聖書の学び

 このブログでは、主・イエス様の教えを知りたい人の為に書いてます。

海嶺

2016-07-09 13:35:24 | 偉人

明日は、参議院の選挙である。
早いもので、安全関連法案が可決し、
日本国憲法の9条が骨抜きにされて1年になる。
私は何気なく朝家の外の道路を見ると猫が徘徊していた。
小雨がふっているが、快適な気候で、鳥がさえずっている
中、その茶色で大きな猫が、突然目を鋭くさせて、頭
を低くして、何をしているかと思ったら忍び足で隣り
の家に静かに目を光らせながら入っていった。
辺りは、閑散として、また静かで和やかな雰囲気に戻った。
私たちも平和にかまけていないで、良く世界の日本の
状況に目を光らせていなければならない。
さて、今日は、主・イエス様に祈り、三浦綾子さんが書
いた、海嶺を参考に主・イエス様に導きを受けた事につ
いて、書こうと思う。
この物語は、おおざっぱにあらすじをお話しをすると
江戸時代の大塩平八郎の乱があり、天保の大飢饉が
あった時代に千石船で、船にのって遭難した、14名の
内の岩吉、音吉、久吉の3名が生き残り、世界を回りなが
ら、日本に帰ろうとし、その間にヨハネの福音書とヨハネ
の手紙を日本語に翻訳する物語です。
彼らはどこにいたのかというと、名古屋近くといったら分
かりやすいと思う。
名古屋付近に伊勢湾があり、伊勢湾に面した、知多半島の
南の丁度知多半島の先端あたりに小野浦という場所がある。

ここに、久吉と音吉が住んでいた。
音吉と久吉は同じくらいの年なのだが、ここでは、音吉が
優秀な子として描かれている。
彼は、村で正直者と言われた、武右衛門の息子で、母と兄と妹と
5人家族で、兄は、小心者で、父とは違い盗みもするし、ずるい
性格なのだそうだ。
父が倒れてから、兄の吉治朗が千石船にのり、母は、農業妹のさとは、
吉治朗の乗っている千石船の船首の樋口源六の家に一日子守りの仕事を
していた。
そんな中、音吉は、樋口源六の娘の琴の婿になる事になった。
彼の正直で全ての事に於いて、丁寧で誠実である姿を見て、自分の娘
と結婚させようとおもったのである。
久吉にしても音吉にしても、一介の漁師で、地位は低くかった。
久吉には、父と母、いとこの長吉と妹の品がいた。
岩吉も舵取りの仕事をしていたが、岩吉は大人で、妻に絹がいて、
このお絹は、母とお絹で暮らしていたが貧乏で、母に無理やり、身売り
の仕事をさせられていた。
その仕事の中、岩吉と絹は出会い、結婚したのであるが、お絹に乱暴
をふるう、お絹の母に対して怒り、頭をなぐった翌日に絹の母は亡くなった
岩吉のせいでなくなったのかは、はっきりとしない。
岩吉は、正義感が強く、手先も器用で頭がよい人だと思われる。
彼は、お絹との生活の為一度船乗りをやめた。
それは、船乗りをしている間、自分の家に長屋の銀次という若者が、留守
中で入りしていたから、その時の彼の仕事は瓦職人であったが、彼は、大工で
も左官でも器用にこなしたのだそうだ。
後にこの器用さが、彼らを救う事になった。
なぜ、岩吉が、船に乗る事になったのかと言うならば、昔親切にしてくれた、
同じ舵取りの万蔵が倒れたからその代わりを頼まれて、船に乗る事になった。
もし、万蔵が倒れなかったら、遭難する事はなかったのだろうに・・・。
そんな3人が、千石船で、東の江戸に来る途中に遭難したのであるが、この
話は、全て実話である。
1832年天保3年~1837年まで約5年間の長い世界を回る旅の中で、彼らは、
遭難し、多くの仲間の死と自分の死を覚悟しつつ、神の恵みで、アメリカ
のフラッタリー岬に着き、その地元のインディアンに奴隷として扱われた。
当時奴隷たちは、物と同じで、祝いの席で、自分がどれだけ金持ちかを示す
為に奴隷の首をはねるような事もあった。
彼ら3人は、知らなかったが、常に命の危険があった。
そんな中岩吉が救援の手紙を書くが、その手紙が、ハドソン湾会社のマクフラリン
博士に渡り、そして、彼が、正確には、主・イエス様がこの3人を救ってくださった。
ハワイ、ロンドン、マカオで、さまざまな人と出会い、ロンドンで英語を覚え、
マカオで、語学の天才であり宣教師のギュツラフと出会い、ヨハネの福音書を
完成させた功績もあり、日本へ船が彼らが行ってくれたが、当時の日本は鎖国で
ロシアやヨーロッパの船が無頼な行為をしたせいもあり、異国の船が来たら、
理由も聞かずに打ち払って良い事になっていたので、マカオで日本人4人と
計7人で日本に帰ろうとしたが失敗に終わる。
ここでこの物語は終わっているが、3人は、そののち、岩吉、久吉は、ギュツラフ
と一緒にイギリス貿易監督庁に通訳で務め、音吉は、昔、樋口家で立派な船頭に
なると言われたように、モリソン号の船頭になり、上海でイギリスのデント商会
の高級社員となり、結婚し、日本人の漂流者を助け、日本の日英和親条約の時に
通訳として、音吉は活躍する。
この物語は500ページ位あるので、私は、伝道に役立つであろう箇所を抜粋して
紹介しました。

