MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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♯860 子どもの偏食

2017年08月30日 | 日記・エッセイ・コラム


 7月2日の読売新聞に、「子供の偏食」に関する興味深い記事が掲載されていました。(「元気なう-偏食と好き嫌い(1)」)

 記事によれば、「野菜を食べない」「魚が嫌い」など、子育ての悩みとして子供の食べ物の好き嫌いを挙げる親は多いということです。

 玩具メーカーの「バンダイ」が2010年に3~12歳の子供を持つ親1500人を対象に行った調査では、子供が嫌いな野菜の(ぶっちぎりの)1位はピーマンで405人が挙げています。(慣れてしまえばどうということもないのですが)ピーマンの持つ独特の苦みが、実に4分の1以上の子どもたちから嫌われていることが判ります。

 続いてトマトが195人、ナスが184人、キノコが117人など、香りが微妙で、さらに食感が「ぐにゅぐにゅ」しているような野菜が嫌われる傾向が強いようです。

 せっかく「良かれ」と思って作ったのに、「美味しくない」と料理を残されるお母さん方の(残念な)気持ちはよく分かります。しかし、フーズ&ヘルス研究所を主宰する管理栄養士の幕内秀夫氏は、保護者が抱く子供の偏食の悩みに関し「偏食という言葉が安易に使われすぎている。子供の好き嫌いはほとんど気にしなくて良い。順調に成長しているなら心配ない。」と話しているということです。

 数種類の嫌いな野菜を(わざわざ)食べさせなくても、ほかの食品からビタミンやミネラルなどの栄養は採れるもの。例えピーマンやナスが嫌いでも、白米やイモ、トウモロコシなどを食べない子供は少ないと幕内氏は言います。子供の時期は(何を置いても)、空腹を満たすものを食べることが大切だということです。

 氏は、特に緑黄色野菜を子供たちが嫌うのは、これらの食物は苦みや酸味、えぐみなどが強いからだとしています。そういう意味では、嫌いな野菜の多い子供は、それだけ味覚に敏感(な才能の持ち主)と言えるかもしれません。

 子供の鋭敏な味覚では、こうした(刺激的な味は)美味しいとは感じられないということです。最近、ニンジン嫌いの子供が減っているのは、ニンジンが品種改良によって甘くなったためだと幕内氏は説明しています。

 氏によれば、そもそも、動物は自分の身体に合わない食べ物を避ける能力を(生まれながらに)備えているということです。毒の多くには苦みがあり、腐った食べ物はすっぱくなる。子供は敏感にそれを察知し、体に必要ないから食べないのだということです。

 そうした中で、嫌いなものを強制していては楽しいはずの食事が台無しになってしまう。子供にとっては(まずは)楽しく食欲を満たすことが大切で、嫌いならば、食べられるようになるまで待てばよいと幕内氏は話しているということです。

 確かに、子供のころは見向きもしなかったお酒や苦いばかりのビールを、気が付けば多くの大人が喜んで飲んでいます。「嫌い」と決めつけさえしなければ、時間が解決する場合が多い。味覚というのは、そうした「移ろいやすい」感覚だということなのかもしれません。

 さて、岡山大学附属病院で小児歯科医をされている岡崎好秀氏のブログ「ドクター岡崎のおもしろ歯学」に、子供と食事に関連して興味深いレポートが掲載されているので併せて(ここで)紹介しておきます。

 岡崎氏によれば、ある幼稚園で昼食時の食事場面と園での生活状態について先生に観察していただいたところ、面白い結果が得られたということです。

 まず、食べることに意欲のある園児は、(1)積極的である、(2)休み時間みんなと遊ぶ、(3)友達が多い、(4)健康である、(5)椅子に座る姿勢が良い、(6).規則を守る、(7)運動能力が高、いなど、園での生活面においてすべての項目で好ましい傾向にあったということです。

 一方で、食べることへの意欲の乏しい園児は、(これと相反する)さまざまな問題がみられたとされています。

 どうしてこのような結果になったのか?

 広く知られる「マズローの欲求5段解説」では、人間には5段階の欲求があるとされています。

 第1段階は、睡眠・食べること・排泄などの「生理的欲求」です。これに第2段階の「安全の欲求」、第3段階は「愛と所属の欲求」が続きます。さらに、4段階は他者からの「承認(他者から認められること・尊敬されること)の欲求」があり、最後に「自己実現の欲求」が生まれるということです。

 マズローはこれらの欲求について、まず下位の欲求が満たされた時、初めて次の欲求が生まれるとされています。

 言うまでもなく「食べること」は、これらの中でも最も基礎的な欲求に位置付けられているものです。つまり、食欲があって、それが満たされなければ愛の欲求や自己実現の欲求も生まれてこないということになります。

 現在の子ども達の食生活環境を振り返って、現在の(日本中の)子ども達は便利で豊かな生活を享受されている反面、遊ぶ時間と場所、加えて「空腹感」を奪われているのではないかと岡崎氏はこのレポートで指摘しています。空腹感の欠如が、「食べる」ことに対する積極的な姿勢を奪い、そのことがひいては他者や物事に対する関心や積極性を奪っているのではないかということです。

 生き物としての人間にとって、空腹感に耐えることが生きるための活力となってきたのではないかと岡崎氏は言います。

 食べ物があり余り、空腹感を経験したことのない子ども達はどう育っていくのだろうか?(子供の発達という観点で見れば)子どもにはもっと空腹感を与えることが必要だと思うとこのレポートを結ぶ岡崎氏の指摘を、私も大変興味深く読んだところです。


♯859 年金制度への信頼感(その2)

2017年08月29日 | 社会・経済


 社会の超少子高齢化が進む中にあって、国民皆年金制度の維持は(名実ともに)高齢者の生活の最後の拠り所と言えるかもしれません。

 しかしその一方で、制度のベースを構成する国民年金の保険料の納付率が(信じられないようなレベルまで)低下していることで、特に若い世代において制度への信頼が揺らいでいるとの指摘も無視するわけにはいきません。

 厚生労働省HPによれば、国民年金保険料の納付率は直近の2017年5月26日現在で64.1%とされています。この「納付率」は、直近3年間では50%後半から70%台前半で推移していることからも、国民年金加入者(1号被保険者)の約4割が実際には保険料を払っていないことがわかります。

 納付率全体が低いことももちろん問題ですが、さらに深刻なのは、若い世代ほど納付率が低くなっている点にあるかもしれません。例えば、2015年度の平均納付率は63.39%ですが、25~29歳では53.47%、30~34歳では54.72%と、これらの世代に限ってみれば約半数が保険料を支払っていない状況にあることが判ります。

 当然、こうした状態が続けば、納付率は将来さらに低下していくことが予想されます。 

 普通に考えれば、納付率が5割を切るような事態となれば、給付水準を半分にするか保険料を2倍に上げるかしなければ制度は維持できないはずなのですが、当事者である厚生労働省も国民年金機構も、あまり慌てていないように見えるのは一体なぜなのでしょうか。

 フィナンシャル・プランナーの佐々木愛子氏は、その理由を「国民年金」を支える層の「厚み」に見ています。(ZUU online 2017.6.4)

 佐々木氏によれば、2016年現在、国内における公的保険制度(国民年金、厚生年金、共済年金など)の加入対象者は、合計して6729万人を数えるということです。

 うち、24ヶ月以上にわたり保険料の支払いが未納となっている「未納者」は206万人。加えて本来加入しなければいけないが、制度そのものに加入していない「未加入者」が19万人存在している。

 つまり、「未納者」「未加入者」の合計は225万人で全加入者のうちの3.3%に過ぎず、逆に言えば、全体の97%近くが年金保険料を「納付」している実態を示しているということです。

 それではなぜ、多くのメディアなどには、「支払いを滞納している人が多い」「4割近い人が未納だ」などという批判が溢れているのでしょうか。

 佐々木氏によれば、公的年金保険制度の対象者は、第1号被保険者(自営業者およびその配偶者)、第2号被保険者(サラリーマン・公務員・私立学校教職員)、第3号被保険者(第2号被保険者の配偶者で一定所得未満の者)の3つに分けられるということです。

 こうした枠組みの中で、一般的に「国民年金保険の加入者」と言われている人たちは、第1号被保険者と第3号被保険者に分類されます。

 一方、第2号被保険者の加入する「厚生年金保険(第3号被保険者の国民年金保険料を含む)」は、被保険者の給料天引きと企業からの労使折半で企業から支払いが行われるため、企業が支払いを滞納していない限り未納はありえない仕組みになっています。

 そこで、残るは第1号被保険者ということです。

 この第1号被保険者は、個人の口座引き落としもしくは振込票での支払いになるため、未納が発生する環境にあると佐々木氏は指摘しています。そしてそのデータが、前述の「国民年金保険料の納付率」だということです。

 さて、(給付水準が適切かどうかは別にして)国民年金を支えている公的年金制度全体でみれば、保険料はしっかり確保されている。未納者がわずか3%強であることを考えれば、少なくとも(公的年金が)「制度破綻」を起こす状況にはないと佐々木氏は説明しています。

 政権野党や金融商品や保険商品を販売する企業などは(メディアなどを使って)人々の老後の不安を煽るかもしれないが、公的年金の制度自体は意外にタフにできているという指摘です。

 一方、こうした現実は言うまでもなく、厚生年金や共済年金に加入するサラリーマン(や彼らを雇用する企業)が、基礎年金制度を通じて(自営業者らが加入する)国民年金を支えていることを意味しています。

 1985年の年金制度改革において、公的年金制度は、加入者に共通に支給される定額部分(1階部分)である基礎年金と、2階部分にあたる(賃金報酬に比例する)老齢厚生年金と退職共済年金の2階建てとなりました。

