富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「新たな神の民の誕生」 ローマの信徒への手紙10章1節~17節  

2016-05-29 00:39:22 | 説教

981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

   日本キリスト教 富 谷 教 会

      週    報

年間標語 『日々聖霊を豊かに受けて神の栄光を表す人になろう。』

聖句「神は、わたしたしの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊を豊かに注いでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。」(テトスへの手紙3:6~7)

    聖霊降臨節第3主日    2016年5月29日)  午後5時~550

礼 拝 順 序

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉 

讃美歌(21) 456(わが魂を愛するイェスよ)

交読詩篇   29(神の子らよ、主に帰せよ)  

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書 ローマの信徒への手紙10章1節~17節(新p.288)

説  教  「新たな神の民の誕生」   辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21) 517(神の民よ)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏 

 

                        次週礼拝 6月5日(日) 午後5時~5時50分

                         聖書 ヨハネ第一の手紙2章22~29節

                         説教    「信仰の道」

                         賛美歌(21) 227 458 24 交読詩編 16篇

  本日の聖書 ローマの信徒への手紙10章1節~17節

  1兄弟たち、わたしは彼らが救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています。2わたしは彼らが熱心に神に仕えていることを証ししますが、この熱心さは、正しい認識に基づくものではありません。3なぜなら、神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです。4キリストは律法の目標であります、信じる者すべてに義をもたらすために。

  5モーセは、律法による義について、「掟を守る人は掟によって生きる」と記しています。6しかし、信仰による義については、こう述べられています。「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない。」これは、キリストを引き降ろすことにほかなりません。7また、「『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない。」これは、キリストを死者の中から引き上げることになります。8では、何と言われているのだろうか。「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。」これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。9口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。10実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。11聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。12ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。13「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。

 14ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。15遣わされないで、どうして()べ伝えることができよう。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と書いてあるとおりです。16しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っています。17実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。

    本日の説教

 異邦人に福音を伝えるために、キリストの使徒とされたパウロは<兄弟たちよ>と、読者であるローマの信徒たち一同に対して呼びかけ、パウロは祖国を同じくするユダヤ人が救われることを心から願い、神に祈っていると伝えます。パウロは、ユダヤ人たちが<神に熱心であった>ことを認めています。この<神への熱心>とは、ユダヤ教とその律法への熱心です。パウロ自身もかつて律法に熱心でした(ガラテヤ1:12、フィリピ36)。しかし、その熱心は<正しい認識に基づくものではない>と言っています。それは神の義を正しく理解し、それにふさわしくうやまう態度をとらなかった、ということです。<神の義>を無視して、<自分の義>を建てることに熱心であって、<神の義>に従わなかったのです。

  <自分の義>は、人間が自分のした働きと功績によって、神に要求するメリット(わけまえ、報酬、手柄)としての義を獲得しようとすることであり、神に自分を正しい者として認めさせようとすることです。しかし人は律法を行う力がないこと、従って律法によっては義とされることは不可能なことを、パウロは繰り返し述べてきました。主イエスは、律法を守っていると自負しているユダヤ人に、山上の説教で「殺すな」という命令については、<腹を立てるな>、<ばか者>と言う者は火の地獄に投げ込まれると教え、「姦淫するな」という命令については、みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである、もし右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨てなさいと教え、律法の戒めを完全に実行することの不可能なことを教えています。

   それに反して<神の義>は、神から人に恵みの賜物として与えられる義であり、神がつくり出す救いとしての義であり、神がその人を全く罪のない正しい人と認める赦しの恵みです。人はただこれを信じて受け入れるだけなのです。それはただ神の義の福音を聞いて信じ服従することによって与えられるものです。ところがユダヤ人はこのことを知らないで、自分の義を立てようとしました。これは自己主張であり、自己を誇ることであり、神への不服従なのです。

  人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています。神は人を救うために御子をこの世に送られ、人の罪をイエス・キリストに負わせて、神の徹底的な審(さば)きと赦しの御業を行われました。ただキリストによる罪のつぐないの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。信仰とは、このイエス・キリストを信じることです。、私たちを罪なきものとしてくださる神の義を正しく知り、全存在をもって受け入れることです。そのとき、キリストは聖霊としてしっかり私たちの心のうちに住み、私たちの存在の中心になってくださるので、その聖霊の力を受けて良き業を行う者とされます。

   キリストは、「信じる者すべてに義をもたらすために」、<律法の目標>となられました。キリストを信じる信仰の道が開かれた今は、律法的努力は不必要となりました。キリストは律法に終止符を打たれたのです。神はイエス・キリストにおいて律法を<終わり>とされたのです。律法に代わってキリストの支配する新しい世界が始まっているのです。神を愛し、人は互いに愛し合いなさい、ということが新しい律法となったのです。

  モーセは、律法による義について、「掟を守る人は掟によって生きる」と記しています。」(5節)

   パウロは、レビ記185節の「わたしの掟と法を守りなさい。これらを行う人はそれによって命を得ることができる」のことばを、<掟を守る人は掟によって生き>る、として引用しています。レビ記の言葉は、ユダヤ人の一般的な律法理解であり、律法の要求を満たすことによって神の救いを獲得することが目指されています。パウロは、この言葉に律法の要求が簡潔に示されていると理解して、このことばを<律法による義>についての聖書の証明としています。

  人間は律法を完全に行うことはできません。6節から8節にかけては、申命記301114節の引用です。申命記には、「あなたは…それを行うことができる」と結論していることをパウロは全く無視して、律法のわざによらず、ただ信仰によって義とされるという<信仰による義(信仰義認)>の聖書証明としています。   