全世界の創造主である主・イエス様は、この箇所を通し、聖書のヨナ書や、使徒の
手紙で、パウロが遭難したシーンがあるが、神に従い、善をおこなう人達は、どの
ような嵐に会おうとも、神の使命を果たすまでは、聖書で語られているように、
その髪の毛一本落ちる事はないのだから、私たちは、何を着ようか何を食べよう
か、俗世間の事ではなく、神の義と神の国をもとめ、古い肉欲の体をすて、聖霊
よる御霊による清い生き方をするならば、生きる事ができ、そして後の世で
天国へ入れるという事をこの実話を通して教えてくださった。
そして、日本人が、イギリス、アメリカの人達や宣教師の多くの助けがあり、今日
の日本の教会と主・イエス様の十字架による救いがなされた事を忘れてはならない。

主・イエスの十字架と復活を信じるならば、あなたも今日から救われる事ができます。死後が始まりになるのです。

 

 

 


アッシジのフランチェスコ

2016-05-29 19:44:31 | 偉人

この間、歴史的事件が起きた。
それは、戦後70年位現職のアメリカの大統領が、広島の原爆
の為に慰霊にこなかったのだが、オバマ大統領が初めて
大統領として、原爆の慰霊に来たという事実だ。
これには、北朝鮮やイランのように、核によって武装して
いる国が多々あり、この危険な核の脅威から世界を守る
為の重要が試みがなされている。
核がない世の中を造る事こそ、長崎、広島で原爆で亡くなった
方々、そして今原爆を体験した人達への慰めではないのだろうか。
今日は、主・イエス様に祈りアッシジのフランチェスコの事に
ついて、主・イエス様に祈り書こうとおもう。


1181年イタリアのウンブリアのアッシジでフランチェスコ
は、生まれた。
彼は、裕福な織物商の息子としてうまれた。
若い頃のフランチェスコは、悦楽を追求する浅はかな
男だったと言われている。
しかし20歳のとき、隣国とのペルージアとの戦争で今まで
の神への放蕩が祟ったのであろうか、捕虜にされてしまう。
しかし、神の憐みもあり、彼は、捕虜から解放される。
元通りの生活に戻ったのだが、その時には、もう、フランチェスコ
にとって、享楽的な生き方を望まなくなっていった。
次第に病人や貧しい人達の同情心が芽生えていった。
 25歳の時彼は、アッシジのサンダミアーノにあるさびれた教会で
天から声を聴いたのだそうだ。
「朽ちかかっている私の家を修理しなさい。」この私の家とは、全世界の王
であり神である主・イエス様の事をさしているのだとおもうが、この言葉
通りにフランチェスコは、父の商売道具の布を売り建築資材に変えてしまった
事が原因で、父との間にいさかいが起き、自分は、遺産相続を放棄して、
粗末な服を身に着けて、親元を去ったという。
主・イエス様は、親兄弟を捨てた人は、この世で迫害もあるが、幾倍の報いをうけ、
永遠の命をうける
マタイ19;29のとおりになった方でした。
これらの事があり、何年後にアッシジに本部を据えたフランシスコ会を設立
1210年 教皇インノンティウス3世により彼を含めた12人が、巡回伝道師として
資格を受ける。
1219年頃には、フランシスコ会は5000人の修道士を抱えるほどに増えた。
彼は、終生キリストの為に身をささげた人で、フランチェスコは、清貧を何よりも
重んじ、謙遜で、物質的な物をもとめず、完徳の道をめざし、1着の修道服、
1本の縄帯、ズボンだげで、満足しました。
私は、彼の信仰を鑑みる時に信じるという事は、すべてを捧げるという事なのだと
と感じる。
私は今まで色んな罪に囚われて同じ罪を繰り返し、悩み苦しむ人々を励ましてきた
が、共通して言える事は、その自分の強い思いがあり、それが善悪問わず、隣人
の大迷惑に発展してしまう事が多々あり、その本質は、執着心からきており、
モーセの十戒の貪ってはならないという教えを善悪問わす゛、犯した結果に
同じ罪の迷路にはまりこんでしまう事に私は気づきました。
宮沢健二は、手紙という短編小説のファンタジーで、一匹の回心した竜の話をして
いる、竜の体にはるり色、金色の皮膚をしていて、猟師が、王への捧げものとして
この竜の皮をはぎ始めました。
その時に、竜は、猟師のするがままにまかせ、皮をはがされて赤い肉ばかりになり
横たわります。
それでも誰かの役にたとうとし、今度は虫に自分の体を真の道の為にあげてしまう。
死んだのち、蛇は天井で生まれ、釈迦に生まれかわり、また虫達も釈迦様から教えを受

