その一、その二の続き
制海権も奪われてしまったという前回の記事を見て、何故トルコは欧州諸国から進んだ軍艦技術を学ばなかったのか?と思われた方もいるだろう。地理的にも近いのに。しかし、それが難事だったのだ。これも全てイスラムがネックになっていた。
蒸気エンジンの軍艦導入についても、まずそれがシャリーア(イスラム聖法)に違反しないかどうか議論される。蒸気軍艦の場合でも、聖職者会議でかろうじて合法とされる有様。電気に関しては聖法違反とされた。稲妻に似たモノを人間が作ることは、神を恐れぬ行為と見なされたのが理由らしい。そのためか、オスマン朝末期の蒸気エンジンの技師の大半はアルメニア人かギリシア人のようなキリスト教徒が殆どだったという。写真も偶像崇拝に当たり本来は聖法違反のはずだが、不満分子を監視する密偵の活動に役立つため、強引に合法としたのが独裁者として悪名高い第34代皇帝アブデュルハミト2世(在位1876-1909年)だった。
もう十年近くも前だったか記憶も曖昧だが、日本の商社がサウジ当局から砂漠の緑化計画のため、海水を真水に変える技術導入で相談を受けたことがあった。もちろん技術面では問題はなかったが、それに待ったをかけたのがサウジの宗教省だった。これもシャリーアに違反するというのが理由である。一般日本人から見れば馬鹿げているが、それが聖地を管理する国の原則なのだ。
21世紀でもこの有様なら、オスマン朝末期なら推して知るべしだろう。西欧式の銃や大砲の製造に関しても、聖法違反とする宗教勢力の反対があった程だ。その反対理由は、要するに異教徒の発明品だからということに他ならない。異教徒が発明した武器を持った軍隊や、異教の国に留学した将校の率いる軍に神が援助をなさるはずがない、とまで主張した神学者までいたのだ。
トルコと好対照だったのが幕末の日本だった。最も攘夷にとり憑かれた長州藩でさえ、“夷狄”と戦うため“夷狄”の武器を利用するのに抵抗感を持たなかった。長州藩は異国軍艦と戦うためオランダ語の学者を招き、オランダ式砲台を造っている。徳川幕府も内心は“毛唐”を 恐れ嫌いつつ、フランス将校に軍事革新を頼んでいる。
倒幕佐幕問わず幕末の日本人には、蒸気船をつくるという行為が神道や仏教に違反するという意識はなかったのだ。攘夷志士たちにせよ、“皇国”が黒船を持つなど神州の穢れと思った者は稀だったはず。当時から日本では技術と宗教は無関係だったのである。それが日本と トルコの明暗を分けたのだ。
欧米列強の治外法権に苦しんだのは日本やトルコも同じだが、そのきっかけはかなり異なっている。砲艦外交に屈し開国した日本はそれを認めざるを得なかったが、汚らわしい“毛唐”を神聖なる白州の場で裁きたくなかったという心理も皆無だった訳ではない。対照的にトルコは全盛期に治外法権を認めるような決定を下したのだ。
最盛期の皇帝で大帝とも呼ばれるスレイマン1世(在位1520-66年)は、1536年、フランスに対し初の「カピチュレーション」の勅令を出し、皇帝の没後もイギリスやオランダにも同様の特権が与えられた。後にこの特権も勅令を発布した皇帝一代限りではなく、以降もオスマン帝国側に履行の義務が課せられた。
「カピチュレーション」とは外国人保護法でもあり、帝国内の外国人(主に欧州人)に対し領事の駐在と自国法による裁判権、通商の自由、資産所有権、航海の安全を保障していた。わざわざ治外法権を認めた条約でもあったが、当時のオスマン朝は欧州との通商を望んでおり、そのために領土内の欧州人を保護する必要があったことによる。つまり、野蛮な“不信仰者”への恩典のつもりであったのだ。
だが、国力の充実していた大帝の時代はともかく、後世になると「カピチュレーション」は“保護”から“治外法権”に様変わりし、中世的親善を目的としたこの法令を、近代化された西欧側は都合よく乱用、オスマン帝国を締め上げていった。
「英国とムガル皇帝 その二」の記事でも書いたが、興味深いことにムガル朝皇帝アウラングゼーブ(在位1658-1707年)も、背いた 英国東インド会社を追放するどころか、賠償金15万ルピーと引き換えに再び交易を許可する特権を与えている。アウラングゼーブもまた、会社との海外交易はインドの職人や商人の恩恵となり、ひいては国家の財政を潤すと考えたのだ。世界史を学んでいる現代の日本人学生なら、 この会社がまもなくムガル帝国の重大な脅威になったのを知っているだろう。