  申命記3011節以下は、ユダヤ人が、神の言葉がいかに身近なものであって、それを実行することがいかに容易であるかを語る格言として親しんでいたものです。パウロにとって、旧約聖書の神の言葉の近さは、キリストによってまさに文字通り完全に実現したと認識したのです。

  心の中で「だれが天に上るか」と言ってはならない>という勧めは、キリストがこの世に来たことによって、神と人、天と地との間に神の側からの橋がかけられたのです。人間の側から神への橋渡しをしようとするような<天に上る>試みは、不可能であり、また無用なのです。自分の力で<キリストを引き降ろ>すようなことはすべきではありません。こう述べて、自分の業によって義を得ようとする律法主義者の誤りを、申命記3012の引用文でパウロは正したのです。

  また、<「だれが底なしの淵に下るか」と言ってもならない。 これはキリストを死人の中から引き上げることになります>という勧めも、申命記30・13の言葉を引用して「死にて葬られ、陰府(よみ)に下り、三日目に死人のうちよりよみがえり、天にのぼり」たもうたキリストの救いの働きを無意味にするような、自分の業に頼ろうとする者の誤りを戒めています。

  御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。>これも申命記3014の引用の言葉です。この御言葉>とは、律法の戒めではなく、パウロが宣べ伝えている<信仰の言葉>であるとパウロは理解したのです。

  キリストは旧約においてすでに、契約の主、恵みの言葉として、その民の近くにおられたが、今やすでに世に来られて救いの働きを完成された方として、宣教の言葉を通して出会われる近くにおられる方です。これにこたえるのが信仰です。

  パウロは、律法を最大の関心事とする旧約聖書から、一方では律法の領域、他方では信仰の領域についての全く逆方向の証言を導き出すことに矛盾を感じてはいません。パウロは旧約聖書がその根本においてキリスト証言であることを示そうとしているのです。イスラエルは、この旧約聖書の根本性質を洞察できなかったために、キリストの救いを拒否してしまったのです。

  口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。」9節)

   <口でイエスは主であると告に言い表し>とあるのは、原始教会における最も根本的な信仰告白です。この告白によって人々はキリスト者とされました。

  聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。(11)

  11節では、イザヤ書の2816にある「…信ずる者は慌てることはない」という言葉を用いて、主を信じる者はだれも失望するようなことがない、と言っています。

  そして、12節で、「ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じがおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。」と語っています。旧約聖書の神の呼び名であった<主>を、今やキリストを意味する<>として用いることによって、神の民が拡大されました。さらに、ヨエル書3・5を引用し、13節では、「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」としています。 

  「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(17節)

  これは、ガラテヤ人への手紙3章2節に、「あなたがたが霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか」とあるように、律法の業に対して信仰の聞くことを鋭く対立させ、業によってではなく、信仰の聞くことから聖霊を受けると強調しています。このように、<信仰はキリストの言葉、福音を聞くことによって始まる>は、パウロの基本的な福音理解の一つです。

  最初の信仰告白は「主イエス」、原典ではギリシャ語の<キュリオス イエスース>という二語が、初代教会の信徒の最も簡潔な信仰告白でした。《キュリオス》というのは全世界の主権者を意味し、イエスが復活して天に上げられ、神の右に座す方となられたことを言い表す称号でした。<主イエス>を信じ、告白する者は、ユダヤ人も異邦人も「すべて」、なんのいさおし(功績や手柄)がなくても、神に義と認められます。律法はユダヤ人と異邦人を区別し、分離しました。しかし、主イエスを信じる信仰には、ユダヤ人とギリシャ人との差別はありません。ここに信仰の世界性があります。ここに、新たな神の民が誕生したのです。主イエスは万民の主であり、呼び求める者に、はかり知り得ない富、すなわち恵みと生命と救いとが充満している豊かな富にあずからせてくださるのです。

 

 

 

 

 

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「新たな神の民の誕生」 ローマの信徒への手紙10章1節~17節  

2016-05-29 00:30:10 | 説教

981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

   日本キリスト教 富 谷 教 会

      週    報

年間標語 『日々聖霊を豊かに受けて神の栄光を表す人になろう。』

聖句「神は、わたしたしの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊を豊かに注いでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。」(テトスへの手紙3:6~7)

    聖霊降臨節第3主日    2016年5月29日)  午後5時~550

礼 拝 順 序

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉 

讃美歌(21) 456(わが魂を愛するイェスよ)

交読詩篇   29(神の子らよ、主に帰せよ)  

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書 ローマの信徒への手紙10章1節~17節(新p.288)

説  教  「新たな神の民の誕生」   辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21) 517(神の民よ)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏 

 

                        次週礼拝 6月5日(日) 午後5時~5時50分

                         聖書 ヨハネ第一の手紙2章22~29節

                         説教    「信仰の道」

                         賛美歌(21) 227 458 24 交読詩編 16篇

  本日の聖書 ローマの信徒への手紙10章1節~17節

  1兄弟たち、わたしは彼らが救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています。2わたしは彼らが熱心に神に仕えていることを証ししますが、この熱心さは、正しい認識に基づくものではありません。3なぜなら、神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです。4キリストは律法の目標であります、信じる者すべてに義をもたらすために。

  5モーセは、律法による義について、「掟を守る人は掟によって生きる」と記しています。6しかし、信仰による義については、こう述べられています。「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない。」これは、キリストを引き降ろすことにほかなりません。7また、「『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない。」これは、キリストを死者の中から引き上げることになります。8では、何と言われているのだろうか。「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。」これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。9口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。10実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。11聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。12ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。13「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。

 14ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。15遣わされないで、どうして()べ伝えることができよう。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と書いてあるとおりです。16しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っています。17実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。

