富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「最初の弟子たち―人間をとる漁師」 マタイによる福音書4章18~25節

2017-01-14 20:56:47 | キリスト教

                   ↑ イエスのガリラヤでの宣教活動

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    日本キリスト教 富谷教会     週報

年間標語 『キリストに結ばれて、聖霊によって、日々心を新たにされ、キリストに似た者に造り変えていただこう。』

聖句「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。これらすべに加えて、愛を身につけなさい。キリストの言葉があなたがたの内に宿るようにしなさい。いつも感謝して心から神をほめたたえなさい。すべて主イエスの名によって行いなさい。」(コロサイ3:13~16の抜粋)

降誕節第4主日  2017年1月15日(日)   午後5時~5時50分

      礼 拝 順 序

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉             

讃美歌(21)  56(主よ、いのちのパンをさき)                                       

交読詩編   33(主に従う人よ)                                                         

主の祈り   93-5、A                                                                     

使徒信条   93-4、A                                                                     

聖 書(新共同訳)マタイによる福音書4章18~25節(新p.5)                      

説  教  「最初の弟子たち―人間をとる漁師になる」 辺見宗邦牧師      

祈 祷                                   

讃美歌   517(神の民よ)                       

聖餐式    72(まごごろもて)                     

献 金                                   

感謝祈祷                                   

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)                   

祝 祷                                      

後 奏  

            次週礼拝 1月22日(日) 午後5時~5時50分

            聖書  マタイによる福音書4章12~17節

            説教  「宣教の開始」 

            讃美歌(21)96 494 24 交読詩編44篇

  本日の聖書 マタイによる福音書4章18~25節

18イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。 19イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。 20二人はすぐに網を捨てて従った。 21そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。 22この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。 23イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。 24そこで、イエスの評判がシリア中に広まった。人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた。25こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに従った。

   本日の説教

  先週の説教では、マタイの3章13節から17節にかけてのイエスの洗礼についてお話しいたしました。今日の聖書の箇所に入る前に、4章の1節から17節までの部分について、かいつまんでお話しいたします。

 1節から11節には、イエスが霊に導かれ荒れ野に行き、四十日間、悪魔から誘惑を受けたことが記されています。イエスはこの誘惑に勝利され、メシアとして働くための準備が整いました。悪魔は離れ去り、天使たちがイエスに仕えました。

 そして、4章12節から17節には、ヨハネが捕らえられたことを聞いたイエスが、ユダヤの荒れ野からガリラヤに帰り、その後、故郷のナザレを離れて、ガリラヤ湖の湖畔の町カファルナウムに住まわれたことが記されています。

 ヨハネはガリラヤとペレヤの領主ヘロデ・アンテパスが妻と離婚して、異母兄弟ヘロデ・フィリポの妻ヘロディアを自分の妻としたことを強く非難したため、怒りを買い、逮捕されました。紀元29年頃のことです。ヨハネは死海東岸に近いマケルス要塞の牢に幽閉され(マタイ11:2~15)、ほどなく惨殺されました(14:1~12)。

 先駆者ヨハネの逮捕をきっかけにして、イエスはガリラヤに戻り、宣教を開始しました。カファルナウムに行く前に、ナザレでは会堂でイザヤ書の言葉が実現したことを宣言され(ルカ4:16~30)、ナザレに近いカナでは、婚礼に招かれたイエスが、最初の奇跡を行ったとヨハネ福音書は報告しています(ヨハネ2:1~11)。

 イエスがガリラヤに退いたことは、預言者イザヤの言われたことが実現するためでした。「ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」(イザヤ書9:1~2)

 「ゼブルン」や「ナフタリ」は、イスラエルの十二部族の中の二部族の名ですが、分割されて与えられたガリラヤ地方の土地を指す地名となりました。ガリラヤは、紀元前八世紀のアッシリアに征服されて以来、住民の強制移住や他民族の入植が数世紀にわたって繰り返された結果、異教的要素が強く残りました。紀元前167~63年、マケドニヤの支配から独立したユダヤ王朝時代(ハスモン王朝)に、ガリラヤ地方は大掛かりなユダヤ化政策が実施されたが、それでもイエスの時代は、人口の半部以上が異邦人で、ユダヤ地方からは「異邦人のガリラヤ」と蔑視されていました。この暗闇の地に住む異邦人への宣教が、メシア・イエスの出現によって始まったのです。

