みつばやま小零庵だより

宇宙の塵、その影のような私ですが、生きている今、言葉にしたいことがあります。

舟橋聖一 著 「相撲記」

2018-02-28 07:25:22 | 
「花の生涯」の著者、舟橋聖一(1904~1976)のこの本、秀逸でした!

初版は1943年、創元社発行ですが、私が借りた市立図書館蔵のは、1982年、ベースボール・マガジン社からの再出版です。 

趣味とはいえ、私にとって土俵の内外の、力士の生活や態度から、自己の修養に資するような、或いは芸術上の心境と共通するような、いろんな勉強にもなっているのである。私の相撲記が、単なる相撲物語に終わっていい筈はないと思っている。唯、私は、研究とか歴史とかいう風にしゃちこばらずに、出来るだけ自然に、平明に相撲について語ってみたいのである。




相撲が単なる力競べでないのは、即ち彼らの力が、一応は皆、技術化されているところにあるのであって、そして、この力を高度に技術化するところに、力士たちは、すべての「真実」を打ちこまずにはいないのである。
 ~ しかも、これら独自の技術は、十分に伝統的なものの中から編み出され、その点で伝統の浅い他のスポーツの、遠く及ばぬ渾然たる境地にまで到達しているんである。

幕内力士の粒が揃ってきたので、上位力士と雖も、昔のように、無造作に勝つわけにはいかなくなって、次第に競争が激甚となったのである。それに伴って、取口が複雑となり、技巧が複合し、変化が早く、立合の合理主義が物をいうようになった。同時に、人間鍛錬というか、精神的円熟というかーそういうものが、土俵の内外において、洗練されなければならなくなって来たのである。また、頭脳的プレーということも、その価値を増大して、頭脳的に鈍重な力士は、贅力に秀でていても、とかく勝運に恵まれることが少なくなった。

又、非力の力士は、体全体のバランスを常に考えて、相撲をとるから、腕だけの力、腿だけの力、腰だけの力という風に、分業的に働かさず、いつも、腕と腰、足と手という風に、総合的に使ってゆく。

かって、常の花(1896~1960 第31代横綱)は、或る座談会の席上で、「自分は元来、非力であるから、立上がったら最後、始終働きかけて、敵に休みを与えないようにしなければならぬという信念の上に、鍛錬を積んだものである」と言ったことがある~


白鵬が以前、高安戦だったか、負けたときに「(自分が)強いから負けた」と言ったのは、このことだったんですね。

現代力士でも、双葉山(1912~1968 第35代横綱)、安芸ノ海(1914~1979 第37代横綱)などは、寧ろ非力と言われている。双葉山なども二言目には、自分が腕力家でないことを、率直に肯定している。それでも双葉山は、時にのぞんで力まかせの相撲をとらないでもない。強引に出て、思わぬ不覚をとることさえある。しかし、安芸ノ海になると、彼はもう、おのれの非力を、どんなときでも自意識しているから、強引に出てゆくことが殆どない。彼はよくおのれのペースを守り、敵の力を逆用しつつ、非力の力に、ものを言わせる。~

双葉山の70連勝を阻んだのが、出羽海一門の安芸ノ海だった。一門の「打倒双葉」の作戦参謀役は、笠置山(かさぎやま:1911~1971 最高位・関脇)。安芸ノ海の世紀の勝利は、その作戦の成果だったが、笠置山自身は双葉山に連敗を重ねた。「頭で勝とうとするから駄目なんだよ」と、双葉山からからかわれたという。安芸ノ海も、あの1勝のあとは双葉山に連敗を重ねた。

相撲って、本当に難しく、奥が深く、面白いですね!

