MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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♯842 「ナスD」タフであることの魅力

2017年07月29日 | テレビ番組


 神戸女学院大学名誉教授で思想家の内田樹(うちだ・たつる)氏は、7月に発行された近著「直観はわりと正しい」(朝日文庫)の中で、「何でも食えることの大切さ」を説いています。

 内田氏はここで、「何でも食える」「どこでも寝られる」「誰とでも友達になれる」は、生存戦略上の三大原則だと説明しています。氏によれば、その中でも特に「何でも食える」は生き延びる上での大変有用な資質だということです。

 例えば、多少の毒や腐敗物なら「食べても平気」というタフな消化器を私たちはもう持っていない(祖先たちはごく最近までそのような能力を備えていた)。賞味期限を見なくても、においや舌触りで「食べられないもの」を検知できる能力を、現代人はあらかた失ってしまっているのではないかと氏は指摘しています。

 現代人のひ弱でデリケートな消化器でも耐えられる無菌で安全な食品を製造するために要するコストと、「食べられるもの」と「食べられないもの」を自力で選別できる(無理すれば「食べられないもの」でも食べてしまえる)身体を養成するコスト。両者を比較すれば、どちらが費用対効果に優れているかは考えるまでもないということです

 さて、(話題は変わりますが)テレビ朝日系列の深夜枠でこの4月から始まったバラエティ番組「陸海空こんな時間に地球征服するなんて」が話題になっています。

 7月2日に放送された2時間半の特番の視聴率が9.8%と好調だったこともあって、10月からはプライムタイムの放送への昇格が決まったということです。

 ご覧になったことのある方ならお判りでしょうが、この番組は、「部族」「豪華客船」「ドローン」「釣り」「ミステリー」の5つのテーマで、ミッションを与えられたタレントや芸人5組が、それぞれ世界の各地での突撃体験取材を敢行する内容です。

 中でも特に人気なのが「部族アース」のコーナーで、お笑いタレントの「U字工事」の二人がペルーに渡り、アマゾン川流域の未開部族を巡ってその生活ぶりを紹介していくという企画です。地元の人たちの小船やクルーズ船で村々を回り生活を共にしながら、流域に暮らす部族の人たちと漁をしたり狩りをしたりと、様々な冒険を重ねていきます。

「素晴らしい世界旅行」とか「世界ふしぎ発見」など、テレビの世界では海外の珍しい文物や人々の暮らしぶりを紹介するドキュメンタリー番組はこれまでもたくさんありましたが、この番組の特徴はその準備の程よいいい加減さ。戦闘部族から銃を向けられたり、だまされてまんまとお土産を買わされたりと、「これからどうなるんだ?」とハラハラするリアリティが売り物です。

 「深夜枠」ということもあり、それだけであればこれほどまでに話題にはならなかったのかもしれませんが、実は人気の理由は、顔がナス色に変色したことで「ナスD」と呼ばれる同行ディレクターの破天荒な行動にあります。

 この「ナスD」こと友寄隆英ディレクターは、実は「黄金伝説」などの人気番組を数多く手がけてきたテレビ朝日のゼネラルプロデューサー。テレビ番組の制作の世界ではそれなりに偉い方の様なのですが、ウィトという入れ墨に使う果実を(村人に騙されて)塗ってしまい全身がナスのように青黒くなってしまったり、言われたことは(実に素直に)何でも引き受けてしまったりと、まさに無茶苦茶な突撃取材を敢行します。

 何しろ、勧められたものは(昆虫だろうが泥水だろうが)何でも目の前で「うまい、うまい」と食べたり飲んだりし、部族の人にも呆れられる。現地の人が困っていれば作業は何でも手伝い、人懐っこい笑顔ですぐに溶け込み、気が付いたら人気者になっている。

 (例えば)アマゾン川を行くジャングル船「ヘンリー号」に乗船した「U字工事」は、船中にハンモックが吊るされた猥雑な状況に「大変な旅になりそうだ」と思わずつぶやきますが、ナスDの反応は「ワクワクする。この旅が面白くならないはずはない」というものでした。

 こうして、本来主役であるはずの「U字工事」が完全に食われてしまうような彼の人間的な魅力が、この番組の高視聴率を支える最大の「売り」と言ってもよいでしょう。

 彼自身からは、決して「屈強」という印象は受けません。むしろ「頼りない」印象の方が強いタイプの青年と言えるでしょう。しかし、その並外れた好奇心と、何よりも現代人が失ってしまった「タフ」な身体が、(私を含め)脆弱化した日本の視聴者に大変な魅力として映るのだろうと、内田氏の指摘から私も改めて感じているところです。


♯841 市民プライドランキング

2017年07月28日 | うんちく・小ネタ


 漫画家でコラムニストの辛酸なめ子氏は、6月15日の「女子SPA!」に寄せたコラム「埼玉系男子のややこしい自尊心に気をつけろ」において、埼玉県出身者の隠された地元意識(プライド)について触れています。

 埼玉系男子は、ふだんは「ダサイタマ」「東京の植民地」などと自嘲しているにも関わらず、その実、千葉に対して強烈なライバル心を抱いていたり、埼玉内部でも(浦和vs大宮、所沢vs川越など)地区同士対立するなど、意外なほど出身地域にプライドを持っていると辛酸氏はしています。

 もっとも、そのプライドも「ものすごく自信がある」といったものではなくて、東京は勿論、神奈川に対しては「かなわない」と最初から降伏しているのですが、千葉については、浦和と浦安を混同されてイラッとしたり、千葉が「東京ディズニーランド」「ららぽーと東京ベイ」と東京を名乗っているのを内心蔑視したりしているということです。

 氏は、都会すぎず田舎すぎない地域だからこそ、埼玉系男子の心境は複雑だとしています。東京の人に対しては「田舎なんで」と謙遜しながら、地方の人に対しては(一転)強気に出る。前述のように、「東京~」と付いた施設が多い千葉県を馬鹿にする一方で、地方や海外で住んでいるところを聞かれたら、「東京のほう」と答える人が多いのも埼玉系男子の特徴だということです。

 実際、東京育ちのふりをしている人の中にも、「隠れ埼玉系男子」は結構多いのではないかと辛酸氏は見ています。そうした人にうっかり埼玉のことを悪く言ったりすると、埼玉県民は埼玉の悪口を一生忘れないと氏はこのコラムに記しています。

 さて、埼玉県民に限らず、生まれ育った土地や文化に愛着やプライドを持った人は(意外に)多いのではないかと、最近思うようになりました。都会育ちが増えたことに加え、地域ごとの(生育環境の)違いが少なくなった現代でも、自らが依って立つアイデンティティのひとつとして、今でも故郷は重要な役割を果たしているような気がします。

 そんな折、三菱UFJリサーチ&コンサルティングが6月14日に発表した「市民のプライドランキング」が話題となっています。

 調査は、東京都区部と政令市の21都市で住民の居住地に対する誇りを感じているかを聞いたもの。2月下旬にインターネットを使い、各都市200人ずつに住んでいる都市に誇りを感じているかを10点満点で評価してもらい、10~8とした人の割合から4~0とした人の割合を引いて指数を算出し比較しています。

 調査報告書によると、最も誇りを感じている人の割合が多かったのは福岡市で、反対に最も少なかったのは相模原市だったということです。報告書はこの結果について、「福岡は九州地域で圧倒的な地位にあり住民が自信を持っている」と分析しています。また、政令市になって間もない相模原市(21位)や岡山市(20位)では、市民感情の醸成がまだまだ進んでいないといくことかもしれません。

 一方、首都圏に目を向けると、最高は横浜市の6位で東京都区部の9位がそれに続いています。

 「浜っ子」という言葉が示すように、戦後の首都圏では、港を中心としたその発展の様子からも横浜のステータスは(都心や山の手地区を除き)突出したものだったと言えるでしょう。また、都区部は調査結果がひとつにまとめられていますが、港区や千代田区、中央区や世田谷区など、区ごとに(居住地へのプライドを)聞いた場合には違った結果が得られたかもしれません。

 さらに、21都市から魅力を感じる都市を選ぶ別の質問で横浜市と都区部の住民はそれぞれ相手の都市を2位に挙げていることから、お互いに意識している様子が伺えると報告書は指摘しています。都心と横浜は同じ土俵で比較される、(都市として)繋がった関係にあるということなのかもしれません。

 なお、首都圏の他の都市では、川崎市が14位、さいたま市と千葉市が同率の18位など、下位に沈むところが多かったということです。こうした結果について報告書は、近隣の都区部や横浜市と比較して「胸を張りきれない感じを抱いているようだ」と見ています。また、一緒に行われた調査からも、相模原市民は横浜市を強く意識しており、自分が住んでいる市よりも横浜市に魅力を感じている人が多いことが明らかになったということです。

 さて、こうしてランキングを見ていくと、福岡(1位)、神戸(2位)、京都(3位)といった歴史的に見て固有の都市文化が発達してきた地方都市の住民ほど、その都市への愛着が強いことが判ります。そして、そこに表れている地元へのプライドは、埼玉系男子が言うところの「神奈川には負けるが千葉には勝つ」といった比較上の問題ではなく、個人のアイデンティティ形成している(何事にも代えがたいものとしての)感覚なのかもしれません。

 おそらく埼玉系男子の多くも、プライドを持って(地域に)暮らすことができる福岡や神戸の人々を、心から羨ましく思っていることでしょう。そして、埼玉系男子の諸君がそのようなプライドを持てるようになるまでには、もう少し時間がかかるに違いないと(こうした調査の結果から)私も改めて感じたところです。



♯840 医療費はこうして増え続ける

2017年07月27日 | 社会・経済


 日本の(地方税も含めた)税収の総額は、四半世紀前の平成2年度からほぼ58兆円近辺で推移しておりほとんど変わっていません。一方歳出を見れば、社会保障を除く一般歳出は8000億円程度しか増えていない一方で、社会保障費は20兆円を超える大きな伸びを示しています。

 さらに詳細を見ていくと、社会保障費の中でも、高齢化の影響を受け医療費の伸びが著しいことが判ります。

 現在、概ね45兆円程度に膨らんでいる現在の国民医療費の内訳を見ると、医師や看護師などの人件費が20兆円、医薬品が10兆円、医療材料が3兆円、そしてその他施設整備費や光熱水費などで11兆円が費やされています。

 一方、それに対する財源は、(大まかに言って)税金による負担が39%、保険料負担49%、患者の自己負担12%という構成で、9割近くが公的資金により賄われているという状況です。

