ある宇和島市議会議員のトレーニング

阪神大震災支援で動きの悪い体に気づいてトレーニングを始め、いつのまにかトライアスリートになってしまった私。

【「中央日報」の恐るべき無知】難波先生より

2017-09-19 15:29:02 | 難波紘二先生
【「中央日報」の恐るべき無知】
 韓国の主な新聞は2013年度ABC部数で、「朝鮮日報」(129万部)、「中央日報」(81万部)、「東亜日報」(70万部)、「ハンギョレ新聞」(26万部)となっている。これは有料購読部数でWIKIには「発行部数」(日本でいう「押し紙」部数を加えたもの)が載っている。「針小棒大」のお国柄のこと、普通は4割水増しした部数を「発行部数」と称している。
 「中央日報」日本支局は東京銀座の「時事通信社」ビル内にある。
 8/20付の同紙社説 <【社説】「大韓帝国無知」が引き起こす「大韓民国建国」議論>を読んで驚いた。朝鮮近代史に関する無知がはなはだしいからだ。ぜひ以下をお読み下さい。
http://japanese.joins.com/article/499/232499.html?servcode=100§code=110

1.<1894年(甲午年)に朝鮮人20万人以上が犠牲になった「甲午倭乱」を日帝は歴史から抜け落として「甲午更張」という用語で美化・歪曲した。>
 日本は昔から元号を使用していたから、朝鮮のように干支を用いない(注1)。1894/2に朝鮮で発生した農民反乱(実態は百姓一揆)を日本では「東学党の乱」と呼んでいる。この時に鎮圧に困った朝鮮政府が清に派兵を要請したことから、「天津条約」に基づき日本も派兵した。日清の海軍が黄海で衝突して「日清戦争」が始まり、翌年2月に清の北洋海軍が威海衛で全滅し、戦争は終わった。4月に「下関条約」が締結され、清が朝鮮に対する宗主権を放棄、朝鮮の独立を認めた。
 つまり東学党の乱のおかげで漁夫の利をえて清国から独立したのが朝鮮なのである。しかも東学党の首領全琫準ら幹部を朝鮮政府は11月に逮捕し、ソウルに押送、前掲の図にあるように惨たらしく晒し首にしている。
 「東学の乱」鎮圧のため、朝鮮軍は清軍、日本軍と共同して反乱軍と戦っている。日清が共同した作戦もある。

 「甲午倭乱」という用語もおかしい。庚午は日本では明治27年であり、「倭乱」は侮蔑表現だ。中国人をチャンコロ、朝鮮人をチョンというに等しい。
 東学党軍を討伐したのは、政府軍、清軍、日本軍である。東学党の幹部だった呉知泳による手記「東学史」(東洋文庫、1970)に詳しく書いてある。 
 本書は原本「東学史」(ソウル、永昌書房、1940)として漢字ハングル本が出ている。「中央日報」の社説子はこの程度の本すら読んでいないのだろう。

〔注1〕8/22「東亜日報」が<マティス長官「乙支演習の米兵力縮小は北朝鮮の反発と無関係」>という見出し記事を掲載していて驚いた。
http://japanese.donga.com/Home/3/all/27/1034010/1
 8月20日から月末まで展開予定の米韓軍事演習のことだ。「乙支演習」という言葉をマティス長官が発するはずがない。「干支(えと)」にはこういう年号はないはず、と思い調べたら、高句麗の英雄「乙支文徳」に由来するものだった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%99%E6%94%AF%E6%96%87%E5%BE%B3