 さらに、国民年金は全ての国民に共通する基礎年金に統一され、民間企業の被用者や公務員などの第2号被保険者や、第2号被保険者の扶養配偶者(第3号被保険者)にも加入の義務が生じ、その裾野は大幅に広がることとなりました。

 そういう視点で見れば(年金制度を一体化する)この制度改革は、一般的には、就業構造や産業構造の変化に影響されない長期に安定した制度の構築のために行われたとされていますが、換言すれば、将来的に破たんの可能性が強かった国民年金を救うための窮余の策だったと言うことができるでしょう。



♯858 年金制度への信頼感(その1)

2017年08月28日 | 社会・経済


 6月27日の日本経済新聞では、「年金信頼回復の代償 免除多用で制度空洞化」と題する記事において、「消えた年金問題」に端を発する信頼失墜からの回復を目指す国民年金改革の実態について論じています。

 現在、国民年金の納付率は上昇基調にあり、実際2015年度の納付率は63.4%と、過去最低だった2011年度の58.6%と比べると5ポイント程度の回復を示しているということです。

 しかし、この数字にはある種の「裏」があると記事は指摘しています。

 記事によれば、国民年金の加入者(1号被保険者)は2016年3月末時点で1668万人。このうち低所得を理由に保険料の支払いを免除されている人の割合が、総数の3分の1を超える34.5%を占めているということです。

 詳細を見ていくと、これら免除者の割合は5年間で6ポイント上昇し過去最高となっている。納付率は免除者を分母から除くため、未納者が免除者に変わることで何もしなくとも数値は自然と上がるという指摘です。

 当然のことながら、たとえ保険料を40年間支払わなくても免除者には年間39万円の年金が給付されます。これはさながら、世論の批判を回避し制度への信頼を獲得するために、未納となる恐れのある芽を予め摘んでいるという構図にも見えます。

 免除制度自体は、やむなく保険料を払えない人を救う手段として必要であることは理解できても、免除者の獲得が組織の目標になっているような状況があるとすれば、必要のない人にも免除を勧めているという疑念は拭いきれないと記事は指摘しています。

 記事によれば、実際、厚労省の2002年の調査では、所得がなくても42.5%の人が保険料を納めていたということです。ところが2014年の調査ではこの割合が22.7%に低下。所得が少なくても資産を取り崩すなどしてやり繰りしていた人たちが、新たに「払わない」という選択をした可能性が浮かぶとしています。

 免除者を含めた被保険者全体でみると、実際に納付した人の割合は2015年度で(実に)半数を大きく下回る40.7%に過ぎず、5年前より1.4ポイント低下しているということです。このような数字を見る限り、確かに「信頼回復」の裏側で制度の空洞化が進んでいると指摘されても(ある意味)仕方がない状況と言えるかも知れません。

 こうしたことから、厚生労働省では、今年4月から保険料を強制徴収する基準を「年間所得350万円で未納月数7カ月以上」から「300万円で未納月数13カ月以上」に引き下げるなど、保険料の徴収の厳格化に取り組んでいます。督促する文書の送付や戸別訪問を行っても支払いに応じない場合には、必要に応じ財産等を差し押さえなどの滞納処分を行うということです。

 強制徴収の基準については、2015年度まで所得400万円以上だったものを2016年度に350万円に変えたばかりということですから、2年続けて強制徴収の対象が広げられたことになります。厚労省としては、悪質な保険料逃れを見過ごさない姿勢を強めることで、毎年の保険料上昇で国民にくすぶる年金への不満を和らげたい考えだと指摘されています。

 さらに厚生労働省では、厚生年金に加入していない企業への加入促進策を本年度から(強力に)進めているということです。

 現在、厚生年金は法人や従業員5人以上の個人事業主は加入義務があります。厚生年金の場合保険料は労使折半で支払う必要がありますが、保険料を逃れるために意図的に加入していない事業所は(今年2月末の時点で)全国に52万カ所に及ぶと厚生労働省は試算しています。

 零細企業に勤める従業を国民年金から厚生年金に適切に移行させ、国民年金の負担を減らしていこうとするこの試み。例えば、自治体に新規の事業許可を申請する際、厚生年金加入の有無を確認し、未加入なら厚労省に通報する仕組みを拡充したり、対象業種に飲食や理容などを加えるなど厚労省の所管以外の業種にも拡大を目指すとされています。

 さて、超少子高齢化の伸展により、特に若い世代から不安視されることの多い国民年金の先行きですが、世代や地域によって大きな格差のある現状を考えれば、未納者や所得の状況を的確に把握し納付率を上昇させる余地は、まだまだ大きいと言えるかもしれません。

 制度の安定は「信頼」の二文字から始まることを、厚生労働省や年金機構の職員は改めて心に刻む必要がありそうです。



♯857 預金残高1000兆円

2017年08月26日 | 社会・経済


 6月10日の日本経済新聞は、銀行や信用金庫などの金融機関に集まり続けていた日本の預金残高がついに1000兆円を超え、2017年3月末現在で1053兆円に達していることが日銀の調査により判ったと報じています。

 日銀が発表している別の調査(資金循環統計)によると、家計が保有する金融資産の残高は2016年12月末時点で前年比0.9%増の約1800兆円ということですので、その6割程度がいわゆる「預貯金」により占められているということになります。

 一方、総務省が5月に発表した2016年の家計調査(2人以上世帯)によると、1世帯当たりの平均貯蓄額は前年比0.8%増の1820万円。4年連続で増加し、比較可能な2002年以降で最高となっているということです。

 中でも、世帯主が60歳以上の高齢者世帯では貯蓄額が平均2385万円に及んでいるなど、この調査からはこの世代の預貯金への傾斜が平均貯蓄額を押し上げている状況が見て取れます。

 日銀のマイナス金利政策などにより定期預金も含め金利はほぼゼロにもかかわらずこうして預貯金が増えている背景には、将来不安などを背景に高齢者が虎の子の退職金や年金を預け続けている実態が透けて見えます。

 同記事(「預金残高ついに1000兆円 回らぬ経済象徴」日経新聞2017.6.10)の指摘を待つまでもなく、2016年に日銀が導入したマイナス金利政策は、市中銀行の貸出金利を押し下げることでお金が市場(投資)に向かうことを期待したものでした。

 ところが蓋を開けてみれば、その意に反して個人の金融資産が預金に集中。さらに運用難から企業や機関投資家らが預金を大幅に増やしたことなども相まって、昨今の預貯金の大幅増が生まれているということです。

 さて、かつて銀行にとって、(こうした)預金はその「パワーの源泉」だったと同記事は振り返ります。

 集めた預金を元手に、企業や自宅を購入する個人などにお金を貸すのが(当時の)銀行のビジネスモデルだった。企業の借り入れ需要が旺盛だった1990年代ごろまで、多くの銀行で預金は不足し、行員にノルマを課して預金を集めていたのが日常だったということです。

 当時は、預金をどれだけため込んでも銀行は全く困らなかった。貸し出しに回らないお金は「余資」と呼ばれ、国債を中心に市場で運用。国債の金利は長期でみれば、ほぼ一貫して下がり続け(価格は上昇)、国債を買っておけば利益が出たと記事はしています。

 記事によれば、そんな左うちわで過ごせる環境を一変させたのが、日銀のマイナス金利政策だったということです。

 「黒田バズーカ」と呼ばれたこの政策により、10年物国債の金利は0%近傍に低下。利回りのない国債は買いにくくなり、各銀行も、運用できない余剰資金を預金のまま抱え込むようになったと記事はしています。

 それでは、集まった預金は一体どこに向かっているのか?

 貸し出しとして一定量出ているのは間違いない。しかし、貸しても貸しても余っている状況だろうというのが、この問題に対する記事の認識です。

 記事は、国内銀行の預金残高に占める貸出金残高の比率を示す「預貸率」はピーク時の1988年に137%に達したが、直近は70%台にまで低下していると指摘しています。この数字は分母の預金残高の多さに、貸し出しが追い付いていない状況を如実に示すものだということです。

 実際、三菱UFJフィナンシャル・グループや三井住友フィナンシャルグループなど3メガバンクの2017年3月末時点の現金・預け金は157兆円となり、1年間で23%も増えているということです。銀行の金庫で死蔵させるわけにもいかず、日銀の当座預金に向かった金額は積み上げると300兆円を超えていて、こちらも1年前から2割以上増えているとされています。

 多くの銀行にとって運用できる以上の資金が集まっているのは明らかで、「預金量はできれば減らしたい」というのが本音だろうと、記事はここで説明しています。

 預金を集める必要性が乏しくなれば、支店拡大やATMは重荷になる。店舗数は維持しても、業務を絞った小型店に変えるなど、状況に合わせた変化は現実に起き始めているということです。

 今後の状況について、これ以上手に負えなくなれば、銀行が預金者に一定の負担を求める事態も起こり得る。近い将来、預金に手数料を求められる時代が来る可能性も十分にあると記事は見ています

 マイナス金利を日本に先んじて導入した欧州では、一部で法人顧客らに負担を転嫁した。日本でも信託銀行が運用先のないお金を預けてくる年金基金などに対し、既に一部マイナス金利分の負担を求めているということです。

 さて、2016年12月末現在における国債と政府借入金、政府短期証券の合計残高は丁度この預金残高に相当(匹敵する)1066兆4234億円で、国民の預貯金が(気が付けば)そのまま政府債務に回っている状況と言えるかもしれません。

 これは、見方を換えれば、日銀が(国債の買い入れなどによって)市中に吐きだした資金が、消費や投資に回らずそのまま市中銀行の貯蓄として積み上げられている状況とも見てとれます。

 さらに、政府債務は前年から21兆8330億円増えて過去最高を更新しており、同時期の総務省の人口推計(1億2686万人、概算値)で単純計算しても、国民1人当たり約840万円の借金を抱えている計算です。