 今後、さらに高齢化が進む日本の人口構成を考えれば、持続可能な社会保障制度を維持していくため、様々な角度から分析することで最も効果的な標準医療を確立していく必要があるのは言うまでもありません。

 無論、政府もこれまで医療費の増大に手をこまねいてきたわけではありません。

 例えば、薬価は改定のたびに引き下げられてきており、2001年の薬価を100とすれば2012は70.3と、3割近く引き下げられました。しかし、それでも実際の薬剤費は同じ期間に3割以上増えているのが現状で、高齢化による使用量の増加に加え新たに保険収載される新薬がその原因と考えられています。

 また、各都道府県では2025年の医療の提供体制を示す「地域医療構想」をまとめており、今後の10年間で全国で計15万床以上の入院ベッドを減らす計画を立てています。医療の供給体制を見直し病床数を減らすことで、過剰な入院治療を抑えていこうという目論見です。

 さて、対応を迫られているこうした医療費の状況を踏まえ、4月11日の日本経済新聞では、慶応義塾大学教授の印南一路(いんなみ・いちろ)氏が、持続可能な社会保障制度を確立する観点から「医療費が膨張を続ける理由」について興味深い考察を加えています。

 日本の国民医療費はそのまま市場規模を示すものであり、つまり言い換えれば医療は40兆円を超える「巨大産業」に他ならないと、印南氏はこの論評で指摘しています。

 そのうち製薬産業、医療機器・材料産業だけでも10兆円超の規模があり、自動車産業と納税額を競っているということです。こうしたマーケットに介護市場の10兆円を加えると、医療・介護の市場規模は50兆円を超え、医師、看護師、介護士をはじめとする従事者も600万人に上ります。

 因みに、日本の主要な産業の市場規模を見ると、食品産業でおよそ18兆円、通信産業が29兆円、銀行業が21兆円、機械が26兆円といったところですので、経済的に見ても「産業」としてのこの分野が、日本の経済(そして、社会や政治)に及ぼす影響の大きさが判ります。

 当然これらの関係者は、基本的には医療費の増加を歓迎し、既得権益を守るために業界団体を通じて関係機関に働きかけると印南氏は説明しています。

 医療政策は政府の審議会などで議論され決められていくわけですが、そこには(あまりに)専門的で一般国民には理解し難い部分があるのも事実です。さらに、民主主義国家では基本的に合意形成が重視されるので、政策が採用されるまで長い時間がかかるのも(ある程度は)やむを得ないことかもしれません。

 しかしながら、(そうした理由ばかりでなく)産業としての影響力の大きさや専門家に独占された議論が、制度改革を阻む要因となっていることもあながち否定はできません。

 例えば、医師の地域・診療科偏在問題は指摘されてから40年以上も解決されていないことを見ても、その難しさはよくわかります。印南氏によれば、強力な政策が採用されても激変緩和の名の下に経過措置が設けられ、中にはそのまま長期間継続しているものも少なくないということです。

 一方、国民はと言えば、健康・医療が国民の最大の関心事であるにもかかわらず、自分が払う自己負担額や保険料には関心はあっても、制度全体の持続性に関心を持つ人は決して多くないと印南氏は指摘しています。

 国民皆保険は世界に誇れる素晴らしい制度だが、作られてから既に半世紀が経過し、これまで制度を維持するために払われた血のにじむような努力が忘れ去られているのではないかというのが、こうした問題に対する印南氏の認識です。

 例えば、1973年の老人医療費の無料化で過剰に医療費が増えその修正に10年近い年月を要したのに、今度は未就学児・就学児の医療費無料化措置が全国で拡大していると氏は指摘しています。

 また、3.8兆円に及ぶ生活保護費の約半分が医療扶助で占められている現状を見ても、無料化がいかに医療費の無駄使いを助長するかがわかるということです。

 社会全体のコストを無視し、財源の手当てを考えない政策は「無責任」だと、印南氏はこの論評で強調しています。

 高齢者や小中学生や低所得者など、一見、社会的に弱い立場にある人々に優しく見える政策を拡大するヒューマニスティックな力が、実は医療費問題の解決を難しくしていると氏は考えています。

 内外からの拡大圧力に耐え切れず(世界に誇る)国民皆保険制度自体が破綻するようなことがあれば、結局、そのツケを払わなければならないのはそうした立場にある人々であることは言うまでもありません。

 医療費の分析から得られる抑制策はどれも重要ですが、少なくとも現時点では「決定的」な対策とまでは言えないようだと、この論評の最後に印南氏は述べています。

 そうした中、診療報酬の単価を一律に切り下げるような極端な措置に訴えずに、(制度への極力少なくするような形で)医療費の伸びを抑えていくにはどうしたら良いのか。

 社会の状況に合わせ将来世代に負担を残さないよう、利害関係者自らがそれぞれ(地道に)知恵をしぼっていく必要があると、この論評から私も改めて心に留めたところです。



♯839 動物のお医者さん

2017年07月26日 | ニュース


 学校法人「加計学園」の獣医学部新設問題などをめぐる、衆院予算委員会の閉会中審査が、7月24日安倍晋三首相出席の下で始まりました。

 答弁において安倍首相は、「友人が関わること、疑念の目が向けられるのはもっとも。」としたうえで、内閣支持率が低下していることについて「国民の声であり、真摯に受け止めたい」と表明。安倍内閣の支持率低下の背景に「今議論している獣医学部の新設の問題等についての私の答弁、説明の姿勢についてのご批判もあるであろうと考えている。」と、自身の答弁姿勢によって国民の不信感が募ったことにあらためて反省の弁を述べています。

 加計学園の獣医学部設置を巡る一連の問題は、(確かに答弁の態度もあるかもしれませんが)基本的には国家戦略特区を設置して認可を得るまでの手続きが公正なものだったかどうか争点となっています。手続きを進めた内閣府や文部科学省の職員の間に、安倍首相への(いわゆる)「忖度」があったのか、なかったのかということです。

 しかし、よくよく考えれば、(手続きの適正さはともかくとして)この問題を考えるに当たっては、さらに大切な要素として、愛媛松山に相当規模の新たな獣医学部を作ることが国民にとって「プラス」になるのか、それとも「マイナス」に働くのかという点があることを忘れるわけにはいきません。

 1984年(昭和59年)以降、文部科学省は、「将来的に獣医師が過剰となる」とする獣医師会の意向などを踏まえ、既存の16大学以外が獣医学部を新設することを認めず、入学定員を規制する措置を取り続けてきました。

 52年もの長期間にわたって獣医学部新設を阻んできた文部科学省と、これを「岩盤規制」と評して改革を進めてきた内閣府は、(ある意味)対立関係にあったのは事実です。

 それぞれに言い分はあると思いますが、規制緩和の是非に関するこのような部分については、(総理の言う「対応」の巧拙などとは切り離し)感情論に惑わされない冷静な議論が必要となるのは言うまでもありません。

 獣医師育成への規制を、今後も続けるべきか否か。7月20日の日本経済新聞では「獣医師は不足?過剰?加計問題で関心高まる」と題する記事において、こうした獣医師の需給問題に言及しています。

 農林水産省は依然「獣医師は足りている」との見解だが、獣医師はペット医、公務員、製薬など分野により現状や将来の人材需給が異なると記事は説明しています。

 例えば、公務員獣医は、食中毒対策や食肉検査などの公衆衛生分野に加え、感染症予防や畜産指導などの農業分野に携わるなど行政の様々な分野で活躍しています。しかし、現在では公務員獣医を目指す若者は少なくなり、獣医学部の卒業生を(手当などを上積みすることで)自治体が取り合っているような状況にあるということです。

 記事によれば、公務員や家畜を診る獣医師は1990年時点で15000人弱と、獣医師全体の6割を占めていたということです。しかし、その後のペットブームの到来により犬・猫などを診る小動物医が2.6倍にまで増加し、(需要に合わせて獣医学部定数が増えないこともあって)その分公務員獣医師にしわ寄せがきたと考えられています。

 こうした状況は、今回の学部新設の議論にも影響を与えており、安倍首相は国会答弁等において、今回の特区設置を突破口に獣医学部の入学定員に関する規制を(全国的に)緩和していく方向性を示しています。

 しかし、一方で、これまで獣医師の需要を拡大してきたペットブームにも、既に陰りが見え始めているとする意見もあるようです。

 一般社団法人「ペットフード協会」によれば、日本の犬・猫の飼育頭数は2011年にピークを打った後、2016年には1972万頭とその後の5年間で8万頭余り減少しているということです。

 獣医師会では(間もなく)ペット医が過剰になる時代が訪れると警戒しており、実際、マーケットの縮小によっていわゆる「動物病院」の商売が成り立たないケースも増えると認識されていると記事は説明しています。

 一方、獣医師の需給を巡る状況に対しては、異なる意見もあるようです。

 山本幸三地方創生相は7月4日の記者会見で、公務員の獣医師が不足しているのは「小動物獣医師が儲けるからだ」と述べ、ペットを診る小動物獣医師の待遇が良すぎるとの認識を示したと(翌日の)朝日新聞は報じています。

 なので、獣医学部をつくって獣医師を増やせば、ペット診療の「価格破壊」が起きて小動物獣医師の給与が下がり、相対的に給与が低いとされる公務員獣医師の不足も緩和されるだろうと、(山本大臣は)持論を述べたということです。

 同じ6年制大学で学び国家資格が必要な歯科医師の場合、歯科医師不足が指摘された1970年代以降大学の新設が相次いだことは広く知られています。その結果、現在では歯科医院の数はコンビニよりも多いと言われ、政府は削減の方針を打ち出している状況にあるのも事実です。

 また、そうした状況から歯学部の志望者は現在減少傾向にあり、記事によれば、日本歯科医師会では(若い)歯科医師に「質」の低下が起きていると指摘しているということです。

 さて、それでは翻って、今後、獣医師がさらに増えることで、本当に獣医師の質の低下が起こるのか。国民生活にマイナスの影響が出るような事態に陥る可能性があるのかというのが、今回の問題の(最終的な)論点となるでしょう。

 獣医師の育成数を、これから先も国が管理すべきなのか、それとも市場原理に任すべきなのか。

 ここで敢えて言うならば、獣医師免許を持っているからと言って、動物病院を開業しなくてはならないわけではありません。現に公務員獣医は大きく不足しているわけであり、産業動物を扱う畜産獣医も足りません。また、獣医師の資格は生物科学系の専門知識を有する証であり、例えば教員や生物化学産業、食品産業、化粧品産業などの幅広い分野で活躍の場が提供されることでしょう。