    本日の説教

 異邦人に福音を伝えるために、キリストの使徒とされたパウロは、ローマの信徒たち一同に対して、<兄弟たちよ>と呼びかけ、パウロと祖国を同じくするユダヤ人が救われてことを心から願い、神に祈っていると伝えます。パウロは、ユダヤ人たちが<神に熱心に仕えている>ことを認めています。しかし、その熱心は<正しい認識に基づくものではない>と言っています。この熱心は、個人的な信心についてではなく、歴史におけるイスラエルの律法に対する態度を言っています。パウロにとって、この<正しい認識>とは、神の支配と権能を受け入れ、自らをその下でとらえることです。イスラエルの判断の誤りは、神の義に対する無知によるものです。神の支配としての<義>を無視して、己の義を建てようと苦心したからです。この己の義を建てようとする<自分の義>は、自分自身の努力で律法の要求を満たすことによって、自らを正しいものとしようとすることです。この努力そのものが、神の義に従うことにならないのです。神の義に従うことは、人間がつくり出す義によるのではなく、神がつくり出す救いとして義を信じて生きることにあります。パウロは、イエス・キリストによって人を救おうとする神の業が示されたのであり、イエス・キリストにおいて示された神の徹底的な審(さば)きと赦しの御業こそ神の義であり、この神の義に従うことが信仰なのです。信仰とは、イエス・キリストにおいて示されている神の義を正しく認識し、これを全存在をもって受け入れることです。そのとき、キリストはしっかり私たちの心のうちに入り、私たちの存在そのものの中心になってくださり、信仰は神の力を受けて業を生むのです。キリストは<信じる者すべてに義をもたらすために>律法に終止符を打たれたので、<キリストは律法の目標>であり、<成就>であり、神はイエス・キリストにおいて律法を<終わり>とされたのです。律法に代わってキリストの支配する新しい世界が始まっているのです。

 5モーセは、律法による義について、「掟を守る人は掟によって生きる」と記しています。」(5節)

 パウロは、レビ記18章5節の「わたしの掟と法を守りなさい。これらを行う人はそれによって命を得ることができる」のことばを、本来の文脈における意味を無視して、<掟を守る人は掟によって生き>る、として引用しています。レビ記の言葉は、ユダヤ人の一般的な律法理解であり、律法の要求を満たすことによって神の救いを獲得することが目指されています。パウロは、この言葉に律法の要求が簡潔に示されていると理解して、このことばを<律法による義>についての聖書の証明としています。

 「6しかし、信仰による義については、こう述べられています。「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない。」これは、キリストを引き降ろすことにほかなりません。7また、「『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない。」これは、キリストを死者の中から引き上げることになります。8では、何と言われているのだろうか。「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。」これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。」(6~8節)

 人間は律法を完全に行うことはできません。6節から8節にかけては、申命記30章11~14節の引用です。申命記には、「あなたは…それを行うことができる」と結論していることをパウロは全く無視して、律法のわざによらず、ただ信仰によって義とされるという<信仰による義(信仰義認)>の聖書証明としています。   

 申命記30章11節以下は、ユダヤ人が、神の言葉がいかに身近なものであって、それを実行することがいかに容易であるかを語る格言として親しんでいたものです。パウロにとって、旧約聖書の神の言葉の近さは、キリストによってまさに文字通り完全に実現したと認識したのです。

 <心の中で「だれが天に上るか」と言ってはならない>という勧めは、キリストがこの世に来たことによって、神と人、天と地との間に神の側からの橋がかけられたのである。人間の側から神への橋渡しをしようとするような<天に上る>試みは、不可能であり、また無用である。自分の力で<キリストを引き降ろ>すようなことはすべきではな

い。自分の業によって義を得ようとする律法主義者の誤りを、申命記30・12の引用文でパウロは正したのです。

 また、<「だれが底なしの淵に下るか」と言ってもならない。これはキリストを死人の中から引き上げることになります>という勧めも、申命記30・13の言葉を引用して「死にて葬られ、陰府(よみ)に下り、三日目に死人のうちよりよみがえり、天にのぼり」たもうたキリストの救いの働きを無意味にするような、自分の業に頼ろうとする者の誤りを戒めています。

 <御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。>これも申命記30・14の引用の言葉です。この御言葉>とは、律法の戒めではなく、パウロが宣べ伝えている<信仰の言葉>であるとパウロは理解したのです。

  キリストは旧約においてすでに、契約の主、恵みの言葉として、その民の近くにおられたが、今やすでに世に来られて救いの働きを完成された方として、宣教の言葉を通して出会われる近くにおられる方です。これにこたえるのが信仰です。

  パウロは、律法を最大の関心事とする旧約聖書から、一方では律法の領域、他方では信仰の領域についての全く逆方向の証言を導き出すことに矛盾を感じてはいません。パウロは旧約聖書がその根本においてキリスト証言であることを示そうとしているのです。イスラエルは、この旧約聖書の根本性質を洞察できなかったために、キリストの救いを拒否してしまったのです。

 「9口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。10実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」(9,10節)

  信仰の言葉は信仰告白を生み出します。これは、キリスト教の信仰告白につて語っています。<イエスは主である>と<死者の中からの復活>という教会の信仰告白と結び付けています。信仰告白は、告白する個人の主体的な決断にもとづくものですが、それは決して孤独な決意というものではなく、<公に言い表す>という集団の行為であり、継承された信仰です。

 「11聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。」(11節)

 11節では、イザヤ書の28・16にある「…信ずる者は慌てることはない」という言葉を用いて、信仰義認が主を信じるすべての者におよぶことが言われています。

 そして、12節で、「ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じがおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。」と語っています。旧約聖書の神の呼び名であった<主>を、今やキリストを意味する<>として用いることによって、神の民を拡大しています。さらに、ヨエル書3・5を引用し、13節では、「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」としています。

