ある宇和島市議会議員のトレーニング

阪神大震災支援で動きの悪い体に気づいてトレーニングを始め、いつのまにかトライアスリートになってしまった私。

【夜の雨】難波先生より

2017-12-04 15:34:10 | 難波紘二先生
【夜の雨】何だか歌謡曲のタイトルみたいだが、11/22(水)の夜、夕食に母屋に帰ろうと裏庭に出たら、雨になっているのに気づいた。ドアの外にセンサーライトがつくのだが、それでは分からないほどの細雨(ささめ)だった。
 昼前にも雨だったので、自宅に予備のコウモリ傘を持ち帰った。13:00頃は止んでいたので、傘を残して仕事に戻ったのが間違いだった。
 傘は2本とも母屋の勝手口に移動したままになっていた。仕方なく、細雨の中を小走りに母屋に戻った。よく転ばなかったものだ。

 18:00からのNHK-TVはローカル番組が主体で、十分に楽しめる。
 「ああ、これが普通の市民の生活か…」と思った。
 森鷗外の故郷、島根県津和野町でイノシシによる獣害がひどいと初めて知った。町は若者が移住し、猟友会を盛んにしてくれることを期待しているが、その代わり「津和野30人殺し」のような銃による犯罪も増える可能性があるな、と思った。

 晩酌の後、一旦仕事場に戻ったが、今度は「雨+濃霧」で傘とLEDランプ(キーホルダーに付いている)が必要だった。「夜の雨」に「霧にむせぶ夜」となると完全に演歌の世界だな…

 私は大学院卒業後、呉市の共済病院に病理医として勤め、40歳からは広島大学総合科学部の教授になったが、家は宇品御幸町のマンションあるいは舟入本町の一戸建てにあったが、車で通勤していて23:00より前に自宅に戻ったことがない。

 ホリエモンこと堀江貴文が、堀江貴文&井川意高『東大から刑務所へ』(幻冬社新書,2017)で、「仕事に勝る娯楽はない」と書いているが、私も同じように考えていた。
 仕事がストレスにならないから「過労死」などしなかったのだが、部下の技師さんたちには、ずいぶん迷惑をかけたことだろう、と今になって反省している。

 その代わり、私は「超過勤務手当て」を一切請求しなかった。「好きで研究しているのに、手当てを請求するのはフェアでない」と思ったからだ。
 その頃、泌尿器科医長に名医がいて、朝の4時から番取りの行列ができ、「ダフ屋」まで出現していた。夜は寝ている患者を起こして、病棟回診をしていた。その超過勤務手当てが、「年間800万円になる」と院長がこぼしていた。
 あるパーティで病院の事務長が「難波先生は国手だ」というので、「なぜですか?」と聞いたら、「残業手当を一切請求しないからです」と言われたことがある。

 大学教授に転じたら、それまでの年俸1200万円が半減した。泌尿器科医長の残業代が大学教授の年俸より多かった、という時代があったのだ。息子が「うちは医者なのに、なんでこんなに貧乏なんね!」と言ったのはその頃だ。今はIT企業の部長をしている。
 夏目漱石の『坊ちゃん』みたいに、私も損ばかりしているようだ。

 「演歌」は「流行り歌」ともいう。中世には「今様(いまよう)」と言った。
『梁塵秘抄』にある有名な「遊びをせんとや生まれけむ、戯(たわぶ)れせんとや、生まれけん…」という歌も、当時の今様である。(佐々木信綱校訂「新訂・梁塵秘抄」、岩波文庫、p.66)
 「遊び」は重要だ。車のハンドルにも「遊び」がある。
 ただ私のように「仕事が遊び」の人間にとっては、ちょっと違和感もある。

 いや、「夜の雨」からの連想が「梁塵秘抄」にまで広がってしまった。これは「そう(躁)」の初期かな…。でも生活を早寝早起きに切り換え、服薬をちゃんと指示通りに(奥方の介助で)するようにしたら、朝早くから眠気がとれ、頭脳は明晰になったと思うのだが…。


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