 また、街中の動物病院に関して言えば、供給が増えて競争が激しくなれば、サービスは磨かれ価格も市場原理により下がって、国民生活にメリットを与えることは十分に予想されるところです。

 取りあえず、若者に獣医学部が人気なのは事実のようです。それでは、獣医師の資格を持つ若者が増えることで困るのは一体誰なのか。それは、改めて指摘するまでもないでしょう。

 例えどのような規制であっても、国民の利益になるのならそれで構わないとは思いますが、四半世紀もの時間の経過を考えれば、社会の変化とともに様々な見直しが必要になることもまた必然と考える次第です。


♯838 「男は顔だ」という話

2017年07月25日 | 日記・エッセイ・コラム


 土曜日の日経新聞と一緒に配達されている生活情報誌「NIKKEIプラス1」に、「なやみのとびら」と題する相談コーナーが連載されています。読者の日々のお悩みに、作家や脚本家、女優などのクリエイティブな仕事をしている方々がまじめにお答えをするというコーナーです。

 3月4日の回答者は脚本家の大石静さん。TVドラマ「長男の嫁」や「ふたりっ子」、最近では「セカンドバージンン」「家売るオンナ」などの人気作品を世に出している先生です。

 気になる相談内容は、「30歳までに結婚する!」と決めている28歳女性からの、「誠実だけど彼氏の外見が好みじゃない」という(本人にとってはある意味)深刻なお悩みです。

 相談者には今、付き合って半年になる6歳年上の彼氏がいます。誠実な人で、彼女をとても大切にしてくれる。性格は合うし彼からも結婚してほしいと言われているということです。

 でも、(残念なことに)外見がタイプじゃない。もっとイケメンがいいなと相談者は思ってしまうということです。

 このお悩みに対し、回答者の大石さんは開口一番「男は顔だ」と言い切ります。大石さんによれば、「顔じゃないよ心だよ」などという世の中の常識は偽善に過ぎないということです。

 大石さんは相談者に「顔が気に入らなければ結婚はなさらない方がよいと思う」と、(実に男らしく)断言しています。

 これもよく言われることだけれど、はっきり言って性格は隠せるけれど顔は隠せない。 仕事仲間であれば顔を必要以上に近づけることはないが、恋人や夫婦であれば(嫌でも)息がかかるほど間近に相手の顔を見ざるを得ないということです。

 顔が間近にあることをうれしいと思わない人と、肉体関係を持てるかどうか。もしも持てたとしても、目の前の顔が嫌いではしあわせの実感は薄いのではないか。さらに言えば、そこで子供が生まれたとして、好きでない顔の人に似た顔の子供を愛せるかというハードルもあるでしょう。

 肉体的な相性がよかったとしても、顔が好みでないと、そのセックスは将来への夢や希望を生み出さないと大石さんは彼女を説得しています。

 恋愛と違って結婚は社会的なものですから、必ず夫婦は“対”で見られることになると大石さんは言います。

 その時、好みでない風貌の人と、常に対で見られることに耐えられるのか。「お似合いね」などと言われて、いちいち「顔じゃないの、心なの。」と、胸の中で言い訳する空しい作業に耐えられるのかという指摘もあります。

 大石さんは、結婚して一つ屋根の下で暮らせば、男はいずれ必ず身勝手な一面を見せることになると断じています。今は優しくとも、だらしない姿も見せればずうずうしくもなる。(男性としては随分な言いぶりにも聞こえますが)思いやりを忘れ、精神的浮き沈みも妻に垂れ流すようになるということです。

 顔が好きな人だったとしても、「どうしてこんな人と一緒になったのかしら?」と思う瞬間は、必ずあるはずだと大石さんは断言します。しかし、もしも好きではない顔の男と一緒になれば、その時の絶望感は(好きな顔の場合と比べて)何十倍にもなって、あなたを襲うことになるというのが、顔の好みに対する大石さんの見解です。

 不思議なことに、好きな顔であれば「とんでもない奴だ!」と思っても、回復のチャンスはいくらでも訪れると、大石さんは(自らの経験を踏まえ)そう確信しています。次の瞬間、彼がふっとほほ笑めば、「ま、いいか」と思えるかもしれないということです。

 ぜいたくな生活を与えてくれそうな金持ち男でも、社会的地位を与えてくれそうなステイタス男でも、顔がタイプでないなら結婚はやめた方がいいと大石氏は言います。

 「何か違う」という小さなわだかまり積み重なって、いつか必ず爆発し、運が悪ければ夫婦関係は破たんする。理屈や損得から生まれた人間関係とは、それほど脆いものだということでしょう。

 なるほど、人が大切な何かを決める時に、第一印象というのは結構大切なものなのかもしれません。

 結婚するならまずは「顔」で、それから他の条件だと結ぶ大石さんの回答を読んで、その洞察力の深さと(何よりも)人生に対する潔さに、人気脚本家の神髄を見た気がしました。



♯837 社会保険料という名の「税」

2017年07月24日 | 社会・経済


 経団連は4月27日、「子育て支援策などの財源に関する基本的な考え方」を発表し、自民党が提案している「こども保険」関し、公平性などの観点から国民的な議論を喚起していく必要があると指摘しています。

 自民党内の小委員会から提案された「こども保険」は、子どもが必要とする保育や教育などに対する給付の財源に勤労者が負担している社会保険料の一部を充てようとするものです。

 具体的には、現在の厚生年金保険料率に0.2%(事業主0.1%、勤労者0.1%)を上乗せし、自営業者などの国民年金加入者には月160円の追加負担を求めることで、当面、約3,400億円を確保するとしています。

 一方、今回の提案について経団連では、「世代間の公平性の問題」「世代内の公平性の問題」「使途の問題」の3つの問題があると指摘しています。

 特に、年金保険料を支払う現役世代と事業主のみが追加負担が求められることについては、高齢者や専業主婦(夫)、年金保険の未加入者・保険料未納者は負担しないため、社会全体で支える仕組みになっていないと厳しく非難しています。

 もとより、少子高齢化と総人口の減少は、日本が抱える最大の構造問題のひとつと考えられます。そうした中、減り続ける働き手が負担する保険料で、増え続ける社会保障給付を賄う現在の手法が早晩行きづまることは容易に想像できます。

 つまるところ、消費税増税を先送りする一方で、「取りやすいところから取る」といった(政治的に)安直な財源確保を図る試みは、既に限界にきているのではないか。負担と給付に関する世代間の不公平がかつてないほど高まっている現状を考えれば、世代を超えて「持てる者」から「持たざる者」への所得移転を促す制度改革が急務と言えるということです。

 さて、こうした状況を踏まえ、4月27日の日本経済新聞「中外時評」では、同紙上級論説委員の実哲也(じつ・てつや)氏が「社会保険という名の税」と題する論評において、日本の社会保障の負担の在り方について厳しい指摘を行っています。

 政権へのダメージのあまりの大きさから消費税増税の議論が遅々として進まない中、知らぬ間に静かに、しかも着実に上がり続けている「税」が日本にもある。それは「社会保険料」という名の税だと、実氏はこの論評の冒頭に記しています。

 従業員が払う社会保険料率は既に給与の15%近くに達し、この10年で実に2割以上増えています。賃金が原資という点では税も社会保険料も基本は一緒で、実際、米国では高齢者医療や年金の財源を「給与税」と呼ぶ税で賄っているということです。

 もちろん、社会保険は、「保険料」という負担に見合う形で医療や年金の「給付」を受けられる仕組みですから、政策目的で徴収される税とは本来別物のはずです。しかし(その一方で)、こうした保険料の性格は、次第に税に近づきつつあると、この論評で実氏は指摘しています。

 氏によれば、その典型が健康保険料だということです。

 実際のところ、健康保険の保険料率が毎年上がっている最大の原因は、健保組合員の医療費とは直接関係ない高齢者医療への「支援金」が増えていることにあると氏は説明しています。

 健康保険組合連合会の最近の発表からは、今年度に従業員が払う保険料収入の実に44.5%が高齢者医療への支援金に充てられていることが判る。比率が5割を超す組合も全体の4分の1に達しており、支援金は高齢化の加速に伴い一段と膨らむ見通しだということです。

 これでは、健康管理努力で組合員の医療費と保険料を抑えようとしても焼け石に水。保険料率は組合員の医療費とは関係なく、限りなく上昇する恐れがあると氏はしています。

 こうした現状について、一橋大学教授の佐藤主光(さとう・もとひろ)氏は「このままでは健保組合は持たない」とし、「支援金は高齢者への所得の再配分であり本来は税金で賄うのが筋。組合員のための保険料という看板を掲げて勤労者に負担を押しつけるのは不公平」と指摘しているということです。

 増税はできないが、保険料の引き上げなら抵抗は少ないからこれを活用すればいい。そうした(その場しのぎの)やりくりは既に限界にきている。税と社会保険料のあり方をセットで考え、日本の社会保障が直面する課題にこたえる道を探る必要があると、実氏もこの論評で主張しています。

 一方、実氏は、その実現に当たっては課題が(大きく)2つあるとの指摘を行っています。

 1つは、高齢化などに伴う医療費の膨張を抑えつつ、どうその経費を賄うかということ。そしてもう1つは、社会保障の仕組みを「現役層が高齢層を支える」形から、「年齢に関係なく真に困っている人を困っていない人が支える」仕組みに転換していくことだということです。

 医療費の抑制には、国の努力に加え、(平成30年度から新たに国民健康保険の運営主体になる)都道府県などが医療効率化へ動くよう促す仕組みをつくることが欠かせません。しかし、専門家の間でも、責任の所在が曖昧なままで道は険しいとの声も多いということです。

 また、高齢者医療費については、支払い能力がある高齢者にもっと負担してもらう以外は、国民全体で広く薄く負担するしかないと氏は言います。この部分については、増える費用の大きさも考えればやはり消費増税が第一の選択肢になるだろうということです。

 一方、(前出の)佐藤教授は、「健保の保険料のうち高齢者医療支援に充てている分は、金融所得などに課税ベースを広げた社会連帯税に転換すべきだ」と主張しているということです。真に困っている人を支える仕組みはどうつくるか。専門家の間には、「保険料頼みのままだと、低所得労働者が豊かな高齢者を支える逆の再配分さえ起きる」という声もあるようです。

 いずれにしても、こうした社会コストを誰がどのように負担していくかに関しては、税と社会保険料を「同じ土俵」に載せた制度設計が欠かせないと実氏は説明しています。

 このままでは、ほぼ自動的に「賃金税」としての保険料が増えて勤労者の手取り収入が減ったり、借金という形で将来世代につけが回ったりするだけだ。それを見て見ぬふりをするなら政治の責任放棄といわれても仕方がないとこの論評を結ぶ氏の指摘を、私も改めて重く受け止めたところです。




♯836 改めて「草食化」を考える

2017年07月23日 | 社会・経済


 2月22日の毎日新聞の紙面において、日本家族計画協会クリニック所長の北村邦夫氏が、日本における人工妊娠中絶の現状について説明しています。

 昨年11月に国が発表した人工妊娠中絶統計によれば、2015年度の中絶届出数は17万6388件で前年度よりも5517件減少し、統計史上初めて18万件を割り込んだということです。1955年度の中絶数が届出数だけで約117万件だったことを考えればまさに隔世の感があると、北村氏はこのレポートに記しています。

 氏によれは、中絶は妊娠の結果であり妊娠は性行為によっておこるわけなので
(1) 確実な避妊が行われている
(2) 出生数が増えている
(3) 性行動の停滞
などが、昨今の中絶減少の要因として考えられるということです。

 それでは、この60余年の間に日本人に一体何が起こったというのでしょうか?

