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マヌ法典 その二

2014-03-16 20:40:15 | 読書/インド史

その一の続き
マヌ法典』とは文字通り、世界の創造主ブラフマー(梵天)の息子で人類の祖マヌが、この世界に存在する全ての人間たちにとってのあるべき生き方(ダルマ)を説くかたちとなっている。話半ばで続きを聖仙(リシ)の1人であるブリグに託し、以降はブリグによって法典が語られるという形式が取られている。
 人としての正しい生き方が説かれているといえ、もっぱらバラモンのそれが記述されている。これに支配身分としての王(クシャトリア)の生き方が付け加えられ、ヴァイシャ及びシュードラに関しては、彼らの生業を中心に申し訳程度に言及されている。シュードラ以下のアウトカーストについての記述もあるが、彼らについてもあまり言及されていない。古代インドでも既に不可触民は存在しており、マヌ法典には次の記述が見られる。

10-51 チャンダーラ及びシュヴァパチャ(共に不可触民カースト)の住処は村の外である。彼らは「容器が遠ざけられる者」とされるべきである。彼らの財産は犬とロバである。
10-52 [彼らは]死人の衣服を衣服とし、壊れた器で食事し、黒鉄の装身具[を身に付け]、常に歩き回っているべし。
10-53 正しい生き方(ダルマ)を実行する者は、彼らとの協定を求めてはならない。[彼らの]取引は彼ら相互でなされ、結婚は同等の者と[なされるべし]。
10-54 彼らの食べ物は他の人々に依存するが、壊れた器に与えられるべきである。彼らは村であれ町であれ、夜に歩き回ってはならない。

 そしてシュードラに対しても、「食べ物の残り、古着、穀物の屑及び古道具が与えられるべし」(10-125)とあり、これだけでもマヌ法典におけるカースト思想が伺えよう。第十章では異なるカーストとの間に生まれた「雑種身分」についての詳細な分析と分類があり、彼らはバラモン、クシャトリア、ヴァイシャ、シュードラなど一連の4身分以下のアウトカーストなのだ。バラモンの娘とシュードラの男との間に生まれたのが、「人間の中で最低のチャンダーラ」となる。これほどまでに身分差別を体系づけ、正当化した法典も珍しいかもしれない。

 第11章における「罪の除去」は興味深い。罪を犯した場合の除去を諄々と説いており、罪人はその個別の除去によって清められるという。それぞれ特定の悪行により、「善き人々によって蔑視される白痴や唖者、盲人や聾者、奇形者が生まれる」(11-53)。「それ故に清めのために常に罪の除去がなされるべし。実に罪が除去されないと、非難される特相を持って生まれるからである」(11-54)
 インドに限らず古代世界では何処でも、奇形や難病は神罰と見なされていた。特にらい病は神の呪いと思われ、社会から排斥されていたのだ。もっとも現代人も不可解な難病に罹れば、日頃の悪行と関連付けたりするので、古代人を無知蒙昧と批判できない。

 マヌ法典ではヴェーダの復唱によって罪は清められると述べつつ、個別の罪への除去方が列記されている。罪への除去には儀式や苦行もあり、日常における罪の償いも様々書かれている。同じ殺人でも、シュードラ殺しはバラモン殺しの16分の1の罪と明記されているのもスゴイが、猫や猫イタチ、青カケス、蛙、犬、トカゲ、フクロウ、カラスを殺した場合もシュードラ殺しと罪は同等とある。
 罪の清めに牛乳やヨーグルトはともかく、牛尿や牛糞が使われるのは苦笑させられた。動物殺しをした時、「牛乳を3日間飲むべし」(11-133)と規定しているのも面白いが、牛に触れると罪が除去されると説いているのだ。アウトカーストの人間に接触すれば汚れだが、牛に触れば清められるというがインド式みそぎ。多くの人間に触られる羽目になった牛は迷惑だろうが。

 ちなみに渡瀬信之氏の解説によれば、少なくともダルマ文献においては罪を“償う”という観念は見当たらないそうだ。罪は汚れと同一視され、しかも重要なのはそれが実体視されるということなのだ。つまり、罪は汚れとして発生し、罪を犯した者に付着して汚染するのである。従って罪の清めとは実体である罪の汚れを取り除くことに他ならない。決して罪を“償う”ことではない、と渡瀬氏は言う。キリスト教的概念の「原罪」とは根本的に違っており、わが国のみそぎと比較するのも一興だろう。
その三に続く

◆関連記事:「穢れ、みそぎ―神道と他宗教との類似性

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