けて、天国へはいるというファンタジーですが、大切なことは、私は道であり命であり

真理である主・イエス様を信じるという事、真理の道とは、主・イエス様を通らなけれ

ば、到達できないのだという事が聖書に書かれている事真相です。
主・イエス様は、善人の為にも悪人の為にも十字架にかかられのました。
それは、全ての人が、救われる為であり、このお方を通して以外に救いがない事を表し
ています。
私がいいたい事は、神に全てをささげるという事は、今からがスタートであり、私たち

は、常に求道者である必要があると言う事です。
上記の話を聞けば、誰も、己の我欲や自分の行いを誇ったりしないと思います。
大切な事は、今あなたが神に愛されている事をしり、主・イエス様の十字架の愛を
信じる事です。

そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。

 


 


すみの親石なれど

2015-06-19 18:20:47 | 偉人

最近、地震や火山活動が活発かしている。
 この間、日本全体を震わす大きな地震があった。
幸いな事に、震源地と深さの関係もあり、東北の震災のような大きな被害はなかった。
まるで、神が私達の罪に対して、警告を与えているかのようだ。
今日ふと、新聞を見ると、尼さんの、瀬戸内寂聴(93)さんが、戦争の
体験から反戦運動に参加していた。
1991年の湾岸戦争では、停戦を願い断食、2001年の米同時多発テロでも断食をし、イ
ラク戦争の時には、戦争反対の新聞広告を出したという。
昨年の5月に背骨の圧迫骨折で入院して、さらに、9月に胆嚢ガンの手術をしたばかり
で、法話を再開したのは、2カ月前だという。
 今回、2015年6月18日の国会前で彼女が語った事を簡単に紹介します。
 「最近の状況は、戦争にだんだん近づいている」、1922年生まれの私は、いかに戦争がひどくて、大変か身に染みて感じた。
戦争にいい戦争はない。すべて人殺しです。
最近の状況は、寝ていられない程、心を痛めていた。どうせ死ぬならば、本当に怖い
事が起きているぞと申し出てにたいという。
世界の為、日本の為に常に、行動をしてきた。寂聴さんの話に感動しました。
また、日清戦争の時代、勝海舟は、氷川清話でこのように語っています。
日清戦争は俺は、反対だったよ。なぜかって、兄弟げんかだもの、犬も食わないじゃないか。
 たとえ日本が勝ってもどうなる。
 中国は、やはりスフィンクスとして、外国の奴らにわからぬに限る。
中国(支那)の実力が分かったら最後、欧米からドシドシ敵が押しかけてくる。
 日本は支那と組んで、商業なり、工業なり、鉄道なりやるに限るよ。と言っています。
中国、朝鮮は、日本にとっては、兄弟のようなもので、互いに協力し合う事が大事なのだ
といっているのです。
彼自身、剣持てども、剣が抜けぬようにしていたそうで、平和主義者でした。
世界は、今や、第3次産業の発展により、グローバル化してきた中で、インターネットなど
で、他国の人達との交流がなされるようになりました。
 聖書では、神は、人間を被造物としてつくられたのだといいます。
この意味は、人は神に似せて作られていると言うことです。
人間は、もとは、神に創られた兄弟のようなものなのです。
ところが、一部の人達の利権や争いの為に、上述した勝海舟や瀬戸内寂聴さんのような、考え方
が、出来ない事は、悲しいことだと感じた。
さて、今日私は、東京帝国大学の山本 有三さんが書いて、朝日新聞で掲載されていた。
 小説の路傍の石と言う物語から主・イエス様から教えられた事を書こうと思う。
主人公の吾一の父の祖先は武士でしたが、位の低い武士でありました。
だから、武具を質屋に入れていたのだそうですが、勇敢な方で、手柄を立てたのだといいます。
祖父も勇敢な方で、将軍が朝廷に恭順する事に反発した武士が、彰義隊をつくり明治新政府に反対
して起こした隊でしたが負けて、祖父も逃げたといいます。
また父は、幼くして父を失い、後見人に財産をだまし取られたり、土地の権利書の問題で、
愛川一家の土地かそうでないか、国ともめ、裁判を起こして負けてしまいました。
財産もなく、お金もない状況で、父は、裁判の問題で東京にいて、仕事もしない状況でした。
吾一の成績は優秀で、学校では、勇敢で知恵のある物として絵描かれおり、子供の頃は貧しいけど幸せでした。
