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アジア主義の悲劇 その③

2009-11-01 20:20:46 | 読書/日本史

その①その②の続き
 もちろん、日本の大陸進出と白人の支配する世界への反発は戦略的には誤っており、戦前、知日家として知られた駐日米国大使ジョセフ・グルーはそれを認識、指摘していた1人だった。彼は日本が破局に至る十年間、大使を務め、衝突を避けるべく尽力する。「日本が外国の圧力に屈服するより…国家的ハラキリ」をする危険性がある、と本国政府に連絡もしていた。グルーの努力は不幸にして実らなかったが、彼は日本への親愛を持ち続け、戦後、日本から若者を留学させるべく、私財を投じてグルー基金を作った。そんな人物が書き続けた日記での日本及び日本人への批評は興味深いものがある。

 その中でグルーは「圧倒的に多くの日本人が中国を日本だけの市場、日本だけの経済、工業の行楽地にしようと意図している」と観察した後、続けて記す。「この人たちは経済法則の実際的運用をまるで理解せず、外国の協力と外国の資本がなければ、日本は中国が提供する巨大な商工業の潜在力を、再建することも開発することも出来ないという事実が感知し得ないのである。いずれはこのことが判って、損をし、悲しむことだろう」(1938年12月5日)

 グルーの指摘を当時の日本人が分からなかった直接の原因を、高坂正堯は「何と尊大な説教をするのか」といった英米への反発と見ている。それが現れているのは満州事変後、日本で流行った議論で、アメリカがパナマという戦略的要衝を支配下に置いたのと、日本の満州をそうしたのとは同じようなものであり、何処が違うのかという言説だった。特に日本国内で、これは実に強力となった。
 パナマについてグルーは、パナマ運河をアメリカが管理することになった時、それを阻止すべき国際的公約は何も存在しなかったと片付けており、何と勝手な理論だと日本人は思ったそうだ。インド初代首相ネルーは「(国際)連盟というものは大国に対する苦情には、見ざる、聞かざるで押し通すに決まっているのだ」という言葉を遺しているが、大国の横暴は戦後も変わりない。

 グルーが中国大陸における日本の悲観的な見解を書いた頃、首相は近衛文麿だった。前年近衛が首相就任したひと月後、盧溝橋事件が勃発、彼は戦火の拡大を阻止できなかった。2度目に首相になった時も日米関係を修復できず、首相の職を投げ出した公家政治家でもある。
 その近衛は大正7(1918)年、雑誌『日本及日本人』に論文「英米本位の平和主義を排す」を執筆しており、その中で彼は国民生存権の平等が国際正義の実現であるとし、英米のみに有利な状況にある国際システムで不平等な状態に置かれた日本が、このシステムの変更を要求すべきであると主張した。また、西洋白人による人種差別を改めよとも述べている。

 論文の内容としては結構なものだが、その問題点は近衛の主張が具体的な政策と結びつき難いところに求められる、と高坂氏は言う。英米の批判としては正しいものを多く含み、西洋、特に英米に対抗することは必要であっても、それだけでよりよい国際システムが作れる訳ではないから。どのような秩序をどのようにして作るべきなのか、より具体的に言えば、国際社会における平等とは何なのか、また、西洋に対抗するものは何か?それを東洋とすれば判る様な気分になるが、東洋とは実に捉え難いものなのだ。ちなみに近衛の父・篤麿は、アジア主義の盟主として活躍した人物でもある。

 高坂氏はコラム「アジア主義はなぜ生まれたのか」の冒頭で、以下のように書いている。
建設的で具体的なプログラムを提示することなく、専ら感情を高める思想ほど危険なものはない。戦前の日本におけるアジア主義とはそのようなものだった。アジアという言葉はあっても、そうしたグループはある訳ではない。大体、何処から何処までがアジアなのかもハッキリしない。しかし、それは戦前の日本では強かった。それは先に触れた日本人の誇りの所産であり、西洋に対抗するという使命感がアジア主義を生み出したのである。

 その結果、アジアはひとつであり、日本がその盟主であるという考えが知的検討抜きに定着してしまった。日本が中国を指導するのは歴史的使命であり、その考えを受け入れない“抗日”の蒋介石を懲らしめるのも当然ということになった。そして、最後にはその使命を遂行するのを妨害するアメリカと戦うことになった。その連関は論理的にはあやしいものだが、心情論理的には疑いえないものであった。今日、中東地方で「アラブの大義」といった言葉を政治家が用い、大衆が酔う状況を思い起こしてもらえば、戦前の日本の状況も理解できるだろう…
その④に続く

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