聖書の学び

 このブログでは、主・イエス様の教えを知りたい人の為に書いてます。

二重人格

2013-02-20 01:15:59 | 偉人

今日は、雪がしんしんと降っていた。
午前中までは、雪は、降り続き、やがて大雪になったが、午後になると小降りになった。 

明日は、天気予報では、晴れると言う。
 
 人の心も、同じように、以外と強いようで、もろいものだとおもう。

 さて、今日は、主・イエス様に祈り、ドストエフスキーの二重人格から主・イエス様によって、教えら

れた事を書こうと思います。

 主人公は、九等官で身分の低いがお金の蓄えもあり、将来には、料理屋のドイツ女という結婚しようと
 
していた相手もいる。  
 
 普通の人よりも、恵まれていると言えるごくどこにでもいる男です。
 
 この男ゴリャートキンは、実直で素直で、舞踏会で踊ったりするのが苦手、人に取り入ったり、社交性

のない人ですが、人一倍、野心もあり、五等文官 ベレンジェーイエフ の一人娘クラーラ・オルスーフ

ィイェヴナに恋をしてもいた。
 
 ある時、上記のクラーラの誕生日を祝う会があったとき、主人公のゴリャートキンは、この晩餐会に出

席しようとする。 しかし、彼は、使用人により呼ばれてないからと、追い返されてしまう。
 
 でも、主人公は、強引にこの晩餐会に出席してしまい、しかも、クラーラと踊ってしまおうとし、

周りからひんしゅくを買い、追いだれてしまう。 この時から、ゴリャートキンには、二人の自分が

妄想として、存在し始める。

ドストエフスキーは、この二人の自分を新ゴリャートキンと旧ゴリャートキンと区別する。

新の方は、社交的、狡猾、そして、社会で生きていくのが、上手で、出世するタイプ、旧の方は、上記で

説明したように、真面目で実直だけども、小心者、まったく正反対ではあるが、知的で、品位を感じさせ

る存在達です。

 最初は、この二人は仲が良いように見えたのですが、新ゴリャートキンが、仕事を取り、意地悪くなっ

て、行き、旧ゴリャートキンは、忍耐し、耐える姿が描かれている。


 そして、最終的には、旧ゴリャートキンは、初め、新ゴリャートキンの無礼な行為に怒り、和解の手紙

を試みるが、役所で、ひと悶着する、遂に忍耐も限界に達する。

 この二人の葛藤は、まるで、善と悪との葛藤に私は、感じられる。あくまで私の感想ですが・・。

また、この物語で、著者は、妄想の手紙を良く、出現させる。 手紙により、バフラメーイェフに舞踏会

での事、また、ドイツ女に対して、無礼な態度について、主人公は、言い訳をし、自分を正当化しようと

試みる。 ここに、この作品のドストエフスキーの二重人格を書いた訳、意味があると感じます。この上

記の手紙は、妄想であると私は判断します。 まず、バフラメーイェフの主人公に対しての批判があり、


その結果バフラメーイェフという、親友に近い、友を失う結果となる。

妄想の手紙には、主人公が、罪と感じた上記の罪の結果、最愛の人をうしなうと言う表現を使う事で

罪の結果にもたらされる害を書いている。 そして、ゴリャートキンの言い訳の手紙には、聖書でいう罪

の本質が書かれている。 罪とは、自分の責任を放棄する事であり、責任転嫁する事でもある。

こう考えると、新ゴリャートキンは、自分自身であり、自分の理想だけでなく、自分の罪狡猾さ、

意地悪さ、他人を蹴落とし、自分が社会でのし上がろうとし、他人の罪を揶揄し、露呈させる。

出世欲と傲慢に満ちた、自分自身をうつしていて、この物語は、聖書て゛主・イエス様を売った、ユダと

いう人物がいるが、自分自身の罪=ユダである自分との葛藤であったのではないかと思われる。

私は、ドストエフスキーがどのような意図で、この作品を書いたのかは、分かりませんが、私の

が、この物語から教えられた事は、正しく生きるという事、神である主・イエス様の義を信じる事、そし

て矛盾した世の中で、私達がどのように生きればよいのかと言う事を教わった。

この物語では、最後、彼は、精神的な病をし、破滅してしまう。

 舞踏会から、追い出されたゴリャートキン、皮肉にも自分の罪醜い自分を強く持ちすぎた為に、

ゴリャートキンは、二重人格になり、心が分裂し破滅してしまった。

善と悪との戦い、それを抽象的にこの著者は、二重人格と言う形で書いているのだと、思うのですが、

うつ病の人達や精神分裂症の人たちもきっと、唯物主義過ぎたり、自分の事しか考えず、他者と共有

し、理解し愛し合う生活から、離れてしまう結果に上記の主人公のゴリャートキンのようになって

しまうのでは、ないかと思うのです。

 仏教では、阿含経の中で、世間一般の人は、執着しやすく、生・老・病・死・愛に至るまで、この

執着が、疑いを生じさせ、苦の原因になると言う。 この執着の正体それは、わだかまりです。

主・イエス様を信じ、律法を学び、神の言葉である主・イエス様を知ること、真理であり道であり、命で

ある