 「14ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。」(14節)

  14節は、8節以降の教会の使徒的宣教を背景にしています。

  「15遣わされないで、どうして宣(の)べ伝えることができよう。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と書いてあるとおりです。」(15節)

  15節の聖書証言はイザヤ書52章7節からなされています。が、ユダヤ教のラビ達はこれをメシア証言として受け取っていました。しかしここではその文脈から、イエスを指すのではなく、教会の宣教を意味すると考えられています。

「16しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っています。」(16節)

16節は、イスラエルの拒否を念頭に<すべての人が福音に従ったのではありません>と語られています。イザヤ書53章1節の引用です。この世の不信仰の事実を訴えています。<だれが>とはユダヤ人を指しているのでしょう。「すべての者へと開かれている福音が、それにかかわらず「すべての者が信じたわけではない」ということは、福音の側にではなく、受け取る側に、問題があることになります。

「17実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(17節)

 これは、ガラテヤ人への手紙3章2節に、「あなたがたが霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか」とあるように、律法の業に対して信仰の聞くことを鋭く対立させ、業によってではなく、信仰の聞くことから聖霊を受けると強調しています。このように、<信仰はキリストの言葉、福音を聞くことによって始まる>は、パウロの基本的な福音理解の一つです。

 最初の信仰告白は「主イエス」、<キュリオス イエスース>という二語でした。これこそ初代の信徒の最も簡潔な信仰告白でした。《キュリオス》というのは全世界の主権者を意味し、イエスが復活して天に上げられ、神の右に座す方となられたことを言い表す称号でした。<主イエス>を信じ、告白する者は、ユダヤ人も異邦人も「すべて」、なんのいさおし(功績や手柄)がなくても、神に義と認められます。<義と認められる>とは、神がその人を全く罪のない正しい人と認めるということです。人が神の前で義と認められる条件はただ一つ、主イエスへの単純な信仰です。

 律法はユダヤ人と異邦人を区別し、分離しました。しかし、主イエスを信じる信仰には、ユダヤ人とギリシャ人との差別はありません。ここに信仰の世界性があります。ここに、新たな神の民が誕生したのです。主イエスは万民の主であり、呼び求める者に、はかり知り得ない富、すなわち恵みと生命と救いとが充満している豊かな富にあずからせてくださるのです

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「道であり、真理であり、命であるイエスの与える真理の霊」ヨハネによる福音書14章1~17節

2016-05-22 23:19:19 | 説教

981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

          日本キリスト教 富 谷 教 会

                週    報

年間標語 『日々聖霊を豊かに受けて神の栄光を表す人になろう。』

聖句「神は、わたしたしの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊を豊かに注いでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。」(テトスへの手紙3:6~7)

    聖霊降臨節第2主日   2016年5月22日)   午後5時~550

     礼 拝 順 序

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉 

讃美歌(21)  51(愛するイエスよ)

交読詩篇   86(主よ、わたしに耳を傾け)  

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書 ヨハネによる福音書14章1節~17節(新p.196)

説  教    「道であり、真理であり、命であるイエスの与える真理の霊」   辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21) 342(神の霊よ、今くだり)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏 

 

                  次週礼拝 5月29日(日) 午後5時~5時50分

                  聖書 ローマの信徒への手紙10章5~17節

                  説教    「神の民の誕生」

                  賛美歌(21) 459 517 24 交読詩編 29篇

    本日の聖書 ヨハネによる福音書14章8節~17節

 1「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。2わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。3行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。4わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」5トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」6イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。7あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」8フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、9イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。10わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。11わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。12はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。13わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。14わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」15「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。16わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。17この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである

   本日の説教

 「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」(14節)

  ヨハネによる福音書13章では、最後の晩餐の席で、イエスは弟子たちの一人が裏切り者となることを予告し、<わたしが行く所にあなたがたは来ることができない>という弟子たちとの別れの言葉が語られ、そしてペトロの離反の予告が語られたので、弟子たちの心には大きな不安と動揺がありました。この不安を感じている弟子たちに、イエスは、<心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしを信じなさい>と言われました。神に対する信仰と、イエスに対する信仰とを、同列に置く宣言がなされています。神に信ずるということは、このような不安を覚えるときに、絶対の信頼をささげて神にすべをゆだねることが、神を信ずるということの具体的な内容なのです。神から派遣され天に帰っていくイエスは、弟子たちのために、天に住居と場所を用意し、彼らをも父と子の交わり入れようと、天に帰る目的を語ります。そしてその用意が済み次第、<戻って>来ると約束しました。イエスが約束している再来は、聖霊の来ることによるイエスの顕現です。ヨハネによる福音書では、聖霊の時は十字架と復活の時に始まっているので、イエスは、「わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている」と言っています。

 「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」と、トマスが言います。それに対してイエスは言われます。

 「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」(67節)

 ここに「道」「真理」「命」という三つの言葉が併記されています。「道」とは、目的地に行く通路という意味と、生き方の目標をさす場合があります。イエスは、真理であり、命なので、イエス自身は、通路であると同時に、また目標でもあります。

  詩編86篇11節に、「主よ、あなたの道を教えてください。わたしはあなたのまこと(真理)の中を歩みます」という言葉があり、道と真理が並行的に用いられています。主イエスは、この求めに答えるために、この世に来られたのです。

  イエスは人々を神に至らしめる道であると同時に、恵みと真理に満ちている(114)方です。学問としての真理ではなく、神の真理、すなわち救いの真理であり、命にかかわる真理です。神と共にあったイエスのうちに命(14)がありました。イエスは復活の命(1125)であり、永遠の神の命です。キリストはこの道、真理、命そのものであり、このキリストによって、人は初めて神のみもとへ行くことができ、このキリストによらなければ神の救いと命とに預かることが出来ないのです。イエスは神から派遣された神の独り子であり、神を啓示する者、神御自身なのです。

