望に満ちた章の中に置かれています。

  「主はこう言われる。泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。息子たちは敵の国から帰って来る。あなたの未来には希望がある、と主は言われる。息子たちは自分の国に帰って来る。」(エレミヤ書31:16~17)このように、慰めと救いが約束されいるのです。おそらくマタイは、ラマの悲しみを、メシア待望の希望の中に置いているのです。

  ヘロデが死ぬと、主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて言いました。「起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった。」そこで、ヨセフは起きて、幼子とその母を連れて、イスラエルの地へ帰って来ました。しかし、アルケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、そこに行くことを恐れました。

  ヘロデ王(在位:紀元前39年~4年)は紀元前4年に死んでいます。69歳で死んだとされています。ヘロデの死後、ローマ皇帝はパレスチナ全体を三つに分割して、ヘロデの三人の息子たちに分割統治させました。アルケラオにはユダヤ・イドマヤ・サマリヤを与えたが、その地位は王ではなく、領主としました。異母兄弟であるアンティパスをガリラヤとペレヤの領主(ルカ3:1)とし、フィリポを北方のイトラヤとトラコン地方の領主としました。

  ユダヤの領主となったアルケラオは暴君で、残酷な統治をしたため、在位10年にしてガリアに追放されます。ヘロデ大王の孫にあたるアグリッパ一世(ヘロデ大王によって処刑されたアリストブロスの子)がユダヤだけでなくヘロデ王時代の支配地を任され、統治します。アグリッパ一世の死後は、ユダヤはローマ総督の直轄下になります。

   ヨセフ一家はイスラエルに戻ろうとしたのですが、夢でお告げがあり、ガリラヤ地方に引きこもり、ナザレという町に行って住みました。マタイは、「『彼はナザレの人と呼ばれる』と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった」、と記しています。

   しかし、メシアがナザレの町に住み、「ナザレ人と呼ばれる」と告げた預言書は旧約聖書の中にはありません。

  イザヤ書11章1節に記されているメシアについての「エッサイの若枝」の「若枝」を表すヘブライ文字の<ネーツェルנֵצֶר>と、ギリシア語の「ナザレ」をヘブル語に訳すと「ナーツラット」(נָצְרַת)となりますが、実は同じ語根(נצר)なので、「ナザレ人」とは「ダビデの若枝」とも言えるのです。マタイはこのことを、「預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった」と記したとも解されています。

  また、イエスはユダヤ人たちから「ナザレ人」と呼ばれました。この表現は、単にナザレの出身者と言う意味だけでなく、「ナザレから何の良いものが出るだろう」(ヨハネ1:46)と言う軽蔑の意味が込められていました。イザヤ書53章に見られるように預言者たちは、人々に侮られるメシアを預言しました。マタイは、イエスがナザレに住まわれた事実の中に、預言者たちの「僕(しもべ)としてのメシア」の成就を見たものとも思われます。更に、南部の純血を尊ぶ厳格なユダヤ人から」<異邦人のガリラヤ>と言われたナザレに行くのは、彼が将来において異邦人のためのメシアとなることをも預言の成就としたと思われます。

  ヘロデ王は、その権力によって、幼子イエスを殺そうとしましたが、その目的を果たすことなく死にました。御子を守ったのは、神のみ旨に即座に、しかも従順に従ったヨセフでした。ヨセフもマリアも御子イエスの負う十字架を、共に担う苦難にあずかったのです。神の救いのご計画が着実に実現していきました。その過程に、速やかに神のみ旨に従ったヨセフの姿勢と行動があったことを、わたしたちは学ばなければなりません。悲劇的な出来事も、<預言者によって言われたことが実現するためであった」というように、神の救いの御業に取り込まれていったことは、大きな慰めと希望を私たちに与えます。

 パレスチナ難民、シリア難民、内戦を避けて国外に避難する難民が、世界には大勢いることを思うとき、平和な世界になることを望まずにはいられません。主イエスは私たちすべての者と共にいますために来られた方です。難民の方々とも共にいてくださるのです。このキリストにより頼み、世界を支配したもう神を信じ、希望を持ち続けていきたいと思います。

