日本キリスト教富谷教会 礼拝説教 辺見宗邦牧師

辺見宗邦牧師が富谷教会で行う礼拝説教を随時アップしてまいります。
毎週日曜日か、前日の土曜日に掲載いたします。

「イエスの洗礼」 マタイによる福音書3章13~17節

2017-01-04 18:56:17 | キリスト教

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

  日本キリスト教 富 谷 教 会  週 報

年間標語 『キリストに結ばれて、聖霊によって、日々心を新たにされ、

キリストに似た者に造り変えていただこう。』

聖句「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。これらすべに

加えて、愛を身につけなさい。キリストの言葉があなたがたの内に宿るようにしな

さい。いつも感謝して心から神をほめたたえなさい。すべて主イエスの名によって

行いなさい。」(コロサイ3:13~16の抜粋)

  降誕節第3主日   2017年1月8日(日)午後5時~5時50分

     礼 拝 順 序

                司会 永井 慎一兄

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 368(新しい年を迎えて)

交読詩編    2(なにゆえ、国々は騒ぎ立ち)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書(新共同訳)マタイによる福音書3章13~17節(新p.14)

説  教    「イエスの洗礼」   辺見宗邦牧師

祈 祷                

讃美歌   528(あなたの道を)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏  

            次週礼拝 1月15日(日) 午後5時~5時50分

            聖書  マタイによる福音書4章18~25節

            説教  「最初の弟子たち」 

            讃美歌(21)56 516 24 交読詩編40篇

本日の聖書 マタイによる福音書3章13~17節

  13そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。 14ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」 15しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。 16イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。 17そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。

本日の説教

 マタイによる福音書二章は、ヘロデ王がユダヤ人のメシアとして生まれた幼子イエスを探し出して殺そうとしているから、エジプトへ逃れるようにと、天使から夢で知らされたヨセフが幼子とその母マリアを連れて避難したことが記されていました。そのヨセフの家族が、ヘロデ王の死後、故国に帰り、がリラヤ地方のナザレの町に行って住んだところで終わっています。

 三章では、洗礼者ヨハネの宣教活動の開始から始まります。ルカによる福音書三章1節によると、ヨハネが悔い改めの洗礼を宣べ伝え始めたのは、ローマ皇帝ティベリウスの治世の第15年とあるので、これは紀元27年から28年のことになります。イエスが30歳前後の頃になります。「そのころ」(3:1)、神の言葉が荒れ野で祭司ザカリアの子ヨハネに降りました。ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って教えを宣(の)べました。。

 荒れ野は神の恵みに頼って生かされるところであり、神だけが希望となる場所です。ヨハネの宣教はこの荒れ野で始まりました。預言者イザヤの書に書いてあるように、「荒れ野で叫ぶ声がする。主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」の預言が実現したのです。

 ヨハネの服装は、預言者エリヤのように、「毛衣を着て、腰には革帯を締めていました」(列王下1:8)。旧約聖書の最後のマラキ書にある、「見よ、わたし(主)は多いなる恐るべき主の日が来る前に、預言者エリヤをあなたたちに遣わす」(3:23)という預言のように、ヨハネはエリヤのような服装をしていました。

 ヨハネは、神の審判の時が間近に迫っており、ファリサイ派やサドカイ派の宗教家も、それから免れることはできないと告げました。これまでの祭儀的な清めや、形式的な律法遵守や、イスラエルの民族的特権が通用する時代は終わった。今や神の怒りに対して備える道は、罪の告白と悔い改めのみであると説いたのです。自分が立派なことをしてきたとか、血筋はアブラハムの子孫であるとか、神に仕える職業にあるとか、そういったことは通用しない。そんなことで、差し迫った神の怒りを免れることはできないと言ったのです。

ヨハネが行った洗礼は、従来の繰り返しなされる清めの洗礼や、改宗者の洗礼とは違って、一度限りの徹底的な悔い改めの洗礼でした。彼は一般民衆を相手に語りかけたので、エルサレムとユダヤ全土から、またヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で洗礼を受けました。

 ヨハネは「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言いましたが、イエスの宣教開始の宣言と同じです(4:17)。ヨハネはイエスの先駆者としての役割を担ったのです。「預言の時」はヨハネまでであり、新しい救いの時が、ここに始まったのです。

 マタイ福音書によると、ヨハネの洗礼運動はあくまで罪の告白と悔い改めを促すものでした。ヨハネは自らの洗礼を、「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けている」と、「水で」と限定しています。彼の後に来る方は、「聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」(3:11)と告げました。「火で洗礼を授ける」とは、聖霊降臨(ヨエル書3:1)を示し、また、火による清め(マラキ書3:2)を示しています。

そして、手に簑(みの)を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて蔵に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」(3:12)と語りました。