 「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」、と今度はフィリポが尋ねます。イエスはフィリポの問に対して答えます。

 「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。」(9~11節)

 イエスはフィリポの問に対して、再び、自分と父との一体性を強調します。イエスの語る言葉は父と同じことを語るのであり、イエスの行った業も同様であると話します。<業>とは、福音書の前半に記されているイエスのしるし・であり、奇跡です。しるしを行うイエスの中に父なる神が共にいるいることを信じなさい、と父とイエスは一体であると語ります。

 「はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。」(12節)

 <イエスを信じる者は、…もっと大きな業を行うようになる>とは、イエスが神のもとに帰った後に、弟子たちの与えられる聖霊の働きを指しています。弟子たちは全く新しい存在に生まれ変わり、イエスの御業を継承することになるのです。それは、めざましい奇跡が次々と行われるというよりも、聖霊によって促されるあらゆる意味での宣教の業を示しています。

 「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」(1314節)

 ここで、イエスの名によって願うことは何でもかなえられることが約束されます。<何でもかなえてあげる>ことが出来るのは、神にのみ可能なことです。イエスの名によって祈りがかなえられるということは、そこに神の栄光が現れるということにほかなりません。

 「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。」(13節)

 <わたしの掟を守る>とは、1334節で、イエスが話された「新しい掟」です。それは「互いに愛し合いなさない。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」という掟でした。イエスを愛することは、即ちその戒め(互いに愛し合う)を守ることであると言っています。

わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」(14節)

イエスは父なる神に願って別の<弁護者>を派遣してもらうことを約束します。<弁護者>とは、自分一人では立ち向かえることの出来ず、処理できない問題に助力を与えるものとして呼び出される弁護士の役を担う助け主、聖霊のことです、イエスは、イエスの人格と働きを継続する<別の>弁護を遣わすと約束しているのです。

 「この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。」(17節)

 この方、<弁護者>は、「真理の霊」であり、<真理の霊>は、弟子たちを<導いて真理をことごとく悟らせる>(1613)働きをします。イエスは道・真理・命そのものであると、6節ですでに言われました。聖霊は、そのイエスの霊であり、イエスの代わりの者です。「わたしもあなたがたの内にいる」とあるのは、聖霊がイエスの代わりにあなたがたの内に居るという意味です。だから、聖霊は信者の内に居て、イエスのように道=生き方を示します。真理の道を示します。その生き方は永遠の命に至る道であります。聖霊はわたしたちの心に働きかけて、悪さ・弱さを抱えているわたしたちも、互いに愛し合い、互いに仕え合うことができるようにしてくださるのです。

 しかし世は、霊を受け入れることができません。私たちは人々が聖霊を疑う時代に生きています。イエスも聖霊も受け入れようとしない世の人々は、「真理の霊」とは絶縁状態にあります。イエスは、時が満ち、「肉となって」(ヨハネ1114)、わたしたちが知ることができるようになるために、わたしたちのただ中に来られた真理です。真理は何らかの対象として捉えるものではありません。真理とは出会うものです。真理とは所有ではなく、一人の人格との出会いです。 しかし、イエスが真理「そのもの」であり、父である神の独り子であることをだれがわたしたちに悟らせてくれるのでしょうか。パウロは「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とはいえない」(一コリント123)ことを教えてくれます。復活したキリストのたまものである聖霊こそが、真理そのものであるかたをわたしたちに悟らせてくださいます。イエスを信じ受け入れた人々との間には、この霊が親しく降り、内に住み、信じる者のうちに働いてくださるのです。日々、聖霊を豊かにを受けられるように、祈り求めましょう。

 

 

 

 

 

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「聖霊の賜物」 ヨハネによる福音書14章15節~27節

2016-05-15 21:46:27 | 説教

                   ↑  聖霊降臨日に、聖霊の力を受けた弟子たちは、エルサレムに住んでいた外国生まれのユダヤ人やユダヤ教に改宗した改宗した外国人たちに、彼らの15か国の生まれ故郷の言葉で福音を語った。これが世界宣教の発端となり、世界に福音が届けられることを示した。

981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

     日本キリスト教 富 谷 教 会

                    週    報

年間標語 『日々聖霊を豊かに受けて神の栄光を表す人になろう。』

聖句「神は、わたしたしの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊を豊かに注いでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。」(テトスへの手紙3:6~7)

 聖霊降臨節第1主日(聖霊降臨日) 2016年5月15日(日)  午後5時~5時50分

                 礼 拝 順 序

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉                                     讃美歌(21)  56(主よ、いのちのパンをさき)                                                          交読詩篇  103(わたしの魂よ、主をたたえよ)               主の祈り   93-5、A                         使徒信条   93-4、A                         聖 書 ヨハネによる福音書14章15節~27節(新p.197)           説  教      「聖霊の賜物」 辺見宗邦牧師                祈 祷                                 讃美歌(21) 343(聖霊よ、降りて)                     献 金                                  感謝祈祷                                頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)                    祝 祷                                 後 奏 

                                                       次週礼拝 5月22日(日) 午後5時~5時50分       

                聖書 ヨハネによる福音書14章8~17節           

                                                          説教    「真理の霊」

                                                           賛美歌(21) 51 342 24 交読詩編 37篇

      本日の聖書 ヨハネによる福音書14章15節~27節

   15「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。16わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。17この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。18わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。19しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。20かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。21わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」22イスカリオテでない方のユダが、「主よ、わたしたちには御自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか」と言った。23イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。24わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。25わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。26しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。27わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。