 日本家族計画協会が昨年実施した調査(第8回「男女の生活と意識に関する調査」)によれば、ピルや月経困難症の治療薬である低用量ホルモン代の使用者は調査対象のわずかに4.2%で、緊急避妊薬についても中絶実施率に影響を及ぼすほどには普及していないと氏はしています。因みに、フランスやオランダではピルの使用率は(対象年齢の女性の)4割を超えているということです。

 一方、妊娠能力が一定であるとすれば、中絶実施率の減少は出生率の増加を招くはずですが、2016年の出生数は1899年の統計開始以来初の100万人割れが話題になるなど(少なくとも)増加の事実はないと北村氏は指摘しています。

 こうして、出生率の低下や、定点報告から見た性感染症の罹患率の低下、中絶率の減少などを考え合せると、(消去法的に)性行動の停滞がこうした結果をもたらしていると考えざるを得ないというのが、日本における中絶数の減少に対する北村氏の認識です。

 さて、昨年9月に発表された国立社会保障・人口問題研究所の調査(第8回「結婚と出産に関する全国調査」)によれば、交際相手のいない未婚者が男性で7割、女性でも6割に上っていることが判ります。これは5年前の前回調査に比べて男女とも10ポイント近い伸びになっているうえ、交際自体を望んでいない人が未婚男性の約30%、女性の約25%に及んでいることも見て取れます。

 さらに、性交渉の経験がない(いわゆる「童貞」「処女」の)独身者の割合も男性が42%、女性で44.2%と男女とも増加傾向にあり、30~34歳に限っても、男性の約4分の1(25.6%)、女性約3分の1(31.3%)が性経験がなかったということです。

 また、前出の「男女の生活と意識に関する調査」では、性交渉の頻度にも踏み込んでいます。(性経験がない人を除いた)約1000人に過去1カ月間の交渉回数を聞いたところ、男性の53.4%、女性の48.8%が「しなかった」と回答し、その割合は5年前に比べ、男性で5.1ポイント増加、女性では1.3ポイント減少と、特に男性で(いわゆる)セックスレス化が進んでいることが顕著に表れています。

 さらにこれを既婚者(655人)の回答に限ってみても、47.2%(男性47.3%、女性47.1%)が「この1カ月間性行為をしなかった」セックスレス状態にあることが判ったということです。

 こうした既婚者に対し、性交渉に積極的になれない理由を聞いたところ、男性では「仕事で疲れている」が35.2%、「家族(肉親)のように思えるから」(12.8%)、「出産後何となく」(12.0%)が上位に。また、女性では「面倒くさい」(22.3%)、「出産後何となく」(20.1%)、「仕事で疲れている」(17.4%)の順に多かったということです。

 調査報告書によると、男性では「仕事で疲れている」が16年に急増。「家族(肉親)のように思えるから」が増加傾向で、「面倒くさい」は減少。一方、女性では「面倒くさい」が(同様に減少傾向にはあるものの)4回連続でトップで、男性と比べ15.1ポイントもの差があるとされています。

 なお、男性の週平均労働時間とセックスレスの関係を調べたところでは、労働時間と性交渉の頻度の相関は見られない一方で、男性の場合、世帯の年間収入が1000万円以上の人でセックスレスの割合が高い傾向にあったということです。

 さて、20代から40代と言えば、人生の中でも最も心身ともに充実し、(繁殖に適した)脂の乗った安定した時期と言えるでしょう。そうした年代の人々の(遺伝子を次代に繋ごうという)生物的な意欲が「何者か」に奪われつつあるのが、現在の日本の状況と言えるのかもしれません。

 人間関係が淡白になる中で、どうすればエネルギッシュな若者が育っていくのか。

 思えば日本人が狂乱した「バブルの時代」であっても、出生率はそれほど高かったわけではありません。「時代の空気」と言ってしまえばそれまでですが、ベビーブームの到来には(おそらくは)その契機となる出来事が必要で、景気が良ければ(それで)安心して子供を産めるといったものでもないでしょう。

 やはり、このような(20~40代の)世代の人々が未来に希望を持てるようにすること、彼らが社会の主役になって人生に向きあえる環境を作ることなどが重要なカギを握っているのではないかと、(漠然とではありますが)私も改めて感じている次第です。



♯835 「自治体ポイント」の行方

2017年07月22日 | 社会・経済


 7月20日の読売新聞(電子版)は、政府が、全国の地方自治体が健康増進イベントや地域貢献活動などに参加した住民に発行しているポイントを「自治体ポイント」としてマイナンバーカードに合算し、買い物や公共施設などで利用できる制度を9月にも開始することになったと報じています。

 報道によると、全国で1800ある自治体のうち、約3割に当たるおよそ500の自治体が健康ウォークや特定健診などの健康事業のほか、子育て支援や清掃などのボランティアに参加した住民に「ポイント」を発行する事業を行っているということです。

 集められたポイントは、多くの場合地域産品や商品券などに変えることができ、住民にこうした行動へのインセンティブを与える形になっています。

 一方、このような事業に対しては、従来から「自治体ごとにバラバラのポイント制は使いにくい」などの声も上がっていたということであり、総務省では専門家らによる研究会を開催し統一されたポイントカード制の在り方について検討を重ねてきたということです。

 記事によれば、今回の総務省の案は、マイナンバーカードのICチップを活用してそれぞれの事業のポイントを合算し、原則「1ポイント=1円」で使用可能にするものだということです。その大元には、こうした取り組みによって(最近どうにもパッとしない)マイナンバーカードの利用価値を高め、地域振興やマイナンバーカードの普及につなげる狙いがあるとされています。

 さて、現在のマイナンバーカードの申請・発行・交付状況を見ると、申請受付数は14,119,344件(2017年7月3日現在)、交付済み数は11,887,676件と、既に約9人に1人がマイナンバーカードを保有していることが判ります。

 これを「多い」と見るか「少ない」と見るかは意見が分かれるところですが、総務省としては2000億円を超える莫大な予算をかけ鳴り物入りで整備したマイナンバーシステムを、(この辺で)何とか普及させたいという思いがあるのは事実でしょう。(民間も含め)様々なポイント制度をマイナンバーカード1枚に集約させれば、カードの周知が進むだろうと考えたのも無理はないと言えるかもしれません。

 しかし、地域貢献などを一枚のカードに集約してポイント化しようというこの試み。思いつきとしては、ちょっと便利で悪くないような気もしますが、こうした提案に何となく「胡散臭い」ような感覚を抱く人も、もしかしたら多いかもしれません。

 きちんと納税をしている人、寄付をしている人、自治会の役員をしている人、消防団員をしている人、地元の防犯活動をしている人、そして棄権せずに選挙に行っている人。そうした個人の行動が次々とポイント化されマイナンバーによって紐づけされていく。

 その結果、そうして積みあげられたポイントの多寡で、住民が格付けされ評価されるのではないか。ラジオ体操に早起きして毎朝行く子供はいい子だから1ポイント、授業で10回手を挙げれば1ポイント、図書委員は5ポイントだけれど、学級委員をやれば10ポイントとランキングされ、内申書にトータルポイントが記されるとすればどうなのか。

 同様に、あの人はこんなに「良いこと」をしているけれど、こっちの人はちょっと…。○○ポイントたまれば公営住宅に優先的に入れるとか、役所に相談に行っても優先的に話を聞いてもらえるとか…インセンティブがエスカレートしないとは誰も言い切れません。

 役所の求めるままにポイントを貯めるとは、実はそういうことなのかもしれません。権力にとって、こうして貯まった(公的な)ポイントを一覧できるということは、言い換えれば住民を(その行動によって)「格付け」できるということにもなるでしょう。

 (少し「ひねくれている」と言われるかもしれませんが)役所の言うことをよく聞いた人には(まとめて)「ご褒美」をあげると言われても、少し眉に唾を付けて話を聞く必要があるのではないかと、今回の「自治体ポイント」の報道から改めて感じたところです。



♯834 緊迫する朝鮮半島情勢

2017年07月21日 | 国際・政治


 様々なメディアで活躍されている「コリア・レポート」編集長の辺真一(ピョン・ジンイル)氏による、緊迫する朝鮮半島情勢に関する講演を伺う機会がありました。

 話はまず、朴槿恵(パク・クネ)大統領の弾劾成立と文在寅(ムン・ジェイン)新大統領就任という、政治的に大きな動きのあった韓国の情勢からです。

 姿かたちはよく似ているけれど、韓国人と日本人の気質は大きく異なると辺氏は言います。

 朴前大統領ばかりでなく、大統領を通じて国政に関与したとされる崔順実(チェ・スンシル)氏やその娘で大学生のチョン・ユラ氏まで逮捕されている。また、韓国随一のグローバル企業であるサムスン電子の実質的なトップである李在鎔(イ・ジェヨン)副会長、さらに大統領府の首席秘書官をはじめとした現職官僚も軒並み逮捕・収監されているということです。

 韓国の世論がそれを後押ししており、朴政権への期待が大きかっただけにその反動も含めて追及は感情的なものとなっている。振り子の振れ幅が大きく、徹底してやらなければ収まらないのが韓国人の気質とも言えると、辺氏は現在の韓国の政治情勢を説明しています。

 一方、日本では「反日・親北朝鮮」と見なされ危険視されている文在寅大統領については、これまでの韓国大統領との比較において「特に反日」というわけではないと辺氏は指摘しています。