人々を、麦ともみ殻とにふるい分けるように裁くのは、審判者である神のなさる行為です(イザヤ書17:13、29:5)。そして殻のような人を「永遠の火で焼き払われる」行為は、神の決定的な裁きを意味します。ヨハネはこのような勧めを民衆に語り、イエスの先駆者としての使命を果たしたのです。

 そして、今日の聖書の箇所に入ります。

そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。

イエスが神の子であり、メシア(救い主)であるなら、悔い改める罪を犯しているはずがありません。なぜイエスは、ヨハネの悔い改めの洗礼を受けるのでしょうか。

 ヨハネはそれを思いとどまらせようとして言いました。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか」と、イエスの申し出を強く辞退しました。しかし、イエスは、「今は、止めないでほしい。」「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」と言ってヨハネを説得しました。

 「正しいことをすべて行うのは、……」の文は、ギリシャ語の聖書原典では、「このように、すべての義を成就することは、私たちにふさわしいことなのだから」と言う文章です。これは、ヨハネの洗礼は神の意志にかなった正しいことであり、すべての正しいことを成し遂げる(実行する)ことが私たちにふさわしいことなのです、という意味になります。パウロも「すべて正しいことを…実行しなさい」(フィリピ4:8)と勧めています。

  ところで、どうしてメシアが洗礼を受けることが神のご意志なのでしょうか。それは、ご自分の民を罪から救う方は、ヨルダン川の水の中で、罪深い大衆に加わり、民と共に洗礼を受け、民と連帯されるためでした。主イエスは、人々の主、また王として定められた方として、民が「神の民」として再生するための清めの洗礼を受けられたのです。こうしてイエスは十字架の道へと歩み出すのです。

イエスは、…民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。」(ヘブライ2:17)

そこで、ヨハネはイエスの言われたとおりにしました。ヨハネの施した洗礼は、洗礼を受ける者の身体をヨルダン川の水に沈める浸礼でした。イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられました。その時、天がイエスに向かって開きました。

 預言者エゼキエルがケバル川の河畔で召命を受けたときも、「天が開かれ……神の顕現に接し」(エゼキエル書1:1)ました。天が開くとは、イエスがメシアとして活動を開始する時が迫ったことを示します。

 「イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。

 メシアとは、「(油を)注ぐ」という意味の動詞から派生した語で、「救世主」という意味の語です。イエスに神の霊が注がれたことは彼が神によって立てられた「メシア」であることを表しています。旧約聖書の時代は、油を注がれて神からの特別な使命を受けた預言者や、祭司や王は、しばしば神の霊を授けられてその任務に携わりました。神の霊はメシアに悟りと力と聖別を付与すると信じられていました。

「神の霊が鳩のように」とありますが、当時ユダヤ教では鳩は神の霊の象徴とされていました。イエスに霊が降ったことは、今や終末のメシア時代が始まったことを意味しています。

 「そのとき、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と言う声が、天から聞こえた。

 天の声は、神の子としてのイエスの身分を読者に宣言します。全く同じ言葉が再び山上の変容の場面でも告げられます(マタイ17:5)。

 イエス様が洗礼を受けられたことは、現在の私たちとどのようなかかわりがあるのでしょうか。

 復活されたイエスは、弟子たちに「あなたたちは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさい」(マタイ28:19)と命じています。洗礼は、イエス・キリストに結ばれるために受けるのです。(ローマ6:3)イエス様の死にあずかるために洗礼を受け、キリストが死者の中から復活されたように、私たちも新しい命に生きるためです。

  私たちは、洗礼によって神様の愛する独り子であるイエス様と一つに結び合わされます。そのことによって私たちは神様の子とされるのです。神の子とされた私たちは、イエス様と同じように、神様の御心に適うことを何よりも第一とする者にされるのです。それは神を愛し、人を愛し、神に仕え、人に仕える道です。まことの神の御子であるイエス様に似た者に変えられ続けていく道です。 イエス様が備えて下さった洗礼は、わたしたちを新たに作り変えるための洗礼です。火によってわたしたちの古い姿を焼き捨て、すべての罪を赦し、すべての過去の穢れを清め、聖霊によって新しい人間として造りかえてくださるのです。これが霊と火によるイエス様が授けてくださる洗礼です。

  今年の教会の年間標語は、「キリストに結ばれて、聖霊によって、日々心を新たにされ、キリストに似た者に造り変えていただこう。」です。

   そして具体的な勧めてとして、次の聖句を選びました。

互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。これらすべに加えて、愛を身につけなさい。キリストの言葉があなたがたの内に宿るようにしなさい。いつも感謝して心から神をほめたたえなさい。すべて主イエスの名によって行いなさい。」(コロサイ3:13~16の抜粋)

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