          本日の説教

    教会暦では、今日が聖霊降臨日(ペンテコステ)の日です。使徒言行録二章によると、ユダヤ教の五旬祭(ペンテコステ)の日に主イエスの弟子たちの上に聖霊が降り、初代教会が創設され、宣教活動が始まったと伝えています。「ペンテコステ」という言葉は、もともと「五十番目」を意味するギリシア語です。キリスト教の場合、主イエス・キリストの復活を祝うイースターから数えて五十日目にあたることから、この五旬節の日を、ペンテコステ(聖霊降臨祭)として祝うようになりました。今日がその聖霊降臨日に当たります。聖霊は神の力、神の働きとして与えられ、聖霊に満たされた一同は、主のよみがえりを証言し、主イエスによる救いの恵みを知らせる福音を伝える者となりました。当時、エルサレムにすんでいたユダヤ人は外国生まれの人たちが多く、またユダヤ教に改宗した外国人が大勢住んでいました。十五か国にも及ぶその人たちの生まれる故郷の言葉で、語るための力が与えられた弟子たちは神の偉大な業を語ったのです。これはすべての国に福音が届けられることを示しています。このように聖霊降臨の日の出来事が世界宣教の発端となりました。

    今日の聖書の箇所は、最後の晩餐の席で、「別れの説教」(訣別の説教)を語られたときに話された、主イエスの「聖霊を与える約束」です。この約束は、後に残される弟子たちへの語りかけであり、同時に今日に生きる私たちにも向けられた言葉でもあります。。

あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。」(15節)

    主イエスは地上を去るに当たって、弟子たちとの間に結ばれた愛の結合関係が失われないように確かめます。<わたしの掟を守る>とは、13章34節で、イエスが話された「互いに愛し合いなさない。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」という新しい掟です。イエスを愛することは、即ち、互いに愛し合うという戒めを守ることであると教えています。兄弟たちが互いに愛し合う地上の愛の営みを通して、イエスとの愛の結合関係が維持されると教えているのです。

  「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」(16節)

   イエスは御自分に代わる他の<弁護者>を父なる神から送ってもらうことを約束します。<弁護者>とは、自分一人では立ち向かえることの出来ない問題に助力を与える弁護士の役を担う助け主、聖霊のことです、イエスは、この地上を去っていくが、<弁護者>は永遠に弟子たちと一緒にいるようにしてくださる、というのです。<永遠に>とは、単なる時間的な長さを示すよりも、いつでも、どこでも、どんな状況の中でもという意味をもつ言葉です。イエスは、イエスの人格と働きを継続する<別の>弁護者を遣わすと約束したのです。

  「この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。」(17節)

 この霊は、この世からの烈しい非難と攻撃にさらされているイエスの弟子たちのために、弁護の役割を果たすものですが、それは<真理の霊>です。<真理の霊>は、弟子たちを<導いて真理をことごとく悟らせる>(16・13)働らきをします。

   この霊は、いつでも、どこでも、私たちと共におり、私たちのうちにいます。どんな状況の中でも、私たちと共にいてくださるのです。しかし世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受けることができません。イエスも聖霊も受け入れようとしないユダヤ人のことが語られています。

   しかし、世とは違って、イエスを信じ受け入れた人々の間には、イエスは今や愛の霊として、彼らの間に留まるので、彼らは霊を知り、霊と共にあることを知るのです。

 「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。」(18節、19節)

  イエスは世を去っていくが、弟子たちを「みなしご」にはしておかない、と約束します。「みなしご」とは親のない孤児のことです。これは、師イエスを失う弟子たちのことを指しているのです。

 イエスは死と復活によって、地上から天に取り去られるけれども、すぐ<弁護者>また<真理の霊>として地上に戻って来るので、決して弟子たちを孤児にはしない、と残る弟子たちを励ますのです。世またユダヤ人は、イエスの十字架の死によって、イエスを見ることはなくなります。しかし、弟子たちは復活のイエスと聖霊の到来によって、再びイエスと出会うのです。<わたしが生きる>とは、「わたしは十字架の死を超えて生きる」という意味です。イエスは復活し、昇天して、今も生き続けておられます。生きておられるキリストから生命と力と助けを受けて、あなたがたもまた、生きることができるようになる、と励ましています。

  「かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。」(20節)

  終末の日には、父なる神と子なるイエスとの愛の結合関係が、弟子たちとイエスとの間にも結ばれていることが、あなたがたにも分かるであろう、と言われたのです。

  「わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」(21節)

    その結合関係は、イエスの掟を受け入、愛の戒めを守る人であり、イエスを愛する人との間に実現するのです。わたしを愛する人は、父なる神に愛され、イエスもその人を愛し、その人にイエス御自身を現すのです。

  「イスカリオテでない方のユダが、「主よ、わたしたちには御自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか」と言った。」(22節)

  <イスカリオテでない方のユダ>とは、<ヤコブの子ユダ>(ルカ6・16)ことか、<イエスの兄弟ユダ>(マルコ6・3)のことでしょう。このユダは、復活のイエスが弟子たちにだけに現され、世、具体的にはユダヤ人には、イエスの顕現が現わそうとされない理由を尋ねます。

  イエスはこう答えて言われました。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣 わしになった父のものである。」(23、24節)

   イエスの解答は、イエスを愛し、イエスの言葉を守る者にのみ、父はイエスと共に来たり給うて、一緒に住んでくださる。これに反して、イエスを受け入れず、その言葉を守らない者は、イエスの顕現にあずかることはできない。

  「わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」(25、26節)