 韓国の政治家は(韓国の世論を受けて)押しなべて反日であり、彼が特に際立っているわけではない。氏によれば、例えば文大統領が師と仰ぐ金大中氏が大統領に就任した際も日本では相当警戒されたが、蓋を開ければ(韓流ブームに火が付くなど)対日関係はかえって進展したということです。

 氏はまた、慰安婦に関する日韓合意の問題についても、(恐らく)これ以上悪くなることはないだろうと見ています。

 文大統領は、慰安婦の支援団体に信頼されている政治家です。なので、日本大使館前の少女像などについても、例えば団体の理解を得て、移転などの現実的な対応を模索するのではないかと指摘しています。

 一方、その文大統領は、6月のG20での日米韓首脳会談においてトランプ大統領と直接「北朝鮮問題では協調して対応する」ことを確認したにもかかわらず、帰国早々に北朝鮮に軍事会談と赤十字会談を呼び掛け米国の顰蹙を買っています。

 北朝鮮への制裁強化を躊躇する中国への圧力を強めているトランプ政権にとって、文大統領の一方的な対北融和アプローチは「戦略的関与政策」の障害になりかねないと見られているということです。

 勿論、米国と同一歩調を取る日本の安倍政権も、こうした韓国の動きを日米韓の足並みを乱すスタンドプレーとして非難しています。ただし、米国の軍事行動を含む性急な動きを懸念する中国は、外交部を通じて「朝鮮半島情勢の緩和に役立つ」と熱烈歓迎しているということです。

 こうした、北朝鮮をめぐる韓国の唐突とも取れる動きに関し、辺氏は、文在寅大統領は今回の渡米やトランプ大統領との会談において、北朝鮮問題がいかに深刻な危機的状況にあるかを初めて理解したのではないかと説明しています。

 米国に追従しているだけでは戦争を免れないことに気づき、今動かないと韓国の国民や国土を守れないという(文氏なりの)判断が、そこにはあったのではないかということです。

 実際、支持率が急降下している米国トランプ政権にとって、7月4日にICBMを発射し(いわゆる)レッドラインを超えた北朝鮮への軍事行動は、支持率上昇への願ってもないチャンスだと辺氏は指摘しています。

 国土そのものへの攻撃をほとんど受けたことのない米国国民にとって、ICBMと核弾頭の組み合わせは最大の脅威に映っているはず。そうした中、アメリカン・ファーストのトランプ大統領にとって、韓国や日本が(北朝鮮からの報復によって)多少の被害を受けてもあまり考慮する必要は無いというのが、現在の状況に対する辺氏の見解です。

 そんな米国にとって、北朝鮮への軍事行動を行うに当たっての最大の課題は、在韓米国人(特に民間人)の退避だと辺氏は語っています。

 このため米軍は、昨年9月に7年ぶりの民間人を対象とした退避訓練を行った。今年に入っても、航空機などを使った17000人規模の大規模な退避訓練をさらに実施したということです。

 日本でも、官邸の主導により、基地所在地を中心に各地でミサイル着弾を想定した大規模な避難訓練が各地で始められています。こうした状況に、辺氏は「日本の国民はまだピンと来ていないようだけれど、これから先は何があるか分からない」としています。

 氏は、朝鮮人の喧嘩の仕方の特徴は、(その気質から)合理性に欠け感情的になりやすいところにあると説明しています。(彼らは)自分が死んでもかまわないから相手を倒したい、プライドをかけて「一矢報いたい」という思いが強いということです。

 折しも、ICBMはあと1~2度の発射実験で完成の域に入ると見られているということです。また、次の6回目の核実験で、核弾頭の小型化も一定の目途がつくと辺氏は説明しています。

 氏は、これまでも、こと「核」と「ミサイル」に関しては、北朝鮮は有言実行を貫ききちんと成果を出してきたと言います。そう考えれば、「トランプにICBMをプレゼントし続ける」と息巻く金正恩朝鮮労働党委員長の強気も、まんざら「はったり」ではないだろうということです。

 辺氏は、戦前の日本も結局、広島と長崎に原爆を落とされるまで米国に屈服しなかったと指摘しています。

 北朝鮮も(恐らくは国家ぐるみで)そうしたヒステリー状態にある。ごく近い将来、北朝鮮がICBNと核弾頭を手にする直前のタイミングで、予想不能なトランプ大統領とコントロール不能な金正恩委員長のチキンレースは、いよいよ最終局面を迎えることになるのではないかというのが、現在の朝鮮半島情勢に対する辺氏の認識です。

 結局、米国は(必ず)軍事行動を選択するというのが、北朝鮮問題に対する辺氏の見立てとなります。米国軍部は最終的な勝利に自信を持っている。米国民の世論も(ICBMの脅威に耐えかね)軍事行動を支持するだろうということです。

 そうなれば、戦禍はソウルを中心に韓国の国土の大半に及ぶ可能性があることは言うまでもありません。日本にも(大都市や在日米軍基地を中心に)ミサイルが飛んできて、迎撃するとは言っても当然撃ち漏らすものも出て来る。中には、生物兵器や化学兵器が含まれているかもしれないと辺氏は話しています。

 そうした危機の到来を(本気で)止めようと動いているのは、現在の国際情勢の中では(もしかしたら)韓国の文政権だけかもしれないと辺氏は指摘しています。もしもそれが上手くいかなければ、8月から9月にかけて最終局面が訪れるということです。

 果たして、米軍による北朝鮮への軍事行動はあるのか、ないのか。

 先行きは読めないけれど、いずれにしても今年の東アジアの夏は相当に「熱い」ものになるだろうと結ばれた氏の講演を、私も大変なリアリティをもって聞いたところです。



♯833 THAAD配備と韓国世論

2017年07月20日 | 国際・政治


 米紙「ウォール・ストリート・ジャーナル」は6月7日に掲載された「韓国の防衛上の大失策 新大統領はミサイル防衛についての中国の圧力に屈した」との社説において、文在寅(ムン・ジェイン)韓国大統領によるTHAAD(終末高高度地域防衛)ミサイルの韓国国内への配備を一部中断する決定を批判しています。

 中・米・ロ・日などの強国の間でバランスをとりつつ北朝鮮との協調を模索するという文大統領の決定に対し、同紙は(当然、米国の立場からではありますが)「このナイーブさが韓国の安全保障を危機にさらす」と強く非難しています。

 米国のTHAADが北のミサイル攻撃に(技術的にも、政治的にも)有効なことは明らかで、費用も米国が10億ドル負担するので問題ないと同紙は指摘しています。それにもかかわらず、韓国が米軍のTHAAD配備を了承できない背景に中国の圧力があることは、確かに記事の指摘を待つまでもないようです。

 広く知られているように、中国はTHAADのレーダーで中国の空域を覗き見られることに強い懸念を抱き、経済面を中心に非公式な制裁を韓国に課してきました。文大統領が今回(こうした)中国の「圧力」に屈して新しい発射台の配備を2年間遅らせる決定をしたことに関し、多くの韓国人は信じられない気持ちでいると同紙は説明しています。

 北朝鮮に対する対ミサイル能力の強化は、韓国にとってまさに「生き残り」をかけた(最優先の)問題であるはずですが、それよりも大きな危機が韓国と「大国」中国との間に生まれているということなのでしょうか。

 7月11日、韓国に駐留する米第8軍のトーマス・ベンダル司令官は取材に応え、慶尚北道星州に配備された在韓米軍の高高度防衛ミサイル(THAAD)を撤回した場合、「約1000万人を超える韓国国民が危険に直面するだろう」と話しています。

 (朝鮮半島南部地域の広域防衛を可能とする)THAADの配備が撤回された場合の問題について米第8軍司令官が公の場で具体的に言及するのは今回が初めてのこと。同司令官によれば、現在配備されている局地防衛能力しか持たないパトリオット・ミサイルでは、南部地方は広域的に無防備な状態なまま危険にさらされることになるということです。

 国民の生命・財産の安全を優先させるのか、それとも経済的な圧力を加え続ける中国との関係改善を優先させるのか…。(普通に考えれば、今そこにある危機の排除をまず考えるべきとも思うのですが)大きく揺れる韓国の世論に違和感を覚える日本人も多いかもしれません。

 こうして喉元にミサイルを突き付けられているにもかかわらず(どうにも)煮え切らない様子の韓国政府と国内世論ですが、その実情を伝える興味深い記事が7月8日の朝鮮日報(日本語版)に掲載されていましたので、(参考までに)紹介しておきたいと思います。

 この記事によれば、韓国の慶尚北道星州郡韶成里村に入る2車線道路の半分は、テーブルや椅子、パラソルなどによって占領され、軍の車両や警察車両を含む通行する車両の全てが、民間人による検問を受けているということです。

 車両を検問しているのは、「平和と統一を開く人々」「THAAD配備阻止全国行動」など反米団体のメンバーと星州の一部住民です。

 記事によれば、4月26日にTHAAD配備予定となった達馬山にランチャーやレーダーなどが搬入されると、反対派の人々は基地に向かう道路の上に無許可で簡易検問所を設置し、韓国軍が基地の運営に必要な物資を運ぶことができないよう、実力行使に乗り出したということです。

 私設検問所からTHAAD基地まではわずか2キロに過ぎませんが、軍が民間人に銃を向けたりするわけにもいかないため、(ほんの数人の民間人による制止に妨げられ)現在、韓国軍は部隊の運用に必要な資材の大部分をヘリで空輸している状況に置かれていると記事はしています。当然、軍司令部としては星州郡庁や警察に問題の解決を求めているわけですが、警察はこうした違法な状況を見て見ぬふりをしているのが実態だということです。

 記事によれば、実は、5月2日に北朝鮮が弾道ミサイルを発射した際に、THAADの稼働に必要な発電機の燃料が(空輸が間に合わず)一時的に底を突いてレーダーが動いていなかったという事実が判明し、政界などから「警察はなぜ手をこまねいているのか」という非難の声が上がったということです。

 しかし警察は、THAAD反対派団体のメンバーや住民などおよそ60人の抵抗に押され、撤去を諦めしまった。以来、3回にわたって検問所の撤去作業を計画したが、そのたびに反対勢力が仏教・キリスト教などの宗教行事を行ったため、地元警察では作業の強制執行を見合わせていると記事はしています。

 星州郡庁の関係者は取材に対し、現在、違法検問に加担している30人ほどのうち住民は10人程度に過ぎず、実際は外部勢力が反対デモを主導していると語っています。地域住民に取材したところでも、「相当数がTHAADは必要という点に共感している。ただ、表立っては言えないだけ」と話していたということです。

 記事は、基地の入り口では、現在でも毎週水曜日と土曜日にTHAAD反対集会が開かれていると説明しています。しかし警察は、集会参加者との衝突を懸念して多数の人員を投入することはあっても、道路を不法占拠した一部住民の抵抗に遭うと即座に撤収するのが常だということです。

 さて、こうして基地に続く行動が民間人に占拠され警察車両まで検問されるなど、まるで「無法地帯」のように化している状況には、現在の韓国社会が抱える問題点が(ある意味)透けて見えているような気もします。

 日常の抑制された感情が、何かのきっかけを得ると合理性を超えてエスカレートしてしまう。場合によっては、法律や道理よりも「感情の動き」を重んじ、(世論全体が)過剰な行動を正当化するといった方向に流されてしまう。それを(韓国国内では)「恨の文化」と呼ぶのでしょう。

 国民感情とリアルな危機とを、どのように秤にかけるのか?