彼(双葉山)は滝に打たれ、禅を学んで、心境を練ったと伝えられているが、相撲のように、激しい実力の世界では、参禅は至難事である。むしろ、禅機は外になく、いのちを籠めて、勇奮する土俵の内部に存するのではないか。

著者、舟橋聖一は、「人間って奴は、なかなか裸になれないものなんだ。裸という言葉は、肉体的なものと精神的なものの両方を指すわけだが、いずれも、全裸になるには勇気がいる。しかし、一旦裸になってしまうと、その勇気は力を伴って倍増する。そして心は純粋になる。 ひごろ衣服をまとう習慣のある我々は、裸になることを怖れる傾向があって、なかなか心肝を抜こうとしない。裸をみせることは、ときには無礼、醜悪とさえ思われがちだが、それは間違っている。赤裸々こそ、美しく、素朴であって力強いのだ」と、家族に語っていたという。

晩年は、横綱審議委員長も務めた。不自由な体になっても毎場所のように車椅子で蔵前国技館におもむき、「目は見えなくとも、心眼で相撲を見るのだ」と、場内の雰囲気を楽しんでいたという。

尾崎士郎 著 「相撲を見る眼」

2018-02-26 10:50:57 | 
初版は1957年だが、私が借りた県立図書館蔵のは、1995年 ベースボール・マガジン社発行。



尾崎士郎(1898~1964)は、「人生劇場」の著者だ、ということしか知らなかった。正直なところ、その著書には何の興味も無かったが、このところ俄かに相撲への関心を強くした私は、この本を手にすることにした。読んでみて驚いた。こんなにも相撲に心を奪われた人がいたとは・・・

大たぶさに結った力士の姿がわれわれの眼に美しく荘厳な感じを与えても、不気味で怪奇な感じを唆らないのは、あり得べからざるものが現実を見事に押し切ってしまっているからである。相撲が浪漫主義の表象であることの一切の理由がそこにあるのである。日本人的感情は夢みる能力の上に一つの形式をつくりあげた。たとえば燃えさかる男性の精気、混沌たる力の結晶が土俵の上に圧縮されたかたちを築きあげたものが相撲なのである。

相撲の妙味は、仕切りであるが、仕切りの絶対性を決定づけるものは土俵である。相撲が日本において完成したことも土俵の然らしむるところであり、土俵だけが相撲を日本独自のものたらしめたといっても過言ではない。

良くも悪くも、まさにロマン主義の匂いが濃厚な相撲観。国粋主義との親和性も読み取れる。戦後は公職追放になった、というのも頷ける。しかし、そのロマン主義の魅力は、やはり捨てがたいものがありますね。特に、大関「清水川」にまつわる物語は、なかなかの味わいがありました。その部分を以下に抜粋します。

昭和初年から十数年間、私の記憶にもっともあざやかな印象を残しているのは過ぎし日の大関、清水川であった。私が引きつけられたのは若き日にひとたび小結の地位を得た彼が、素行のおさまらぬために協会を破門され、長い放浪生活の中で落魄のかぎりをつくし、ついに父親が死をもって協会に嘆願したためにようやく復帰をゆるされたというような悲劇的な理由だけではない。

昭和六年の春場所、東の小結武蔵山との勝負を見たときから私は無我の境地に吸い寄せられてゆくような陶酔を覚え ~ このとき彼はすでに三十を越して、 ~ 時代的魅力からはずれた下り坂の力士であった。それが私の心にひとしお悲壮な昂奮を駆り立てたのである。清水川の土俵は私の心に運命的な暗示を与えた。この日の彼はそれほど自信と余裕にみちみちていたのである。

天龍一派の脱退は昭和七年の一月であったが、これがために国技館はガラ空きとなった。 ~ 力士の生活はいよいよ不安定なるものになってきた。 ~ 一時は幕内力士の過半数を失った相撲協会はそのまま解散するのではないかと思われるほどの悲境に陥っていたのである。

このとき、もし清水川が踏み止まっていなかったら、私は敗残の相撲協会に心を寄せる気持にはならなかったであろう。

彼の復活後の土俵生活は、昭和四年から昭和十二年まで、大阪場所を合算すると二十七場所であるが、大関になったのが七年五月であるから、引退まで六年間、同じ地位を保っていたわけである。
 
私は六年間、彼の土俵と運命を共にしていながら、当人の清水川に会ったことは一ぺんもない。土俵の美しさをそのまま残しておきたいという気持に徹していたからであるが、その思いを今や年寄、追手風と変った彼もまたぴったりと受け止めているらしい。

