ある宇和島市議会議員のトレーニング

阪神大震災支援で動きの悪い体に気づいてトレーニングを始め、いつのまにかトライアスリートになってしまった私。

【献本お礼など】難波先生より

2017-08-16 22:29:02 | 難波紘二先生
【献本お礼など】
1)「医薬経済」8/1号のご恵送を受けた。お礼申し上げる。
 記事内容が「薬」から少しずつ「医」に向かっていて、読める記事が増えた。大学院時代と病院病理科時代にお世話になった日本電子の電子顕微鏡の話「電子顕微鏡のトップ企業:日本電子」という記事を面白く読んだ。50年ほど前には、透過型と走査型という2種類の電子顕微鏡しかなかったが、いまはもっと多様な電顕が製造されているようだ。

 ①高橋幸春氏の「移植医・大島伸一回想録」は第3回に入り、より面白くなった。名古屋・中京病院泌尿器科で、大島伸一が最初の腎移植を行ったのが、1973/9/4で、指導者の岩月舜三郎(米コロラド大留学から帰国後)は、当然手術は成功するものとして、2日後の9/6に第2例目の移植を組んだという。
 ところが2例とも術後に乏尿となり、尿が出てこなくなった。「急性腎不全」である。そこで2例とも再開腹して移植術に不備がなかったことを確かめたという。これは摘出腎臓の酸欠を防ぐ「ウィスコンシン液(バイアスパン)」がまだ開発されていない時代のことだ。
 酸欠になると腎臓は「急性尿細管壊死」を起こす。このため、ドナー腎摘出から移植完了までの時間が遅れて、「温阻血」時間が長引くと、手術の手技自体はうまく行っても、乏尿が起きる。血液透析機の話が出てこないから、当時、中京病院で血液透析が行われていたかどうか不明だ。

 私が藤田学園大学の堤寛教授(当時)から聞いた話だと、移植後の腎臓はたいてい急性尿細管壊死を起こしている。よってこれは「病気腎」であり、透析で10日程維持してやると、尿細管の再生が起こり、自前で利尿がつくようになる、ということだった。
 万波誠の市立宇和島病院では、移植より先に透析を始めていたから、中京病院に4年遅れて、1977/12/21に行われた四国初の腎臓移植では、こういう事態は起きていない。広島大第二外科が手術支援に行ったという事情もある。ドナーからの腎臓摘出は広島大助手の福田医師がやり、レシピエントへの移植は広島大土肥講師がやっている。万波誠はこの時は土肥講師の助手を務めている。
 私の調査の限りではこの第1例に「急性尿細管壊死」が起きて腎不全になったという事実はない。あるいは初期に人工透析で切り抜けたのかも知れない。

 高橋さんの記事を読むと、どうもこの頃は中京病院の移植医には「急性尿細管壊死」についての知識がなかったと思われる。もし大島伸一氏が「自分の腎移植の最初の2例は、医原性(イアトロゲニック)の病気腎だった」という自覚があったなら、「病気腎移植」事件はあれほどの大騒ぎにはならなかったと思う。
 今後の「大島回想録」の展開が楽しみだ。

 ②鍛冶孝雄「読む医療No.78」で、破産した北海道・夕張市で「夕張医療センター」長を務めていた村上智彦医師(1961〜2017)がAMML(急性骨髄単球性白血病)のため去る5/11に死去したと知った。診断が2015/12、死去が2017/5と約1年半の闘病だった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E4%B8%8A%E6%99%BA%E5%BD%A6 
遺著は『最強の地域医療』(ベスト新書)だという。(未読)
 私は 村上智彦『医療にたかるな』(新潮社、2013/3)しか読んでいない。

今回、自分で書いた書評を読み直し、「苦しい人生だったろうな」と思った。
http://www.frob.co.jp/kaitaishinsho/book_review.php?id=1368424584

2)昭和42年医学部卒業の同期生I君(香川県高松市在住)から「日本社会の生活習慣病No.28」のご恵送を受けた。お礼申し上げる。今まではNHK大河ドラマの感想が多かったが、時事随筆が多くなった。この10月に同期生のクラス会が広島で予定されているが、出席可能な健康状態とのこと、何よりだ。

