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サイクス=ピコ協定 百年の呪縛 その②

2016-11-30 22:10:07 | 読書/ノンフィクション

その①の続き
 サイクス=ピコ協定に対する批判は主に2種類がある。ひとつは、「サイクス=ピコ協定は外部の大国による恣意的な線引きであって、現地の民族・宗教・宗派の分布に合っていない」というもの。21世紀でも宗教や宗派、民族、部族などで争い合うイラクやシリアを見れば、この批判は妥当なものに思えるのは無理もない。
 では現地の民族・宗教・宗派に合致するように国境線を引き直せば、問題は解決するだろうか?そもそもそのような正しい線引きとは可能なのだろうか。少しでも現地を知る人であれば、それは不可能と言うだろう、と著者は述べている。

 そのあからさまな例として、著者はイラクとシリアにおける「イスラム国」(以下ISIL)を挙げる。2014年、シリアとイラクの国境を横断する領域を実効支配したISILは、サイクス=ピコ協定を乗り越えると主張、宣伝映像でこれ見よがしに国境の遮蔽物を破壊して見せた。しかし、ISILの支配下ではキリスト教徒やヤズィーディー教徒のような非ムスリムを虐殺・奴隷化するなど、極端な宗派コミュニティ間対立を返って引き起こしていることは、中東に無関心な日本人でも聞いているだろう。
 実際にはイラクやシリアでは諸民族や宗教・宗派集団が混在しており、どのような線引きをしても少数派の問題が生じるという。現地の実情に合った妥当な国境線を線引きをするためには、その前にまず大規模な住民の人口移動を生じさせる必要があり、それは言葉を替えれば「民族浄化」ということに他ならない、と著者は云う。
 現実に住民構成がモザイク状に組み込んでいる地域について、「民族・宗教・宗派に合わせて線引きせよ」と主張することは、極端に細分化された、国家としての存在が非現実的になるほどに小規模の諸民族の国家を無数に独立させよと主張するに等しい、と。

 サイクス=ピコ協定へのもうひとつの批判は、「そもそも線引きをすべきでなかった」がある。だが協定の線引きを取り消すのは、歴史の巻き戻しという不可能事を求めると同じなのだ。サイクス=ピコ協定の線引きを取り消すという選択肢は思考実験にしかなり得ず、その場合も明るい展望は描けないようだ。

 ISILに限らずアラブ諸国は、現代にまで至る中東の混乱をサイクス=ピコ協定に求め、糾弾し続けているが、初版が1981年9月の『イスラムからの発想』(大島直政著、講談社現代新書629)には、興味深い個所があるので引用したい。
ちなみに、あまりわが国のマスコミは注目していないが、いわゆる中東で、隣国の領土の一部を、本来は自国のものだと主張していない国は皆無といってよい。中東の国境の大半は西欧列強が定めたものだが、その責任を追及するより、隣国の強欲を非難し合うことに中東諸国は熱心なのである。イスラムの大同団結など、事実上、夢のまた夢にすぎない…」(138頁)

 サイクス=ピコ協定が、その後の中東に大きな影響を与えた合意文章であったことは間違いない。しかし、サイクス=ピコ協定はそのまま実現されなかったという重要な事実は、意外に知られていない。第一次世界大戦中に結ばれたサイクス=ピコ協定は、戦後に締結された2つの条約により大きく修正されているのだ。
 つまり、サイクス=ピコ協定の受け入れを拒む諸勢力が台頭、それら勢力の実力をもってする現状変更を受けて2つの条約が結ばれ、その結果として近代の中東の諸国家システムが出来上がっていく。

 その2つの条約とは、セーヴル条約(1920年)とローザンヌ条約(1923年)。理解の程度はともかく、サイクス=ピコ協定がよく知られ、頻繁に言及されるのに比べ、セーヴル条約とローザンヌ条約は余程の歴史好き、中東通以外には殆ど知られていないだろう……と著者は述べている。
 しかしサイクス=ピコ協定は、セーブル条約及びローザンヌ条約をセットにすることで、その意義と限界がより明らかになるというのだ。この3つの協定と条約をひとまとまりのものとして理解することにより、中東の国家と国際秩序を形成するという課題が、いかに大きく困難であるかが見えてくる、と。

 セーブル条約とローザンヌ条約なら、一応私は知っていたが、サイクス=ピコ協定は単独で見るよりも、これら2つの条約をセットで理解した方がいいだろう…という著者の見識には目からウロコの思いにさせられた。さすが中東研究者の第一人者は、ものの見方のレベルが全く違うと感服する。
その③に続く

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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
ヤルタ協定? (motton)
2016-12-01 16:06:15
ヤルタ協定とサンフランシスコ平和条約みたいなものですね。(というか、ドイツと組んだ同盟国の分割という意味でそっくり。)
分割された側のトルコや日本は条約にのみ従っており(協定は無効だから帝国領土を復活せよなんて言わない)、秘密協定は歴史的意味しかありません。

それに、アラブ諸国といったって、近代的な国民国家なのってあります?
トルコ、イスラエル、イランは国民国家ですが、非アラブですしね。
あの地域は、小規模な諸民族の国家(というか部族)が無数に独立している状態が自然なんでしょう。

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Re:ヤルタ協定? (mugi)
2016-12-02 21:23:47
>motton さん、

 貴方のコメントで初めてサイクス=ピコ協定とヤルタ協定、ローザンヌ条約とサンフランシスコ平和条約の類似性に気付きました。本当に似ていますよね。条約に至った経緯は日土では全く異なりますが、作者はこうも言っていました。
「サイクス=ピコ協定で英・仏・露が描いた中東秩序の将来像は、かなりの部分が画餅に帰してしまった」

 トルコやイランも実態は多民族国家ですが、アラブは国民国家にさえなっていません。かろうじてエジプトはそれに近いですが、アラブ諸国で地域主義や部族集団が蔓延る原因も、「全て4世紀支配したトルコが悪い!」で済ませたがります。
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