トーキング・マイノリティ

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日本の妖怪、外国の妖怪の違い

2008-07-18 21:28:58 | 読書/小説
 映画『ゲゲゲの鬼太郎 千年呪い歌』を見たため、日本と外国の妖怪の違いについて、ふと思った。水木しげる氏も著書で日本と外国の妖怪を比較、日本ではまず見られない西欧の残酷かつ不気味な妖怪をいくつか挙げている。日本にも人食い鬼がいないものでもないが、西欧のオウガ(Ogre Battleなるロックミュージックもあった)はやることが惨くパワフル。肉食人種ゆえかと思いきや、同じアーリア系で共通性があるのかインドの妖怪もまた多彩である。

 昨年読んだインドのファンタジー小説『蒼の皇子』に登場する敵の阿修羅軍団は、よくもまあ、このような怪物が描けるものかと感心してしまう。冒頭、阿修羅王ラーヴァナは主人公ラーマに、アヨーディヤの都が阿修羅軍に蹂躙される幻想を見せるが、妖怪たちによる市民虐殺は殆ど凄惨と言ってよい。人食い鬼どもの行進なのだ。人面蛇体のウラーガは美少女の顔を持ち、人間ばかりか同じ阿修羅仲間でも喰らう。食べた後、美しい顔は満足げにすます。子に乳を含ませながら、人間を襲う女妖怪。唐傘のような突起物で市民を粉砕する化け物。人間をズタズタに切り刻み、傷口に卵を生みつける怪物…すごい場面だと思った。夜叉ももちろん参加している。

 不浄の森に住むタータカという女魔物もおり、これは巨人でもあるが、全裸の紅毛碧眼の美女。顔に少しそばかすがあるという描写もにくいが、完璧な体とえも言われぬ芳香を放っている。これを見た精鋭部隊の男たちの戦意は萎え、武器を思わず下ろし、股間が反応する始末。タータカは退治に来たラーマに呼びかける。「あたしを殺すの?ただの女を?」。若いラーマも動揺する。
 タータカの武器は糞尿弾であり、自分の排泄物を敵に投げる。たかが糞尿といえ巨人族のそれゆえ巨大であり、戦車や戦象も直撃を受け、潰され圧死する。精鋭部隊の兵士たちも糞尿の下敷きになりそのまま憤死。

 ラーヴァナとなると阿修羅王だけに首が9つもあり、神出鬼没で様々の妖術を操る。阿修羅族の根城ランカー島には夥しい配下の怪物たちがおり、虎視眈々と人間社会への侵攻を伺う。ラーヴァナに仕えるスパイはバラモンの少年を生贄に捧げている。子供を生贄にするのは西欧の黒魔術も同じだが、対象をバラモンにしているのはいかにもインド。
 阿修羅族の集会の場面も面白い。集まった鬼どもの中に日本語にもなった羅刹もいて、皆の前で所かまわず性交にふけっている。その最中男羅刹は気を損ね女羅刹の首を切り落とし、死体を放り出す。まるでどうぞと言わんばかりに手足を開いた状態の死体に他の怪物たちが群がるのだ。日本人はもちろん欧米人作家もこのような物語はまず書かないのではないか。

 これら恐るべき妖魔たちに対抗するのも、梵天力という凄まじい超能力を神々から与えられた聖仙(リシ)が中心となる。梵天力を駆使、マントラを称え、天候も自在に操る魔法使い的存在。ただ、リシが機嫌を損ねれば相手構わず呪術をかけまくる。悪人や魔物が対象ならまだしも、善人にも呪いをかけるから手が付けられない。梵天兵器も所持するが、これは全てを焼き尽くす核兵器のようなもの。聖仙のマントラにより超人となった主人公は阿修羅軍と戦い、殺戮に酔い痴れる…

 Magicの語源は古代ペルシアの神官マギであり、ゾロアスター教の祭司も魔法使い的な印象がある。しかし、気鋭のゾロアスター教学者・青木健氏は善の側からの積極的な攻撃も可能なヒンドゥーの呪術や、悪の力すらコントロールし人間の目的を達する欧州の黒魔術に比べ、かなり大人しく受身だと見る。どんなにランクの高いゾロアスター教聖火さえ悪の攻撃から周囲を守る結界を張る能力があるだけ、決して悪を壊滅する効用があるのではない。炎の梵天兵器を縦横無尽に操るヒンドゥーとパワーが決定的に違うのだ。受身の姿勢なのは日本の神道も変わりない。

 司馬遼太郎は短編『兜卒天(とそつてん)の巡礼』で、日本と他国との神の違いの背景を、明確に記している。
自然が人間の肉体を虐めない所に神は育たない。温和な気候と美しい山河と豊饒な土地に住み、命を愉悦しつつ生涯を送れる者に、現世の解脱や救いの教えはどれ程の必然性を持とう。大和の地にもまたそれなりに神はある。しかし、それは生命の解放に必要な神ではなく、彼らの現実の欲望をさらに充実させるための生活の友人とも言うべき神である。少なくともインドやシリアの神から見れば、個性の弱い温和な妥協性に富んだ生活の神々であった…

 これならば、神に対抗する悪魔や妖怪もまた、日本なら何とも陰が薄くなるのも当然だろう。せいぜい人を驚かす程度で殺傷することは少ない日本の妖怪と、人肉を喰らい生き血をすする悪鬼の珍しくない外国の妖怪。風土もかなり影響していると思われる。

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5 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
百鬼夜行 (motton)
2008-07-19 00:09:01
>日本人はもちろん欧米人作家もこのような物語はまず書かないのではないか。
夢枕獏の『陰陽師』に出てくる鬼たち(特に百鬼夜行)の描写は恐ろしいです。阿修羅族の集会の場面そのままです。『陰陽師』は面白いですよ。