 冷静さを欠いたこうした行動は(国内的にはそれでもよいかもしれませんが)国際的にはあまり理解されないものであることを、韓国政府もこの辺で心に留めておく必要があるのではないかと、今回の報道から私も改めて感じた次第です。



♯832 性同一性障害と向き合う

2017年07月17日 | 日記・エッセイ・コラム


 3月18日の東京新聞(夕刊)は、心と体の性が一致しない「性同一性障害(GID)」で国内の医療機関を受診した人が、2015年末までに延べ約22,000人に上ったことが判ったと報じています。日本精神神経学会の研究グループが行った調査では、2012末に行われた前回調査と比べ3年間で約7000人増加し、概ね1.5倍の規模に膨らんでいるということです。 

 受診者数増加の原因について、記事は、性同一性障害への社会的認知度が高まったことで当事者の意識が変化し、受診への心理的ハードルが下がったことを挙げています。性同一性障害の当事者は国内に数万人いるとされてきたが、今回の受診者数の調査によりこうしたことが改めて裏付けられたと記事は指摘しています。

 「性同一性障害」とは、出生時に割り当てられた性別とは異なる性の自己意識(Gender identity:性同一性)を持つために自らの身体的性別に持続的な違和感を抱き、自己意識に一致する性別を求め、時に身体的性別を己れの性別の自己意識に近づけるための何らかの対応を要する状態を指すとWikipediaは定義づけています。

 「心の性」、つまり自覚している性と身体の性が一致しない状態と簡単に言ってしまう例も多々見られますが、厳密に言えば、「性同一性障害」とは自身の身体の性別に違和感や嫌悪感を持ち、その性別で扱われることに終生絶え間なく精神的な苦痛を受けることになるため、普通の生活を送ることに支障をきたす状態と考えられます。


 また、そうした意味において、身体の性の変異に関わる性分化疾患や、性的指向に因る同性愛、さらに性同一性とは関連しない異性装とは根本的に事象が異なるものとして受け止める必要があるということです。

 過去には、性別は身体や染色体によって決まるもので身体の性と性同一性は一体のものと考えられてきた時代もあったようですが、性の発達が先天的に非定型的である「性分化疾患」の症例研究が進むことにより、性分化疾患の場合、身体の性と性同一性はそれぞれ必ずしも一致しない場合があることがわかってきたということです。

 胎児期における人間の性分化に当たっては、性腺や内性器、外性器などの性別が決定された後、脳の中枢神経系にも同様に性分化を起こし、脳の構造的な性差が生じるとされています。この脳の性差が生ずる際、通常は脳も身体的性別と一致するのですが、何らかの理由によって身体的性別とは一致しない脳を部分的に持つことにより、性同一性障害を発現したものと現在では考えられているということです。

 さて、日本では、こうした性同一性障害を抱える人々への治療を進めたり、社会生活上の様々な支障の解消を図るため、13年前の2004年に「性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律」が施行されました。

 この法律により家庭裁判所は、性同一性障害者であって
1. 2人以上の医師により性同一性障害であることが診断されていること
2. 20歳以上であること
3. 現に婚姻をしていないこと
4. 現に未成年の子がいないこと
5. 生殖腺がないこと又は生殖腺の機能を永続的に欠く状態にあること
6. 他の性別の性器の部分に近似する外観を備えていること
の6つの要件のいずれにも該当する人については、戸籍上の性別の取扱いの変更の審判をすることができるとされています。

 同法の規定では(要件の5及び6にあるように)法的な性別の変更には性別適合手術が求められていることもあって、最近では性同一性障害の人たちは、「治療」の一環として内分泌療法(ホルモン療法)を受療したり、外科的な性別適合手術を受けたりする人も多くなっているようです。

 内分泌療法では、男性の身体的性別を持つ人が体を女性化するために女性ホルモンを使用したり、逆に女性の身体的性別を持つ人が男性化するために男性ホルモンを使用したりすることが一般的で、性ホルモンを注射することによって身体的特徴がより精神的な性別に合致したものに変化していくとされています。

 また、性別適合手術では、陰茎と精巣を切除し膣を形成したり、卵巣と子宮を摘出し太ももや腹部の皮膚を用いて陰茎を形成したりするということです。また、男性への豊胸手術や女性の乳房切除手術などを含める場合もあるようです。

 一般的に、性同一性障害者への内分泌療法や外科的療法は健康保険の適用外であるため、いわゆる自由診療で行われています。また、国内では手術が可能な医療機関も限られているため、費用の安いタイなどの外国や設備の整っていない国内の医療機関で手術を受け、術後に後遺症などのトラブルに成るケースもしばしば発生しているとされています。

 これらの治療が保険適用外である理由について、厚生労働省保健局では「手術の有効性や合併症などの安全性についてまだ議論が必要」と説明しているということですが、今後、一定規模の症例が揃い、術式その他が確立し、さらに認定医制度などが整えば保険適用につながる可能性もあることを示唆する声もあるようです。

 前述の毎日新聞の記事によれば、性同一性障害で医療機関を受診する人は増加傾向にあるものの、多くの専門家は、周囲の理解不足や経済的な事情から受診に踏み切れない人は依然として多いと見ているということです。

 実際、性同一性障害と診断された人の2割しか手術を受けておらず、性別変更へのハードルはまだまだ高いと言わざるを得ないという指摘もあります。

 性同一性障害には、それ自体が命にかかわるような疾病や障害でないため誤解を招きやすい側面があるのも事実です。しかし、それが「個人的嗜好」というような単純な問題ではなく、(そのままで)生きることには大変な辛さが伴う「障害」であることについては、既に医学的なエビデンスがあり、社会の合意も(概ね)できていると言ってよいでしょう。

 22,000人という受診者の数は、様々な価値観を有する社会の人間関係の中で(ともすれば)心の中に深く秘匿されがちなこうした問題に、ようやく正面から向き合う人たちが増えてきたことを意味しています。

 心と身体の性的な不一致を感じる誰もが医療機関を受診し、適合手術を受けるべきとは思いませんが、この際、タブーを乗り越え、さらにオープンな議論を巻き起こす必要があるのではないかと(こうした規模感から)改めて感じるところです。



♯831 プロファイリングのリスク

2017年07月16日 | 社会・経済


 今の日本で「プロファイリング」と言えば、犯罪の性質や特徴から行動を分析し犯人の特徴を推論するという、刑事ドラマでおなじみの犯罪捜査手法として知られています。

 個人の経歴をひとまとまりの情報としてまとめた「プロフィール」はフランス語「Profil」を語源とする言葉で、英語では「Profile」と綴られ「プロファイル」と発音されます。

 一方、その名詞形である「プロファイリング(Profiling)」は、オックスフォード辞書によれば、「ある分野における能力を評価・予測するため、若しくは人々の分類の識別を支援するために、個人の精神的及び行動的特性を記録・分析すること」とされており、その用途は(何も)犯罪捜査に限ったものではありません。

 プロファイリング(の奔流)は、今やインターネットを介した広告ビジネスの世界で広く用いられている手法です。グーグルやアマゾン、フェイスブックをはじめとして、多くのネットメディアがウェブの閲覧履歴や購入行動の傾向などを分析し、性別や年代、行動や嗜好を推測して広告活動などにつなげていることは既に広く知られています。

 アマゾンで一度本を買えば、(お願いしているわけでもないのに)嗜好に合わせた本を次々と紹介してくれます。フェイスブックでは、「友だちかも?」と何人もの人を紹介してくるし、ニュースサイトに表示される記事はユーザーの興味に合わせてそれぞれカスタマイズされた内容になっています。

 例えば、私たちがソーシャルメディアで「いいね!」ボタンを押したデータやリツイートのデータは個人のアカウントのデータベースに瞬時に蓄積され、本人も知らないうちに趣味嗜好の精度を上げています。また、スマートフォンが普及により、ネットに留まっていたデータにはさらに位置情報が加わり、現実の世界での行動特性もデータとして収集・分析されるようになっているようです。

 こうして、個人に紐付けられた行動履歴データを集めて分析する、すなわち「プロファイリングする」ことによって、例え本人が「誰か」は分からなくても、対象とする個人の人物像をかなり詳細に描くことが可能となっているのが現状と言えるでしょう。

 こうした現実に対し、自分が知らないところで個人情報が勝手に引き出されて分析処理され、勝手に作られた個人像が知らないところで利用されたり、場合によっては差別されるなどいろいろな問題が起きる危険性を指摘する声があるのも事実です。

 実際、アメリカでは、消費者の不動産の取引履歴やアマゾンの購入履歴、フェイスブックの広告の閲覧履歴などがすべて「データブローカー」に共有されていて、誰が妊娠をしていて、どの顧客が花粉症にかかっているかなど、プロファイリングはもはや当たり前の手段として日常的に利用されているという指摘もあります。

 4月26日の日本経済新聞の紙面では、慶応義塾大学教授の山本龍彦氏がこうしたプロファイリング技術の一般化に対し、「個人の尊重揺るがす恐れ AIのリスクに対応急げ」と題する論評により警鐘を鳴らしています。

 氏はこの論評において、AIが普及した現代においては、費者は心の奥底に秘めた私事もAIには常に見透かされていることを覚悟する必要があると指摘しています。

 これは、セキュリティーの問題にとどまらない重要な人権侵害の可能性を秘めたものであり、(利用のされ方によっては)従来のプライバシー権を巡る議論の枠外にある新たなリスクを人々にもたらすということです。