   別れに臨んで、イエスの語るべきことは終わりました。やがて、彼の取り去られた後、弁護者、すなわち、父なる神がイエスの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、イエスが生前に話されたことをことごとく思い起させます。聖霊は、私たちの心をみことばに向かって開き、地上のイエスの言葉と業を思い起させる働きをします。この意味で聖霊は助け主であり、私たちと共に今も生きておられるイエスの働きなのです。

 「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」(27節)

  イエスが地上を去るに当たり、弟子たちは不安に陥るかもしれないが、<平和を与える>と約束します。

<平和・平安>は、あらゆる面での完全な充足、至福の状態を表すものです。イエスが与えようとされる平和は、神から与えられる恵みとして、私たちに贈られる救いであり、いやしであり、それは真の愛と和解を私たちにもたらすものです。わたしがあなたがに残すのは不安ではなく、それに打ち勝つ平安であると主は言われ、<心を騒がせるな。おびえるな>と弟子たちを勇気づけられます。イエスの与える平和は、戦争のない、一時的な平穏無事な状態を指すのではなく、不安動揺の中でも奪い去られることのない平和です。

     このイエスが私たちに与え、遺してくださった平安を、世に対して証しすることが、キリスト者の伝道の使命です。別れに際してのイエスの「聖霊を与える約束」は、今まで以上に強く、イエスが「いっしょにいる」ことを説いています。聖霊とは、私たちと共にある神、今も共に生きるイエスのことであり、<みなしごにはしておかない>との約束は聖霊降臨の出来事において実現したのです。

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「主イエスとの愛による永遠の結合関係」

2016-05-07 22:15:33 | 説教

981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

日本キリスト教 富 谷 教 会      週  報

年間標語 『日々聖霊を豊かに受けて神の栄光を表す人になろう。』

聖句「神は、わたしたしの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊を豊かに注いでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。」(テトスへの手紙3:6~7)

 復活節第7主日  2016年5月8日(日)  午後0時40分~1時10分

仙台青葉荘教会壮年会との合同礼拝

礼 拝 順 

                 司会 武石晃正兄

前 奏              奏楽 松本芳哉兄 

讃美歌(21) 481(救いの主イエスの)

交読詩篇  116(わたしは主を愛する)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書 ヨハネによる福音書21章15節~25節(新p.211)

説  教   「主イエスとの愛による永遠の結合関係」    辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21) 483(わが主イェスよ、ひたすら)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏 

合同礼拝について

日本キリスト教団仙台青葉荘教会は、毎年この時季に、富谷教会支援のために、壮年会との合同礼拝を催してくださっています。参加者は壮年会が12名、富谷教会は8名、計20名です。礼拝の後、青葉荘教会壮年会で用意して下さった昼食をいただきます。昼食後、茶室で呈茶をし、親睦の時を過ごします。終了は午後二時頃の予定。

                                                              次週礼拝 5月15日(日) 午後5時~5時50分

                                                           ペンテコステ(聖霊降臨日)礼拝です。

                                                              聖書 ヨハネによる福音書14章15~27節

                                                              説教    「聖霊の賜物」

                                                              賛美歌(21) 56 343 24 交読詩編 116篇

 

本日の聖書 ヨハネによる福音書21章15節~25節

     15食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。16二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。17三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。

      本日の説教

    ヨハネによる福音書21章は、補遺としてつけ加えられた部分です。この補遺の部分で復活された主イエスがガリラヤで七人の弟子たちに現れたことを伝えます。

    マタイによる福音書によると、マグダラのマリアたちは復活されたイエスに会い、イエスから、「行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」と言われました。この伝言を聞いた弟子たちは、ガリラヤに行き、イエスが指示した山で宣教の派遣を受けています。ヨハネによる福音書も独自の伝承資料により、イエスのガリラヤ顕現を書き加えたと思われます。

    ガリラヤに戻ったペトロたち元漁師は、一晩漁をしたが何も獲れませんでした。漁をする網を捨ててイエスに従った弟子たちが、再び漁を始めたことが、イエスへの信仰を失ったことのように言われますが、生活の糧を得るために必要なことだったと思われます。

   夜が明けた頃、イエスが岸に立っておられました。だが、弟子たちは、それがイエスだと分かりませんでした。イエスの言葉に従って、弟子たちがもう一度網をおろすと、網を引き上げることのできないほどの大漁となりました。愛弟子が岸に立っているのはイエスだと証言したので、裸同然だったペトロは漁師の着る上着をまとって湖に飛び込み、泳いでイエスに近づきました。ほかの弟子たちも魚のかかった網を引いて、舟で戻ってきました。陸に上がってみると、炭火がおこしてあり、その上に魚がのせてあり、パンもありました。イエスはペトロに「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われました。イエスは、「さあ、来て朝の食事をしなさい」と言われ、パンを取って弟子たちに与えられ、魚も同じようにされ、日用の糧を与えられました。エルサレムで二度弟子たちに現れた復活のイエスは、これで三度現れたことになります。

   ガリラヤ湖畔での朝食が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われました。他の福音書では<バルヨナ・シモン>、つまりヨナの子シモンと言われていますが、この福音書では<ヨハネの子シモン>と,実名で呼んだのです。<この人たち以上に>というのは、この人たちがわたしを愛している以上にという意味です。このお言葉は、他の弟子たちとの競争をあおるような問いかけではなく、主イエスの真意は、「あなたはだれにもまさって、わたしを愛しているか」という問いではないかと思われます。この問いの背後には、「わたしはあなたをだれにもまして愛している」という、ペトロへの主イエスの愛が込められています。主イエスに誰より以上も以上に愛され、多くの罪を赦された者は、誰よりも以上に主を愛する者とされるのです。しかし、神の愛は差別のない愛なので、特にペトロだけを優先して愛しているということではありません。神は、それぞれの人の特性に応じて、それぞれの人をだれにもまさって愛しておられるのです。