 後に、いせ屋の秋太郎とおきぬのもとで働かせるまでは、学校で勇気があり、賢い子で通っていました。
それが、彼の家が貧しいばかりに中学校にも通えず、母の為にいせ屋で働き始めると、おきぬは、手のひらを
返したように吾一を見下すし、秋太郎はそんな事はしなかったが、彼の名前は、吾一から五助に変えられてしまった。
その後、彼は母が亡くなるまで我慢していせ屋にいるが、母が亡くなると、以前父が手紙で東京にいると言うので
その場所に行くと、今度は、そこの大家のおかみと娘にさんざんこき使われ、ほぼただ働きのような生活をさせられた
挙句、捨てられてしまう。
その後、インチキくさいおともらい稼ぎ仕事をする老婆と、葬儀の時にもらい物をし、設ける仕事をしていたが、そん
な人間として最低な生き方に我慢できなくなった、吾一は印刷の職場につく。
ここでもさんざん苦労し、いじめられた吾一は、以前の先生の次野先生と出会う。
次野先生は、以前いなば屋のおじさんに協力してもらい、中学校へ行くように、話をしてくれた人だ。
 けれども、母の仕事をもらうために仕方なく、いせ屋で働く事になった。
だから、次野先生は吾一のもっとも信頼できる人だった。
 次野先生は、いなばのおじさんから、当時で言うと大金の100円を愛川 吾一の為にもらっていた。
このお金は、吾一をいせ屋のような所でこき使われないようにし、学校に行かせて立派な人になって
ほしいと思い、吾一の為におじさんが次野先生に渡しておいたものでした。
しかし、次野先生は、そのお金を結婚した嫁の病気を治すために、半分使ってしまった。
今は、東京の商業学校で教えているようだが、作家を夢見ている貧困生活の為、残りの金も使ってしまった。
そんな中で、吾一が何処にいるのか探してはいたが、次野先生は、吾一にこの小説路傍の石で、あやまり、
最後、商業学校に入れる事を約束してこの物語は、終わるのだが、この物語は、まだ完成してないまま、
山本有三さんは、ペンを折った。
当時明治の中期の時代、軍国主義がだんだん鮮明になって行き、社会主義の思想が弾圧されていき、自由に書けなくなって
きたのが理由でペンを折ったと言われており、続路傍の石が書かれているのであるが、作者の意向もあり、私が上述したように、
次野先生が吾一にあやまるシーンで終わっているものが多いそうだ。
なぜ、筆者である山本有三さんが、続路傍の石があるのにも関わらず、完成させず、このままの状態で終わらせたのか。
それは、次野先生を自分自身に抽象的に置き換えたからではないだろうか。
 次野先生は、子供達に正直でうそをついたりしないように教育する教育者であるばかりではなく、将来、次野先生が、文学家に
なる事を夢見て、酔っぱらって勢いよく話をするシーンがある。
 私の憶測かもしれないが、次野先生を山本さん個人と重ねてこの物語の終わりを吾一に対して不正を行い謝るシーンで終わらせている
のだと私は、痛感した。
文学者はいかなる時代に於いても間違った意見に屈服するのではなく、正義と平和を愛し生きて行くことの大切さを教えたいのだと思う。
 そして、その時代の一人一人が、そのように、悪い時代に流されずに正しい行いをする事の大切さを訴えたかったからこそ、
自分自身の弱さに不甲斐なさを覚え、責任を感じた山本有三さんの路傍の石は、素晴らしい文学であったのだと思いますし、
私はこの作品を称賛しております。
聖書で、ルカ20章17で主・イエス様は、このように言っています。
「家を建てた者たちの見捨てた石、それが礎の石となった。」
家=この世の指導者、見捨てた石=主・イエス様であると思われるが、山本有三さんの路傍の石の小説は、まさに世の中の迫害に会いながら
も、その思想を曲げずに資本主義、自由主義、社会主義の理念を通した。立派な作品でした。
今日は、主・イエス様に祈り、どのような時代においても、正しい生き方をする者事の大切さを学びました。
人間には、肉体と魂があります、
霊と誠により礼拝をしなさいと聖書で主・イエス様はいいます。
でも主・イエス様は、行いを正し悔い改めて、主・イエス様を信じた人全てを平等に天国へ入れてくださいます。
初めの者も後の者も、多く与えた人も少なく与えた人も平等に罪をあがなってくださります。
だから主・イエス様の十字架を信じる人は、だれでも救われる事ができます。
 