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「新しい歌を主に向かって歌え」

2015-01-04 19:06:32 | 聖書

〒981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本キリスト教 富谷教会 週報

年間標語『いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝しましょう。』

聖句「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝をこめて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」(フィリピ4:6)

降誕節第2主日     2015年1月4日(日) 年始礼拝  5時~5時50分 

礼   拝    

               司会 永井 慎一兄

前 奏           奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21)  368(新しい年を迎えて)367

交読詩編      97(主こそ王)

主の祈り    93-5、A

使徒信条    93-4、A

聖 書    詩編96篇1~13節       

説 教  「新しい歌を主に向かって歌え」  辺見宗邦牧師

讃美歌(21) 405(すべての人に)

献 金

感謝祈祷          

頌 栄(21)     24(たたえよ、主の民)

祝 祷

後 奏

                                        次週礼拝 1月11日(日)夕礼拝 午後5時~5時50分 

                                               聖 書 マタイによる福音書2章13~23節

                                                説 教  「聖家族のエジプトへの避難」

本日の聖書 

 1新しい歌を主に向かって歌え。全地よ、主に向かって歌え。
2主に向かって歌い、御名をたたえよ。日から日へ、御救いの良い知らせを告げよ。
3国々に主の栄光を語り伝えよ、諸国の民にその驚くべき御業を。
4大いなる主、大いに賛美される主、神々を超えて、最も畏るべき方。
5諸国の民の神々はすべてむなしい。主は天を造られ、6御前には栄光と輝きがあり、聖所には力と光輝がある。
7諸国の民よ、こぞって主に帰せよ、栄光と力を主に帰せよ。
8御名の栄光を主に帰せよ。供え物を携えて神の庭に入り、
9聖なる輝きに満ちる主にひれ伏せ。全地よ、御前におののけ。
10国々にふれて言え、主こそ王と。世界は固く据えられ、決して揺らぐことがない。主は諸国の民を公平に裁かれる。
11天よ、喜び祝え、地よ、喜び躍れ、海とそこに満ちるものよ、とどろけ、12野とそこにあるすべてのものよ、喜び勇め
森の木々よ、共に喜び歌え、13主を迎えて。

主は来られる、地を裁くために来られる。主は世界を正しく裁き、真実をもって諸国の民を裁かれる。

    本日の説教 

 2015年の新しい年を迎えました。今日は一年の初めの主の日の礼拝です。 この詩は、「即位の詩編」と呼ばれるもので、イスラエルの新年祭(仮庵祭)で、年ごとの主なる神の即位を祝う詩です。「主こそ王(主が王となられた)」と宣言することを主題とした賛歌です。仮庵祭はぶどうやオリーブの収穫を祝う秋の祭りです。イスラエルでは年の始めは秋でした。収穫感謝が始まりと考え、感謝と賛美をもって年が始まるとしたのです。詩編96編はバビロンからの帰還民が第二神殿を建設し、その神殿の新年の祝いの時に歌われたものとされています。

詩編96篇は、歴代誌上の16章23~33節に引用されています。そこでは聖なる契約の箱がダビデによってエルサレムに移されたことと結びつけられ、神の箱安置の荘厳な儀式の場面で詠唱に用いられています。主なる神の即位祭の礼拝式文として用いられています。

 詩編96篇は、93篇~99篇などとともに、終末論的詩編と言われています。「主は来られる。地を裁くために来られる」(96篇13節)と、主の再臨が告げられている詩です。

 詩編96篇は、第二イザヤの預言からの引用が多く、第二イザヤ以後に造られた詩であると推定されています。第二イザヤはイザヤ書40章から55章までの預言者で、(紀元前8世紀の預言者イザヤから200年後)バビロン捕囚の末期から、捕囚解放、そしてエルサレム帰還にいたるまで、6世紀中頃に活動した、捕囚の地で生まれた預言者と思われています。第二イザヤは、捕囚の民に解放を告知すると共に、偶像崇拝の危機に直面していた捕囚の民にヤハウェのみが真の神であることを主張しました。

 「新しい歌を歌え」とは、「新しく作られた歌」ではなく、歌う者の側の「心の新しさ」によって歌われるものです。この言葉はイザヤ書42章10節から引用されています。新しい歌は終末時における神の到来を迎える歌でもあります。「新しいことを起こす主」(イザヤ書42:9、48:6b)によって、民の思いも新たにされて歌うのです。