 記事はこうした状況を踏まえ、1000兆円のうちの1%、10兆円でも市中にお金が回れば、経済活動に弾みをつけることができると指摘しています。

 一つの刺激によって、日本の経済は大きく回り出す余力を蓄えつつある。

 中小企業の支援やベンチャー育成など、日本経済の底上げにつながる手立てはあるはずだ。銀行が預金者の資産防衛意識の強まりと一緒に萎縮していては経済は回らないと結ばれたこの記事の視点を、私も改めて興味深く受け止めたところです。


♯856 人は死んだらどうなるか

2017年08月25日 | 日記・エッセイ・コラム


 夏と言えば、いわゆる「怖い話」のハイ・シーズン。幽霊スポットや臨死体験などのオカルティックな話題が、テレビのバラエティ番組などで連日紹介されています。

 折しも、日本は高齢・多死社会を迎え、人生の最期のときに向けて準備する「終活」ブームの真っただ中。身の回りの整理や葬儀などを取り仕切る業界は今や「エンディング産業」などと呼ばれ、今後10年の最大の成長産業と目されているようです。

 2025年には団塊の世代のほとんどが75歳以上となり、身の回りで日常的に人の死に接することになるでしょう。これから数年後には、「死」は、(おそらく)日本の社会全体にとって、より身近なものになるのではないかと考えられます。

 誰もが幸せな死を望む中、強い信仰を持たない多くの日本人に、死が得体のしれない「怖い」ものと映るのは当然のことでしょう。俗世に生きる私たちにとって、「自分が無くなる」瞬間は容易に想像できるものではありません。

 死後の世界はどのようなものなのか…そうした、だれもが漠然と持っている死への不安や恐怖心に対する納得できる答えは、未だに見つかっていません。

 人は亡くなったらどうなるのか。8月24日の情報サイトTOCANAでは、8月22日付けの英紙「Express」に掲載されたアマテラス製薬で科学最高責任者(CSO)を務めるロバート・ランザ博士の仮説を紹介しています。

 博士の仮説によれば、私たちは死後、「新たな時間」に突入することになると記事はしています。

 一般的に、「時間」や「空間」は、たとえ人間が誰一人存在しなくとも絶対的に存在するかのように思われます。しかし、ランザ博士の説によれば、時間も空間も人間の幻想でしかない。それらは客観的に存在する対象物ではなく、人の脳が世界を統合するためのツールに過ぎないということです。

 だとすると、その人が死んで「空間」から全てを取り去ったら何が残るのか。そこには何もない、虚無が広がるようなイメージが広がりますが、ランザ博士の答えは「時間」すら存在しない絶対的な「無」だというものです。

 20世紀で最も時間と空間について深く理解していた物理学者アルバート・アインシュタインも、時間や空間、そして時間に依存した因果律というものは、物理学的なツールに過ぎず、客観的に存在するものだとは捉えていなかった。そのことは、アインシュタインが亡くなった親友ミケール・ベッソ捧げた言葉からも伺えるとランザ博士は指摘しています。

 アインシュタインは、彼の葬儀に際し「彼はこの奇妙な世界から私より少しだけ先に旅立ちました。しかし、そのことは大した問題ではありません。我々のような物理学者は、現在・過去・未来というのが単なるしつこい幻想だと知っているからです」という別離の言葉を贈ったということです。

 アインシュタインがその生涯をかけて挑んだ量子力学においては、そもそも世界というものは観察者抜きには成立しないことが徐々に明らかにされていると記事はしています。

 このことからランザ博士も、世界や時空間、客観的な世界を前提としたニュートン力学に伴う全ての概念は我々の死とともに消え去るが、それは「驚くべきことではない」と語っているということです。

 もとより、人の死とともに、もちろん「幻想」を生み出していた「意識」も消え去るのは必然です。その時、我々はどうなるのか?

 ランザ博士の説によれば、意識が消失することで、もはや時空ともいえないような全く新しい時間が始まるということです。そこでは、時間が過去から未来へ流れるようなことはなく、また、あらゆる時空間を自由に行き来できるようになるということです。

 私たちは死とともに「意識」を失い、そのことによって(「意識」にとらわれない)想像を超えた全く新しい時空を得ることになる。

 古代ギリシアの哲学者ソクラテスは、「死を恐れることは、知らないことを知っているかのように振舞う愚かな態度」だと喝破し、「楽しき希望を持って死に臨む」よう訴えていたと記事はしています。

 それは(気分の問題だけでなく)、どうやら最新の量子論的に見ても、楽観的に死を受け入れることには十分な合理性があるようです。

 結局のところ、死は(結構)楽しそうな出来事のようだ。自由に時空を行き来するとは一体どんな「経験」なのか今から楽しみで仕方がない。そう結ばれたこの記事の視点を、私も大変興味深く読んだところです。


♯855 アングロ・サクソンのバイアス

2017年08月24日 | 日記・エッセイ・コラム


 5月11日の日本経済新聞の経済コラム「私見卓見」に、元大蔵省財務官の内海孚(うつみ・まこと)氏が、「アングロ・サクソン情報の呪縛」と題する興味深い論評を寄せています。

 この論評で内海氏は、まず英国の国民投票で欧州連合(EU)離脱が決定したいわゆる「Brexit」の際に、日経平均株価の暴落幅が英、独、米よりも大きく反応したことに注目しています。

 内海氏はこの動きを、英国離脱の余波が次々と波及し、EUも統一通貨ユーロも解体してしまうかもしれないという不安(や期待?)が特に米英両国にあり、こうした見方が日本で増幅された結果だと見ています。

 しかし、実は(その時)、欧州大陸に暮らす多くの経済人たちは「そもそも英国は欧州統合にそれほどコミットしていない。仮に英国が離脱してもEUの統合はそれほど影響を受けない」と判断し、意外なほど平然としていたと内海氏は指摘しています。

 確かに落ち着いて考えてみれば、かつての大英帝国の覇権は欧州大陸が分裂していることのバランスの上に成り立っていたと言える。ある国が大陸を制覇する動きをみせると、常にその動きの反対側を支持し、これを防ぐことに全力を注いできたというのが、英国の立ち位置に関する内海氏の認識です。

 記憶に新しいところでは、(例えば)第2次湾岸戦争の時も英国のブレア首相は独仏が反対するなかで米国に全面的に協力し、スペイン、ポーランド、イタリアなどにも働きかけて参戦させ、EUを分裂させたこともあったと内海氏は振り返ります。

 氏は、英国が、ユーロ圏という形で欧州大陸が一つになることに対して本能的に抵抗感があるのは、(少なくともヨーロッパに暮らす人々にとっては)自明の理だと指摘しています。

 にもかかわらず、日本人が欧州の行方を読み間違ってしまうのはなぜなのか。

 内海氏はその理由を、日本人が国際動向の把握をほとんど英語の情報に依存していることに見ています。

 リーマン・ショックの後しばらのく間、我が国の多くのエコノミストや大学教授がユーロの存続に疑問を呈し、「3年以内になくなる」などという議論が横行したと氏はしています。

 確かに当時は、ギリシャをはじめとしてユーロ圏の国々は確かに次々と危機にさらされていたということです。

 ところが、実際には欧州安定メカニズムが設立されるなど支援体制が整備され、ギリシャ、スペイン、イタリアなどの国々もそれなりに財政再建に向けた歩みを進めることになった。独仏を軸とした欧州のつながりが、(日本人にとっては)意外なほどタフに機能したということになるでしょう。

 また、(少し古い話ですが)1992年9月に英ポンドが欧州の為替メカニズムから離脱せざるを得なくなった時、日本の為替ディーラーは手持ちの仏フランの損切り処分に走ったということです。

 これは、当時、アングロ・サクソンのメディアが「次はフラン」と書きたてたためだと内海氏は説明しています。

 しかし、結局ドイツはフランを支え、離脱は起こらなかった。ここでも、日本人が縁として頼った「英字メディア」は、ヨーロッパ(大陸)の空気感を正確には伝えていなかったという指摘です。

 さて、内海氏によれば、今回のフランス大統領選でも、仏紙「ルモンド」が指摘するように(これまでの例に漏れず)アングロ・サクソンのメディアはルペン氏と「ブレグジット」の可能性に焦点をあてる傾向が顕著で、市場のユーロペシミズムの空気を醸成したということです。

 今回も(民族的バイアスのかかった)情報によって、損を拡大した日本の機関投資家が多かったのではないかと氏は指摘しています。

 ついつい忘れがちになりますが、英語は一義的にはアングロ・サクソンの人たちの言葉です。英語は「国際語」であることは間違いありませんが、英語で語られている情報だからといって国際的に見て「正しい」情報であるとは限らないということでしょう。

 だからこそ、こと欧州大陸については、アングロ・サクソンの情報に(時に)偏りがあることを肝に銘じておく必要がある。市場関係者もエコノミストもメディアも、その呪縛から解放されなければならないとこの論評を結ぶ内海氏の視点を、私も興味深く読んだところです。



♯854 がん治療への提言

2017年08月23日 | 日記・エッセイ・コラム


 国立がん研究センターと厚労省、経済産業省の調査から、高齢のがん患者に対する抗がん剤治療については、延命効果が(想定よりも)小さい可能性があることがわかったと4月27日の産経新聞が伝えています。

 調査では、平成19年から20年にがん研究センターを受診した70歳以上のがん患者1500人を対象に、抗がん剤による治療を中心に行った場合と、痛みを和らげる「緩和ケア」に重点を置いた場合とで、受診から死亡までの期間(生存期間)がどのくらい異なるか(つまり、抗がん剤治療がどのくらいの延命効果をもたらしたか)を比較しています。