昭和三十一年、五月十八日、五月場所のはじまろうとする二日前である。この日は私にとって忘るることのできない「思い出」の日となった。
年寄「追手風」と会見する計画を立ててくれたのはK雑誌であるが、この計画には、対談会とか、談話筆記とかいったような、職業的な動機は少しも含まれていなかった。もうそろそろ会ってもいいだろうという気持が相撲好きな編集者を刺激した結果である。

十八日の夕方、K雑誌社のK君が迎えにゆくと、追手風は入浴してから羽織袴に着替え、掃き清めた玄関の前に端然と椅子によりかかって待っていたそうである。

彼の現役中、ついに逢う機会のなかった私が、老いたる年寄追手風のために後援会をつくるのは偶然ではない。現役のころに果たし得なかったことを今日果たすのである。



魂の美しさ

2018-02-23 17:22:04 | 生死
石牟礼道子さんが亡くなって、寂聴さんが追悼文(と名付けられるような定型的なものではもちろんないが)を寄せている。東京新聞2月23日号。その記事に添えられた故人の、横尾忠則氏による肖像画を見て、オヤ・・と思いました。



似ているのです、あの彼女に。澄んだ眼差。慎ましい微笑。強い意志を表す太い鼻。未来を望む眉。何もかも似ています。

その彼女のことを私はまだ少ししか知らないのではないかと思います。ご自分の事を自分から語るということをしないひとです。生年は1930年代のようです。主婦として、食の安全を求め、当時は未だ稀だった有機無農薬の農畜産業を求め、消費者と生産者との絆を築いた先駆者です。彼女が種を蒔き、有志と共に育てた安全な農畜産業は、八郷を一つの拠点として、紆余曲折を経ながらも発展してきています。

しかし彼女は、表舞台には立とうとしなかったようです。社会的地位もなく、財産もなく、学歴もありません。無名のひとです。それでも、否、それだからこそ、彼女の発する言葉は、しばしば詩語のように聞こえます。声は小さくとも真実の力があります。人の心を動かします。

彼女の魂の美しさが、石牟礼道子さんに共通しているように感じます。

探春

2018-02-17 10:40:22 | 八郷の自然と風景
まだまだ寒くて、今朝のユキの散歩も完全防寒武装のイデタチ。冷え性の私は、特に手の冷え対策が大変です。先ず薄木綿の手袋を嵌めてから、ミニカイロを左右それぞれの掌に2個ずつ握り、毛糸の手袋を被せます。それから裏布付き厚手ビニール手袋。更に冷えが重症の左手には厚めの布手袋を被せます。

これでも冷えて両手の感覚が麻痺してくる日も多かったのだけれど、今朝は大丈夫。空気が緩んでいます! 腰痛に耐えながら歩いているうちに、首回りが汗ばんできました。 日差しは春です。

身近な春を探してみました。

ウグイスカグラが沢山の蕾を付けていました。一組だけ開いていました!
     

菜園の狭間のあちこちには、タネツケバナの小さな小さな花が足元に咲いています。


木瓜の蕾は乳首のようですね。侘助椿も葉影の蕾を膨らませていました。
     

茶庭の垣根の傍らの日本水仙は、昨年末ごろから咲き始めて、先日の大雪にもめげずに花を増やしています。馬酔木はいつのまにか花盛りが近いようです。
     

空は少し霞んで、雲たちも寛いでいるのかな?







融和

2018-02-13 06:37:09 | 国際・政治
バッハ会長が北を訪問する。この訪問によって南北融和が加速しますように! 

南北融和は、この列島に暮らす私たちが戦争に巻き込まれないためにも必須だ。 この動きを非難しているのは、トラの傀儡とそれに洗脳された人々だろう。

宮本徳蔵 著 「力士漂泊~相撲のアルケオロジー」 その4(了)

2018-02-09 07:29:50 | 
平安相撲節のパトロンは天皇であり、江戸勧進相撲は大名の扶持米によって維持された。侏儒と同様に自然からはみ出た存在であるチカラビトの集団が生き延びてゆくためには、その時代時代の実権者が助力の手を差し伸べねばならなかった。しかしまた、無名の贔屓というのも常にいた。

