教会には、カトリック教会とプロテスタント教会とがある。
プロテスタントも、カトリックも同様に聖餐式というものが、
あるのですが、教会によって、この聖餐式を月に何回受けるのか、
ちがったりする。
まず、なぜ主・イエス様を信じる私達が、教会で、聖餐式を受けるのか?
を説明しようとおもいます。
聖書には、旧約、新約聖書というものがあり、全66巻ある。
その中に、創世記という箇所があり、そこには、こうかかれています。
創世記1:1~創世記2:3までの箇所でこの世界創られた神=主・イエス様は、
はじめに天と地とを創造したといいます。
はじめは、人は、楽園の中で、生きていた。
ところが、あるとき、神が食べてはならないと言われていた善悪の知識の木から
蛇=サタンにそそのかされ、エバが、食べてしまう。
そしてアダムとエバは、罪を犯してしまう。
これが 原罪の始まりです。
つまり人には、はじめから罪というものが、存在し、それは、正しいおこないや
悪事をするしないにかかわらず、はじめから人が、持っている性質です。
人は、食べ物を食べます。
腹がすくからですが、生き物を食べなくては、いきれません。
たとえ、生き物を食べずとも、むさぼりがあるので、人には、原罪があることがわ
かります。
主・イエス様は、私達の原罪を赦すために、バプテスマを受けることを勧めます。
バプテスマは2種類あるのですが、教会では、水のバプテスマをうけれます。
このとき注意しなければ、ならないのは、水のバプテスマと火のバプテスマに対す
るきちんとした理解がひつようです。
このバプテスマは、本人が主・イエス様に祈り、導きを与えられたときに、
誰にでも受ける権利があります。
正式には、主・イエス様があたえるのですが。
この儀式の後に聖餐式というものがあります。
内容は、主・イエス様が最後の晩餐の時に命じたことをするのですが、
ブドウ酒と、パンを受けるというものです。
私達の罪の赦しには、主・イエス様の十字架が、不可欠であり、その
救いのあがないの証拠として、聖餐式は、あります。
パンは命の言葉=主・イエス様御自身、ヨ福音書1、1言葉は神であった。
そして、フドウ酒は、キリストの血であり、ヘ9:12 ご自分の血によって
ただ一度、まことの聖所に入り、永遠のあがないを成し遂げられたのです。
とあるように、罪のあがないをあらわします。
そして、教会もキリストの体という意味があり、
コ第一:12、~をみるとわかるのですが、
教会をキリストの体とたとえ、信徒一人一人がその器官であるといいます。
ここに、愛の奥義があるのですが、互いに何があっても相手を憎まず、
主・イエス様の体として、愛するといういみでのパンと意味もあります。
神は、愛なりといわれているゆえんです。
最後にこの聖餐式を受ける人もそうでないひとにも、神の愛が注がれています。
ヨ3:16、神は、実に、その一人子をお与えになったほどに、世を愛された。
それは、御子を信じる者が、ひとりとして、滅びることなく、永遠の命をもつ
為である。
主・イエス様の十字架は、信じるものにも、そうでないものにも恵みをあたえま
す。
プロテスタントも、カトリックも同様に聖餐式というものが、
あるのですが、教会によって、この聖餐式を月に何回受けるのか、
ちがったりする。
まず、なぜ主・イエス様を信じる私達が、教会で、聖餐式を受けるのか?
を説明しようとおもいます。
聖書には、旧約、新約聖書というものがあり、全66巻ある。
その中に、創世記という箇所があり、そこには、こうかかれています。
創世記1:1~創世記2:3までの箇所でこの世界創られた神=主・イエス様は、
はじめに天と地とを創造したといいます。
はじめは、人は、楽園の中で、生きていた。
ところが、あるとき、神が食べてはならないと言われていた善悪の知識の木から
蛇=サタンにそそのかされ、エバが、食べてしまう。
そしてアダムとエバは、罪を犯してしまう。
これが 原罪の始まりです。
つまり人には、はじめから罪というものが、存在し、それは、正しいおこないや
悪事をするしないにかかわらず、はじめから人が、持っている性質です。
人は、食べ物を食べます。
腹がすくからですが、生き物を食べなくては、いきれません。
たとえ、生き物を食べずとも、むさぼりがあるので、人には、原罪があることがわ
かります。
主・イエス様は、私達の原罪を赦すために、バプテスマを受けることを勧めます。
バプテスマは2種類あるのですが、教会では、水のバプテスマをうけれます。
このとき注意しなければ、ならないのは、水のバプテスマと火のバプテスマに対す
るきちんとした理解がひつようです。
このバプテスマは、本人が主・イエス様に祈り、導きを与えられたときに、
誰にでも受ける権利があります。
正式には、主・イエス様があたえるのですが。
この儀式の後に聖餐式というものがあります。
内容は、主・イエス様が最後の晩餐の時に命じたことをするのですが、
ブドウ酒と、パンを受けるというものです。
私達の罪の赦しには、主・イエス様の十字架が、不可欠であり、その
救いのあがないの証拠として、聖餐式は、あります。
パンは命の言葉=主・イエス様御自身、ヨ福音書1、1言葉は神であった。
そして、フドウ酒は、キリストの血であり、ヘ9:12 ご自分の血によって
ただ一度、まことの聖所に入り、永遠のあがないを成し遂げられたのです。
とあるように、罪のあがないをあらわします。
そして、教会もキリストの体という意味があり、
コ第一:12、~をみるとわかるのですが、
教会をキリストの体とたとえ、信徒一人一人がその器官であるといいます。
ここに、愛の奥義があるのですが、互いに何があっても相手を憎まず、
主・イエス様の体として、愛するといういみでのパンと意味もあります。
神は、愛なりといわれているゆえんです。
最後にこの聖餐式を受ける人もそうでないひとにも、神の愛が注がれています。
ヨ3:16、神は、実に、その一人子をお与えになったほどに、世を愛された。
それは、御子を信じる者が、ひとりとして、滅びることなく、永遠の命をもつ
為である。
主・イエス様の十字架は、信じるものにも、そうでないものにも恵みをあたえま
す。