聖書の学び

 このブログでは、主・イエス様の教えを知りたい人の為に書いてます。

風のような日々も

2009-10-26 17:01:46 | 偉人
この一ヶ月いろいろなことがありまして、ブログ休んでました。

一ヶ月に一回は、主の愛、主の御心を書いていこうと願っています。

このブログを読む人に主・イエス様の祝福があるように祈っています。


さて鳩山内閣が、発足してから、もう一ヶ月がたった。

高速道路の無料化や、少子化対策の為の、子供手当て、高校授業料の無償化

、暫定税率の廃止など、この2か月で世の中大きく変わろうとしている。

今年も、もう10月間の月日が過ぎた。



 時の流れといえば聖書では、伝道者の書という書物の中に、こうかかれている記事がある。

空の空伝道者は言うすべては空。

私は、この箇所を読むときに宮沢賢治さんが、書いた風の又三郎という物語を思い出します。

今日は、主・イエス様に祈り、風の又三郎から、主の導きで書きます。

爽やかな9月の秋晴れの日静かな、教室の朝の教室いつもならば、だれもいないその場所に彼は、

いました。

 おかしな、赤い髪のこども、へんてこなねずみいろののだぶだぶの上着をきて、まるで、どこから

風のように不気味で、不思議ないでたちで、その子は、一番前の机に寡黙にすわっていました。

そのように、子供達が不思議にかんじたのは、この小学校が、谷川の岸の小さな小さな、小学校

で、教室は一年から六年まであるにもかかわらず、一つの教室に運動場といってもテニスコート

くらいしかないへんぴに場所のあまり転校生の来ない環境だったかも知れない。

爽やかな秋の晴れの日青空の風はどうと鳴りそんな平穏ないつもの静かな教室で又三郎と、小学校

の子供達はであう。

子供達は、寡黙で、年長者の一郎に対しても憮然としている変わった転校生に狼狽します。

あいつは、外国人だな学校さ入るのだな、彼とどう接したらよいか戸惑う、生徒達が、

些細なことでケンカになったうちに、又三郎は、姿を消します。

風は山の萱を上流へ青白く波立てていきました。

そんなに中、年長者の一郎やケンカしていた 耕介、五郎たちが次に又三郎に出会った

のは、先生の後ろにまるで権現さまの尾っぽもちのようにすまし込んで白いシャッポを

かぶって、どことなく現れました。

初めの生徒達が見る、又三郎のイメージそれは、どこか風変わりで、寡黙で、自分達

の世界とは違う異世界からきた子のようにかんじました。

それというのも、この学校が辺境な地であり田舎であったからかもしれません。

でも、先生の説明で、彼らは、この子の正体を知る。

夏休みが終わり、新たな秋の始まりのこの季節にお父さんの会社の都合で引越し

てきた転校生であることに。

子供達は、この珍しく、めったに来ない転校生にとても興味をもちます。

次の朝、の又三郎は、台風のような不気味で、暗いイメージではなくなっていました。

彼は、最初転校生として、緊張していたのかもしれません。

彼は、おはようとはっきりいいます。

初めの印象とは、正反対て゛この子は本当は快活で賢く、負けん気強い子であること

が、だんだん一緒に遊ぶうちに分かってきます。

山で馬と遊んだり、ブドウをとりにいったり、また学校で、鉛筆を奪い合っていた兄佐太郎と妹

をみて自分の木ペンをあげている姿をみて彼らは、仲良くなっていきます。

そんな又三郎は、最初のイメージがあったからでしょうか。

みんなに風の又三郎と言われるようになります。

山で遭難しそうになったとき、風のように近くに立っていたり。

ブドウ狩りの時ブドウを見つけてきた耕介に意地悪されてたときに木をゆらし、雨水

を風のせいにし、風のことでばかにされていることにめげず、風を味方につける。

どこか哲学者のようなことも言うこの若者にどこか、違う印象を皆は持ちました。

時に親切な風を時に、怒り、嵐のような風を振りまいた又三郎をみんな好きになって

ゆきました。

そんな中彼らとの別れの時がきます。

又三郎から聞いたばかりの風の歌。

夢の中できいた歌。

その日はすごい風で家の前の栗の木は、風と雨にふきとばされていました。

一郎は、風に着物を持っていかれそうになりながら、ほえるような風のなか

又三郎に会うため、朝はやくかすけと学校にいく。


ずぶぬれになって学校に行くと今度は、又三郎は風のようにいなくて、先生がたって

いた。

先生に又三郎は来るのかというと、先生はちょっとかんがえてこういいます。

月曜日の嵐の中、高田=又三郎は昨日お父さんと転校しましたと・・・。

日曜なので皆に挨拶できなかったのだと。

そんな偶然が、風のように前触れもなく、転校して引越した学校の生徒達には、

風のような子供としてうつったのだとおもいます。

きっと彼が大人になったときにも、風のように現れるのた゛と思います。

時は流れてもかわらずに。

私は人を人生を見るときに、人の人生とは、物語ではないかと思います。

物語の人物は、筆者の力がなければ、その人の物語をかえることはできはしません。

しかし、その物語は、聖書を読み神の御言葉をうけ、主の十字架を知ったときに変えられます。

また神は、この地球を創造なされました。

この地は、初め豊かな大地で人は永遠に生きていました。

しかし、人類最初の霊=思考の祖先である人が罪を犯したときから、人は労苦して

働くだけではなく、生老病死のこの世界に人は生まれてきたといいます。

地球46億年という時間のなかで人の人生は、それこそ風のようなものでしかありません。

今の生活は、ほんのひと時の風のようなものです。

伝道者はだからこういいます。

空の空すべては空だと。

しかし、私たち聖書を読む私たちには、そうではなく黄金の世界が用意されています。

主の十字架を信じ罪を告白するものは、この主の十字架を信じるものには、復活が

あるといいます。

この世の歴史を見ると、たいていの国は戦争と戦の繰り返しです。

人間の罪やエゴ自我をむさぼり神を忘れた世の中に主は今でもこう呼びかけて

くださっています。

ルカ13:34、 ああ、エルサレム、エルサレム。

預言者たちを殺し、自分達に遣わされた人たちを石で打つ者、私はめんどりが

ひなを翼の下にかばうように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか

それなのに、あなた方はそれを好まなかった。

罪を犯したことのない全世界の王である主は、自分の敵さえ愛し、忍耐を示し、

私たちが放蕩息子のように、悔い改め、自分の子となることを望んでいます。

そしてそれは、主の十字架を受け入れた人はその時点で神の子とされるのです。