<乙支フリーダムガーディアン(ウルチ・フリーダムガーディアン、朝鮮語: 을지 프리덤 가디언、英語: Ulchi-Freedom Guardian, UFG)とは、朝鮮半島有事に備えるために行われる韓国軍とアメリカ軍の年次合同軍事演習。
 以前は乙支フォーカスレンズ(Ulchi-Focus Lens)と呼ばれていたが、2007年に改称がアナウンスされた[1]。韓国軍が主導しそれをアメリカ軍が支援する形で行われる。内容はコンピュータ支援による防衛演習で、備えを強化し、地域を保護し、朝鮮半島の安定性を維持するようデザインされている。乙支とは高句麗の将軍、乙支文徳にちなむ。だ。この「支」は「五行を十二支」に分けるという意味で、この文字は年号自体には用いられていない。>(WKI)

 韓国軍の主体的防衛努力を強化させるため、随の高句麗侵略に対して戦った乙支文徳にちなんで、わざわざウルチ(乙支)の姓が付けられているのだ。その辺の意味を日韓メディアはきちんと報じるべきだ。

2.<(日帝は)「甲午更張」という用語で美化・歪曲した>
 「甲午更張」という言葉は日本史年表にも日本語の世界史年表にもない。
 「甲午改革」なら世界史年表にも朝鮮近代史の本にも載っている。日清戦争中に「日本に見習って維新を起こそう」という開化派が金弘集を中心に組閣した内閣による改革のことだ。惜しいことに、開化派の頭目だった金玉均はすでに上海で閔妃の刺客に暗殺されていた。
 金弘集内閣は日本が6年かかってやり遂げた内治改革を短期間に達成しようとして失敗した。ことに丁髷を切る「断髪令」は猛烈な反発を受け、内乱まで発生した。
 こうして甲午改革は挫折し、権力はまた守旧派の手に移った。それが亡国の道だったのだ。

3.<明成(ミョンソン)皇后を日本軍が殺害した天人共怒する事件を「乙未事変」という中立的表現でごまかしたのも日帝だった。>
 これには二重のウソがある。
 第一に、日本軍に殺されたのは「閔妃」で1895(明治28)年10月のことだ。朝鮮国王が「皇帝」と改称したのは1897/10(明治30年)だから、殺されたのは皇后ではなく、単なる王妃にすぎない。従って「王后」と記すのが朝鮮史の伝統のはずだ。

 第二に、日本は古くから元号を使用しており、干支年号を使用していない。(最も古い年号は「大化元年(645)」だ。この時代、朝鮮半島には北から高句麗、新羅、百済があり、大陸には唐があった。この頃日本では「干支年号」から「元号年号」への切り替えが行われたわけだ。日本人が知る干支年号はおそらく「壬辰の乱」(672)だろう。吉野山に出家していた天武帝の実弟大海人(おおあま)皇子が反乱して甥の大友皇子(弘文天皇)を倒し、天武天皇に即位した事件だ。)
 以来日本人は国内の事件を元号年で呼ぶ。よって干支年である「乙未」を「いっぴ」と読める日本人は1%もいないだろう。よって「乙未事変」が「日帝によるごまかしの中立的表現だ」というのは大デタラメだ。

 閔妃の死について、日本の「世界史年表」(岩波)にはちゃんと「閔妃殺害」と書いてある。だから「乙未(いっぴ)事変」という呼称は「絶対年号を持たない」朝鮮人が命名したとしか考えられない。その証拠に金学俊著・金容権訳「西洋人の見た朝鮮」山川出版には、「乙未事変」と書かれている。韓国教員大学歴史教育科(著)「韓国歴史地図」(平凡社)にもそう書かれている。
 これで「中央日報」社説の主張は歴史的根拠がなく、事実に反する牽強付会の説であることを証明した。
 閔妃により金玉均という逸材を上海で殺された改革派朝鮮人には、王后の暗殺を喜んだものも多かったと思われる。「乙未事変」の名称が朝鮮起源であり、「日帝のごまかし」でないことは明白だろう。