その四に続く
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初めてコメントをします。
オスマントルコ海軍の近代化が遅れたのは、シャリーアが障害になっただけではないと思います。
ギリシャの独立によって海兵が激減したからだと学生の頃に大学の講義で聴いた記憶があります。
アブドュルハミト二世は金角湾に大艦隊を停泊させたままにし、甲板を洗濯物の物干しに使っていたと徳富蘇峰が書き記しているそうです。
卒業してから中東史には親しんでいませんので、記憶違いかもしれませんが。
初めての書き込みで緊張してしまったようです。
聖地巡礼の帰りにイスタンブールに寄ったのは、弟の徳富蘆花でした。
申し訳ありません。
また、海軍が弱くなったのはギリシャ正教徒の海兵要員が独立によって確保できなくなったからとも説明されていた気がします。
イスラム教の神官達による解釈で、近代兵器を採用できるかどうか、と言う議論がなされ、これがオスマン朝の軍事力近代化、向上にも悪影響を与えていたとは、宗教視点が欠ける小生には思いもよらないことです。
また、カピチュレーションが、オスマン朝初期に導入されていたことも、余り小生の念頭にはなかった。まあ、一種のミッレト制を外国人に適用したというか、通商を重視するイスラム国家としての考え方から生じたこの制度が、治外法権という、先進国有利な制度として列強により東洋にも適用され、明治の日本を苦しめる制度となった、そういう根源だったとすると、トルコも結構日本にもデメリットをもたらした側面もある、といえそうです。歴史の皮肉というか。
初めまして。コメントを有難うございました。
あなたの仰る通り、オスマン帝国海軍の近代化が遅れたのは単にシャリーアだけが原因ではなく、複合的な問題が絡んでいたと思います。既に18世紀後半、ロシア南下に対抗、神学者たちの反対を押さえ、宗教と無関係の軍事技術学校を開設し、フランス人を教官に招いたこともある。
しかし、これも上手くいきませんでした。やはりイスラム体制そのものに問題があり、知識人もシャリーアに背いた改革は避けねばならない、と主張していた。
元からトルコは陸軍国家であり、海軍は帝国内のギリシア人やイスラムに改宗した元キリスト教徒も少なくなかった。地中海を荒らしまわったイスラム海賊にも異教からの改宗者がいたほど。トルコを訪れた日本人作家も、陸軍博物館と対照的に海軍博物館は貧弱だったことを書いていました。
シャリーアの件は参考例として引用したまでです。そしてあなたは、オスマン海軍弱体化をギリシア独立による海兵確保の困難に求めていますが、これもギリシア独立だけが原因ではないはず。トルコは1774年の対露戦争で敗北、黒海北岸を失っていますが、ギリシア独立戦争はその半世紀ちかく後です。
徳富蘆花が書き記したエピソードは私も聞いています。エルトゥールル号遭難事件も、帝国海軍弱体化による悲劇でした。
中世欧州も似た様なものでしたし、とかく聖職者による勝手な解釈により科学面が大幅に遅れ、暗黒時代を招いています。陣痛を和らげる薬草を使う産婆は魔女扱いですし、異端者は虐殺されました。
スレイマン大帝もまさか異教徒への“恩恵”でだしたカピチュレーションが、後に大変な禍となるとは予想もしていなかったでしょう。ムガル朝のアウラングゼーブは帝国を傾けた支配者として、イスラム主義者以外には評価は芳しくありませんが、彼もまた交易を重視していたのは興味深いです。貴方の仰る通り、トルコのカピチュレーションは日本にも間接的に悪影響を与える原因になりました。対照的に中国王朝は海禁政策をとり、これは日本の鎖国に大きな影響を与えています。
以前の記事にも書きましたが、「ワクフ」というイスラム社会特有のシステムが脱税にも利用され、帝国の財政赤字に拍車をかけました。イスラムに限らず聖職者ほど言動不一致で、欲たかりの人種もいないのかもしれません。
http://blog.goo.ne.jp/mugi411/e/eeb4f7a538f99b2bdb412ee00d0cacce