贔屓って、粋ですねぇ・・・

個々の力士にしても部屋にしても、キップの売り上げや協会からの支給金のみでは生活の成り立たないのがこの世界だ。 ~ 明治維新によって大名 が廃絶されたあと、無名の贔屓を後援会に組織する手法で経済基盤を立て直そうと思いついたのは、やはり知恵者の常陸山である。

東アジアの伝統にしたがえば、裸になりマワシをしめたとたんに普通人とは違う、チカラビトに変身する。国王、将軍、大名の面前といえども礼法を無視し、胡坐で酒杯を傾けることが許される。それは彼を金剛力士の権化とみなす密教信仰より発している。この原理は拡張されて、チカラビトのいるところでは、身分や地位を越えた人々の混在が当然のこととして容認された。なぜなら仏性を問題にするかぎり、衆生は平等だからだ。
 
天皇がしばしば国技館に赴くのはよく知られている事実だが、そこは、酒や折詰料理を口にしている庶民と座を共にし得るただひとつのトポスとなっている。

今年の初場所は陛下に見ていただくことができなくて、残念至極でした。

2010年の名古屋場所を思い出す。野球賭博問題に揺れる相撲協会は、天皇賜杯を辞退した。賜杯を抱けず悲しむ横綱白鵬のもとに、天皇陛下からの書簡が届けられた。陛下のお言葉を伝達する形で宮内庁の侍従長が書いたものだった。3場所連続優勝の偉業を達成した白鵬関を讃え、激励する内容だったという。この書簡のコピーを受け取った白鵬の目が潤んだ。

この名古屋場所後、トヨタ自動車の豊田会長が、社内で制作した優勝杯を白鵬に贈った話にも心打たれる。「贔屓」の一つの鑑だと思う。

 

「あとがき」で著者は、これは「放言だ」と予防線を張りながらも、 相撲が国技だなんて、小さい、小さい。ユーラシアにまたがる数千キロの空間と、十数世紀におよぶ時間が背後に横たわっているのが見えないか。 と真情を吐露している。昨今の、相撲界のあれこれに対して国粋主義的にバッシングする風潮に、30余年前に発行されたこの本が警鐘を鳴らしている。


如月のフラワーパーク

2018-02-07 22:31:00 | 俳句
相変わらず厳しい寒さが続いているけれど、今日は俳句の会。みんなそれぞれ、ヨタヨタした二本足や、杖をついての3本足や、手押しのシルバーカーなどで集まりました。冷たい風も吹いていますが、空は綺麗な青空です。みんな体調不良を抱えながらも、大好きな俳句の会だから、笑顔がこぼれています。

乗合タクシーで吟行先のフラワーパークへ行きました。こんなに寒い日が続いているのだから、何にも咲いてないかもしれない。それでも句材はあるだろうと思いつつ、入園しました。寒い3月までは入園料は半額の370円です。

足腰が特に不安な5人は、園内の周遊車に乗りました。電気自動車で、展望台まで片道200円です。動くと共にスピーカーから録音された案内の音声が流れます。その上、今回は運転の男性が、「左手に、ほら、白梅が少し咲いてるでしょ」とか、「右手、紅梅で咲いているのは、この木だけですよ」とか、「右向こうに蠟梅」「左下の緑色の細枝は山吹ですよ。咲くのはまだ先だけれど」「右上の斜面に福寿草が咲いているでしょう」「ここが河津桜の林。ほんの少し咲いています」等々、案内してくれて、そのたびに私たちは「あら!」「ほんとに咲いてる!」「まあ!」等々、子どものようにはしゃいでしまいました。

展望台に着いて、周遊車を降りてからも、運転の男性は「このちょっと先に日本水仙が咲いていますよ」と、人目につきにくいところに案内してくれたり、遠くを指して「ほら、遠くの山際に見える四角いビルは、県庁ですよ。春になると霞んで見えにくくなるんですが、今日は寒いからよく見えてます」などと、話してくれて、私たち一同は大喜びでした。

