竹内整一(1936~)著「はかなさ」と日本人~無常の日本精神史(平凡社新書 2007年)を一読した。目次は以下の通り。
はじめに
Ⅰ現代日本人の無常観
Ⅱ「夢の外へ」
Ⅲ「夢の内へ」
Ⅳ「夢と現のあわいへ」
Ⅴふたたび、現代日本の無常観
あとがき
私の神経にはなじめない本だった。こんな上品な?文体には「敬して近寄らず」の方が良かったかもしれない。ただし、第Ⅴ章で引用されている見田宗介の言説には触発されるものがあって、その思いを以下に記すことにした。
首都圏から八郷に移住して、もうすぐ15年目になる。生死を超えることは出来ないかも知れないが、せめて今、生きている実感を得たい、ということが移住の理由の一つだった。
都会に比べれば自然が豊かな当地の風土では、多様な生命体が穏やかに相和していると同時に、生死を賭けた闘いが随所に見られる。山路の傍らに小鳥の羽毛が一塊り散り落ちているのは鷹の仕業だろう。傷ついて瀕死の兎が倒れていることもある。私自身も菜園で草や虫たちと闘っている。
人間は文明の興隆と共に欲望を肥大化してきた。そして欲望実現のための闘争を暴虐化し、地球環境を破壊してきた。環境劣化や核による人間の絶滅は必然の理となっている。現代は「神の死」のみならず「人間の死」というニヒリズムの時代となった。
見田宗介は、「このニヒリズムを超克する唯一の道」は「われわれの生が刹那であるゆえにこそ、今、ここにある一つ一つの行為や関係の身に帯びる鮮烈ないとおしさへの感覚を豊饒に取り戻すことにしかない」と言う。この人の言葉には眩惑的な力がある。「鮮烈ないとおしさへの感覚」は、美意識や詩的精神と共振するように思う。
「鮮烈ないとおしさへの感覚」を「取り戻す」と言うとき、その「取り戻す」主体には、近代的個人主義が到達した自我意識とりわけ知性への絶対的な「信」がある。人間の「知」が「神」に取って代わったことに高貴かつ不遜な荒みが垣間見える、と私は思う。
はじめに
Ⅰ現代日本人の無常観
Ⅱ「夢の外へ」
Ⅲ「夢の内へ」
Ⅳ「夢と現のあわいへ」
Ⅴふたたび、現代日本の無常観
あとがき
私の神経にはなじめない本だった。こんな上品な?文体には「敬して近寄らず」の方が良かったかもしれない。ただし、第Ⅴ章で引用されている見田宗介の言説には触発されるものがあって、その思いを以下に記すことにした。
首都圏から八郷に移住して、もうすぐ15年目になる。生死を超えることは出来ないかも知れないが、せめて今、生きている実感を得たい、ということが移住の理由の一つだった。
都会に比べれば自然が豊かな当地の風土では、多様な生命体が穏やかに相和していると同時に、生死を賭けた闘いが随所に見られる。山路の傍らに小鳥の羽毛が一塊り散り落ちているのは鷹の仕業だろう。傷ついて瀕死の兎が倒れていることもある。私自身も菜園で草や虫たちと闘っている。
人間は文明の興隆と共に欲望を肥大化してきた。そして欲望実現のための闘争を暴虐化し、地球環境を破壊してきた。環境劣化や核による人間の絶滅は必然の理となっている。現代は「神の死」のみならず「人間の死」というニヒリズムの時代となった。
見田宗介は、「このニヒリズムを超克する唯一の道」は「われわれの生が刹那であるゆえにこそ、今、ここにある一つ一つの行為や関係の身に帯びる鮮烈ないとおしさへの感覚を豊饒に取り戻すことにしかない」と言う。この人の言葉には眩惑的な力がある。「鮮烈ないとおしさへの感覚」は、美意識や詩的精神と共振するように思う。
「鮮烈ないとおしさへの感覚」を「取り戻す」と言うとき、その「取り戻す」主体には、近代的個人主義が到達した自我意識とりわけ知性への絶対的な「信」がある。人間の「知」が「神」に取って代わったことに高貴かつ不遜な荒みが垣間見える、と私は思う。