 分析の結果、主に肺がん、大腸がん、乳がんで末期(ステージ4)の高齢患者の場合、(抗がん剤治療の有無にかかわらず)生存率は同程度にとどまることがわかったと記事はしています。特に75歳以上で見た場合、10カ月以上生存した人の割合は抗がん剤治療を受けなかった患者の方が有意に高く、生存期間も長かったということです。

 今回の(ある意味「衝撃的」な)調査結果を受け、6月19日の産経新聞(コラム「正論」)は、拓殖大学学事顧問の渡辺利夫氏による「高齢者がん治療方針を転換せよ」と題する興味深い論評を掲載しています。

 渡辺氏はこの論評で、米国のがん専門誌『Cancer』に掲載され世界的に話題を呼んだ、肺がん検診の無効性に関する論文を紹介しています。

 記事によれば、米ミネソタ州のメイヨークリニックにおいて、常習喫煙者というハイリスクな人たちを万単位で集めた比較実験が行われたということです。

 集められた半数の人々には4カ月に1回の胸部エックス線検査などを実施し、異常が発見されれば医療的処置を施す。一方、他の半数に対しては医療的処置を行わずそのまま放置したということです。

 そして6年後。これらの人々における死亡総数は、検診をしたグループでは143人、放置されたグループで87人と、検査も治療も行わなかったグループの方が少なかったということです。そして(驚くべきことに)それからさらに5年後に再調査を行った際には、死亡総数が前者は206人、後者は160人と、その差はさらに拡大していたということです。

 その後、こうした調査は、スウェーデンとカナダでは乳がんで、アメリカやデンマーク、イギリスでは大腸がんなどを対象に実施され、いずれにおいても死亡総数は両群間で有意差はなかったという結果が報告されていると記事は記しています。

 また、権威あるイギリスの学術誌「British Medical Journal(2016)」が掲載した論証論文にでは、これまで展開されてきたさまざまな部位についての総計18万人に及ぶ、10の医療機関によるスクリーニングテストの結果から、検診群と放置群の死亡総数はほとんど同数であるという結論が導き出されているということです。

 さて、こうした数々の検証から私たち日本人は何を読み取り、(患者の負担となる検診や抗がん剤治療に多くの時間と労力、コストなどを費す)日本のがん医療をどのように評価すればよいのか。

 渡辺氏はこの論評において、私たち人間は、生老病死というライフサイクルの中で生を紡がざるをえない以上、健康や長命はこれを追求すればするほどその観念に呪縛され、「死の観念」に強く捉えられてしまうと指摘しています。

 死の観念はこれを希釈化しようとすれなするほど、逆にこの観念を鮮やかなものとして浮かび上がらせてしまう。死を身近に感じれば感じるほど、生への執着が強まるということでしょう。

 これは「人生の背理」だと渡辺氏はしています。

 私たちも普段は、どうにも助からないがん患者が周辺に一杯いることは(頭では)理解している。にもかかわらず、医学・医療技術がきわだって高度化した現代に生きる私たちは、(どんな状況にあっても)努めればいずれ訪れる「死」を排除できると思ってしまうということです。

 私たち日本人は、人間の生命は有限であり死は自らにも確実に訪れるものであることを、(この辺で)冷静に確認しておく必要があると渡辺氏は考えています。

 死に抵抗するために限りある生を無駄に費やすのではなく、有限な人生の終末に向けていかに豊かな人生を送り、いかに静かに死を迎えるか。

 平均寿命ですでに世界のトップクラスにある(現在の)日本の医学界に課せられた最重要の課題はこの一点にあるのではないのかと論評を結ぶ渡邉氏の視点を、私も改めて重く受け止めたところです。


♯853 今の日本に生まれたという幸運

2017年08月21日 | 社会・経済


 受益超過の高齢者と負担超過の若者の世代間格差は(実に)1億2000万円に達する…そんな世代会計の試算があるそうです。

 法政大学教授(公共経済学)の小黒一正氏によれば(The huffingtonpost 2016/07/06)、年金や医療・介護など公共サービスとして政府から得る「受益」と税金や保険料など政府に支払う「負担」との差額を計算すると、60歳以上の世代は負担したよりもおよそ4000万円多い受益を得ることができるということです。

 一方、氏の推計では、生まれていない人を含む0〜19歳の将来世代では支払い負担の方がおよそ8000万円多くなり、60歳以上の世代との差が(生涯で)1億2000万円に及ぶとされています。

 サラリーマンの生涯賃金をおよそ2億円とすれば、その半分以上の差が生じる状況が果たして許容範囲と言えるのか。世代会計の第一人者のボストン大のコトリコフ教授が「財政的幼児虐待」と呼ぶこのような世代間格差の状況について、若者たちが不満の声を上げるのも無理はないと小黒氏は指摘しています。

 分かりやすい例で言えば、医療費の自己負担率は(現役並みの所得者を除き)75歳以上の後期高齢者が1割、70〜74歳は2割、70歳未満は3割負担とされています。さらに70歳以上では、高額療養費制度として自己負担の上限額も現役世代より低く設定されているのが普通です。

 こうした、ただ「高齢」というだけで優遇される制度であっても、儒教的な規範意識の強い日本では、これまであまり違和感を持って受け取られることはありませんでした。

 しかし、少子高齢社会が進展する中、社会保障費が膨らみGDPの約2倍、1000兆円を超える累積債務を抱える現状を考えれば、そうした世代間の不公平への批判が生まれているのもやむを得ないことかもしれません。

 さらに、消費税増税の先送りに代表されるように、負担の将来世代への「つけ回し」とも考えられるような政策に、「シルバー民主主義」の弊害を指摘する声も大きくなっています。実際、安倍晋三首相が消費増税を2019年10月に先送りしたことで、2017年4月に増税を行っていた場合と比較して、20歳未満を含む将来世代にとっては1人当たりでさらに44万円「損」が拡大したという試算もあります。

 このような世代間格差の拡大に加え、非正規雇用の拡大や所得の伸び悩み、さらには引きこもりの増加や若年貧困者の増大など、メディアには「割を食う」悲惨な若者の姿が毎日のようにクローズアップされています。

 こうして、仕事の面からも、暮らしの面からも、そして将来の希望という面からもおよそ「踏んだり蹴ったり」の状況に見える現代の若者ですが、作家の橘玲(たちばな・あきら)氏は「あなたがいまここに存在することがひとつの奇跡」と題する論評(6月18日オフォシャルサイト掲載)において、そうした彼らに向け大変興味深いメッセージを寄せています。

 橘氏はこの論評において、今の時代の日本に生まれたということは彼らにとって最大の幸運であると論じています。

 日本経済は四半世紀に及ぶデフレに苦しみ、非正規雇用やワーキングプア、ニートや引きこもりが激増していて、若者はブラック企業で過労自殺するまで働かされ、老後破産に脅える高齢者には孤独死が待っているだけだとメディアは(声高に)指摘しています。こうした声を否定するわけではないけれど、しかしこの島国から一歩外に出てみれば、「下を見ればきりがないが、上を見るとすぐそこに天井がある」という現実にたちまち気づかされるというのが、現代の日本の若者が置かれた状況に関する橘氏の認識です。

 冷戦が終わった現在でも、中東やアフリカにはいまだに権力の過剰や空白に苦しむ多くのしいたげられた人々がいる。それに比べて日本は治安が安定し、敗戦から70年以上も戦争とは無縁で、世界第3位の経済大国で、国民のゆたかさの指標である1人あたりGDPでも(一貫して順位を落としているとはいえ)世界でもっとも恵まれた国のひとつであることは明らかだと橘氏は言います。

 (日本ばかりでなく)世界中の国で深刻な社会の対立や分断が露呈し、人々は自国の政治に大きな不満を持ち、ときに激しい怒りをぶつけあっている。日本の近隣を見回しただけでも、「民主主義」にはほど遠く民衆が声をあげることすらできない国はすぐに思いつくということです。

 そうした中で「理想の国」は一体どこにあるというのか。

 戦後日本はずっと、アメリカを「民主主義の教科書」として崇めうらやみ、同時に反発してきたとこの論評で氏は説明しています。しかしそのアメリカでも、稀代のポピュリストであるドナルド・トランプ氏が大統領に選出され、各地ではげしい抗議デモが起きている。今やアメリカと日本で、どちらのデモクラシーがよりマシなのかわからなくなっている。こうした状況は、彼の地にもはや「青い鳥」がいないことを示しているということです。

 国連の「世界幸福度ランキング」で常に上位を占める北欧の国々はどうでしょう。

 スウェーデンやデンマークのリベラルな政治・社会制度は様々な面で日本よりすぐれているとする論説は数多く、雇用制度や教育制度など見習うべき制度も多々あると言われます。しかし、そうした指摘とそれを「幸福な理想社会」と呼べるかとは別の話だと橘氏はここで指摘をしています。

 もとより、北欧諸国は個人主義が極限まで徹底されたきわめて特殊な社会だと橘氏は言います。人々は社会の制度的な安定と引き換えに物心ついてから死ぬまで「自己責任」「自己決定」で生きていくことを強いられ、さらに現在では(それが高じて)「反移民」「反EU」の右派ポピュリズムが跋扈する社会に変貌しつつあるということです。

 さて、しかしだからといって、(日本の若者たちは自らの将来に)絶望する必要はないというのが橘氏の見解です。

 「知識人」を自称する人たちは、「資本主義が終焉して経済的大混乱がやってくる」とか「社会が右傾化してまた戦争に巻き込まれる」とかの不吉な予言をばら撒いているけれど、過去100年間を時系列で眺めれば、私たちが暮らす社会がずっと安全になり、ひとびとがゆたかになったことはあらゆる指標から明らかだ。そしてこのことは、時間軸を300年、500年、1000年、あるいは1万年に延ばしても同じだと橘氏はここで指摘しています。

