マッチョ礼賛、暴力、男同士の友情を描いた迫力満点のバイオレンス映画を、若くて美しいドイツ人の女性新人監督が作った。
リアリティのある美しい映像、説得力のあるスピーディーな展開。暴力について、深く考えさせられる秀作である。
フーリガン
私はサッカー観戦が大好き。だから、フーリガンにも興味津々。
Jリーグ開幕直前の1993年3月、仕事で女子サッカーの有力チームの取材をした。
そのチームには強豪国のアメリカから助っ人が何人か来ていた。
予想を超える激しい練習・・・。ミニゲームは真剣そのもので、まさに格闘技だった。
監督は、東京大学男子チームの監督から転身した人。
彼からサッカーの面白さを徹底的に教わった。
野球と違って選手は管理されにくいこと。
足という非日常的な身体ツールを駆使して 、華麗な勝負の世界を創出すること・・・ 。
以来、野球フアンからサッカーフリークへ、 私も鮮やかな転身をした。
フーリガンは 、サッカーの歴史とも関係が深い。
近代以前から英国では、祭の場でイベントとしてストリートフットボールが行われ、人々は、時には死者も出るほどの暴力行為を楽しんでいた。
19世紀に入って、このイベントに国家権力が介入し、暴力を制御する機能とルールを導入。パブリックスクールに通うエリートたちの、ストレス解消策スポーツとして発展した。
祭は、ガス抜き装置としての暴力を社会が容認する場。つまり、サッカーは、「初めに暴力ありき」だったのだ。
本作は、暴力を肯定する内容ではないが、誰もが内に秘めている”暴力性”を描いている。そのため、登場するフーリガンにシンパシーを感じそうになる危うさがある。
映画では、 昼間は教師やサラリーマンとして普通に働いている市民が 、夜になると流行のファッションで身を包み、パブでたむろする。ビールをひっかけて、家族や自分の命より大切な仲間意識を確かめ合い、試合前から暴力行為に繰り出す。
サッカーの応援というよりは、仲間との一体感のなかで自由を謳歌し、死と隣り合わせの興奮を味わう祝祭である。
フーリガンは、労働者階級や移民が多いのではといわれているが、「右翼的、人種差別、対外排斥」といった保守的な傾向から、エリート層やホワイトカラーの間にも強く根付いているようだ。本作でも、仲間の一人が「俺達はよそ者が嫌いだ」と言い、排他的な面をみせている。
さらに、ここでは、ホモソーシャリテイ(同性社会集団)が成立している。ホモソーシャリテイとは、異性愛男性の友情・同胞愛によって支えられた連帯関係。女性と、男性の同性愛者は排除され、父権制社会と結びついている。
本作では、女性の登場人物は主人公の姉ただ一人。彼女を通して明確な暴力への批判がなされるが、一人では彼らの集団に太刀打ちできず、弟とともに故郷の米国に逃げ出してしまう。
主人公は米国人で、3年前に母を亡くし、父とも疎遠だ。姉は英国人と結婚し、ロンドンに住んでいる。孤独な彼は人生も投げやり。友人にはめられたのに追求もせず、米国の名門大学を卒業2カ月前に退学させられる。
アイデンティティを失くした彼は、姉を訪ねてロンドンへ。元フーリガンのボスだった義兄、現ボスの義弟と出会い、暴力の快感に目覚め、自己の存在証明を取り戻す。
最終的に、主人公は暴力なしで目的を果たすが、姉は夫を暴力で失うという、大きな犠牲を払うことになる。
義兄は10年前に、暴力行為で死者を出したため、ボスの座を譲り引退していた。しかし、「自分に新しい人生を教えてくれた」と、主人公の姉に感謝しつつも、フーリガンに戻りたいと心が揺らぐ。暴力の快楽が身体に染み付いているからだ。
人にはなぜ、暴力が必要なのか。
言語を使う動物である人間は、生まれながらにして暴力的な存在である。命名行為も、共同体の差異のシステムの中に書き込まれたもの。その人固有のアイデンティティや人格の純粋さはみごとに抹消されている。これを「原暴力」という。
命名以外でも、例えばある子を「可愛い」と言ったとしてても、その子固有の可愛さを言い表したことにはならないのだ。
それを踏まえたうえで、フーリガンは何故なくならないのかを考察してみよう。
①日々の生活の中で、精神的な「 ハレ」と「ケ」の時間・空間が必要 。
管理社会の中で働いている人々にとって、オンタイムは「ケ」であり、自由で好きなことができるオフタイムは「ハレ」。
パーッと気分を切り替えるには、強烈な祝祭空間が必要である。
② 身体的にも自己を確認する場が必要。
社会の中で歯車化している身体を解放し、自己確認するには、痛みを伴う(相手と格闘する)=暴力の快楽が必要。
③誰かに認められたい=アイデンティティの確立