 


サンフランシスコ・デ・ザビエル(日本での宣教)

2013-10-04 17:24:06 | 偉人

今年は、台風が上陸したのが以上に多い年だった。台風が何号だったか、

忘れたが、関西では、洪水の被害が凄く、一カ月に降る降水量と同じくらい

降り、各地で、竜巻に近い、突風が吹き、多くの被害をもたらした。

その被害者の人の為に祈ります。

さて今日は、以前私が、主・イエス様に祈り、サンフランシスコ

ザビエルのインドから、マラッカやソコトラ島など、諸所の伝道

の事について書きましたが、今回は、日本へザビエルがどのように

来て、伝道していったのかについて、書こうと思います。

当時ザビエルは、ポルトガルのジョアン3世の力添えや、イエズズ

会の支援を通して、インドや諸所の島で伝道する事ができました。

では、日本へどうやって支援を受けたのかと言うと、印度航路の

発見者バスコ・ダ・ガマの4人の息子の中の3人の息子が関わっている。


印度総督のエスタバオ・ダ・ガマ、最優秀船として有名であった船の船長

のドアルテ・ダ・ガマ、そして後の2人が、特にサビエルの日本航行に大きな

影響を与えた人物であった。

1人は、マラッカの長官のペドロ・ダ・シルバ・ダ・ガマ、マラッカの港湾と

艦隊の全権を握る司令官のアルバロ・デ・アタイデ・ダ・ガマであった

ドアルテ・ダ・ガマは、日本いるザビエルを非常に援助し、豊後の大友候に

ザビエルを紹介し、ペドロ・ダ・シルバ・ダ・ガマは、船の手配や、日本への贈り物

をしてくれた。そして、アルバロ・デ・アタイデ・ダ・ガマは、中国(シナ)の渡航

を強引に許可してくれた。

当時日本への航行は、4隻いったら、2隻日本へ着けば、成功だと言われていたので

すが、今の船とは違い、季節風によって航行していたので、場合によっては、シナの

島による必要もあったし、ザビエルは、日本だけではなく、シナへも行きたがって

いたので、上述した3人のバスコ・ダ・ガマの息子達の尽力が大きかった。

ところで、マラッカ→広東→チンチェオ→鹿児島→京都→鹿児島→山口→府内(大分)そして

下関海峡までが、日本でのサビエルの伝道の経緯です。
 
それでは、航行の内容について話を進めます。

ザビエルは、シルバからの紹介で、アバンという人の船で航行する事になるのだが、

初めからザビエルにとって、インド航行以上の試練がありました。

アバンは、あだ名が海賊と言われていた位ですから、余り良い人ではなかったのでは

ないかと思われるし、シナ人の商人ジャンクは、不信者で、偶像を拝む人達で、日本

への航行を、くじで偶像に聞きながら航海する始末で、ザビエルにとってとても

つらい宣教の旅になった。 何よりも、季節風が日本に吹く時に、日本へいかなければ

、シナの島で冬越しをしてから行かなければならないのにもかかわらず、偶像に聞き

くじで占うと、日本へ行けても、マラッカへ帰れないと出てしまい、船は、シナに行く

事になってしまう。

しかし、神の不思議な御手により、日本への航行は実現していく。

緩慢な蛇足で航行する船、あいかわらず、悪魔である偶像のくじに頼る船長

そんな中、聖マリア・マグダレナの祝日の前夜、空も海も荒れて、波も高くなった。

その時、なぜか、船のポンプが開いていて、そこに、マヌエルが入ってしまう。

もう死んだかと思っていると、頭部を打ち重症であったのにも、関わらず、神様の

恵みであったのでしょうが、助かります。

彼の救助に懸命であった時、海はますます荒れ、そのせいで、甲板にいた船長の娘

が海へ投げだされて、死んでしまった。

ますます、おびえた船長は、当然、シナへいってから日本へ行こうとするが、ザビエル

達が反対し、長官にこの事話すと言われ、彼らは、チンチェオに行く事となった。

娘の死もあり、精神的に怯えに怯えた船長、精神的にも、怯えきっていたので、

日本へ直接行かずにさらにチンチェオへ向かうがこの事が、彼らを日本へ行くきっかけ

となりました。

神はチンチェオに海賊を置きそのおかげで、船はチンチェオを離れなければ

ならないが、船は季節風で走るので、戻れず、日本へやむなく行く事になった。

そして、神様の助けもあり上述したように、鹿児島へ着く。

日本へ着くと、聖信パウロ(日本人ヤジロウ)は、薩摩の君主 島津貴久と会い

彼をキリスト者とする事に成功する。

その後、ザビエルは、東上し、国王に宣教の許可とシナへ航行について、免許を

もらいにいき、何よりも、高野、根来、比叡、近江等々の学校の事を調べている。

各学校には、3500人位の生徒がおり、特に坂東は学生の数ははるかに多かったという

京都で国王に会うも贈り物がなく失敗、そして山口へ行く、大内 義隆に再謁見