 氏は、かつての日本は、ごく一部の特権層しか豊かさを手にすることができない社会だったと言います。江戸時代、あるいは明治や昭和初期であっても、「平民」が幸福について語るなど考えられなかった。「三丁目の夕日」で理想化される「憧れの昭和30年代」でさえ、豊かさでも犯罪率でも、男女差別や身分差別でも、あらゆる指標で現在よりもはるかに暮らしにくい社会だったということです。

 橘氏によれば、人は事故や犯罪、戦争や天変地異などネガティブな出来事に強く引きつけられる生き物だということです。悲惨な事故が起きるとメディアは大々的にこれを報じ、一方で「危機一髪で事故を防いだ」というような話はニュースにならない。これはメディアが偏向しているからではなく、視聴者がなんの興味も持たないからだということです。

 「江戸時代といまを比べても意味がない。問題は(デフレや右傾化で)いまの日本社会がどんどん生きづらくなっていることだ」との反論もあるかもしれないが、「日本が世界の頂点に立った」とされる1980年代ですら、有名大学を卒業し官僚になるか一流企業に就職する以外に社会的成功への道のない時代だったと橘氏は(自らの経験を踏まえ)語っていま。

 その後80年代末のバブル経済でこの構造にひびが入り、それまで社会の底辺にいた(ヤクザと同類の)ひとたちが一時(きらびやかな衣装をまとって)登場しますが、バブル崩壊と暴対法の施行でその抜け穴はたちまち塞がれてしまった。さらに、グローバル化の荒波によって日本社会の構造は根本から揺さぶられ、大手金融機関が次々と破綻する経済的混乱を経て、(敗戦直後の焼け跡闇市以来はじめて)一介の若者が徒手空拳で大きな富を合法的につかめる(良い)時代がようやくやってきたということです。

 私たちは、いまの時代の日本に生きているというだけで、とてつもない幸運に恵まれていると橘氏は捉えています。こうして振り返れば、少なくとも「経済的成功への機会」という意味において、現在の日本が過去のどの時代よりも恵まれていることは間違いないということです。

 橘氏は、私たちは現状を(あれが足りない、これが邪魔だと)悲観するばかりでなく、この「奇跡」と「幸運」を活かし、どのように「幸福な人生」をつくりあげていくかを考えるべきだとこの論評の最後に記しています。

 私たちが暮らす世界は十分に豊かで、高度なテクノロジーがあふれている。人類は今、そのアドバンテージを使って、進化が課すきびしい制約を乗り越えようとしているとする橘氏の視点を、氏の論評から改めて興味深く読みとったところです。



♯852 親を養うことを考えれば…

2017年08月20日 | 社会・経済


 政府が6月16日に閣議決定した2017年版の高齢社会白書によれば、「暮らし向きに心配はない」とする高齢者は全体の6割を超えており、全体の約2割が(60歳を超えても)子や孫の生活費を負担しているということです。

 調査は、昨年6月に60歳以上の男女約3000人を対象に実施し、うち約2000人から有効回答を得たとしています。

 気になる所得の状況ですが、調査対象となった高齢者の年金を含む1カ月当たりの平均収入(注:世帯収入でなくて個人収入)は10万円未満が20.2%、10万~20万円未満が32.9%と20万円未満の人が約半数を占めているということです。

 しかし、逆に言うと残りの半数は20万円以上ということですから、月々の生活に困らない程度の現金収入がある人が多いうえ、(高齢者に偏在するとされる)預貯金や不動産などの資産の状況を考慮すれば、(数字から見る限り)高齢者の生活は押しなべてそれなりに安定したものと評価できるかもしれません。

 また、調査対象となった高齢者の83.4%に「学生を除く18歳以上の子」や「孫」がおり、そのうちの20.8%が(そうした子や孫の)「生活費の一部」または「ほとんど」をまかなっていると回答しているということです。

 因みに、生活費を負担してもらっている子や孫の約8割は働いており、正社員・職員も約半数(47.5%)を占めているということですので、成人して社会に出た子供たちの生活を支えなければならない親たちの苦労にも(それはそれで)厳しいものがありそうです。

 思えば今から一世代前、1960~70年代くらいまでの日本では、定年後の両親の生活は子供たちが支えるのが当然と考えられていました。通常は長男夫婦などが(実家で)親と一緒に暮らし、家を継ぐ(相続する)代わりに面倒を見るというのが、(まさに)当たり前のモデルだったと言えるでしょう。

 しかし、時は移り、安定した年金収入や資産などを持つ高齢者が、子供の収入がそれなりに安定するまでの間、子や孫の生活費を支援する時代が(どうやら)やって来ているようです。

 支援する側の親にも、される側の子供にも大変さがあるのはわかりますが、少なくとも子供たちにとっては(慌てて自活しなくても済む)「いい時代」がやってきたと言えるのかもしれません。

 さて、こうした親たちの自立した生活の基礎を支えているのが「年金」の存在にあることは論を待ちません。しかし、この年金に対しては、一方の若者たちの間に「年寄りばかりが得をする」「年金を払っても損だし不公平だ」というネガティブな感覚があるのも事実です。

 年金にマイナスのイメージを持つそうした若い世代に向け、昨年11月21日の生活情報サイト「NIKKEI STYLE」では消費生活アドバイザーの山崎俊輔(やまざき・しゅんすけ)氏が、「年金は若い世代に不公平か 実は団塊世代より恩恵?」と題する興味深いレポートを寄せています。

 公的年金と言えば、若い世代は重い負担を強いられ、すでに年金生活に入った世代ばかりが老後を謳歌しているというイメージでとらえられがちだが、実は多くの年金生活者世代が豊かな年金をもらっていることは、(別の言い方をすれば)「親を子が扶養しなくてもいい」ということだと、山崎氏このレポートに記しています。

 氏は、多くの親が子に扶養されることなく公的年金で基礎的な生活費をまかない退職金などで老後のゆとりを確保している時代は、歴史的に見ても初めてかもしれないとしています。

 過去何百年(あるいは数千年)にわたって、親は子に扶養されて老後を送ってきた。日本でも「隠居」と言えば、親は家督を譲った子供から敷地内の別宅(狭い部屋)を与えられ、肩身狭くし、子に生活の面倒をみてもらっていた。当然、子供は(自らの収入で)親の生活にかかる費用をすべて負担してきたということです。

 三世代同居が当たり前の田舎でも、親は子供の経済的余裕の範囲でしか生存できなかった。もしも家庭内扶養ができなくなったときどうしていたかは、「姥捨て山」という伝承が語っているとおりだと山崎氏は説明しています。

 年金生活者の貧困がしばしば話題になりますが、実際のところ、高齢者の貧困問題は、過去をさかのぼるほど厳しく切実になると山崎氏はこのレポートで指摘しています。

 氏の説明によれば、高齢者の貧困は、昭和初期ぐらいまで本当にリアルな状況と言えたが、現代のほとんどの年金生活者は(様々な福祉制度をきちんと使えば)決して「貧困状態」とならないのではないかということです。

 現在、夫婦のモデル年金額は月22万円程度。大卒初任給の賃金にプラスアルファといった水準ですが、単身者モデルでは月16万~17万円ですから、確かに(預貯金などがなければ)生活はカツカツといったところかもしれません。

 一方、さらに国民年金のみの単身者は満額でも月6万5000円程度なので、これだけで暮らすというのは難しい水準です。資産や仕事などがなければ、生活保護などの福祉制度による支援も必要となるでしょう。

 しかし、氏によれば、それでもこれだけの水準を国が年金として支払えることで、別の誰かが支払わなくてよいコストが生まれるということです。

 それは「子から親への仕送り」です。実際のところ、高齢者の多くは子の仕送りに頼らずやりくりをしており、「子の親への経済的負担」はかなり小さくなっていると山崎氏は言います。

 働き盛りの子供としては、そこに公的年金制度が入ることで、親への仕送りを行わなくてもいい(もしくはわずかですむ)という現状が生まれているということです。

 世代間不公平を語るときには、かつて存在していた(こうした)仕送りという「見えない負担」も考える必要があると山崎氏は説明します。毎月22万円とはいわずとも、団塊世代の多くがそうしていたような親への仕送りをしていたならば、今の現役世代はもっと結婚や子育てする余裕がないはずだという指摘です。

 さらに言えば、独身者と一人っ子にとって、今の年金制度は確実に助かる仕組みになっていると山崎氏はしています。

 親への仕送りは、昔のように兄弟姉妹が多くいれば割り勘に出きるけれど、一人っ子なら自分の両親を養うために給料のほとんどを渡さなければならなくなる。社会保障のもとで国が年金給付をしてくれることは、一人っ子や独身者にとっては助かることばかりだということです。

 そして、さらに自分が「老後」を迎えた時、今増えている「おひとりさま」は、「仕送りをしてもらう子がいない」という現実に直面することになる。年金制度がもしもなかったら、自分がなんとか親に仕送りできたとしても自分を支えてくれる存在はない。しかし、国の社会保障制度として年金制度を構築したことで、身寄りがない人も独身者も老後は社会的に支えられることとなったと山崎氏は説明しています。

 日本の年金制度に関しては、世代間の構成人口の違いや過去の負担率の低さから、これから高齢者を支えていかなければならない若い世代の眼には、(一見して)極めて不公平な制度に映るのも理解できないわけではありません。

 しかし、山崎氏も指摘するように、そこに(彼らの意識からすっぽり抜け落ちてしまっている)「親を養う」という視点を加えれば、見える景色はまた違ってくるというもの。人類がその長い歴史の中で、連綿と恒例となった親たちの世代の面倒を個別に見てきたことを考えれば、税も含め皆で助け合うことでどれだけ楽になるかわかりません。

 「お上」のやることは何でも悪いことだと思いたい気持ちはわからないでもありませんが、公的年金の話は目の前の損得だけではなく、大きな時代の変化を合わせてとらえると違ったビジョンとして見えてくるとこのレポートを結ぶ山崎氏の視点を、私も大変興味深く読んだところです。



