聖書の学び

 このブログでは、主・イエス様の教えを知りたい人の為に書いてます。

聖餐式

2008-08-29 22:32:48 | 聖餐式の仕方
 教会には、カトリック教会とプロテスタント教会とがある。

プロテスタントも、カトリックも同様に聖餐式というものが、

あるのですが、教会によって、この聖餐式を月に何回受けるのか、

ちがったりする。

まず、なぜ主・イエス様を信じる私達が、教会で、聖餐式を受けるのか?

を説明しようとおもいます。

聖書には、旧約、新約聖書というものがあり、全66巻ある。

その中に、創世記という箇所があり、そこには、こうかかれています。

創世記1:1~創世記2:3までの箇所でこの世界創られた神=主・イエス様は、

はじめに天と地とを創造したといいます。

はじめは、人は、楽園の中で、生きていた。

ところが、あるとき、神が食べてはならないと言われていた善悪の知識の木から

蛇=サタンにそそのかされ、エバが、食べてしまう。

そしてアダムとエバは、罪を犯してしまう。

これが 原罪の始まりです。


 つまり人には、はじめから罪というものが、存在し、それは、正しいおこないや

悪事をするしないにかかわらず、はじめから人が、持っている性質です。

人は、食べ物を食べます。

腹がすくからですが、生き物を食べなくては、いきれません。

たとえ、生き物を食べずとも、むさぼりがあるので、人には、原罪があることがわ

かります。


 主・イエス様は、私達の原罪を赦すために、バプテスマを受けることを勧めます。

バプテスマは2種類あるのですが、教会では、水のバプテスマをうけれます。

このとき注意しなければ、ならないのは、水のバプテスマと火のバプテスマに対す

るきちんとした理解がひつようです。


 このバプテスマは、本人が主・イエス様に祈り、導きを与えられたときに、

誰にでも受ける権利があります。

正式には、主・イエス様があたえるのですが。

この儀式の後に聖餐式というものがあります。

 内容は、主・イエス様が最後の晩餐の時に命じたことをするのですが、

 ブドウ酒と、パンを受けるというものです。

 私達の罪の赦しには、主・イエス様の十字架が、不可欠であり、その

 救いのあがないの証拠として、聖餐式は、あります。

 パンは命の言葉=主・イエス様御自身、ヨ福音書1、1言葉は神であった。

 そして、フドウ酒は、キリストの血であり、ヘ9:12 ご自分の血によって

 ただ一度、まことの聖所に入り、永遠のあがないを成し遂げられたのです。

 とあるように、罪のあがないをあらわします。

 そして、教会もキリストの体という意味があり、

 コ第一:12、~をみるとわかるのですが、

 教会をキリストの体とたとえ、信徒一人一人がその器官であるといいます。

 ここに、愛の奥義があるのですが、互いに何があっても相手を憎まず、

 主・イエス様の体として、愛するといういみでのパンと意味もあります。

 神は、愛なりといわれているゆえんです。

 最後にこの聖餐式を受ける人もそうでないひとにも、神の愛が注がれています。

 ヨ3:16、神は、実に、その一人子をお与えになったほどに、世を愛された。

 それは、御子を信じる者が、ひとりとして、滅びることなく、永遠の命をもつ

 為である。
 
 主・イエス様の十字架は、信じるものにも、そうでないものにも恵みをあたえま

す。