トーキング・マイノリティ

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インドからの贈りもの

2006-01-20 20:59:15 | 読書/インド史

 第一次世界大戦が起きた時、インドはまだ英国支配下にあり、否応なく参戦を余儀なくされる。M.ガンディーさえ同胞に参戦志願を呼びかける有様だった。独立の見返りを期待したのだが、もちろん戦後は反故にされる。当時の状況をJ.ネルーはこのように記している。

それはインドの戦争ではなかった。 インドはドイツに対して何も苦情の種はなかったし、トルコに関しては深く同情した。しかしインドは道を選ぶ訳にはいかなかった。イギリスの属領にすぎず、 帝国主義的な主人の歩む道に従うことを強制されていた。そういう訳で国内では大きな憤懣の火の手が上がったにも係らず、インドの兵士はトルコ人やエジプト 人やその他と戦い、インドの名は憎悪の的となった。

 公開の場ではしきりにイギリスへの忠誠を叫ぶ声が空を覆っていた。この叫喚は大部分 は藩邦を支配する王侯たちが喚きたてたものであり、その一部は政府と交渉を持っていた上層中間階級の声であった。ブルジョワジーも連合国のデモクラシーや 自由や民族の独立に関する勇ましい掛け声に、僅かながらも心をひかれた。おそらくこれはインドにも適用されるだろう、と考えたし、また、いざ鎌倉と言う場 合にイギリスに救いの手を差し伸べておけば、やがてそれ相応の報酬があろう、という希望があったからだ。いずれにせよ選択の余地はなく、それ以外に安全な 道はなかったので、損な役目のうちではまだしもという道を選んだのだった。
 このインドにおける表向きの忠誠心の表明は、時節柄イギリスではすこぶる歓迎され、盛んに感謝の意が表せられた。当事者たちはこの時以来、インドを「新しい角度から見直すであろう」とも声明した。

  戦争が進行するにつれて何処でも同じように一握りの連中が莫大な利益を手に入れたが、大多数はいよいよますます束縛が身に応える様になり、不平不満は深刻 になった。前線への増員の要求は一層大きくなるばかりで、従って兵員の徴募は一層厳しくなった。新兵を提供する者に対してはありとあらゆる誘いの手がかか り、報酬が与えられた。ザミンダール(地主)は小作人の中から一定数の割り当てで兵員を提出させられた。この“プレス=ギャング”、つまり強制徴募の方法 は殊にパンジャーブで、軍隊や労役隊の人員を集める為に盛んに行われた。兵隊として、また労役隊に編入されてインドから送られた人々の数は総計百万以上にも上った。

 戦争に人員を供給したり、また他の方法で援助したりした事の他に、インドはまた現金を供出させられた。これはインドからの「贈りもの」と呼ばれたものだ。ある場合にはこのような方式で一度に一億ポンドが支払われ、その後に又さらに多額の送金がなされた。貧しい国からの、この強制された貢納を「贈りもの」と呼ぶとは、いかにもイギリス人のユーモアのセンスの面目躍如というところだ」

 このインドの戦争ではない戦いで、何万ものインドの若者たちが命を落とす。だが少数ながら反対派もいた。

「し かしインドにも、また国外にも“忠誠的”態度を取らないインド人がいた・・・彼らはアイルランドの古い諺どおり「イギリスの困難は自国の好機」だと信じ た。殊にドイツやそのほかのヨーロッパの諸国に存在するインド人のある人たちは、ベルリンに参集してイギリスの敵国を援助する手段を画策し、この目的のた めに委員会を組織した。ドイツ政府はもとよりあらゆる種類の援助を受け入れることに熱心で、これらのインドの革命家たちを歓迎した。双方―ドイツ政府とイ ンド人委員会―は正式の書面による協定に達したが、その協定の中でも目立ったことはインド人側がドイツ戦勝の場合はドイツがインドの独立を主張する、とい う了解のもとにドイツ政府への援助を約束した事であった。それ以来このインド委員会は戦争中を通じて、ドイツの為に働いた・・・しかし、イギリス政府の悩 みの種を作ったくらいが関の山で、さして成果は上がらなかった」 ―<父が子に語る世界歴史 第6巻>より

 この時代のインドはノーと言えない立場だったのだ。何やら最近の東洋のどこかの国に似ていると思うのは私だけだろうか。

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