 山本氏はこうしたリスクの第1に、AIによる「社会的排除」を挙げています。

 例えば、求人サイトの世界では、求職者などの職務上の能力をプロファイリングにより評価する技術が既に開発されているということです。

 その精度が高まれば、データに基づくAIの確率的な判断のみで採用・不採用が決まるという事態も起こりうる。そこでは本人の具体的事情や努力は捨象され、本人がいくら抵抗しても、AIの判断は科学的な信ぴょう性を持つだけに「AIが決めたことなので」と一蹴されてしまう可能性があると氏は説明しています。

 求職者に限らず、個人の「信用評価」において、一旦、AIにより不適格の烙印を押された者は、「確率という名の牢獄」「バーチャルスラム」とも表現される見えない塀の中で一生過ごさざるを得なくなるかもしれないと山本氏は述べています。

 実際、米シカゴ警察では効果的な犯罪予防活動のためAIを用いた暴力犯罪者の予測を進めており、暴力性に関する情報と信用情報などとの統合・連結による犯罪捜査や犯罪防止対策が試みられているということです。

 氏はこうした取り組みを、最先端の情報技術を使ってわれわれを固定的で予定調和的な「前近代的」世界へと引き戻すような行為だと厳しく否定しています。個人の人格や能力をAIにより確率的に判断し様々な可能性を事前に否定することは、個人の尊重原理と鋭く矛盾するということです。

 さて、この論評で山本氏が指摘する第2のリスクは、「自己決定原理の揺らぎ」というものです。

 ビッグデータを解析すると、例えば、女性は鬱状態にあるときに化粧品の購買傾向が高まるという結果が見えてきます。そこで、閲覧履歴などに基づき消費者が鬱状態にあるかどうかを予測して、その瞬間を狙って広告配信することを推奨するという販売戦略が生まれているということです。

 氏は、こうした動きは個人の精神状態をのぞき見る点でプライバシーの問題に関わると説明しています。精神的に脆弱な瞬間につけ込み、商品購入に向けた意思形成過程を操作しようという試みは消費者の自己決定権を侵害に当たるものであり、消費者が「自ら決める」のではなく他者に「決めさせられる」ようになる危険性を示唆しているということです。

 さらに、この論評で山本氏が示す第3のリスクは、「民主主義原理の揺らぎ」というものです。

 個人がAIの予測した政治的信条に合致したニュースや論評のみを配信され、それ以外の情報をフィルタリング(閲覧制限)される現象は「フィルターバブル」と呼ばれています。こうなると、自身は心地よくても信条を異にする他の情報との接触機会は減じられ、個々人の思想が極端化して政治的分断が一層深刻化すると指摘されているということです。

 既に近年の米大統領選挙では、ビッグデータ分析が多用されていると山本氏は指摘しています。さらに今後は、AIで有権者の支持政党などを予測し、特定の情報を選択的に配信することで関係者が投票行動を恣意的に操作する、「デジタル・ゲリマンダリング」と呼ばれる選挙戦略も現実のものになるということです。

 AIネットワーク化のもたらすリスクは、近い将来プライバシーを超え、個人の尊重や民主主義といった近代憲法の基本的な諸原理にも及ぶと山本氏は見ています。

 ところが日本では、いまだ「情報漏洩を防ぐセキュリティーシステムとは何か」といったこまごました技術的問題を中心に議論が進んでおり、国民を巻き込んだ憲法論は不活性なままでいる。

 これでは、一部のステークホルダーにより憲法原理そのものが変容し、気が付けば巨大な「バーチャルスラム」が形成されていたという事態も生じかねないというのが、AIネットワーク化を放置するリスクに対する山本氏の認識です。

 もちろん、AIが個人の隠れた才能を発見したり、個人の病気をみつけ適切な治療方法を指示したり、一般意思を予測してより豊かな民主主義を可能にしたりすることもあるだろうと山本氏はしています。

 AIネットワーク化は、そうした意味では憲法の基本原理の実現に資する側面もある。で、あればこそ、技術的な問題にとどまらない重厚な議論を今すぐ活発化させる必要があるとこの論評を結ぶ山本氏の指摘を、私も大変興味深く読んだところです。



♯830 ポスト公共事業

2017年07月15日 | 社会・経済


 現在、国や地方自治体の財政危機が懸念されている最も大きな要因は、(外でもない)社会保障費の膨張にあると考えられています。

 実際、国の2017年度予算では一般会計予算97兆4547億円のうちの32兆4735億円、つまり約3分の1を社会保障関連予算が占めており、2016年度に比べても4997億円増加して過去最高を記録しています。

 特に、今回(2017年度)の予算編成においては、人口構成の高齢化の進行に伴う社会保障関連支出が医療関連で11兆5010億円、年金関連で11兆4831億円とそれぞれ2.0%と1.5%伸びており、さらに「一億総活躍社会の実現」に向け、保育士の処遇改善などの財源も増やしているのが特徴と言えるでしょう。

 こうした国の社会保障関連の政府支出を1990年度と比べると、この四半世紀で実に3倍程度にまで膨らんでいることが判ります。社会保障費全体が毎年1兆円規模で増加している一方で、保険料収入は横ばいで推移していることからもわかるように、増加分の多くが税金と借金で賄われている状況にあると言えます。

 そうした中、高度成長期には経済対策として花形的な存在であった公共事業費は、2017年度予算案では土木分野で5兆9763億円、その他の施設費を合わせても総額6兆5956億円に留まっており、(インフラの老朽化が懸念されている中)社会保障関連予算のほぼ5分の1の規模感に過ぎません。来年度は、2016年度当初予算と比べて26億円(0.04%)の増とはいえ、金額的にはほぼ横ばいの状況で推移しています。

 振り返れば、公共事業関係費(決算ベース)は、1991年のバブル崩壊後の経済対策として1993年度に13兆6800億円でピークを打った後、2001年度まで10兆円規模を維持していました。しかし、2002年以降、(6億~9億円の間で多少の増減はありますが)緊縮財政の下、基本的には減少傾向が続いています。

 特に2010年度から2012年度にかけての民主党政権下では「コンクリートから人へ」の掛け声の下で公共事業への世論の風当たりが強くなり、5億8000万円にまで大きく落ち込んだのは記憶に新しいところです。

 さて、人類史上でも未曾有と言われる高齢化に直面している現在の日本において、限られた財源のもとで国民の社会保障を安定的に維持していくためには、可能な限り(社会保障のための)費用の膨張を抑えていくことが求められているのは事実です。

 しかしその一方で、3月22日の日本経済新聞(連載「ゆがむ分配」(6))によれば、社会保障費を抑制すれば地方が疲弊するとして、地域経済の観点から医療や介護などに対する政府支出の削減を警戒する動きも生まれているようです。

 全国各地の特に「地方」には既に医療や介護、年金などにかかるお金が染み渡り、それを削れば地方経済も道連れになる。公共事業という糧を失った地方では、経済を「人質」に、社会保障のコスト削減を牽制する声も上がっているということです。

 記事では、公共事業の抑制により経営に苦しむ建設事業者などが、次々と(通所介護サービスや老人ホームの経営、サ高住の建設・管理)などの福祉・介護分野に進出している地方の現状を紹介しています。

 公定価格の社会保障サービスは価格競争に巻き込まれにくく、収入は安定しています。地方にはお客さんとなる高齢者も多く、競争のない制度の下、人、モノ、そして公金が社会保障の分野に流れ込むことで、街の一大産業にまで発展し地域経済を支えている例もあるでしょう。

 確かに、地方の都市などを歩いていると、大きくて新しい建物は大抵、特養ホームや老健施設、デイサービスセンター、そして病院などであることに気づきます。広い駐車場を備えた4から5階建ての少しやさしめの斬新なデザインが、周囲のさびしい景色の中でその存在感を発揮しています。

 また、地方のハローワークで求人情報などを見ると、その多くが介護施設のヘルパーや介護士、看護師などの福祉や医療に関係する職であることにも改めて驚かされます。

 こうした状況を踏まえ、記事は、地方によっては既に供給過多の状態を来していて、過剰な需要を生んでいるのではないかとの指摘を行っています。

 例えば、市内に300を超える病院や診療所が軒を連ね全国有数の医療都市と知られる高知市の75歳以上の後期高齢者の1人あたりの医療費は120万円を超え、全国平均を30万円ほども上回ると記事は指摘しています。

 これは、本来は在宅介護や特養ホームに頼るべき高齢者が病院への入院に誘導されていることが原因と考えられますが、過剰と言われる病床削減の動きに対し高知市長の岡崎氏は、「安易に病床を削減すれば地域経済に悪影響を及ぼす」と反論しているということです。

 因みに、高知県と言えば、1人当たりの国民医療費が全国で最も高い県(42万1700円:2015年)であり、その額は最も少ない埼玉県(27万8100円)の1.5倍以上に達しています。一方、高知県の人口10万人当たりの病床数はこちらも全国で最も多い2492床で、全国平均(1215床)の約2倍、最も少ない埼玉県(863床)の実に3倍近い数であることがわかります。

 さらに言えば、中でも高知市の病床数は(高知県内でも頭ひとつ抜きんでた)2967床に及んでおり、医療資源の集中度は全国屈指の水準に達しています。

 高知県の例ばかりでなく、記事は、高齢化が進む島根県や奈良県、愛媛県などでも年金所得が家計消費支出の2割を超えていることを挙げ、社会保障費という「公金」が地域経済を実質的に動かし支え始めている地方の実態を指摘しています。

 高齢化が進む地方の人々の暮らしを支えるための社会保障費が「ポスト公共事業」化することで、様々な「ゆがみ」を社会に与え始めているのではないか…、そう懸念するこの記事の問題意識を、どうやら私たち重く受け止めていく必要がありそうです。


♯829 使い残した抗がん剤はもったいないか?