園内を一巡りしてから、大温室の中のベンチで句帳を開いて句作りしているとき、園児たちが大勢、先生に連れられてやってきました。

          温室へ園児の列の伸び縮み

宮本徳蔵 著 「力士漂泊~相撲のアルケオロジー」 その3

2018-02-06 07:22:32 | 
押しも押されぬ名横綱の双葉山とほぼ同時代に、玉錦という横綱もいた。

昭和十年代の初頭、 ~ ヒーローとして抜群に人気のあったのは玉錦三右衛門だった。 ~ 玉錦の手数入(でずい)り(=横綱の土俵入り)は絶品だった。背低く手足は短く、必ずしも恵まれた体格とはいえないにもかかわらず、伝説的な怪力を秘めた肥躯が純白の綱と緋の化粧マワシによく映り、錦絵から揺るぎ出たような美しさである。掌を打ち四股を踏むのにもあれほどの真剣さでおこなっていた横綱を、私は知らない。

元来、四股の動作は地中に潜む邪鬼を踏み潰す、除魔の呪術なのだから、フォームだけをなぞって徒らにカッコよく見せようとする昨今のやり方には疑問がある。 ~ 玉錦のは殺気と呼びたいような緊張感に溢れており、目に見えぬ魔物との争闘である本質をまざまざと示していた。
  
実生活においても気性の烈しさは貫かれていた。 ~ 当然ながら敵も多く、大関、横綱と昇進するのに不自然なほど遅らせられた。

師匠が重篤のとき、玉錦は連日、徹夜で看病したそうだ。場所中にも拘わらず・・・ 玉錦の強さと優しさ、粗暴さと純粋さを知ると、力士の評価というのは限りなく多面的でなければならないのではないか、と痛感する。あの朝青龍についても・・・

昭和十一年五月場所の九日目、 ~ 死力を尽くした攻防のすえ、双葉山は玉錦を浴びせ倒した。 ~ 玉錦に初めて土をつけた瞬間、双葉山は木鶏(=全く動じない、闘鶏における最強の状態)である己に開眼したのである。

双葉山の時代の到来である。

木鶏になってからの双葉山は、負けることを忘れはてたかのようだった。いかなる敵に対しても泰然自若として些少の動揺をも示さず、あっさり料理した。相手のほうで戦わぬ前から気を呑まれ、自滅してゆくといった印象すら受けた。ほぼ三年間、彼は木鶏であり続けた。いわゆる六十九連勝である。

幼児のころの事故によって、双葉山の右の眼が失明に近い状態だったことは誰でも知っている。しかしそのハンディキャップは、相手の動きを視力に頼らず一瞬の気配でつかむ独特の勘を育てあげた。完璧な「強さ」とは、一種の醒めた狂気にほかならない。

最強者の立場は極度の緊張を強いる。いつ敗れるか、いつ敗れるかという強迫観念に苛まれ続けねばならない。 ~ 不安からの脱出口を求めて、東京と大宰府に道場を創設した。 ~ 単なる体技を超越した、不動の悟りのごときものを獲得しようとする足掻きであった。これはまっすぐ壐光尊(じこうそん)への帰依へとつながってゆく。 ~ 現人神を名乗る平凡な中年女性の教団に馳せ参じたあげく、手入れの警官との間に乱闘を演じた。

非の打ちどころのない名横綱として、今に至るも角界内外から畏敬されている双葉山。その双葉山にも、こんな暴力事件があったとは知らなかった。

貴乃花親方も、現役のときは名横綱だった。しかし今、龍神総宮社(祭主:辻本公俊)という新興宗教と深い関係にある。無口を貫いているかのように取沙汰されているが、実は、自分の言葉を持たないから、語ることが出来ないのではないかと私は思う。

名横綱といえど、体も心も強くあり続けるということは至難の業にちがいない。

戦後、蔵前国技館の内外で何度か見かけた時津風親方(元・双葉山)は、白い狂気もとうにおさまり、普通の紳士になっていた。

宮本徳蔵 著 「力士漂泊~相撲のアルケオロジー」 その2

2018-02-04 07:34:52 | 
江戸っ子の美意識にぴったり合った勧進相撲の様式を完成したのは、寛政(1789~1801)の谷風梶之助だった。



ひと口に三百諸侯といわれる大名たちは、例外なく、江戸に留守居役をおいていた。

留守居の職務は文字通り、藩主が領国に帰っている間の江戸屋敷の管理なのだが、それはあくまでも表面上のことにすぎない。実態は一種の外交官であった。 ~ 寄り合いと称して月に四、五回も贅沢な料理茶屋、水茶屋に集まり、情報を交換する。
 