 「真珠湾奇襲」のことが取り上げられているが、私は、太平洋戦争についてこう考えている。
 松岡洋右という、頭のおかしい外務大臣を起用して「リットン調査団報告書」(1931)に反対し、国際連盟を脱退(1932)したこと、「ノモンハン事変」(1939)で北のソ連軍と戦って惨敗したことから、大本営が「北進策」から急に「南進策」に180度方向転換したこと、この南進が「ABCD(アメリカ、英国、中国、オランダ)」諸国の反発をくらい、「ABCD包囲陣」の形成(1941/7)となった。具体的には「米国による在米日本資産凍結、石油禁輸、鉄スクラップ禁輸」で、英国、オランダも同様の措置をとり、このため必然的に開戦に至った。
 つまり戦略を間違えたのだ。戦略を間違えたら、戦術で挽回はできない。
 リットン報告書も、例のハル・ノートも国民党政府の領土である「中国」からの日本軍撤退を要求しているので、いわゆる「満州」はこれに含まれていない。ここは本来清族の土地で漢族の土地ではない。

 2017年の北朝鮮はちょうど1941年頃の日本にそっくりだ。北朝鮮も戦略を間違えている。ICBMを誇示しても迎撃ミサイルがないのだから、敵のICBMを防御できない。肝心のミサイルも途中で撃ち落とされたらそれまでだろう。たとえ核弾頭を搭載していても、核分裂反応の起点となる「爆縮」までに撃墜すれば被爆は生じない。
 本当に「奇襲」するのなら、攻撃地点を予告するバカはあるまい。米軍は、グアムは囮と考えて、防撃準備を整えているはずだ。

3) 浅野亮(高橋幸春)氏から
『県警出動:黒いオルフェの呪い』(徳間文庫、2017/8)
『空白の絆:暴走弁護士』(文芸社文庫、2017/8)
 二冊のご恵送を受けた。厚くお礼申し上げます。相変わらずの精力的執筆にふかく敬服する。
 前者は「県警出動」シリーズの三作目で、殺人事件がからむ推理小説。
 後者は元暴走族から弁護士に転じた人物が、昭和20年8月6日広島市矢賀町で生まれ、8月15日に出生届を出したという謎の人物がからむ会社相続事件を、元暴走族仲間の依頼を受けて解決するというストーリィだ。被爆直後の広島市や焼け跡に立つ傷痍軍人や乱立した中小製造業などがよく描写されている。
 奥さんの里が広島市だけに、地理描写や地本史にも明るい。読み始めたら止められなくなりそうだ。

 目下、田山花袋『時は過ぎゆく』(岩波文庫)の書評のための再読に取り組んでいるので、読むのは来週以後にしよう。なにしろ田山家は代々「出羽・山形秋元家」の家臣で、1845年、主君秋元志朝(ゆきとも)の「群馬・館林藩」7万石への移奉から、維新の動乱、廃藩置県、西南戦争、日清・日露戦争をへて、第一次大戦までの時代変化を描いているからタイム・スパンは60年にも及ぶ。この間に丁髷・帯刀の時代から東京の空にアート・スミスの飛行機による「夜間宙返り」(大正5年)まで、と変化があった。
 この本は「前田 晁(あきら)」なる人物による解説がいいかげんで、作品の理解に苦労する。
 花袋が自然主義の手法で「ありのまま」を書いたとすれば主人公の岡田良太のモデルは花袋ではありえず、日清戦争に従軍記者として志願する甥の岡田真弓(兄の漢学者實の長男)でないとおかしい。それなら花袋の経歴と符合する。9歳で丁稚奉公し、手癖が悪くて何度も奉公変えをしている真弓こそが田山花袋なのである。
 維新後に警視庁羅卒となり、西南戦争に志願して戦死する岡田政十郎という男が花袋の実父田山鋿十郎である。作品ではディテイルは実在するものの、人間関係やモデルは適当に再構成されている。文芸評論家のいうことは当てにならないものだ。
 再読は日本近代文学館の「初版・復刻本」以来、50余年ぶりのことだが、「圏点」、「スコッチの背広」、「ロスケ」というような死語が多く出て来るのに驚いた。原本は大正5(1916)年の刊行だから、100年以上が過ぎている。言葉にも寿命がある。移りゆく時代を背景に一族や親類縁者の盛衰を描いた名作だが、もう校注本が必要かも知れない。


「記事転載は事前にご連絡いただきますようお願いいたします」
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 【蝉時雨】難波先生より | トップ | 【「買いたい新書」書評】難... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

難波紘二先生」カテゴリの最新記事