お互いに仲間として認められることで、自己の存在証明を獲得する。
メディアにアピールすることで、社会から注目される。
④対抗文化として存在する。
警察に代表される国家権力に対抗する文化として訴求。
1960年代~70年代にかけて流行したヒッピー文化のような存在。
本作中のフーリガンも、「イギリスは世界一の監視国家だ」と、街中の監視カメラの多さを批判し、フードで顔を隠して暴力行為をする。
警察が取り締まりを強化すればするほど、抵抗することが面白くなるという悪循環・・・。
昨今、フーリガンの存在が、目立つようになったが、1960年代まではマスコミがとりあげなかった。メディアに登場するようになって、ある種の英雄として有名人になれるという側面は、フーリガンの拡大化を促進する要因となっている。
本作から、以上のような根源的な暴力の必要性と、社会による暴力の再生産の構造が見えてくる。
日本ではサッカーW杯ドイツ大会の開幕に合わせて公開されるが、ドイツでは上映されず、DVDの販売のみ(空前の売れ行きとか)。
これは、ラスト近くで主人公のとった行為が、暴力なしだったにもかかわらず、フーリガン体験による成長物語として、「暴力の美学」を描いたという風にもとれるからだろうか。
女性監督は、姉の視点で暴力をきっぱり否定しているのに・・・。
★★★★(★5つで満点)
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リアリティのある美しい映像、説得力のあるスピーディーな展開。暴力について、深く考えさせられる秀作である。
フーリガン
私はサッカー観戦が大好き。だから、フーリガンにも興味津々。
Jリーグ開幕直前の1993年3月、仕事で女子サッカーの有力チームの取材をした。
そのチームには強豪国のアメリカから助っ人が何人か来ていた。
予想を超える激しい練習・・・。ミニゲームは真剣そのもので、まさに格闘技だった。
監督は、東京大学男子チームの監督から転身した人。
彼からサッカーの面白さを徹底的に教わった。
野球と違って選手は管理されにくいこと。
足という非日常的な身体ツールを駆使して 、華麗な勝負の世界を創出すること・・・ 。
以来、野球フアンからサッカーフリークへ、 私も鮮やかな転身をした。
フーリガンは 、サッカーの歴史とも関係が深い。
近代以前から英国では、祭の場でイベントとしてストリートフットボールが行われ、人々は、時には死者も出るほどの暴力行為を楽しんでいた。
19世紀に入って、このイベントに国家権力が介入し、暴力を制御する機能とルールを導入。パブリックスクールに通うエリートたちの、ストレス解消策スポーツとして発展した。
祭は、ガス抜き装置としての暴力を社会が容認する場。つまり、サッカーは、「初めに暴力ありき」だったのだ。
本作は、暴力を肯定する内容ではないが、誰もが内に秘めている”暴力性”を描いている。そのため、登場するフーリガンにシンパシーを感じそうになる危うさがある。
映画では、 昼間は教師やサラリーマンとして普通に働いている市民が 、夜になると流行のファッションで身を包み、パブでたむろする。ビールをひっかけて、家族や自分の命より大切な仲間意識を確かめ合い、試合前から暴力行為に繰り出す。
サッカーの応援というよりは、仲間との一体感のなかで自由を謳歌し、死と隣り合わせの興奮を味わう祝祭である。
フーリガンは、労働者階級や移民が多いのではといわれているが、「右翼的、人種差別、対外排斥」といった保守的な傾向から、エリート層やホワイトカラーの間にも強く根付いているようだ。本作でも、仲間の一人が「俺達はよそ者が嫌いだ」と言い、排他的な面をみせている。
さらに、ここでは、ホモソーシャリテイ(同性社会集団)が成立している。ホモソーシャリテイとは、異性愛男性の友情・同胞愛によって支えられた連帯関係。女性と、男性の同性愛者は排除され、父権制社会と結びついている。
本作では、女性の登場人物は主人公の姉ただ一人。彼女を通して明確な暴力への批判がなされるが、一人では彼らの集団に太刀打ちできず、弟とともに故郷の米国に逃げ出してしまう。
主人公は米国人で、3年前に母を亡くし、父とも疎遠だ。姉は英国人と結婚し、ロンドンに住んでいる。孤独な彼は人生も投げやり。友人にはめられたのに追求もせず、米国の名門大学を卒業2カ月前に退学させられる。
アイデンティティを失くした彼は、姉を訪ねてロンドンへ。元フーリガンのボスだった義兄、現ボスの義弟と出会い、暴力の快感に目覚め、自己の存在証明を取り戻す。
