トーキング・マイノリティ

読書、歴史、映画の話を主に書き綴る電子随想

古代インドの不信仰者たち

2010-06-05 20:52:39 | 読書/インド史
 あらゆる宗教が発祥したと言われる所が世界にふたつあり、ひとつはパレスチナ、他はインドである。特に迷信深い古代なら世界各地で祭政一致が行われていた。神権政治を支えたのこそ聖職者たちだったが、文献からは必ずしも彼らが妄信の輩ではなく、宗教を醒めた目で見ていた者もいたことが分かる。その思想は現代にも通じるものがあり、古代人も宗教絶対主義ではなかったようだ。

ヒンドゥー教―インド3000年の生き方・考え方』(クシティ・モーハン・セーン著、講談社新書)という本がある。著者は「ヒンドゥー教に対して予備知識を持たない一般の読者」を対象に書いており、ヒンドゥー教の教義や歴史を紹介、コンパクトにまとめらて解説している。作者がインド人ヒンドゥー教徒ということもあり、手前味噌の面があるのは否めないが、半世紀近くも前に書かれた著書ながらも、この宗教になじみの薄い日本人には今なお分かりやすい入門書になるだろう。特に第12章の箇所は興味深く、以下はそこからの引用。

-インドではすでに前仏教期に純粋な唯物論者が存在した確証があり、その信奉者は当時から今日まで無数にいることも疑いない。順世派(ローカーヤタ)は知識の手段として推理を廃し、知覚のみを認める。実在するのは物質的四つの元素(地、水、日、風)のみであるとし、ちょうどいくつかの物質を混合すれば酩酊が生じるのと同様に、身体が元素の組み合わせで形成される際に、霊魂も生じると説く。そして身体が滅びる時、霊魂は再び無となる。彼らはヴェーダは怠惰な長広舌であり、語謬、内部矛盾、無用な繰り返し、という三つの欠点を持っていると主張した。
 順世派の開祖チャールヴァーカの警句の一つに有名なインドの諺になったものがある。「生きてる限り楽をせよ、借金をしてでも楽をせよ、死んでしまえば、もうそれっきりなのだから」というものである…

「この世をば どりゃお暇(いとま)に せん香の 煙とともに ハイ(灰)さようなら」(十返舎一九)と、既に江戸時代、こんな辞世の句を残した人物もいたが、それに通じるものを感じた。結局、霊魂の不滅性を信じない人は古今東西いたと解釈できる。一神教世界も公言こそ出来なかったにせよ、聖典を疑う者は必ずいたと私は推測している。
 著者セーンは続けて、「来世や再生といった観念を否定するこの思想は叙事詩の中にも見ることが出来る」といい、叙事詩『ラーマーヤナ』を引用する。『ラーマーヤナ』でジャーヴァーリと呼ばれるバラモンが、主人公ラーマに対し王権を放棄しないよう忠告する箇所だ。

-私には現世の快楽を見捨てて来世での至福を願って徳を積みながら、時ならぬ死に陥る人々が憐れでならない。私は他人のために悲しんだりはしない。人々は死んでしまった祖先への供物として毎年食物や貴重品を捧げているが、それは全く無駄に捨てるようなものだ。おお、ラーマよ、死者が一度だって供えられた食物を食べたためしがあるだろうか。
 また、もし一人の人が食べる事によって他の人も満腹になるのならば、旅行中の人々は食物の用意をする必要がないはずである。なぜなら家庭では家族が旅先の家族の者の名を呼びつつ、旅先の者とは何の関係もないバラモンに食物を供養しているではないか。

 おお、ラーマチャンドラよ、これらの教典の教えは人々を言葉巧みに寄進に誘い、他にも儲け口を探し出し、こうした素朴な人々を支配しようとする知恵に長けた連中によって作られたものである。彼らの教えは「供犠を行なえ、寄進せよ、わが身を清めよ、禁欲して苦行者となれ!」である。
 おお、ラーマよ、賢くなれ。この世のほかに来世などは存在しない。それは確かである。眼前のものを楽しみ、不快なものは放棄せよ。万人が受け入れられるこの原則を自分のものとし、バラタが捧げた王国を受け入れよ…
(アヨーディヤー編108)

 バラモンのジャーヴァーリが語ったことは意味深い。教典を書いたのもバラモンであり、その実態を知った上で忠告しているのだ。ヒンドゥー教に限らず一神教も含め他宗教も実情は同じであり、宗教が寄進と儲け口の手段となっているのは現代も同じである。
 ただ、順世派やジャーヴァーリのような意見を、一神教式見解からすればたちまち“不信仰者”“無宗教”扱いにされるだろう。私には古代から順世派のような主張があったのは面白いと思うし、共感を覚える。そして、このような“不信仰者”の存在を許した古代インド社会も多様性に富んでいたとなる。