し、インドのゴア司教の親書や、望遠鏡やメガネなど様々な珍物を献上し、見事

信仰の自由を獲得する。その後豊後(大分)で、上述したドアルテ・ダ・ガマが豊後の大友

宗麟にザビエルを紹介してくれたおかげもあり、大分での宣教はしやすかったのでは

ないかと思われる。

ザビエルは、日本の人を自分の国の人のように愛していたばかりではなく、日本の宣教

にかなり期待していたのではないかと感じた。

ザビエルは、室町末期の時代に日本にきました。当時は、平民も武士も貧しい暮らしの

人が多く、僧は尊敬されていた。 当時の文献を見ると、日本人は、文化人で、本を

読めない人がいなかったといいます。

それは、一重に僧たちの働きあっての事だが、この時代の僧は腐敗していたのだそう

で、ザビエルも迫害にあっている。また日本人は、好奇心も強くまじめで、探究心

がある種族なので、導く苦労もあった。

例えば、主・イエス様は、なぜ今まで日本へ来なかったのか? 先祖を尊敬し大事に

する日本の種族は、祖先の救いがなかった事に憂い悲しんだそうですが、このように、

日本人はよく聞き、またその教えをする人の様子を見つつ、慎重に物事を判断する

真のキリスト者の生まれる地として、期待が大きかったのだと思う。

日本を去ったザビエルは、インドから、シナ(中国)へ宣教へ行き、最後を遂げた。

なぜ、中国へいったのかと言うと日本の文化に大きな影響与えているシナを宣教

する事が日本の宣教と関係があると思ったからだ。

私が思うのは、当時日本に来れるだけでも確率は50%に過ぎず、また日本は

この当時、足利家や地方の豪族たちによっておこった応仁の乱がおきている最中

でもあり、とても危険でありました。

日本人は周知のとおり、刀を持ち、武器を重んじる国でしたから、日本へ来て、

命を守られただけでも、奇跡であったと言えるのではないでしょうか?

もし、このサンフランシスコ・デ・ザビエルの命掛けの働きと私達日本人への愛

がなければ、キリスト教も、教会も、日本で、育たなかった事を覚える時、私達

は彼に感謝します。

私は、この彼の航海の話を読む時、使徒行伝を思い出します。

使徒27~28で彼らの船が難破します。

アドリア海を漂流し、その時使徒27:31の言葉が印象的でした。

船が暗礁に乗り上げる事を恐れる船員は、錨をおろすふりをして、逃げ出そう

とする。その時パウロは、はっきりと確信に満ちた言葉で一言こういうのです。

「あの人達が船にとどまっていなければ、あなた方は、たすからない」

また、使徒27:34 だからどうぞ何か食べてください、生き延びる為に必要だから

です。 

あなたがたの頭から髪の毛一本もなくなる事はありません。

そして、パウロからの主・イエス様の御命令を聞いた船員はたすかりました。

聖書で神は、旧約聖書で、当時行いの悪い人類を滅ぼそうとした時、行いの良い

ノアに箱舟をつくらせて、生きさせました。

一度この世は、水で滅びましたが、船は健在でした。

今の世では、教会が私達の箱舟であります。 

新約聖書 第一ペテロ3:19~20 そして、霊に於いてキリストは、

捕らわれていた霊達のところへ行って宣教されました。

この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作らていた間、神が忍耐して

待っておられたのに従わなかった者です。

この箱舟に乗り込んだ数人、すなわち8人だけが、水の中をとおって救われました。

この水で前もって表されたバプテスマ(洗礼)は、今やイエスキリストの復活によって

あなたがたをも救うのです。

上記の記事からも分かるように、キリストは、以前悪を行い従わなかった霊達をも、

放蕩息子が神(父親)に自分の罪を悔い、そしてキリストの十字架を受入れて、洗礼を

受け、神に立ち帰る事を望んでおられます。

教会は、キリストの体であり、船であります。

この船に乗っている者は上述したよう、あなたがたの頭から髪の毛一本もなくなる事はありません。

しかし、もし教会が、主・イエスの教えに聞き従わず罪を犯すならば、その教会は教え戒めを聞き守る

会ではないので、もはやその舟は、沈む事になってしまいます。

だから私達は、横と縦との関係を重視し、神の御声に聞き従う必要があります。

ザビエルのように、日本の大名や僧に謙遜で、常に正しく確信をもってキリストを信じたように、

福音を伸べ伝えるならば、私達は、教会は、律法によって平和と義を獲得し、終わりの時に天国へはいれます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 