♯851 消費低迷の真犯人

2017年08月12日 | 社会・経済


 今年1~3月期の国内総生産(GDP)速報値が、物価変動の影響を除いた実質ベースで前期比0.5%増、年率換算で2.2%増となったという内閣府の発表(5月18日)が、市場に好感を持って受け止められているようです。

 当該期の日本の実質成長率は国やユーロ圏、英国を上回り、約11年ぶりに5四半期連続のプラス成長となったということです。特に今回、政府の目標とする(年間)2%の経済成長率を(ひとまず)上回ったことで、政府関係者も胸をなでおろしていることでしょう。

 0.5%の実質成長率の内訳をみると、0.4%分が内需、残りの0.1%分が外需の増加によるものとされています。個人消費は前期比で0.4%増え、生鮮食料品の価格高騰がおさまったことで消費が持ち直したほか、スマートフォンや衣服の消費も若干増加しているようです。 

 一方、輸出は相変わらず堅調で、中国経済をはじめとして世界経済の回復基調が徐々に強まっているとされ、特にアジア向けの半導体製造装置や電子部品、中国向け自動車部品などが増えているということです。

 とは言うものの、日本の消費動向をもう少し長期的に眺めれば、(2014年4月の消費税増税前の駆け込み需要期を除けば)実質最終消費支出は230兆円台でほぼ横ばいの状態が続いており、決して楽観視できる状態とは言えません。足元では実質賃金が伸び悩んでおり、個人消費が力強い回復に向かっているとは(なかなか)言える状況にはなっていません。

 政府は、4年間にわたる「アベノミクスの成果」を様々な指標から強調しているところですが、(それでも)なぜ日本人の家計消費は伸び悩んでいるのか?

 こうした疑問に対し6月10日の「週刊東洋経済」誌では、「消費低迷の真犯人は膨張した住宅ローン?」と題する興味深いコラム記事を掲載しています。

 長期的に続く日本の消費不振に対し、エコノミストたちの間では様々な解釈が行われてきたと記事は説明しています。例えば、内閣府の「経済白書(2016)」では「エコカー補助金」や家電の「エコポイント制度」が耐久材の需要を先食いしたことや、若年子育て世代が将来不安から約志向にあることをその原因として指摘しているということです。

 一方、今回の記事は、日本政策投資銀行の佐藤紀穂氏による(従来の分析とは少し異なる視点からの)ユニークな分析を紹介しています。

 記事によれば、佐藤氏は「全国消費実態調査(総務省)」のデータを使った分析から、「家計の住宅ローンの拡大が消費を抑制している可能性がある」と指摘しているということです。

 15年間にわたる同調査のデータを調べたところ、現役世帯(世帯主年齢65歳未満の勤労者世帯)の負債残高は1999年に500万円強だったものが2014年には600万円を超える水準に増加している。住宅ローンを抱える世帯における可処分所得に占める住宅ローン返済金の割合は、その間に13%から17%にまで上昇していると佐藤氏は説明しています。

 氏によれば、1999年以降年を追うにつれ、可処分所得に占める住宅ローンの割合が高い(15%超の)世帯が増えているということです。住宅ローンを組んでいる世帯は(組んでいない世帯と比べて)消費性向が5~12%も低いことが判っており、(当然ですが)可処分所得に占めるローン返済額が高いほど消費を抑える傾向が強くなるとされています。

 なぜ、人々の間で住宅ローンの返済負担が高まっているのか?

 佐藤氏はその理由を、首都圏を中心にマンションの販売価格が高騰していること、そしてその一方で、ローン金利が低水準にとどまり割安感があることに見ています。低金利によって、現役世帯の間で比較的高額な物件の購入が促進されている可能性があるということです。

 実際、2007年に3%だった住宅金支援機構の「フラット35」の固定金利は、足元では1%を切る勢いで推移していると記事はしています。一方、首都圏におけるマンションの1㎡当たりの平均単価は、2007年のおよそ1.5倍の水準まで高騰しているということです。

 佐藤氏の指摘を待つまでもなく、現在の住宅市場は(折からの)極端な低金利政策が作り出した「住宅ローンバブル」である可能性が高いと記事は説明しています。そうだとすれば、この状況は(エコポイントと同様)需要を先食いしているだけと言うことができるでしょう。

 住宅ローンの膨張が勤労世帯の個人消費を大幅に抑制しているという現実があるとすれば、消費のけん引役となるべき彼らの可処分所得を、世代間の所得移転などによりさらに増やしていく政策をさらに検討する必要があるのではないかと、私もこの記事の指摘から改めて感じた次第です。


♯850 医師バブルの時代

2017年08月11日 | 社会・経済


 「週刊東洋経済」の6月10日発売号(特集「医学部&医者」)によれば、リーマンショック以降の就職不安を背景とした「子供に手に職を付け(させ)たい」という子育て世代の安定志向が高まりなどにより、(大学受験における)医学部の人気がこれまでにないほど沸騰しているということです。

 実際、今年の医学部志願者数は14万3176人(国公立・私学合計)に及んでおり、少子化が大きく進む中で10年前より約4割も増加。受験産業関係者の間では、「医学部バブル」と呼ばれる言葉が口にされるほどの活況を呈していると記事はしています。

 大学の定員数に対する志願倍率は実に15.2倍。2年連続で医学部の新設があったことからここ数年は横ばい傾向にあるものの、それでも空前の超高水準が続いており、併願できる私立大学医学部の一般入試では20~30倍の倍率は当たり前となっている。医学部人気の上昇につれ、私立大学医学部の平均偏差値も1990年との比較で10以上も上昇しているということです。

 世間には様々な職業があり、時代につれて(厳しい)盛衰も見られますが、何と言っても「医師」のステータスは安定しており、しかも高収入。医師免許を取得して開業医になれば、最も高い眼科医で平均収入は3273万円に達すると記事はしています。

 また、こうした医学部人気の背景には、6年間の総学費が350万円程度の国立大学はともかく、最近では順天堂大学が2008年度に値下げをしたのを皮切りに、私立大学で学費の値下げが相次いでいることも影響しているようです。

 一般に、私立医大の人気と偏差値は学費と反比例すると言われており、このため入学志願者獲得に向け1000万円以上学費を引き下げる大学も出てきていると記事はしています。

 実際、今年4月に開校した国際医療福祉大学の学費は(6年間の総計で)破格の1850万円に設定されており、また、順天堂大学は2080万円、慶應義塾大学は2176万円、昭和大学は2200万円と、近年では学費総額を2000万円台前半とする私学も多くなっているということです。

 さらに、医師不足対策として、医学部の学生に学費援助を実施している自治体も増えていると記事は指摘しています。例えば東京都では、医学部ごとの修学費に加え生活費720万円(月額10万円)を奨学金として貸与した上で、貸与期間の1.5倍の期間(最長9年間)を都内の医師不足地域や小児科・産科・救急などの(医師不足が深刻な)診療科で医師として従事すれば返済免除するとしています。

 こうした制度を活用することで、一般のサラリーマンの子弟であっても、親に(それほどの)負担をかけずに医師を志すことができる環境が整ってきた。特段にリッチな家庭でなくても子供を私大医学部に進学させることは夢ではなくなっているということです。

 このような費用の問題に加え、昨今の医学部人気の背景には、新設医大世代の子供が医学部受験に向かっている影響もある(のではないか)と記事は説明しています。

 1970年代、当時の田中角栄政権が「1県1医大構想」のもとで新設医大を量産してから既に40年が経過しました。こうした新設医大卒の開業医らが、自らの事業承継のために子供たちを医学部受験に駆り立てているという指摘です。

 彼らは、高度成長からオイルショック、バブル経済とその崩壊という経済の混乱期にあって、「医師」という存在のステータスと安定した収入を(十分に)享受してきた世代と言えるでしょう。子弟を医師にしたいと最も強く望んでいるのは、ほかでもないそうした経験を積んできた彼ら自身であることは、(おそらく)間違いないはずです。

 そのような中で最も問題となっているのは、「医者になる」というキャリア意識を欠いたまま医学部に入学してくる学生が増えていることだと記事は指摘しています。勉強ができる子はみな医学部を目指すという進路指導が行われることで、目指すキャリアもないまま向いていない医師になるのは、本人にとっても患者にとっても、公費を費やされる国民にとっても不幸としか言いようがないということです。

 さて、職業としての医師の高収入や安定が、医学部の大学定数の規制に支えられた「官製」のものであることは、勿論、論を待ちません。また、今年入学した医大生が、後期研修を終えて医師として独り立ちするのは約10年も先のことです。

 厚生労働省の試算によれば、(最も需要予測を多く見積もった推計でも)2033年頃には医師の需要と供給は均衡し、2040年頃には医師の供給が需要を1.8万人程度上回る「医師過剰」の時代がやって来ると予想されているということです。

 そうしたこれからの時代に、果たして医師の地位は安泰なのか?収入が下がるかもしれないし、仕事も選べるような状況にはないかもしれない。

 医師バブルのムードに浮かれる前に、自分(や子弟)の適性と将来を十分に検討し、「それでも医者になりたいのか?」と、自問し覚悟を決めることが求められるとする記事の指摘を、私も(改めて)興味深く受け止めたところです。



♯849 日本のニート

2017年08月09日 | 社会・経済


 ニート(NEET:Not in Education, Employment or Training)とは、読んで字のごとく「就学」「就労」「職業訓練」のいずれも行っていない状態(の人)を意味する用語です。

 この言葉は、日本では15〜34歳までの非労働力人口のうち通学や家事を行っていない者を指すとされ、またの名を「若年無業者」と言って、「家でぶらぶらしている若者」や「引きこもりの若者」などを表す代名詞として広く認識されています。