 これに関連して<いわゆる「甲午更張」「乙未事変」「俄館播遷」という名称は徹底的に日帝の見方で作られた言葉だ。>という同社説・言説の「俄館播遷」にもコメントしておきたい。
 朝鮮近代史でもっともわからないのがこの言葉だ。文字どおりなら「我が館(王宮)が移動」という意味だが。これは実際には1896年に発生した朝鮮王のロシア公使館への亡命事件を指す。したがって「露館播遷」が正しい。WIKIにはこうある。
<露館播遷(ろかんはせん、1896年2月11日 - 1897年2月20日)とは、李氏朝鮮の第26代王・高宗がロシア公使館に移り朝鮮王朝の執政をとったことを言う。韓国でも古くは日本語での表記と同じように「露館播遷」と呼ばれたが、最近では俄館播遷と呼ばれることが多い。これは国としての自主性を放棄するのに等しい行為であり、後に日露戦争時に中立を宣言したが日露両国から無視されるような結果となった。>

 こんな国王が1年後に王宮に戻って来て、やれ「大韓帝国」だの「皇帝」だのと称しても隣国はおろか国際社会では相手にされない。
 「露館播遷」では格好が悪いので、戦後になって「俄館播遷」と言いはじめたというわけだ。
 日本も敗戦を「終戦」といい、全滅を「玉砕」、退却を「転進」と語飾する国だから、あまり責められないが言葉は正しく使わないと相互理解が進まないと思う。

4.<「光復」が前提にしているその以前の国は「大韓帝国」だ。大韓帝国はわれわれの歴史上初の近代民族国家であり、当初から名実ともに「民国」として建国された。大韓帝国期にすでに「大韓民国」とも呼ばれた。>

 ウソも休み休みにしてもらいたい。李氏朝鮮は1897(明治30)年10月に国号を「大韓帝国」と変更した。さらに日露戦争中の1904/2に「日韓議定書」の調印を行った。この条約により朝鮮は国際法上「日本の保護国」になった。保護国は独立外交権を持たない。
 このため1907年6月に韓国皇帝がオランダ・ハーグでの「万国平和会議」に送った「ハーグ密使」は会議への参加権が認められず、さらに日本政府から問責され皇帝の退位につながった。
 代わりに日本が押しつけたのが「関白制」ないし「幕府制」で、国王は傀儡ないし象徴で、実権は朝鮮総督府が握るというものだった。
 大韓帝国には憲法がなく、代議制民主主義の原理で動いていないから、断じて「民国」ではない。孫文の「中華民国」とはまったく異なる。その「大韓帝国」を「光復」のモデルに仰ぐとは…。

5.<英国、フランス、ドイツ、オーストリア、日本などのように悠久な歴史を持つ国々は建国節がない。…今年は大韓帝国宣言120周年だ。>
 これも無知の産物としか言いようがない。
 英、独、墺については知らないが、フランスには「パリ祭」(7/14)がある。これが建国記念日だ。日本にも「建国記念日」がある。(科学的信憑性については不明。)日本は決して「悠久な歴史を持つ国」ではない。歴史時代とは文字で確認できる時代をいう。日本の歴史はせいぜい1500年だ。それ以前のことは、しょせん考古学者が発掘史料に基づいて、あるいは国文学者・漢文学者が中国の史書を読んで、主張している憶説にすぎない。

 文在寅大統領の8/15スピーチでは<2020年が建国(上海で「大韓民国臨時政府」成立の宣言)100年に当たる>としていたが、これを20年も上まわるとは呆れる。この臨時政府の憲法には民主制と「(朝鮮)皇室の尊重」がうたわれていたが、誰も「皇帝親政」など考えていなかった。だから1948年、米国に亡命中の李承晩が帰国し大統領に就任するとすぐに独裁政治が始まったのである。韓国の現代史では独裁制の方が長く、真の民主制は長続きしていない。韓国での歴史的評価も李承晩や朴正煕の方が高いではないか。



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1 コメント

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Unknown (Unknown)
2017-09-20 15:45:12
「壬申の乱」は、たつの年ではなく、さるの年です。
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