サンフランシスコ・ザビエル

2013-07-19 14:47:34 | 偉人

前の週は、猛暑だった。

気温は、平均35度くらいは、あったであろうか。

私の家の外の気温は、とても暑い時で、39度近く

もあった、今年は、水不足と、電力不足心配ですが、

関西の方では、雨が降ったようだ。

さて、今日は、主・イエス様に、祈りサンフランシスコ・

ザビエルの書簡集から、信仰について、導きを頂いた。

1506年頃4月7日生まれのザビエルは、現在のスペインのナバラ州、

パンプローナに近いザビエル城で地方貴族の家に育った。彼は5人

姉弟(兄2人、姉2人)の末っ子で、父はドン・フアン・デ・ヤス、

母はドーニャ・マリア・デ・アスピルクエタという名前であった。

父はナバラ王フアン3世(フランス貴族アルブレ家の出である)の信

頼厚い家臣として宰相を務めた。 ナバラ王国は小国ながらも独立を

保ってきたが、フランスとスペイン(カスティーリャ=アラゴン)の

紛争地になり、1515年についにスペインに併合される。父フアンはこ

の激動の中で世を去った。

1525年19歳の頃、パリの名門大学のソルボンヌ大学に入る。彼は、

上述したように、貴族の出で、父は、亡くなり、母も高貴な所の出

身だったので、贅沢な暮らしが好きで、この頃は、野心も人一倍あった。

しかも、カルギンなどの影響により、異端に走る者も多くいた中で、

ザビエルは、神に手厚く守られていく、先ず、寮生活では、イグナチオ

やペテロ・ファーベル達と一緒になる。

1529年、ザビエルの母が死亡。その4年後、ガンディアの女子修道

院長だった姉も亡くなる。そんな中で、哲学コースをとっていた、

ザビエルが、まっすぐ信仰の道に入れたのは、イグナチオの影響が

大きかった、イグナチオは、マタイ16の人、例え、全世界をあた

えられようともこの箇所を3年間反復して、サビエルに話す。ザビエル

は、イグナチオの交遊を逃避、しかし、哲学の講師となっていたザビエル

サビエルは未だに貴族の生活態度を改めなかったのだが、金が足りなくなっ

た時、貸してあげたり、して、心にとっかくがなくなっていった。ちょうど、

寮には、イグナチオ、ファーベル、ザビエルの3人が生活してたが、7カ月

ばかり、ファーベルが、故郷に帰る、そしてファーベルが戻って

来た時には、ザビエルは、別人のようになり、イグナチオに謙遜に従うようになった。

サビエルの転換を徹底的にならしめた出来事は、イグナチオの指導のもとに行った、

40日の黙想あった。

改心した、ザビエルは、後にモンマルトルの聖堂において神に生涯を捧げると

いう誓いを立てた。これが「モンマルトルの誓い」です。

ザビエルは、ポルトガルの王に、派遣され、インド、中国、黄金の国ジパング

と呼ばれた、日本にも、伝道に来る、今回は、インドでの、伝道、リヴァイバル

(信じた人が大規模に起こる事)迄書こうと思う。

さて、ポルトガルの王、ジョアン3世の命により、インドのゴアへインドに2名の神父が、

派遣される予定でした。一人が、ロドリゲス、もう一人が、ボバディラ、ところが、

ボバディラが、病気になり、ザビエルが、派遣される。

当時、インド渡航は、白人の力の象徴であり、コロンブスが、おさないイエスを肩の上に載せ未開の

所へ運んでいく書が書いてあった位で、ポルトガル人は、胡椒と救霊に行く人がほとんどでした。

インドの総督は、後に、年貢を重くしたり、不法を行う事が多々あり、ザビエル達の宣教の邪魔

になる事もあったのだが、出航前、宮廷でポルトガルの王と会談、王はザビエルの謙遜な人々への奉

仕に見入られ、王の絶対的な信頼を神の恵みで獲得した、ザビエルは、学院の為、また、悪い総督

の罷免などを勇敢に陛下に進言し、活躍する。

リスボア→モザンビーク→メリンデ市→ソコトラ島→→ゴア→ツチコリン→コモリン岬

と伝道旅行に行くが、当時の文献を見ると、インド航行は、実に生きながらの地獄であった。 

アフリカの炎熱の上に狭い船の中には、人がぎっしり、一杯の水の為にさえ、短刀で猛獣のご

とく争ったという。指揮者や上級者との食事を謝絶し、自分に与えられた、部屋は、病人に提供、

食事は、パンと水だけしか取らなかったとある。 看護、罪の告白を聞き、要理の説明ザビエル

