「日本文学の革命」の日々

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電子同人雑誌の可能性 120

2016-11-27 02:42:57 | 日本文学の革命
周りから押し上げる力は、その社会や時代や人々がどのような人材を待望しているかに大きく依存しているが、上から引き上げる力にはさらにもう一つ“権力”という要素が重要な役割を持つことになる。上から引き上げる力とは巨大で集中的な力であり、誰を引き上げるかという判断も一任されていて(たとえば部下の昇進権を握った上司がサラリーマン社会でどれだけの権力を得るか思い出して欲しい)、一つの権力の行使なのである。また誰を引き上げるかは、どのような人物を文化的リーダーの地位に就けるのかということなので、それはメディアにも社会にも極めて重要な影響を及ぼす人事問題となるのである。それ故にしばしば必然的に、この権力の行使権を握った者たちの意向が、上からの引き上げ行為に反映されるということが起きるのである。

たとえば北朝鮮のような独裁主義国家において何かの文化賞が創設されたとしよう。それは北朝鮮政府が何を言おうと100パーセント間違いなく北朝鮮政府の意向が反映しているはずである。北朝鮮の国家体制をベタ誉めした作品は賞を受賞し、それを批判したような作品は間違いなく落選、いや落選を通り越して作者は強制収容所に送られてしまうだろう。スターリンがやったように―彼の肖像画を書かせた画家(最高権力者の肖像を描くのだから当時の画壇の第一人者だったに違いない)があまりにリアルなスターリンの肖像画を描いたので、彼を銃殺させたのである―銃殺されてしまうかも知れない。ここには最もどぎつい形で受賞の背後に権力者の意向が反映しているのである。

もし漱石たちの阻止が功を奏せず、明治政府が文学賞を創設していたら、日本文学もどうなっていたか分からない。明治政府の意向は不逞な文学者たちを取り締まることにある。当然彼らが創設した賞制度には(明治政府が表向きどんな美辞麗句を述べようと)その意向が反映すると見て間違いない。日本文学者から自由な気風や溌剌とした気概が失われてゆき、政府に睨まれないようお体裁のいい作品ばかり作る作家や政府に阿諛追従する魂を失ったエセ文学者ばかりが幅を利かすようになっただろう。日本文学からは活力が失われ、その発展も頭打ちになり、せいぜい明治の画壇程度の発達で日本文学も終わったかも知れない。

これは賞制度ではないが、賞と同じように社会的名誉的報酬を与えることで「望ましい人材」を作り出そうとするものに、戦後日本の受験制度がある。この制度の「望ましい人材」とは日本の高度経済成長時代に望ましいとされた人材に他ならない。この受験制度で養成された人材こそが、日本経済の発展にとって真に望ましい有用な人材なのだと当時の政財界のトップが判断したのだろう。戦後初頭アメリカ的自由主義教育が一世を風靡したのだが、それを断固としてはねのけてこのような教育制度を築いたのだから、これはこれで立派な決断ではある。しかし最近ではこの受験制度が大いに揺らいでいるのだが、これは高度経済成長が過去のものとなり、従って「望ましい人材」像も揺らいでしまったので、それが反映しているのだろう。

このように上から引き上げる力―賞制度もその一つである。昔は王様や殿様がよくお気に入りの人間を文化的リーダーに引き上げていたが、この場合はまさに権力者の意向そのままである―には、どうしてもその権限を握る者たちの意向が反映してくるのである。ノーベル賞などはかなり公明正大な選考を行っているが、これにも公明正大な文化国家としてのスウェーデン―それは公明正大な福祉国家にも通じている―を世界にアピールしようというスウェーデン政府の意向が感じられなくもない。スウェーデンは文化的にはたいしたものを残していない。思いつく限りではアンデルセンぐらいだろうか(失礼!デンマークだった)。フランスやイギリスやドイツのような文化大国の人間から見たら、何でスウェーデン風情に文化を受賞されなくちゃならないんだ、と思うことだろう。しかしこのように公明正大に世界的な文化賞を授けてゆくことにより(たしかにそれは世界の文化を発展させてゆくものではある。別にスウェーデン人が直接やっている訳ではないが)、ある意味スウェーデンは国自体が文化的リーダーの地位に就くことができるのである。

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