 しかし、国際的に見れば、NEETのニュアンスは日本とは若干違っているようです。

 OECDの定める定義では、NEETは「働いておらず、教育や職業訓練を受けていない15~29歳の男女」とされており、いわゆる「家事手伝い」や「自宅浪人生」「働く必要のない若者」なども含んだ数値として統計上に表れてきます。

 5月29日にOECDが公表した報告書『若者への投資:日本-OECDニートレビュー (Investing in Youth: Japan - OECD REIEW ON NEETS)』は、若年人口が減少し働く若者の数が約150万人減少する中、日本のNEETが1990年代初頭の2倍以上に増加している状況を(危機感を持って)指摘しています。

 同報告書は、日本におけるNEETの数を(2015年現在で)約170万人と見込んでおり、同世代に占める割合は10.1%と、実に10人に1人以上がNEETに分類されるという(驚くべき)結果を示しています。

 もっとも、NEET率のOECD平均値は14.7%とさらに高く、世界を見渡せば、上位にはトルコ(30%)やイタリア(27%)、ギリシャ(25%)、スペイン(23%)などの国々が並んでいます。こうした国々では、移民問題や経済の悪化などにより仕事にあぶれた低学歴の若者がその主役となっているようです。

 一方、(そうした状況から)OECD各国の平均値ではNEET全体の17%に過ぎない高学歴者が、日本では38%(短大卒以上)を占めていると報告書は指摘しています。

 現在の日本の労働市場は人手不足で、若い労働力は引く手あまたの状態です。当然、高学歴者に関しては、就職もさらに容易と言えるでしょう。

 そのような中、(OECDの中にあっても)日本の若年労働者の就労状況は極めて特異な存在だと言わざるを得ないと報告書は指摘しています。求職活動をしていないNEETの割合は諸外国よりも有意に高く、日本では3分の2以上のニートが仕事を探していないのが現状だということです。

 報告書はその理由(のひとつ)として、OECDの統計に上ってくる日本のNEETには、家事や育児のために働いていない女性、いわゆる専業主婦が数多く含まれていることを挙げています。

 OECDの基準では、たとえ家事や育児をしていても、就業も通学もしていなければNEETとして理解されます。その根底にあるのは、家事と育児が理由でNEETになっている女性も、多くが「可能であれば働きたい」という意欲を持っているという考え方です。

 報告書は、生産年齢人口が急速に減少しており移民も少ないことを考慮すれば、(日本では)全ての若者が労働市場に積極的に参加できるよう支援することが不可欠だと指摘しています。保育所の整備も含め、働く意欲のある若者が無理なく働ける環境整備が求められているということです。

 さて、さらに今回の報告書が(日本における最も)「深刻な問題」と指摘しているのが、「30歳未満の推計32万人(この年齢層の約1.8%)が引きこもり状態にある」という事実です。

 これらの人々の多くは、社会や教育、労働と再び結びつきを持つために長期にわたり集中的な支援を必要としている。学校や地域の社会奉仕活動を改善し、社会から離脱する恐れのある若者を助けるべきだと報告書は論じています。

 実際、内閣府の調査でも、6カ月以上にわたって、仕事や学校に行かず自宅にいる15〜39歳の「ひきこもり」は、全国で推計54万人以上に上るとされています。さらに、統計に上らない40歳以上の該当者や親和群も含めれば、全国で110万人以上に達するのではないかとの推計もあるようです。

 安倍晋三政権は昨年6月に「1億総活躍プラン」を閣議決定し、引きこもりなど「社会生活を円滑に営む上での困難を有する子供・若者」に対し相談支援などを充実させ、「就労・自立を目指す」と謳っています。

 日本のNEET問題の本質的な解決のためには、日常の生産活動からドロップアウトしてしまった彼らの社会性を取り戻し、(将来に)意欲をもって暮らすことを意識づけることが最も求められているのではないかと、改めて考えさせられたところです。

 


♯848 結婚市場の自由化がもたらすもの

2017年08月07日 | 社会・経済


 2015年に実施された国勢調査の結果に基づく男女別の生涯未婚率(50歳時点で1度も結婚経験がない人の割合)が発表され、Web上などで反響を呼んでいます。

 未婚率は、前回の2010年の国勢調査結果から男女ともさらに上昇しており、男性が23.4%、女性が14.1%と、1980年と比べて男性の未婚者の割合は実に10倍、女性は3倍に膨らんでいるということです。

 地域別に見ると、男性は沖縄県(26.20%)、岩手県(26.16%)、東京都(26.06%)などで全体の4分の1を超えているほか、多くの都道府県で20%を上回っていることが判ります。また、女性では、東京都(19.20%)が突出して高く、北海道(17.22%)、大阪府(16.55%)と続いていますが、他の都道府県では概ね10~15%の水準となっていてエリアごとの違いが男性よりも大きい傾向があるようです。

 少子化の最大の原因とも考えられている(このような)未婚率の継続的な上昇に関し、5月27日の「NIKKEI STYLE」は、『男性の「生涯未婚率」急上昇は○○のせい?』と題する興味深いレポートを掲載しています。

 このレポートでは、未婚率が上昇するきっかけとなった出来事の一つとして、1986年の男女雇用機会均等法の施行を挙げています。同法により男女の採用差別が禁じられたことで賃金格差が縮まり、男性に頼らず自立できる女性が増えたということです。

 さらにこのレポートによれば、最近目立つのは男性の未婚率が急上昇していることだということです。5年ごとの国勢調査を基に計算される生涯未婚率は1985年までは女性が男性を上回っていました。しかしこれが1990年に逆転し、(前述のように)今は男性が女性を約10ポイントも上回っている状況にあります。

 その理由については、(一般的に)バブル崩壊後、不安定な非正規雇用に就く男性が増えたことあると考えられています。若い男性が経済的な安定が得にくくなり、結婚をためらう人が増えたからだという理屈です。

 しかし、経済的な事情が背景にあるならば、男女とも同じように未婚率が上がらなければならないはずだとこのレポートは指摘しています。そもそも、男性と女性で生涯未婚率が違うというのでは「数」が合わないのも事実です。

 それでは、男性だけに固有の「結婚できない理由」というものがあるのでしょうか。その理由について、ニッセイ基礎研究所の天野馨南子研究員は「再婚の増加が背景にある」と説明しているということです。

 2015年現在、結婚に占める再婚の割合は実に27%まで高まっているということです。再婚数は男性が女性を1万8千件ほど上回っているということですから、それはつまり、女性は「結婚に懲りて」再婚しない人が(男性よりも)多いということを意味しています。

 ここで「男が余る」という現象が生まれるわけですが、さらに男性は再婚する際に初婚の女性を選ぶケースが多く、そのため、一度も結婚しない男性の割合が高まるという状況が加速される…これが生涯未婚率の男女格差の真相だということです。

 さて、そこで心配されるのが、男性が単身のまま年をとることだとこのレポートでは指摘しています。

 みずほ情報総研の藤森克彦主席研究員は、60代男性の単身者の割合が2005年の約10%から2030年には20%まで高まると推計しているということです。

 女性よりも孤立しがちな男性の単身高齢者が増えるのは社会不安につながるとレポートは説明しています。彼らは、家族の支えがないといざという時に福祉に頼るほかなく、その態勢は十分ではないためだということです。

 レポートによれば、人口政策に詳しい一橋大学教授の北村行伸氏は、こうした状況への対応策として「高齢者のカップル形成を支援するのは意味がある」と話しているということです。(「独居男性の老後の面倒を女性に見てもらうため」と言ってしまっては身も蓋もありませんが)若者の婚活支援ばかりでなく、高齢者の恋愛をもっと応援すべき時代が訪れつつあるということでしょう。

 北村氏はこのレポートで、日本人がほとんど結婚するようになったのは、明治維新以降に富国強兵のスローガンのもと、政府が兵隊を増やすために出産を奨励してからのことに過ぎないとしています。

 国策を背景に「見合い婚」が普及し、社会的なプレッシャーもあってみんなが結婚するようになった。しかし現代は国策という規制がなくなり、結婚市場は「自由化」されたと北村氏はしています。自由化され、開かれた競争市場では、2~3割が結婚しないのは異常ではないということです。

 黙っていても割り当てが来た計画経済の時代と異なり、自由主義の市場では、力を持つ者が勝ち続ける一方で、ずっと負け続けたり最初から市場に算入できなかったりするメンバーが生まれるのも必定と言えるでしょう。

 勿論、政策論として「少子化問題」という本質に立ち返れば、何も結婚しなければ子供を産み育てられないというものではありません。実際、世界をみれば、フランスや北欧など結婚しなくても子どもを育てられるのが常識となっている国もたくさんあります。

 思えば、社会の基礎的な単位となる「家族」の構成は、戦前から戦後にかけて「祖父母と夫婦とその子供」から「夫婦と子供」という2世代に移り変わってきましたが、今後はそのボリュームゾーンが「夫婦と子供」から「祖母と母親と子供」や「母親と子供」、そして「単身」などへと多様化していくことになるのでしょう。

 当然、そうした社会において安定した子育て環境を築いていくためには、そこに生まれた子供たちを(「家族」の構成員である以前に)社会全体の構成員として認識していくことが求められます。

 さらに言えば、結婚市場の自由化により男性の(生涯)未婚者が増える中で出生数を増やすためには、(少なくとも論理的には)男性が関与しなくても子供を成人まで十分に育成できる社会態勢の整備が必要であることは自明です。

 結婚の自由化は、日本の社会制度にそうした変化を要求しているということを、このレポートを読んで私も改めて感じたところです。


♯847 日本人は議論が苦手

2017年08月06日 | ニュース


 安倍首相が都議選の最終日に街頭演説で発した「こんな人たちに、私たちは負けるわけにはいかないんです。」という発言が、メディアなどで大きく取り上げられました。

 人生では当然「勝ち・負け」を競う場面は数多くありますから、その言葉自体に大きな問題はないような気もします。しかし、場面を言論の世界に限定すれば、そこに求められているのは「より良い結論」を導くことであって、「どちらかが正しく」「どちらかが間違っている」というような正邪二元論の下で勝ち負けを競うことではないでしょう。

 「安倍、帰れ!」と自由な議論を封殺しようとする人たちと、彼らを「こんな人たち」と呼んで頭から否定し排除しようとする政治家。

 お互いに柔軟性を欠いたまま、こうして議論を「敵」と「味方」の戦いとして認識してしまうのは、「個人」よりも「所属」を大切にする(ある意味)日本人の性(さが)と言ってもいいかもしれません。

 異なる意見から新しい「何か」を生み出す建設的な議論は、一体どうしたらできるのか?