事柄の倫理的批判はしばらくおくとして、留守居たちは江戸の消費文化をささえる、隠れたスポンサーだった。あらゆる遊芸はかれらの庇護を受けて花ひらいた。


この留守居役に目を付けたのが、谷風だった。谷風は相撲が強いだけでなく、政治的な感性にも優れていたんですね。

大名が力士を召し抱える習慣は、ずいぶん古くからあった。しかし ~ 領主伊達家の後盾によって谷風を名のり日の下開山(=横綱)を張るに及んで、他の力士も我がちにこれに倣い、東西の番付の九割がたを各藩の扶持米を受ける者で占める状況を呈した。

こののち相撲部屋は技術指導に専念し、個々の力士の生計から会所(協会の前身)の運営までことごとく藩の支出に頼るようになってゆく。 ~ 絢爛とした化粧マワシをつけての土俵入りが始まって、ショウ的な要素は倍加した。

司家(つかさけ=相撲の家元)の吉田追風(おいかぜ)も復興する。

志賀清林の流れを汲んで、相撲の故実や礼式に関する知識を独占し、宗家としての格式をそなえながら、久しい以前から細川越中守に仕える三百石どりの家臣に零落れていた吉田善左衛門が、ここに思いがけずフットライトを浴びる。かれは数世紀にわたって実体を喪失していた先祖の名跡(みょうせき)、追風を復興して自らその十九代目と称し、谷風との間に連携を図る。江戸深川に住む浪人、木村庄之助が谷風の勧めに従ってはるばる熊本におもむき、追風の弟子となって行司の技術について奥義を授けられる。

しかし時代が大きく変わった明治維新のあと、裸体禁止令や断髪令によって、相撲は存続の危機に晒された。その危機を救ったのは、伊藤博文や大久保利通ら政治家による上からの力だけではなかったのだ。

谷風の「政治性」は百年あまりへだてて、常陸山によって踏襲される。維新の変革のあと、大名の庇護を失ったのみか、旧時代の遺物としてそれ自体が廃滅の危機に陥った相撲を、新たな支配者、薩長の藩閥政治家に近付くことで救い、遂には以前にも増して繁栄をもたらすのに成功した。

力士の地位向上をめざしての常陸山の工作は、明治四十三(1910)年、竣功したばかりの旧国技館へ皇太子(のちの大正天皇)を迎えた台覧相撲において頂点に達する。








宮本徳蔵 著 「力士漂泊~相撲のアルケオロジー」 その1

2018-02-03 07:27:07 | 
相撲に関する本の中でも特に名著と聞いて、中央公民館図書室へ取り寄せてもらい、読んだ。

チカラビトはいつ、どこで生まれたか。 草原と砂漠のまじりつつ果てしもなくつらなるアジアの北辺、現在の地図でいえばモンゴル共和国のしめているところだったであろう。 ~ 二、三世紀をさしてくだらぬころであったと思われる。

モンゴル相撲って、日本の相撲に似たものが、たまたまモンゴルにあるのだ、ぐらいに思っていた私は驚いた。モンゴルにこそ、相撲の起源があったんですね! モンゴル力士たちの活躍が必然的に思えてきた。

チカラビトの彷徨は、ほとんどその誕生と同時にはじまる。



五世紀はじめになると、すでに鴨緑江のほとりにいる。高句麗の旧京であった丸都(がんと)、今では中国吉林省集安県となっている片田舎にひとつの古墳があって、角抵塚(かくていづか)と呼ばれている。角抵とは相撲のことで、チカラビトはそこの地底深くに描かれた壁画(上掲の表紙絵は、壁画の部分)のなかで得意の技を披露している。