日本も平安時代までは悪鬼羅刹が徘徊していたように思います。その後の時代は、もう彼らが住むべき「闇」(原始の森) が切り開かれたのではないでしょうか。
(日本の美しい山河と豊饒な土地はほとんどが人の手によるものですから。原生林なんかもうわずかしかないですから。)

ところで、中国は神話が貧弱なんですが妖怪もそうなんですよね。いるにはいるのですが、関帝や二郎神君、那托、孫悟空の方がずっと強い(関羽以外は人外ではありますが)。あの国では人の方が恐ろしいんでしょうかね。
オカルト嫌い (Mars)
2008-07-19 19:48:21
こんばんは、mugiさん。

仰るとおり、「指輪物語」等の怪物(モンスター)と日本の妖怪とは、描写が異なりますね。
また、我が国の怪談や、現在のホラーものの怖さは、悲惨さ・残酷さよりも心理的に追い込められるような怖さがありますね。

中国の場合、諸葛孔明や毛沢東のように、神格化された超人はいても、神や妖怪の出番はあまりないようですね。
(また、死した人間に対しても、極度に恐れ、死者に鞭打つのかもしれませんね)

オカルトと言えば非科学的で、ある意味、神話的なものっというイメージがありますが、宗教に頼る国民性と、そうでない国民性にも反映されているように思えますね。
コメント、ありがとうございます (mugi)
2008-07-19 20:41:38
>mottonさん

以前、『陰陽師』がNHKで放送されていた頃、図書館で軽く立ち読みしたのですが、百鬼夜行の場面ではなかった上それほど怖くなかったので、結局それ以上見ませんでした。キチンと読めばよかったですね(反省)。

源氏物語にも魑魅魍魎への恐怖が綴られていますね。現代日本人からすれば悪霊など笑ってしまいますが、電気もない平安の時代は闇はとても怖かったのでしょう。私も子供の頃、石巻(宮城県東部)郊外の親戚の家に泊まりに行き、夜になると本当に闇夜だったので、お化けが出そうで怖かったのを憶えています。

中国で神話が貧弱なのは儒教の影響も少なからずあると思います。孔子も怪力乱神を語らず、と言っているので儒教が国家原理になるにつれ、神話が切り捨てられたかもしれません。あと、神話に残る母系社会の痕跡を男性優位主義の儒学者が改ざんすることもあったとか。


>こんばんは、Marsさん

西欧のモンスターは本当に冷酷というか、血生臭いですよね。
映画『ロード・オブ・ザ・リング』に、「一片の情けもかけるな、それに値しない連中だ」という台詞がありますが、怪物となると醜く冷酷非常の存在に描かれています。記事で紹介したインドの小説だと、まだ阿修羅の中には例外的に、教典を諳んじ人間と共存を願うキャラクターも出てきますが、それでも日本の妖怪とは桁違いの存在。

戦時中、中国は日本人を「東洋鬼子」と蔑称で呼びましたが、中国語の鬼は幽霊の意味です。一般に日本人なら幽霊より鬼(日本的な意味で)の方が恐ろしいですが、どうも感覚が違うようですね。日本より信仰心の薄い中国だと、鬼(悪魔)的な観念は稀薄なのかも。

一般にオカルトは非科学的とされてますが、科学的と称しオカルトを学問的に体系付ける似非学者も珍しくない。オカルト性がない宗教などないし、今叫ばれている地球温暖化も一種の宗教じみてます。
『God』と『神』は違う! (mobile)
2018-09-06 10:07:55
『God』はやはり、生命にとっては厳しい環境である不毛の砂漠が産んだものだ、と思う。
妥協を許さず『汝われ以外の神を信ずるべからず』と契約を迫るのである。その理由を『我は妬みの神にして』と明かすのである。
-------☆☆☆-------
対して温暖なモンスーン気候である東南アジアは生命に溢れている、ここでは神は様々な場所に宿り給うのである。多くの生命が共生しているこの地では神々も共生し、それぞれの活動を行う。あるものは水を管理し、あるものは竈の火を守り、あるものは病をもたらす、というふうに。
-------☆☆☆-------
こうした『神』が、西洋の『God』に比べれば非力なのは明らかである。唯一の絶対神なんてものは存在しないことを東南アジアでは生活の中から体感するのである。
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キリスト教者から「日本の『神』がキリスト教のそれと比べて、いかに不完全な存在であるか」と指摘されたとき、神官のひとりが、こう述べている。
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「『神』という言葉をキリスト教の『God』の訳語にしないで戴きたい。」
けだし名言というべきである。
Re:『God』と『神』は違う! (mugi)
2018-09-06 22:59:57
>mobile さん、

『Got』という観念は、やはり不毛の砂漠ならではの創造主でしょう。気候風土のまるで異なる日本や東南アジアでは生まれませんよね。ただ、西洋の『Got』もルーツは中東だし、西洋もかつては多神教でした。ギリシア・ローマの神々は日本の神に比べれば個性派ぞろいですが、唯一絶対神に比べれば弱い。

 コメントにある“キリスト教者”は日本人か外国人かは知りませんが、すべてお見通しのはずの『Got』も、結構確認行為をしている。信仰を試すため、アブラハムに一人息子の生贄を求めたのが典型。ま、妬む神だから、常に猜疑心に憑かれているのです。
 キリスト教布教のために耳触りの良い神を『Got』に訳すのは不愉快ですが、布教のためには手段を選ばないのがキリスト教者。

 日本に一神教は根付かない、という説に対し、一神教徒が反論として持ち出すのが東南アジアです。フィリピンやマレーシア、インドネシアは一神教国と。それ自体は否定できませんが、これらの国々は戒律はアバウトだし、欧米や中東からは逸脱していると陰では蔑まれています。