2017年07月14日 | 日記・エッセイ・コラム


 少し前の記事になりますが、昨年の2月14日の日経新聞に「抗がん剤 余ればごみ」と題する興味深い記事が記載されていました。

 記事によれば、医療機関でがんの治療に使われる「抗がん剤」には高価な薬剤も多いにもかかわらず、1回の治療で使い切れなかった一定量については捨てられている現状があるということです。

 これは、一旦開封してしまった薬剤には細菌の混入や品質の劣化を招く可能性がある事から、他の患者への投与などが認められていないためとされています。特に抗がん剤については、体重などによって必要な量が細かく定められているため「余り」が出やすく、全体の1割が廃棄されるという調査結果もあるようです。

 確かに、医療機関においてこのような形の「廃棄」が日常的に行われているとすれば、現場で薬を使う医師や薬剤師の人たちの間に(余った薬を他の患者に処方できたらどれだけ医療費を安くできるかという)問題意識が生まれるのは、(ある意味)当然と言えるかもしれません。

 論点が判りにくいかもしれないので、もう少し丁寧に整理します。

 抗がん剤は点滴や注射で投与される液状のものが多いということです。例えば、高額で一躍有名となった免疫チェックポイント阻害薬の「オプチーボ」なら体重1kg当たり3mgなどと、患者の体重や身長などによって投与する量が厳密に定められているのが普通です。

 オプチーボの場合、20mg(薬価75,100円)入りのバイアル(瓶)と、100mg(同364,925円)入りのバイアルの2種類のパッケージがあります。従って、例えば患者が体重55kgの大人の場合は165mgを投与する必要があるため、100mgを1バイアルと20mgを4バイアル使用することで、薬代は665,325円となり15mg(約55,000円分)の薬がバイアルの中に残ることになります。また、何らかの事情で100mgを2バイアル使用した場合は、薬代として729,850円かかり35mg(約128,000円分)の残薬が生まれる計算です。

 一方、こうした薬剤は、注射器などで容器から取り出すことで有害な菌などが混入する恐れが高まり、また酸素に触れて品質が劣化する可能性もあることから、一度容器の封を破ったものは(例え同じ患者に対してであっても)使用できないとされています。そして(国による)薬価も、実際に使う量(量り売り)ではなくパッケージごとに設定されているのが現状です。

 それでは、こうした状況の下で、実際にどのくらいの量の薬剤が捨てられているのか?

 日本病院薬剤師会が2014年に地域の中核を担うがん診療連携拠点病院について15品の廃棄率を調べた結果では、回答のあった187病院で年間約94億円分が廃棄されていることが分かったと記事は記しています。廃棄率はおおむね5~10%で、中には4割近い品目もあったということです。

 記事によれば、2013年の抗がん剤の市場規模は出荷額ベースで8131億円。2016年には1兆円を超し、2023年には1兆5000億円以上になると予測されているいうことです。例えばその数%が廃棄されるとして計算しても、価格として実に1,000億円を超える薬剤が、患者に投与されることなく廃棄されていくことになります。

 同様の問題は昨年3月27日の産経新聞などでも指摘されており(「高価な抗がん剤が残薬となり廃棄処分されていく」)、こうした状況に疑問を投げかけるメディアも増えているようです。

 因みに、同紙は、こうした状況の解決策として2つの方法を挙げています。

 1つは当面の方策として、メーカーに小瓶の規格を求めることです。瓶の規格が増えれば薬の廃棄量は減るのは自明ですが、調製するコストが瓶の本数分だけ増えるというデメリットもないわけではありません。

 そしてもう1つは、1本の薬剤を複数の患者が使用する「分割使用」の可能性を探ることです。薬剤の品質を保つための保存方法や保存期間の「基準」を丁寧に作り、問題が生じないような利用方法についてのエビデンスを得るというものです。

 同記事によれば、廃棄薬剤の課題に実際に手を付けた国もあるということです。

 慶応大学大学院教授の岩本隆氏によると、米国の薬剤調製のガイドラインには分割使用の規定があり、クリーンルームや保存時間の条件が定められているということです。また、使用による薬剤の漏出や変質を防ぐ医療用キットの開発も進められていると記事は記しています。

 さて、このような指摘を読む限り、(確かに現場の視点に立てば)瓶の中に残された抗がん剤を集めて他の患者に有効活用することで、医療費の大幅な削減が図れるような気がしてきます。現実にそこには薬が残っていて、(未開封のものであれば)何十万円という価格で取引される「希少」で「高価」なものだからです。

 しかし本当に、高い値段の付いた抗がん剤(の液そのもの)を捨てることは「もったいない」ことで、それを再利用することが患者や保険者等の利益につながるものなのでしょうか。

 この問題は、そもそも「薬の値段」がどのように作られているかに遡って考える必要がありそうです。

 オプチーボなどの新薬も、実際は(別に)原材料が希少だからとか、製造するのがとても大変だからといった理由で高額な値札(薬価)がついているわけではありません。一般に薬剤の製造原価は販売額の数分の一から数十分の一と言われており、原材料費に至ってはほんのわずかと言ってよいでしょう。つまり、物質としての薬には、それくらいの価値しかないということです。

 それではなぜ(薬価が)高く設定されているのかと言えば、新薬開発のために要する(要した)費用が高かったから。製薬会社としては、開発にかかったコストを(先発薬としての市場価値が保てる)一定期間の間に回収する必要があるということです。

 製薬メーカーでは、マーケットとしての患者数や使用割合、使用の仕方などを想定し、市場全体での使用量ばかりでなく、販売単位・使用単位も含めて(開発コスト、営業コストなどを回収し、利益を出せる水準で)価格付けを行っています。抗がん剤に関しても、やみくもにパッケージされているわけではなく、その単位で販売することを前提に価格付けされているということです。

 それは言い換えれば、現在のパッケージングにおいて使い残されるオプチーボも、既に価格の中に含まれているということ。従って、もしもオプチーボを全て5mg入りのアンプルでパッケージングするのであれば、メーカーはそれに適した価格に(値上げ)する必要があるとこになります。

 繰り返しになりますが、一旦封を切られて使われた液体としての抗がん剤自体にはほとんど価値がなく、それが廃棄処分となったとしても、資源的にも製造コスト的にも(さほどは)「もったいない」のもではないと言えるでしょう。

 抗がん剤は多量に捨てられている。しかし、それはあくまで「販売戦略」、つまり「売り方」の問題に過ぎないということです。



♯828 健康格差を正視する(その2)

2017年07月13日 | 社会・経済


 毎日新聞では、今年1月に始まった「健康狂想曲」と題する連載において、日本の保険・医療が抱える問題を様々な角度から指摘しています。

 6月30日の紙面では、第2章「広がる格差」の第1回として、医療保険制度があってもその自己負担分の治療費が払えないという、所得(=生活水準)による「医療格差」の存在に焦点を当てています。

 例えば、民主医療機関連合会(民医連)が行った全国調査(2011~12年)によれば、主に生活習慣病(の乱れ)などが原因とされる「2型糖尿病」の患者は、年収200万円未満の人が57.4%と全体の6割近くを占めていると記事はしています。彼らを学歴で見ると、62.1%が中高卒で、無職やパートの人が多く正規雇用者が少なかったということです。

 また、こうした糖尿病の合併症としておこる網膜症が中高卒、非正規でより起こりやすいことも判明するなど、経済的な格差が健康格差を生んでいる実情が(データから)明らかになったと記事は説明しています。

 さらに、聞き取り調査の結果からは、健康に関する情報を入手、理解し評価、活用できるヘルスリテラシー(健康情報力)が低いほど肥満が多く糖尿病の管理も悪いことや、学歴が低いほど健康情報力も低いことがわかったとされています。

 記事によれば、東京大学などが2009年から13年にかけて約3400人を対象に行った調査でも、病院の外来受診と入院が所得の多い人に偏り、所得の少ない人では受診を控える傾向が強いという結果が示されているということです。

 健康格差に詳しい桜美林大教授の杉澤秀博氏は、このような結果から「平等と言われていた日本にも健康格差は存在する。それは個人の責任でなく誰でも負うリスクだ」と話していると記事は説明しています。

 記事はここで、(所得が低く)2型糖尿病の治療を満足に受けることができずに苦しむ関西の39歳の女性の例を紹介しています。

 彼女は幼児期から母親に虐待を受け続けてきた。離婚して苦しい生活を強いられていた母親は、女性が口答えすると顔が腫れるまで殴ったということです。

 女性が働き始めると、今度は母と継父は女性の給料を巻き上げパチンコに使い込んだと記事はしています。21歳で彼女に糖尿病が見つかっても、仕事を続けるよう強要され続けた。両親は、彼女名義で11枚もクレジットカードを作ってギャンブルに使い、彼女はやむなく自己破産したということです。

 その後、結婚した彼女の夫は鬱で仕事が続けられなくなり家賃も滞納。さらに夫との間に生まれた2人の子供は障害児で、彼女の継父は自治体から彼女の子供に出された(障害児の養育)手当を巻き上げる経済的虐待を繰り返したということです。

 そうした中、削れるのは彼女の(糖尿病の)治療代くらいしかなかったと記事はしています。

 現在も、彼女は治療を中断して体調を崩しながらヘルパーとして働いている。両親からは(39歳になった今でも)「怖くて逃げられない」と話しているということです。

 彼女ばかりでなく、一生懸命に働いても医療費にまで手が回らない人たちが、現在の日本にはたくさん生まれていると記事は指摘しています。

 就業世帯のうち生活保護制度の「最低生活費」以下の収入しか得ていない「ワーキングプア率」は1992年の4%に比べ2012年は倍以上の9.7%に上昇している。総世帯のうち最低生活費以下の収入しか得ていない世帯の割合を示す貧困率も、1992年の9.2%から2012年の18.3%へと倍近くになったということです。

 さらに記事は、これまでは京都府より西、秋田県より北の地域の貧困率が高かったが、現在、こうした地域間格差は急激に縮まっており、従来低かった首都圏、愛知県周辺などが急上昇しているとしています。

 構造改革や東日本大震災の影響もあってここ20年で子供の貧困率も上昇しており、将来、ワーキングプアはもっと増えるというのが、毎日新聞の見立てです。

 さて、このように貧困レベルが格段に高まっている中、医療の面についても公費による負担が大きくなることは言うまでもありません。

 例えばこの女性の場合、糖尿病の悪化によって人工透析が必要となれば、その費用は月に概ね50万円。さらに合併症などが加われば、医療費は年間で1000万円近くまで膨らみます。

 そうなれば仕事もできないでしょうから生活保護家庭として生活費の面倒も公費で見るとして、39歳の彼女が75歳で後期高齢者になるまでの35年間だけで5億円ほどのお金が彼女の生活のために税金で賄われる計算になります。

 一方、今の時代、生涯賃金で5億円という金額を稼げるサラリーマンは、ほとんどいないと言っていいでしょう。

 自己責任だからと言って、こうした医療費への給付を「おかしい」とか「やめるべきだ」と言っているわけではありません。これはもはや「福祉」の世界の話であって、医療の制度に手を付けることで片付く問題ではないからです。

 自らの健康や生活を管理できない人々を、社会全体としてどのように支えていくのか。

 そうした人々に寄り添い同情していくのは簡単ですが、財源が限られている以上、政策には優先順位の設定が求められます。つまり、そうなる前に手を打つ必要があるということ。

 例えやむを得ない事情があったとしても、納税者の支持がなければ国や自治体も制度を維持できないことを、私たちは肝に銘じておく必要があるでしょう。