最終的に、主人公は暴力なしで目的を果たすが、姉は夫を暴力で失うという、大きな犠牲を払うことになる。
義兄は10年前に、暴力行為で死者を出したため、ボスの座を譲り引退していた。しかし、「自分に新しい人生を教えてくれた」と、主人公の姉に感謝しつつも、フーリガンに戻りたいと心が揺らぐ。暴力の快楽が身体に染み付いているからだ。
人にはなぜ、暴力が必要なのか。
言語を使う動物である人間は、生まれながらにして暴力的な存在である。命名行為も、共同体の差異のシステムの中に書き込まれたもの。その人固有のアイデンティティや人格の純粋さはみごとに抹消されている。これを「原暴力」という。
命名以外でも、例えばある子を「可愛い」と言ったとしてても、その子固有の可愛さを言い表したことにはならないのだ。
それを踏まえたうえで、フーリガンは何故なくならないのかを考察してみよう。
①日々の生活の中で、精神的な「 ハレ」と「ケ」の時間・空間が必要 。
管理社会の中で働いている人々にとって、オンタイムは「ケ」であり、自由で好きなことができるオフタイムは「ハレ」。
パーッと気分を切り替えるには、強烈な祝祭空間が必要である。
② 身体的にも自己を確認する場が必要。
社会の中で歯車化している身体を解放し、自己確認するには、痛みを伴う(相手と格闘する)=暴力の快楽が必要。
③誰かに認められたい=アイデンティティの確立
お互いに仲間として認められることで、自己の存在証明を獲得する。
メディアにアピールすることで、社会から注目される。
④対抗文化として存在する。
警察に代表される国家権力に対抗する文化として訴求。
1960年代~70年代にかけて流行したヒッピー文化のような存在。
本作中のフーリガンも、「イギリスは世界一の監視国家だ」と、街中の監視カメラの多さを批判し、フードで顔を隠して暴力行為をする。
警察が取り締まりを強化すればするほど、抵抗することが面白くなるという悪循環・・・。
昨今、フーリガンの存在が、目立つようになったが、1960年代まではマスコミがとりあげなかった。メディアに登場するようになって、ある種の英雄として有名人になれるという側面は、フーリガンの拡大化を促進する要因となっている。
本作から、以上のような根源的な暴力の必要性と、社会による暴力の再生産の構造が見えてくる。
日本ではサッカーW杯ドイツ大会の開幕に合わせて公開されるが、ドイツでは上映されず、DVDの販売のみ(空前の売れ行きとか)。
これは、ラスト近くで主人公のとった行為が、暴力なしだったにもかかわらず、フーリガン体験による成長物語として、「暴力の美学」を描いたという風にもとれるからだろうか。
女性監督は、姉の視点で暴力をきっぱり否定しているのに・・・。
★★★★(★5つで満点)
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なかなか良かったですね
TBありがとうございました。
こちらもTBさせて頂きますね。。
そんな期待しないで観に行きましたが・・
とても良かったです。
マラボゥストーク
いつもながら、卓越した視点での映画の切り口
素晴らしいです。
ところで、昔読んだ英国の作家アーヴィン・ウェルシュ
(代表作:トレインスポッティング)の小説、
「マラボゥストーク」には、普通の青年がフーリガンに
走る背景と、英国の植民地政策の暗部などが絡み合いつつ
夢と現実が入り混じった、まるでテリー・ギリアムの様な
世界が展開されていました。
ホワイトカラーとブルーカラー、サッカーファンとフーリガン、
愛と暴力、男と女、相反する関係も実は…と複雑な事情を
見せる英国映画にはこれからも目が離せそうにありません。
単館系の映画は骨太の映画が多いですね。
フーリガンの俳優陣が本物っぽくて
映画にリアリティが出ていましたね。
女性の視点で描いた男性映画でしたが
暴力を通じて友情を築いたが、暴力は
社会的に何も残さないんだと分からせられ
最後は少し切ない気分になりました。
目には目を・・・それでは成長はしませんね。
また遊びに来ますね。
クニコさんのフリーガンがなくならない
4つのポイントって、日本の祭にも当てはまりますね。
私の地元(関西)にある堺のダンジリなんて、メディアは取り上げるし、見物人も多いときてますから。外国特有の行動ではないようですね。
暴力に対して、これだけ否定的だった作品なのに、上映禁止とは日本と同じくドイツもまだ映画を観る目はないようですね。
またお邪魔します。
私の住む地方では先週1週間上映がありました。
しかし・・・おっしゃるとおり、悪循環ですね。フーリガンはなくならない。暴力もなくならない。