チカラビトは朝鮮からツクシ(北九州)に上陸したあと、そこで道を二手にとって進んだ。主力は真東に、ヤマトの中心をめざしたが、そのまま南へとくだり、薩摩、大隅、薩南諸島を経て琉球に行ったものもあった。

平安時代には、相撲節(すまいのせち)が盛んだったという。

毎年七月、天皇は紫宸殿の庭や神泉苑において相撲を見た。
これにさきだって部領使(ことりづかい)というものが任命され、七道の諸国にそれぞれ下って、膂力すぐれた若者をおおぜい召し連れてきた。

 
そこ(相撲場)では狩衣と剣をもはずしてフンドシひとつとなり、相手方と対戦させられた。 ~これは明らかに降伏と武装解除を暗示するシンボリックな儀礼なのである。 ~ 天皇政権による日本全土の征服のプロセスが、演劇的にくりかえされている。

高倉天皇にいたって、源平の争乱がおこり、とっくに実質を失っていた皇室による軍事支配がもはや幻想の上ですらも維持できなくなったとき、相撲節も存続の根拠をなくして廃絶した。

相撲節を復興したのは、あの後鳥羽上皇だったとは!

後鳥羽上皇が鎌倉時代のはじめに相撲節を復興しようと思い立ったとき、なにしろ長いブランクのあとなので、行司をつとめる力量をもつ者が見当たらなかった。平安朝には、かって志賀清林という古法に通暁した人物があって、節会のたびに呼び出されて取り仕切っていたのだけれど、その子孫もすでに行方知れずとなっている。

たまたま越前に吉田家次(いえつぐ)という浪人がいて相撲の道にたいそうくわしいとの評判を聞きつけた。さっそく都へのぼらせさまざまに質問してみると、ことごとく明快に答えたうえ、みずから清林の弟子だと申し立て、 ~ 上皇はおおいに喜び、従五位下(じゅごいのげ)豊後守に任じ、追風の号をゆるした。 

この吉田追風(おいかぜ)が、代々の司家(つかさけ)となったそうだ。茶道や華道には家元制度があるが、相撲にも家元のようなものがあるとは知らなかった。ただし現在は、その痕跡が残っているだけのようだが。

相撲にもまた家元がある。熊本に在住する司家(つかさけ)、吉田追風(おいかぜ)がそれで、もろもろの故実、古記録を独占しつづけて今日に及んでいる。谷風にはじめて横綱のを免許をあたえたのをはじめ、代々の立行司木村庄之助を門人として勝負判定の奥義を授けてきた。

吉田追風の初代は、後鳥羽上皇に対して、自分は「志賀清林の弟子」だと申し立てたのだが、志賀清林とは、相撲のルールの基本を定めた人だったらしい。

聖武天皇の天平六(734)年、平城京の南苑に諸国から力士を集めて相撲をとらせたとき、近江国志賀の里に住む清林という者が膂力ひいで、あまたの人々が挑んでもまるで歯が立たなかった。 ~ そこでかれを最手役(ほてやく)(=大関)と定め、獅子王の団扇(=軍配)を賜って、それまでまちまちでとかく争いの種となりがちだった勝負の裁断にはっきりした規範をもうけるよう沙汰があった。四十八手の原型がはじめてつくられ、その他は禁じ手とされた。清林の功を長く讃えるために、近江国の東より集まる力士を東方、西よりのぼってくるものを西方と名づけるしきたりもできた。

今の番付や土俵入りにおける東方・西方の区別は、力士の出身地には無関係だけれど、元来は、近江国より東の地の出身力士が東方、西の地の出身力士が西方だったんですね。

近江国の志賀は、天智天皇が遷都したところだった。そこは高句麗との連絡に便利で、朝鮮半島の文物と人々が行き交う場所だったようだ。

延暦寺と三井寺の創建されるずっと以前に、ここには密迹(みっせき)金剛力士を信じる人々の集団が住み着いていたふしがある。清林はかれらの代表、どちらかといえば祭司に近いタイプの人間だったと思われる。それはただちに高句麗の密教、さらにはモンゴルのラマ教へと水脈をさかのぼり得る性質のものだ。

相撲の家元も、起源を辿るとやはりモンゴルに行き着くんですね。