その①、その②の続き
セーヴル条約とはトルコ抹殺宣言に等しく、条約で制定された領土分割は事実上、オスマン帝国崩壊の最後の一撃となった。同時に条約はトルコ人の間に強い民族主義感情を湧き立たせることになり、ムスタファ・ケマル率いるアンカラ政府軍がトルコ独立戦争を引き起こす。
この独立戦争が、いかに激しく苦しいものだったのかは、日本でも翻訳されたトルコのベストセラー小説『トルコ狂乱』に描かれている。帝都イスタンブルでは独立戦争に参加せず、戦勝国占領軍に積極的に協力した支配層や知識人が多かったのは、敗戦後の何処ぞの国と酷似していて興味深い。
第一次世界大戦後、それまでオスマン帝国支配下にあった少数民族や宗派が台頭し、そこに近隣諸国や域外の大国も結び付き、現地の諸勢力を利用した影響力を拡大を目指すようになる。セーブル条約はそのような動きの中で結ばれた条約だった。
セーブル条約はサイクス=ピコ協定とは対照的に、現地の諸勢力の意向をより反映したものではあった。フランスのセーブルで結ばれたこの条約は、オスマン帝国の主要部を、現地の多様な諸勢力が実力行使により分割するのを、列強が追認するという性質のものだった。列強はそれぞれに現地の同盟勢力と結び、代理戦争を戦わせ、影響力の拡大を競う。
地図を見れば一目瞭然だが、セーブル条約は現地の諸勢力の勢力分布をそれなりに忠実に反映している。にも拘らず、3年も経ずにこの条約は全く原理の異なるローザンヌ条約に置き換えられた。
サイクス=ピコ協定の、外部の大国が中東の実情に合わぬ恣意的な国境線を引いたことが問題ならば、セーブル条約はより妥当な解決策として受け入れらるはずだった。しかし、そうはならなかったのだから、中東の実情に合った国境線を引くこと自体、不可能事にちかいといえよう。
その最大の要因は、条約で切り取られた諸民族の区画はあまりに細分化され、経済的にも政治的にも、さらに軍事的にも自立が困難な事情にあった。列強の保護下でも、名目上の存在を確保することさえおぼつかなかった有様。後ろ盾となる列強諸国の内政事情や世論の変化、列強諸国間の相互の勢力均衡の移り変わり、外交的関係の変化次第で消滅してしまうような不確かなものだった。
さらに細分化された、パッチワークのような領土でさえ、単一の民族が居住する均質な空間ではなく、ギリシア人、アルメニア人、クルド人のみならず、トルコ人やアラブ人、アッシリア人やラズ人といった、言語や宗教を異にする様々な民族が入れ子状に居住する複合的な場でもあったのだ。
アルメニア人は近年日本でも虐殺事件で知られるようになってきたが、アッシリア人(キリスト教徒)やラズ人(ムスリム)となれば、余程の中東通でもない限り、知られざる民族だろう。私もラズ人のことはこの選書で初めて知ったが、トルコ研究家の故・大島直政氏が言った通り、まさに中東は宗教のデパートだと改めて知った。
アンカラ政府軍の台頭による現状の変更を受け、列強はアンカラ政府を承認、ローザンヌ(スイス)に招く。アンカラ政府は帝都にいるオスマン帝国スルタンを廃止し、名目上のカリフの地位につける。アンカラ政府が国民を代表して1923年7月に締結したローザンヌ条約は、現代のトルコ共和国の領土と国境をほぼ確定している。
こうしてアナトリア全域を制圧したトルコ共和国で、少数民族はトルコ国民として同化するか、または国外に移住していった。
トルコと対照的だったのが、シリアやパレスチナ、イラク、アラビア半島につながる、アラブ人が多数を占める地域。サイクス=ピコ協定の区画でアラブ人が多数を占める領域は、英仏の支配下に入ることでトルコから切り離され、複数の国家として独立・主権を獲得していく。ここでも民族主義が高揚する一方、少数民族や少数宗派は多数派のアラブ人に表面上同化するか、移民として流出する。
アラブ人が国家として独立・主権を獲得していったといえ、これまた苦難の道のりだったのは書くまでもない。『イスラーム世界の二千年』(バーナード・ルイス著、草思社)には興味深いエピソードが見える。中東統治の難しさに根を上げたチャーチルは、「こんなことならば、トルコにそっくり領土を返せばよかった」とぼやいたという。ルイスはトルコの方でも、今さら領土引き取りを拒むだろう、と皮肉げに述べていた。
その④に続く
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