みつばやま小零庵だより

宇宙の塵、その影のような私ですが、生きている今、言葉にしたいことがあります。

中島義道著 「観念的生活」 その4

2017-09-26 14:26:44 | 哲学
私も、御多分にもれず権威に弱い、と思う。「我思う、ゆえに我あり。」という名言に初めて出会ったのは、中学生の頃だったか・・ そう言われてみれば確かにそうだ、私が存在していなかったら、私は「思う」ことは出来ないのだから・・と、納得させられていた。なにしろ、デカルト(1596~1650)という偉い天才が言ったことに対して、疑うということを知らなかった。あるようなないようなぼんやりした違和感は、放置したまま、気にもしていなかった。

「私は思惟する」という命題から「私は存在する」という命題に移行することは、ちっとも明晰かつ判明ではない。(P.36)

実は私が思惟するたびに(「私」が存在するのではなく)「私は思惟するという作用」が存在することを、明晰かつ判明に直覚するのだということがわかる。 ~ われわれは一人称意識存在しか手に入れておらず、いかにしてもその内から抜け出すことはできない。 (P.37)

中島義道に「権威」のレッテルは似合わないし、誰よりも中島義道自身が最も嫌がるだろう。しかし、中島義道に、上記のように言われてみると、確かにそうだ! もっとも、こうしたデカルト批判は、中島義道独自の論考ではなくて、カント等から引き継いだものかも知れないが。

それでは、「私」という存在と一人称意識存在との違いは何か? 哲学音痴の私は、「私」って、意識だけではなくて、身体があるじゃない! なーんて言いたくなるけれど、そうは問屋がおろさない。ちなみに、下記冒頭の「延長する実体」には、当然に身体も含まれるだろう。

延長する実体は、そう私が思惟する限りで存在するに過ぎず(デカルトの言葉を使えば、「表象的実在性」に留まる)、思惟の外にそれ自体として存在することを保証しはしない。 (P.41)

次の一文にはハッとさせられた。目からウロコだった。

「私がいる」という事実は「私がいない」という事実との関係で初めて登場してくるのであって、言い換えれば不在を確認する視点と確認された不在との関係が「私」なのである。 (P.76)








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