よろしかったら、クリックお願いします
人気ブログランキングへ    にほんブログ村 歴史ブログへ


最新の画像もっと見る

10 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
政治家は来世は眼中になくとも現世で頑張れ (室長)
2010-06-06 09:52:23
mugiさん、またおじゃまします。
 この不信心者についての、ヒンドゥー教における歴史的な話しは、面白いです。親鸞が、或いは一休さんが、妻帯して、そのことで「煩悩」などという、下らないしがらみからはさっさとケリを付けて、次の段階の思索に到達するという奇策を用いたように、頭脳明晰な人々は古代から、悟りのための無駄な修行段階を省略していた、ということかも。

 民主党の党首交代劇も、菅直人を少し善意に解釈すれば、政治の神髄は政権奪取と心得て、長年苦労しつつも上り詰めた・・・・色々な新党を渡り歩いたり、小沢と手を組んだり、それも「妻帯」と同じく、次の段階に早駆けするための方便と考えていたとしたら、たいしたものかも。
 他方、来世もない、極楽もないというニヒリズムなら、政治の世界での頂点を目指しても、何の意味もないわけで、それこそ、現世の快楽に没頭するだけとなるでしょうけど、政治家達は自らが理想と考える「日本国のあるべき姿」に向けて、何らかの役割を演じ、良くしようと考えて、わざわざ苦難の道を歩んでいるとするなら、やはり少しは応援してやりたくもなる。

 日本の政治家達は、欧米のように、エネルギー満々の40代とか、50代前半とかに政権を取らせて貰えないので、気の毒という気もする。その上、国民も早々と見切りを付けて、次の指導者を欲するというように、気が短い側面もある。とはいえ、鳩山は、余りにもお粗末でした。菅直人新総理には、より老練で、しぶとく、バランス感覚に満ちた政治をして欲しいものです。
 
 財政立て直しは、待ったなしの状況です。民意迎合の政治家が多すぎたのです。欧州並みの重税が必要なのに、日本国民は何時までも、高度成長期の「軽税国」+「高福祉」という、あり得ない幻想にすがったままです。脳天気すぎる。放置すれば、インフレがひどくなり、経済が壊滅します。
返信する
RE:政治家は来世は眼中になくとも現世で頑張れ (mugi)
2010-06-06 20:28:06
>室長さん、

 ラーマに忠告したバラモンも、結局王室と関係のある人物ですから、父王の追放の命に従うなと…と言っているのです。ラーマはそれを拒み、己のダルマ(義務)を忠実に守ろうとし、自らの王国を宿敵から守り、役割を果たすことに精進したため、理想的君主とされています。脚色もかなりあるにせよ、おそらくインド人が君主としてのあるべき姿を理想化して描いた人物だと思います。

 仰るように来世もない、極楽もないというならばニヒリズムに陥り、現世の快楽だけを重視するか、世捨て人になる他ありません。インドには出家者というかたちの世捨て人は今なお多く、聖人と見られる人もいますが、結局は出家者を養ってくれる人々や社会基盤があるため、世捨て人がやれるのでしょうね。現世利益のため信仰心のあるフリ、といったコメンターさんもいます。

 鳩山前首相は辞任会見さえお粗末でした。「私たち政権与党のしっかりとした仕事が必ずしも国民のみなさんの心に映っていません。国民のみなさんが徐々に徐々に聞く耳を持たなくなってきてしまった。そのことは残念でなりませんし、まさにそれは私の不徳のいたすところ…」
 政権与党がしっかりとした仕事をするのは当たり前の義務なのに、お坊ちゃんの甘え丸出し。新首相については色々批判もありますし、私も菅氏で大丈夫なのか、いささか疑問視しています。しかし首相に就任した以上、しっかりとした政治をしてもらわねば困るのは国民なのです。

 民主主義体制となれば、やはり民意迎合の政治家が票を集めやすい。国民の気が短いのは民族性もありますが、私はマスコミにかなり問題があると考えています。しかも、報道に関しては煽るだけ煽って全く責任を負わないし、財政立て直しのような問題を無視する。いつまでも経済大国の過去にすがり、「弱者救済」のような憐憫をかき立て、放漫財政を続けさせようとする。これではメディアを見るほど、能天気になりますよね。TVは脳天気国民を作るのに尽力しているようです。
返信する
素朴な疑問 (スポンジ頭)
2010-06-06 20:43:51
 古代に徹底した無神論者がいたのは本当に面白いと思います。ただ、これを突き詰めると倫理もなくなり社会が無秩序となるのですが、この辺りはどう考えられていたのでしょうか。
返信する
RE:素朴な疑問 (mugi)
2010-06-07 21:08:24
>スポンジ頭さん、