 新しい歌によってうたうのは<御救いの良い知らせ>(イザヤ書40:9、52:7)であり、この驚くべき御業は、新しい言葉でなされるのです。ここで言われている<御救いの良い知らせ>、<驚くべき御業>とは、イスラエルの民のバビロン捕囚からの解放です。

 一番多くの民が帰還したのは、B.C.521年の時です。会衆の総数は42360人でした(エズラ記2:64)。B.C.586年に国を滅ぼされた民族が75年の時を経て帰還し、新しい国を造ることは,それまでの歴史ではなかったことです。どの民族も消滅していった、ありえないことが起こったのです。そのことにイスラエルの民は神の経綸を見たのです。それは出エジプトを凌ぐ出来事でした。

その救いを<日から日へ>、毎日、賛美をもって告げよ。<国々>のすべての民に、すばらしい救いのわざと主の栄光を語り伝えよ、と賛美をうながす勧めがなされるのです。

 私たちは更に大きな救い、主なる神の驚くべき御業を受けました。エフェソの信徒への手紙1章には、その救いを受けた者たちが神の恵みをたたえるためです、記されています。わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。(エフェソ1:3~7)

 詩の1~6節は、諸国の神々と主の支配とを対比させています。主の支配の主張の根拠の第一は、イスラエルのために主がなさった力ある御業により、イスラエルが経験した救いです。第二は、主は<天を造られた>創造者であられるという決定的な違いが述べられます。世界の揺るぎなさも主の絶えざるご支配の現れなのです。他方、諸国の神々は人が作り出した偶像にすぎません。主との比較において諸国の神々は無力であり、無能です。主なる神の天の王座の輝き、尊厳と威光は、地上の「聖所」にも反映されます。

  第二部(7~13節)が世界とその民を主が治めておられる二つの特徴を述べています。第一に、世界は堅く据えられており、地は揺らぐことなく、人の住まいは頼りになる、ということです。不安のうちに生きる必要もないことから、主の御前で喜ぶこを勧めています。第二に、民の事柄が公平に裁かれ、歴史と社会は、主によって正義とまことをもって治められている、告げています。

   主が地を裁くために来られとき、自然それ自身が生命感情をもつ人間のように、<天よ、喜び祝え、地よ、喜び躍れ、海とそこに満ちるものよ、とどろけ、野とそこにあるすべてのものよ、喜び勇め。森の木々よ、共に喜び歌え、主を迎えて>と、主を賛美することをうながされています。<喜び祝え>、<喜び踊れ>、<喜び勇め>、<喜び歌え>と四度も喜びの表現を示しています。「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。」(ロ-マ8:19~21)とパウロは被造物について述べています。この被造物である自然が、主を迎えて、喜ぶようにと呼びかけられているのです。

  主イエスを心に迎えた私たち(エフェソ3:17)は、「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。」フィリピ4:4)と勧められています。そのためには、主が共にいてくださることを自覚し、「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝をこめて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平安が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」(フィリピ4:6~7)とあるように、絶えず祈り、<思い煩い>から解放されて、日ごとに必要なものを与えられる恵み、四季折々に与えられる自然の恵みに感謝して過ごすことにあります。悩み事や、心配に心が捕らわれてしまうと、桜の花の美しさを愛でることもできなくなり、喜びも感謝の思いも消えてしまいます。

  詩篇96篇は、かつて到来された主、そして正義とまことをもって地を治められる主の御前に私たちを立たせます。この賛歌は、キリストの降誕を思い起こし、今共にいてくださる主を覚え、再び来たり給う主を待ち望むのです。

  <諸国の民よ、こぞって主に帰せよ、栄光と力を主に帰せよ。御名の栄光を主に帰せよ。供え物を携えて神の庭に入り、聖なる輝きに満ちる主にひれ伏せ。全地よ、御前におののけ(96:7-9)。>
 私たちも、新しい歌を、主に向かって歌いながら、御名をほめたたえて、詩篇に歌われているように、力強くこの一年を始めたいと思います

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