ある宇和島市議会議員のトレーニング

阪神大震災支援で動きの悪い体に気づいてトレーニングを始め、いつのまにかトライアスリートになってしまった私。

【考古学・人類学】難波先生より

2012-08-20 12:29:15 | 難波紘二先生
【考古学・人類学】ダーウィンの『種の起源』、『人間の由来』は昔からの愛読書で、考古学・人類学には持続的な関心をもっている。
 この5月に若くして亡くなった角張淳一君への「追悼文」が、岡安光彦氏のブログ「考える野帖」に再掲されているのを、ネットサーフィンで見つけた。岡安氏の追悼の言葉も載せられている。
 http://www.fieldnote.info/?p=397
 3人で協力しておこなった「石器の脂肪酸分析のウソ」指摘については、岡安氏が以下にまとめている。
 http://www.fieldnote.info/archive/


 2001年5月、駒澤大学で開かれた「日本考古学協会総会」での演題発表の前日、渋谷道玄坂のビジネスホテルに角張さんと同宿し、批判派のオフミに出席し、岡安さんに初めてお会いした夜のことも鮮明に覚えている。


 学会場では「朝日総研」の河合信和氏にもお会いした。北大薬学部を出て「朝日」に入社し、科学部で考古学関係を専門にした「変わり種」である。
氏は『最古の日本人を求めて』(1987)で藤村新一の発掘を持ち上げた過去があるが、その記述はいかにも自然科学的で、読むだけで藤村の捏造トリックが私には理解でき、大いに役だった。
 事件発覚後、『旧石器遺跡捏造』(2003)を執筆し、無知による捏造への協力を自己批判している。


 『ネアンデルタールと現代人:ヒトの500万年史』(1999)は、ネアンデルタール人と現代人の間に、遺伝的つながりがないことを多くのデータを概説することで示したものだ。『大学新入生に薦める101冊の本』でも取り上げておいた。
 近著『ヒトの進化、700万年史』(ちくま新書)は、人類の起源がさらに200万年遡ることを強調している。


 フランスに留学し、本格的に旧石器を研究した竹岡俊樹氏は、初めから「藤村石器は縄文石器、中には線路のバラスもある」と岡村一派を批判していた。
角張=竹岡の批判に、「毎日」北海道支局の報道部長が耳を傾けなければ、「世紀のスクープ」はなかった。
 日本考古学の「大間違い」を正したのだから、学会から評価されるかと思いきや、角張君も竹岡氏もその後、徹底的に疎外された。昨日まで、藤村石器を持ち上げていた学者たちは、「藤村精神病説」を持ち出して、自らを免罪し、知らんぷりをした。誰一人責任をとって、職を辞したものはいない。


 これが日本的パターンで、敗戦の時しかり、福島原発事故しかりである。「修復腎移植」問題も、結末は同様になる蓋然性が高い。
 
 私が最初に竹岡氏に注目したのは、「日経サイエンス」に「石器作成の工程は、脳内にあらかじめ<石器のイメージ>が存在しており、そのイメージを実現するために石器の分割/剥離作業が行われる。従って石器の観察から、脳内活動を推定することが可能である。新石器と旧石器は、脳内イメージが根本的に異なる」と「言語と石器」を関連づける理論を提唱されていたからだ。
 だから「まだ見ぬ友」であった。実際にお会いしたのは、2002年頃、福島か仙台に学会出張した帰りに、東京駅のレストランで長野の角張さんに紹介されてである。


 その竹岡氏から、近刊の「季刊邪馬台国」(2012/7月号)掲載のインタビュー記事「旧石器研究者を語る」コピーが送られて来た。恨み辛みも書かれているが、全体として見ると、考古学会が根本的には変わっていないことがわかる。
 日本の考古学は、公共事業ブームの「行政大発掘時代」に年間1,000億円の研究費をもらったのだそうだ。20年間で2兆円!
 それが「捏造発覚」で、全部ムダだったとわかった。自責の念に駆られて、一人くらい自殺しそうなものだ…


 しかし、他方では岡山大の松木武彦、東海大の北條芳隆氏などのように、こつこつと新しい考古学を開拓している学者もいる。ミトコンドリアDNAの分析で、「縄文農耕」を証明したと喧伝していた静岡県立大学の佐藤洋一郎は、いつの間にか消えてしまった。帯広畜産大学の中野益男と同じである。


 竹岡氏の近著『旧石器時代人の歴史』(講談社選書メチエ)はAmazonの読者レビューを見ると、非常に評価が高い。今日明日にも、手許に届くはずなので、一読を楽しみにしている。


 マックス・ウェーバーに『職業としての政治』、『職業としての学問』(ともに岩波文庫)がある。政治家と学者のモラルを説いたものだ。収入や地位や名誉を目的とした職業では、無意識の「道徳的逸脱」は避けられない。
 やはり学問をするには、「知に対する愛」(語義の意味でのフィロソフィアPhilosophia)が必要である。
 換言すれば「道楽としての学問」が理想的なのである。シュリーマンのトロイ発掘もダーウィンの航海も食うためのものではなかった。
 考古学会も移植学会も、職業としての学者の集まりである以上、抱えている基本問題は同じであろう。
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