 「そのときから、イエスは、『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言って、宣べ伝え始められ(4:17)ました。

 イエスの公的伝道は、悔い改めの勧告と天の国の到来の宣言で始まります。天の国はイエスの到来と共に始まり、イエスの再臨をもって完成するのです。悔い改めは、神の支配するときが近づいたという救いの恵みに応えて、神に立ち返ることです。神の方に生き方を方向転換することを意味しています。自分の間違いや失敗などを反省したり、後悔するという意味ではありません。キリストの救いにあずかる喜びの行為なのです。

 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、四人の漁師を弟子とされました。ガリラヤ湖は南北約20キロ、東西はもっとも広いところで12キロ(琵琶湖のほぼ四分の一)です。古くから漁業が盛んでした。

 まず、イエスは二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとアンデレの兄弟が湖で網を打っているのを御覧になり、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われました。二人はすぐに網を捨てて従いました。そこから進んで、ゼベダイの子ヤコブとヨハネの兄弟が、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になり、彼らをお呼びになりました。この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従いました。

 この無学な普通の人である漁師四人がイエス様の最初の弟子でした。9章9節ではマタイを選んでいます。イエスは十二人の弟子を作ります(マタイ10:1~4)。十二の数は、イスラエルの部族の数に基づいています(19:28)。十二の弟子から出発した教会は、新しいイスラエルとして、新しい神の民を形作るのです。イエスはこの十二人を「イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい」と派遣しましたが(10:6)、復活後は、「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい(28:18,19)」と言って、派遣しています。

 最初の四人の弟子の召命ですが、大のおとなが初対面の人の一声ですぐついて行くというのは理解しがたいことです。マタイ福音書とマルコによる福音書の記事は、ほとんど同じです。イエスは抵抗できない権威をもって召し、召された人は徹底的な従順をもってそれに応答するという記事になっています。状況などはすべて省いており、弟子の献身に焦点を当てています。

 ヨハネによる福音書では、洗礼のヨハネがイエスを見て、「見よ、神の小羊だ」と言ったのを聞いた、ヨハネの二人の弟子がイエスについて行って、イエスのもとに泊ります。そのヨハネの弟子の一人がアンデレです。もう一人の匿名の弟子はヤコブの兄弟ヨハネではないかと推察されています。翌日、アンデレは兄弟シモン(ペトロ)に会って、「わたしたちはメシアに出会った」と伝え、シモンをイエスのところに連れて行って、イエスに会わせます。(ヨハネ1:25~42)

 ルカによる福音書では、イエスがシモンの舟に、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われ、大漁の魚なとれたのに驚いたシモンが、イエスに従っています。

 このような状況を、マタイとマルコは省略しています。主イエスはシモンとアンデレに、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と語りかけました。ヤコブとヨハネに対しては「彼らをお呼びになった」とありますが、シモンとアンデレに言ったと同じことを語りかけたと思われます。「わたしについて来なさい。」イエスは人々を招かれるとき、この言葉をしばしば使いました(8:22、16:24、19:21)。この言葉は、単に教えを学ぶためについて来るように、という軽いものではありません。これからの歩みのすべてをわたしにかけ、わたしと行動を共にしなさい、という言葉です。イエスは弟子たちに、「わたしについて来たいと思う者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マタイ16:24)と言っています。イエスにどこまでもついて行く覚悟をしたペトロも、他の弟子たちも、十字架につけられたイエスを見捨てました。この弟子たちに、復活されたイエスは現れ、再び弟子として派遣したのです。「わたしについて来なさい」というイエスの招きの言葉は、わたしたちをイエスについて行けるようにしてくださる言葉でもあるのです。

  イエスは彼らに「人間をとる漁師にしよう」と語られました。「人間をとる」とは、イスラエルの家の滅びた羊を神のもとに連れ戻すことです(10:6)。この言葉はエレミヤ書16:16を背景にしているとも思われます。