 結婚式では、夫婦となるための誓約があります。「あなたは彼(彼女)を、愛すことを誓いますか」と牧師は新郎・新婦に尋ねます。主イエスのペトロへの問いは、主イエスがペトロの愛を確かめ、親密な愛の関係を結び、新たな任命をペトロに託すためであったと考えられます。神であられるイエスを愛すということは、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」(マタイ22・37)とあるように心からなる愛がペトロに求められてしかるべきなのです。

 主イエスの三度にわたる「わたしを愛しているか」との問いは、言わば主との愛の契りを結ぶことです。ここに確固とした主イエスとの永続的結合関係を与えられるのです。「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。……わたしたちは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいる者も、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主イエス・キリストによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(ローマの信徒への手紙8・35、38、39)という信仰の確信が与えられるのです。

 ペトロは主の問いに、<はい、わたしはあなたを愛しています>と答えずに、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と控えめに答えています。「わたしはあなたを愛しています」とペトロがなぜ答えなかったのかということについては、ペトロがイエスを明らかに三度知らないと裏切っているので、このような間接的な言いまわしをしたと思われます。最後の晩餐の席で、あなたのためなら命を捨てます」と言っています。マタイによる福音書には、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」とあります。ルカ福音書には、「主よ、御一緒なら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しています」とあります。復活のイエスとの出会いを経験する前のペトロの信仰は人間的な意気込みによるものであり、イエスとの間に永続的結合関係ができていませんでした。イエスを裏切り、捨てるという挫折と破綻を経験した後、復活の主と出会い、主イエスは十字架の贖いにより、罪深い自分を赦し、支え給うという事実を知ったのです。もはや信ずるということも、自分の側からの決断によるものではなく、キリストの霊によって神から賜る恩恵であることを知ったのです。

 ペトロはもう以前のように、他の人と比べるようなことをせず、心砕かれて「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存知です。」と答えるほかありませんでした。もはや自分の確信の力、自分の意志の強さに頼るのではなく、主イエスが知っていてくださればいいと、全てを主に委ねる告白へと、変えられたのです。<あなたがご存じです>という言葉は、すべてを知る復活のキリストの前にいるペトロの畏敬の念を感じさせます。そのようなペトロに主はご自分の大切な羊を任せようとされるのです。イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と命じました。

 二度目にもイエスは、「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」と言われました。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われました。

 三度目にイエスは言われました。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」主イエスから三度も繰り返し問われたペトロは「悲しくなった」とあります。三度繰り返して念を押されることによって、ペトロは自らが三度イエスを知らないと言ったことを思い起して悲しくなったとも受け取られます。しかしそれだけではありません。もっと大きな主イエスの深い愛に触れたのです。罪を犯して、もう弟子とよばれるにふさわしくないペトロに、主イエスの方から近づいて来てくださり、一緒に食事をし、そして過去の罪を責めるのではなく、今も変わらずに愛してくださり、自分の大切な羊を任せようとしていてくださる、その愛、赦し、信任といった、主の大きな愛に触れて主イエスがそれほどまで、心を傾けてくださることに感激したのです。同時に、主を裏切った罪だけでなく、これまでいかに自分が罪深い者であるかを知らされ、そのような自分を主は愛し、身代わりのいけにえとなってご自分の身を父なる神に献(ささ)げ、ご自分の血によって罪から解放してくださった神の子であられる方の苦痛と痛みを覚えて悲しくなったのだと思います。その悲しみは、ペトロの心に主の愛が満ちたことによって起こったものです。

 イエスが三度も「わたしを愛しているか」と問われたのは、ペトロに対する主イエスの不変の愛を示し、どんなものも引き離すことのできない愛の関係で結ばれていることを確信させ、このイエスの愛に応えて生きる新たな決意をもって、主の与える使命に生きる者とするためでした。

 ペトロは、イエスの三度目の問いに答えて、「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」と言いました。

「何もかもご存知です」という言葉の中には、ペトロのこれまでのすべての罪を御存知である主に対して、ペトロの懺悔と悔い改めが言い表されています。

 主イエスはペトロの主に対する愛を確認したあと、一度目は「わたしの羊を飼いなさい」と言われ、二度目は「わたしの小羊を養いなさい」と言われました。この異なる二つの表現は羊飼いの種々の働きを表していますが、それほど違って理解する必要はないと言われています。主イエスは、御自身を「わたしは良い羊飼い」(ヨハネによる福音書10章11節)と言われました。良い羊飼いは、羊のために命を捨てると言っています。主イエスは、御自分の羊を、ペトロに託したのです。その任に、主イエスを三度知らないと言ったぺトロがその任に堪えることができるでしょうか。主イエスは、まことのぶどうの木とその枝のたとえで、「人がわたしにつながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」と話されています。主イエスは羊を飼う務めをペトロに託すに当たって、主に対する愛を問い、主と固く結びつくようにされたのです。この主イエスを愛するというところにおいて、すべては与えられていくのです。主イエスが与えてくださるのです。主イエスを愛する者は、主イエスの羊を愛さないではいられないのです。そこに、愛の交わりが形作られ、主イエスの愛によってうち立てられるキリストの体としての教会が建っていくのです。
 「わたしを愛しているか。」この問いは、私たちにも向けられている、イエスの問いかけです。神がわたしたちに求められるのは、わたしたちが神を愛すことと、神が愛しておられる一人ひとりの隣人を、自分と同じように愛すことです。隣人を愛すことも、主イエスを愛することによって、可能となるのです。愛を追い求めましょう。主イエスを愛する愛を、主イエスの羊を愛する愛を、隣人を愛する愛を増し加えていただきましょう。

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