 私も古代インドに既に徹底した無神論者がいたのは驚いたし、六師外道と呼ばれる宗派には道徳否定論者までいました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E5%B8%AB%E5%A4%96%E9%81%93

 ただし、有神論者や道徳順守派が多数派だったので、社会が無秩序とはなりませんでした。順世派の教祖も楽しみには悲しみがつきもので、それはある程度覚悟しなければならないと考えており、悲しみを恐れて喜びから退いてはならず、たまに訪れる悲しみもまた、現世での幸福のためには喜んで受け入れることも必要だと説いていたそうです。
返信する
Unknown (スポンジ頭)
2010-06-08 22:09:05
>>mugiさん
ご回答ありがとうございます。

>>有神論者や道徳順守派が多数派だったので
 徹底した無神論はさすがに受け入れられなかったのですね。順世派の教祖の発言ですと、あらゆる事態を平静な心持ちで受け入れる精神の強さが求められているように思えます。
 しかし、インド人は古代から哲学的な思考を本当に好みますね(だから頭でっかちと言う批評もありますが…)。
返信する
スポンジ頭さんへ (mugi)
2010-06-09 21:56:17
 汎神論の一方、徹底した無神論が存在するのがインドの面白い特徴だと思います。道徳否定論者といえど、反社会的な犯罪者ではなく理論を説いていたのだから、ある意味“道徳的”です。

 インドとギリシャは古代から哲学思想が発達しただけでなく、自己主張の強さ、論争を好む点などかなり似ていますね。その分、観念に走りがちで、空理空論にふけることも。
返信する
インド、いいですね (スムージー)
2012-05-29 23:39:57
とあるきっかけで、インド神話を調べまくって(もちろんヒンドゥー教も)はまったことがあるので、このように書いて下さっているのは、大変嬉しいです。インド記事大好きです!
それから六師外道についても・・・。確かにブッダは無神論者ですよね。
きっとインドの風土が宗教や哲学を発展させたのでしょう。

別記事で王舎城の悲劇についてもお書きになっていたので、拝読しました。
感無量寿経は、経典の中で上位に好きなものなのでじっくり読ませて頂きました。
私にはなかった視点でお書きになっていて、とても参考になりました。

まとめてのコメントで申し訳ありません。
返信する
RE:インド、いいですね (mugi)
2012-05-30 22:01:20

>スムージーさん、

 拙ブログでも受けの悪いインド関連記事を読まれて頂き、有難うございました!

 昔はインドを敬遠していました(笑)。近代インドといえばM・ガンディーのイメージが強く、聖人すぎて面白みがありませんでしたが、このような人物はインドでも稀だったことを後に知りました。本当にインド神話は面白さが尽きませんね。インド関連書物は日本では出版数さえ少ない(嘆)。

 古代からインドでは無神論者が認められ、活動していたのは興味深いです。これが西欧なら古代ギリシア・ローマ時代は別ですが、キリスト教以降なら「異端」は存在さえ認められません。少数でもインドにもユダヤ人はいるし、例外的に彼らが迫害されたこともありますが、ザビエルのように西欧から来たクリスチャンによってでした。

 聖書と同じく感無量寿経のような仏典も後世の信者が編集したものですが、聖書にも父子が戦う話があるのだから、昔から王族の争いは陰惨です。
返信する
Unknown (牛蒡剣)
2019-08-21 21:37:11
>おお、ラーマチャンドラよ、これらの教典の教えは人々を言葉巧みに寄進に誘い、他にも儲け口を探し出し、こうした素朴な人々を支配しようとする知恵に長けた連中によって作られたものである。彼らの教えは「供犠を行なえ、寄進せよ、わが身を清めよ、禁欲して苦行者となれ!」である。

もうぶっちゃけすぎです。w自分の商売あがったりな発言に驚愕www

2chのコぺピ「信じる者は救われる。足元をな!」を思い出しましたw

とはいっても人は弱いもの。わかっちゃいても縋りたいのも人情。宗教はまさしくアヘン。心の痛み止めですがに飲み過ぎて中毒の危険もあり。
なかなか上手くいかないものですね。
返信する
牛蒡剣さんへ (mugi)
2019-08-22 21:49:11
 バラモンが自ら手口をばらしているのだから、もう笑う他ありません。ある意味良心的ですが、信者と書いて「儲」となるのだから、宗教教典は詐欺マニュアルとなります。

 苦しい時の神頼みのことわざ通り、困窮や災害に遭わない人は神頼みをしない傾向があります。宗教が貧者ビジネスと言われるゆえんですが、何不自由なく暮らせても悩みは尽きないので、宗教に縋りたい人が絶えません。
返信する