 8月3日のTHE HUFFINGTON POSTには、フリーライターの雨宮紫苑(あめみや・しおん)氏が、『「ちがう意見=敵」と思ってしまう日本人には、議論をする技術が必要だ』と題する興味深い論評を寄せています。

 「日本人は議論が苦手だ」と言われるが、その理由としては協調を重んじる気質や自分の意見を言うのが苦手な日本人の国民性が挙げられることが多いと、雨宮氏はこの論評で指摘しています。

 しかし、理由はそれだけではないのではないか。そもそも日本人は、議論を通じて「対話」するのが苦手なのではないかというのが、この問題に対する氏の基本的な認識です。

 例えば、彼女の記事に対する(ネット上の)反応を見ても、賛同意見では「共感した」「その通り」といったコメントが多い一方で、反論意見の大半には「どうせコイツは…」といった人格への攻撃が伴っているということです。

 雨宮氏は、こうして「ちがう意見=敵」と思ってしまうところに、「日本人は議論ができない」と言われる大きな原因があるのではないかと説明しています。

 当然、「意見への賛否」と「人間性」は分けて考える必要がある。仲がいい友人でも驚くほど考え方が違う場合もあるし、逆に考え方は似ていても好きになれない人だっている。

 しかし、それでも日本では意見の賛否と人間性を切り離せない人が多く、話し合いの場でも感情が重視される場面が数多く見受けられると雨宮苑氏は言います。

 実際、「○○さんは不倫をする不誠実な人なので、その意見は信用できない」とか、「そういう言い方をすると傷つきます」といった、本題に全く関係ない、客観的根拠もないが情に訴えるといった姿勢で話し合いに臨む人も少なくないとうことです。

 雨宮氏は、日本人がこのように議論に感情を優先させる背景に、日本独特の「空気を読む」などといった(いわゆる)同調圧力の存在を見ています。

 集団内の全員の考えが同じであることを正しい姿と見なして、同じ考えの者同士が徒党を組んで異なる意見の者を攻撃する。皆が賛成なのに反対する「空気が読めない輩」は、異端視され、厄介者扱いされるということです。

 意見がちがう人を集団の和を乱す「敵」とみなす思考回路の下では、敵には容赦なく攻撃するし、「自分が正しいから相手は間違えている」という極論に走るようになると雨宮氏は説明します。

 「意見がちがう人=敵」だと考えている限り、双方の意見はひたすら平行線をたどるし、議論ではなくただの意見の押し付け合いになる。白黒はっきり決められるテーマならそれもありかもしれないが、現代社会で話し合われる多くの問題はそうシンプルなものばかりではない。

 そして、確実な正解が存在しない以上、議論を通じて、多角的な視点から「より正しい答え」を導くことが求められるということです。

 氏は、「より正しい答え」を導くには、数学と同じように「正解へいたるプロセス」があるとしています。

 まずしなくてはいけないのは、議論の目的を共通認識として持つこと。全員が「意見を出し合って対話することが目的」と理解することによって、はじめて議論が成り立つということです。

 日本では、特にこういった議論の技術を習う機会がないので誤解されがちだが、「論破や勝ち負けが目的ではなく意見を通じた対話こそが大事なのだ」と考えれば、関係のない人格攻撃や揚げ足取り、詭弁がいかに無駄で邪魔かわかるはずだと雨宮氏は指摘しています。

 氏によれば、「目的の共有」の次に来るステップは、「事実」と「テーマの本質」の共有だということです。

 「Aにすべき」「すべきではない」という真っ向から対立した意見をぶつけ合ってても「正解」は見えてこない。同じ土俵で話し合うためにはまず客観的事実を共有し、どこに議題の本質があるのかを探ることが不可欠となるということです。

 残念ながら、日本の議論では(大概)こういう「整理されたプロセス」がないため、無茶苦茶な言い分が飛び交ったり、感情論に流されたりしてしまうと雨宮氏はしています。

 議論は、物事の理解を深化させ、より確からしい解を求めるために必要な作業であることは言うまでもありません。

 経験がもたらす思考の土壌や知識の傾向や水準が異なる人々の間で、意見が異なるのは当然のこと。議論で大事なのは、相手を論破することではなく、テーマに対して多くの知恵を持ち寄り、「より正しい答え」を模索することだということです。

 グローバル化が進む世界では特に、自分の意見を述べて相手の意見を聞き、「より正しい答え」を構築する対話能力は必須になると雨宮氏も指摘しています。

 (そうした視点から)まともに議論できる人が増えれば日本はもっと意見を言い易いオープンな社会になり、(社会環境に見合った)多様性が認められるようになるのではないかとこの論評を結ぶ紫苑氏の指摘を、私も興味深く受け止めたところです。



♯846 「私たち」と「こんな人たち」

2017年08月05日 | 国際・政治


 安倍晋三首相は7月24日に行われた衆議院の予算委員会において、東京都議選の街頭演説会でヤジを飛ばされた際に「こんな人たちに、私たちは負けるわけにはいかないんです。」と発言したことについて、「私を批判する人たちを排除するととられたのであれば、不徳のいたすところだし残念だ」と答弁したと各メディアが報じています。

 事の発端は、東京都議会選挙の投開票を翌日に控えた7月1日。秋葉原で初めて街頭に立った安倍首相に対して、政権を批判する人たちから発せられた「安倍やめろ」コールに対し、「憎悪や誹謗中傷からは、何も生まれない!」と語気を強め、声のするとおぼしき方向を指さしてこの言葉を放ったということです。

 テレビなどの報道やネット上の動画でこのシーンは瞬く間に拡散し、「こんな人たち」とは誰を指しているのかという非難とともに、(現在では)安倍政権の支持率低下の大きな要因の一つになったと考えられています。

 ジャーナリストの江川紹子氏も7月3日のYahoo newsへの投稿において、今回の都議選で閣僚や自民党幹部から出た様々な発言の中で、安倍首相が発したこの言葉が、私にとっては(そして多くの国民にとっても)最もインパクトがあった(のではないか)と評しています。

 その理由を、江川氏は、
(1) 内閣総理大臣は、安倍さんの考えに共鳴する人たちだけでなく、反対する人々を含めた全ての国民に責任を負う立場にある
(2)(なので)仲間や支持者だけではなく、批判勢力を含めたあらゆる国民の命や生活を預かっている
(3)(なのに)安倍さんは、自分を非難する人々を「こんな人たち」という言葉でくくってしまい、それに「私たち」という言葉を対抗させてしまった
ところにあると見ています。

 江川氏によれば、それで思い出すのは、俳優のアーノルド・シュワルツェネッガー氏がカリフォルニア州知事に立候補し、選挙運動中に演説会場で反対派から生卵をぶつけられた一件だということです。彼は、演説を続ける中でそうした行為も「表現の自由」の一環だと述べ、「ついでにベーコンもくれよ」と豪快に笑い飛ばしたということです。

 そんな風にユーモアで切り返すのは無理としても、(日本国の総理大臣なら)「批判を謙虚に受け止め」と大人の対応を示すか、あえて知らん顔で主張を述べ続ける冷静さを見せて欲しかったと江川氏は言います。

 でも、それは安倍さんには難しいリアクションだった。そもそも、「私たち」と「こんな人たち」を対決させるのが、安倍晋三という政治家の基本的なスタイルだからだということです。

 江川氏は、常日頃から安倍さんは、「敵」、すなわち「こんな人たち」と認定した人に対しては、やたらと攻撃的だと指摘しています。

 それは、首相でありながら、国会で民進党の議員の質問にヤジを飛ばして、委員長から注意をされる場面からも見て取れる。野党の議員の後ろにも、たくさんの国民がいるということを理解していたら、普通はこういう態度はとれないだろう。つまり、安倍さんにとって野党議員に投票するような人たちは、自分が奉仕すべき国民というより、「こんな人たち」程度の存在なのではないかということです。

 さらに、その発想は、「私たち」の中に入る身内や仲間をとても大切にすることからも見て取れると江川氏は言います。

 第一次政権では、仲間を大事にしすぎて「お友だち内閣」との批判を浴びた。今回の稲田防衛相や森友学園、加計学園への対応などを見ても、その教訓は(まるで)生かされていないよう見えるということです。

 敵を作り、それと「私たち」を対峙させることで存在価値をアピールするというこうした対決型の姿勢を、「決める政治」や「歯切れのよさ」「スピード感」として評価する人たちがいる一方で、無視され、軽んじられてきたられた人々の不満はたまりにたまっていたのではないかと、江川氏は昨今の安倍内閣の支持率の低下の理由を説明しています。

 菅官房長官は記者会見でこの発言について問われ、「きわめて常識的な発言」と答えていますが、(官房長官の立場で)これが政権トップの発言として「常識的」だと言ってのけてしまうところに、内閣全体の「分かってない」感が如実に現れているとこの投稿を結ぶ江川氏の指摘に、私も「なるほどな」と思わず引き込まれてしまいました。