 「見よ、わたしは多くの漁師を遣わして、彼らを釣り上げさせる、と主は言われる。……わたしの目は、彼らのすべての道に注がれている。彼らはわたしの前から身を隠すこともできず、その悪をわたしの目から隠すこともできない。(エレミヤ書16:16~17)

 この漁師たちは、ユダ王国の罪人に対する神様の裁きのために遣わされた敵バビロンの兵士を表しています。しかし、神のさばきと同時に神の救いが告げられています。

見よ、このような日が来る、と主は言われる。人々は……『イスラエルの子らを、北の国、彼らが追いやられた国々から導き上られた主は生きておられる』と言うようになる。わたしは彼らを、わたしがその先祖に与えた土地に帰らせる(エレミヤ16:14,15)とあります。

   これは、エレミヤ書に加筆されたバビロン捕囚の終わりも近づいた頃の回復の預言です。神の定めたさばきの期間が終わるとき、バビロンに連れて行かれがユダの残りの人々は、ふたたびユダの国に帰って来るのです。その時には、「『このわたしが、群れの残った羊を、追いやったあらゆる国々から集め、もとの牧場に帰らせる…』と主は言われ」(エレミヤ23:2)ます。「見よ、このような日が来る、と主は言われる。わたしはダビデのために正しい若枝を起こす」(同23:5)とメシア・イエスの来ることを予言しました。そのとき、主は新しい契約を結ばれるのです(同31章)。

 主イエスが派遣する「人間をとる漁師」としての弟子たちは、罪人に対して神様の裁きのために遣わされるのではなく、イスラエルの家の滅びた羊を神のもとに連れ戻すためです。

 イエスの呼びかけに応じた四人は直ちにイエスの招きに従っています。それは自然な人間の絆を断ち切り(父親を残す)、それまでの生活で手放せないと思っていた拠り所を放棄(舟、網を捨てる)したのです。私たちはこれを読むと不思議に思います。どうしてすぐにそのような献身ができたのでしょう。それは彼らが主イエスに出会ったからです。主イエスは神の独り子としての権威をもって、そして圧倒的な愛をもって、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と招きました。この招きの言葉を受けて、四人は喜んで従ったのです。

  私たちも、主イエスが今も生きておられる神の子であることを信じることができるならば、このイエスに招きに喜んで従うことができるでしょう。このような信仰も献身も聖霊に導きによるものなのです。

  パウロは、「わたしの主イエス・キリスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみなしています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです」(フィリピ3:8,9)と言っています。

 牧師や伝道者だけが伝道するのではありません。キリスト者はみな神の民の一員として御言葉を伝える使命を与えられているのです。キリスト者はイエス・キリストのすばらしさを深く知り、主イエスに聞き従っていくとき、「網」や「船や父親」などに代表されるこの世の支えに頼るという生活から、主イエスのみを信じることへ、主イエスを愛することへと、徐々に作り変えられていくのです。そしてキリストによって生かされている喜びを証しし、人々をキリストへ導く、「人間をとる漁師」とされるのです。キリスト者は誰もが伝道者として献身しなければならない、ということではありません。しかし、すべてのキリスト者は、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」という主イエスの招きを受けているのです。

「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。そこで、イエスの評判がシリア中に広まった。……こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに従った。」

 この要約的な報告には、イエスがガリラヤを歩き回り、教えに並んでいやされたことが記されています。イエスのもとにあらゆる病人が持ち込まれたこと、そしてイエスはどんな病気もいやしたことを強調しています。重要なのはイエスの神の子としての奇跡力を誇張することよりも、むしろ教えが重要視されています。そして大勢の群衆がイエスに従いました。

 このガリラヤ伝道の記事は、ルカによる福音書では、四人の「漁師を弟子にする」記事の前に、書かれています(ルカ4:14~44)。マタイ福音書の唐突とも思える四人漁師に対するイエスの招きも、ルカが記すように、イエスのガリラヤ伝道が進展し、イエスの評判が広まった中で行われた、と考えられるのです。。

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