は、祈りを通して、豊かに恵まれ、信心の自分の弱さをじかく、しかし、ますます、神に対

する信頼が深くなったという。しかしザビエルは、病気にもなる。

荒波による酔いに耐え、40日、甚だしい苦痛に悩んだが、モザンビーク島で、回復した。

その時にザビエルの信仰のあり方に私は、感動しました。

ザビエルは、信仰とはこのような物だと書いてあります。

 このような困難に遭う度に、却って慰藉を感じるものと、私は、思っている。

それに反して、これらの困難から逃げ出す度に、或いは、それらの外側に在る時、その人は死んでい

る。

キリストを知っておりながら、自己の意思を捨てず、己の愛着心に引きずられて、キリストを捨てた

人の生活は、いかに、大いなる死であろうか。 それに引き換え、自己の意思に反対し、自己の事を

もとめず、キリストの事を求めながら、日々自己に死する生活は、如何に平安に満ちたものであろう

か。

また、灼熱の船の苦しみさえ、キリストに於いて、清涼剤であると言い切れる信仰と徹底した、

自己犠牲の奉仕、徹底した、伝道奉仕、病人の介護の姿は、多くのインド、マラッカ付近の島々

の人々をキリストへと立ち返らせていく。

書簡の8巻は、有名で、コインブラ、バレンシア、パリー、ルヴェイン、ケルン、サラマンカ、

バタビア7つある、イエズズ会の学院、に大きな喜びをもたらし、派遣した、国王ジョアン3世は、

反復して、この書簡を読み、長い間手元に置いてはなさなかった。

ペトロ・ファーベルは、この書簡8巻を、イエズズ会に対するもっとも有力な弁護者だと言った

程でした。

内容としては、バラモン教対する護教論のやり方、神からのはかり知れない、聖寵、インドの

様子などですが、大リヴァイヴァル(キリストへ導かれる方達)が大多数いた。

コモリン岬、2万、トラヴァンゴルで1万、後に5万近くの人々が、インドで洗礼を受けた。

勢いにのり、ゴアで、聖信学院の建設に従事、ザビエルは、祈り、使徒信条、を教えるさなか

、洗礼を受けさせるだけて゛も一苦労でした

よく、デパートで、人気商品のために行列のできるごとく、教えを夜でも、聞きたがり、日々

キリスト教は、ひろがり、子供達の手を借りるほどに、忙しく、パリの大学や国王に、信徒

をインドへ来させてほしいと、猛烈にアプローチした。

私は、ザビエル達とを通し、知った事は、イエズズ会の人たちは、自分の為に生きることよりも、

他国のインドの人々の為に昼夜、働きつづけ、そして、信仰の道の救いの道を全く疑わずに

邁進できたのには、主・イエス様の十字架と、その後死後の世界で永遠の命に対する確信があれば

こそできた奉仕であったと思います。

コヘレト11 4 風向きを気にすれば、種をまけない、雲行きを気にすれば、刈り入れはできない、

とあります。しかし、ヨハネの福音書4、35 で、主・イエス様は、こう語ります。

あなたがたは、「刈り入れまで4カ月もある」と言っているではないか。

私は言っておく、目を上げて見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。 すでに、刈り入れる

人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。 こうして、種を蒔く人も刈る人も共に喜ぶので

ある。とあります。

また、ヨハネの福音書4、38で、あなたがたは、自分で労苦しなかった物を刈り入れる為に私は、

あなた方を遣わした。他の人々が労苦し、あなた方は、その労苦の実にあずかっている。

上記のザビエルの奉仕の前に主・イエス様が全治全能の神である、イエス様の労苦により、私達の罪

は赦され、主・イエス様の十字架により、私達は、清められます。

モンマルトルでの誓いから世界に派遣された中の数名の種が言葉として、福音の種を蒔いた結果

何万人という人々が、救われた、今日は、主・イエス様に祈り、信じるならば、どのような、未来

が訪れるのかと言う事について、書かせていただきました。

主・イエスの十字架を信じる人は救われます。 

 

 

 

 

 

 


 


二重人格

2013-02-20 01:15:59 | 偉人

今日は、雪がしんしんと降っていた。
午前中までは、雪は、降り続き、やがて大雪になったが、午後になると小降りになった。 

明日は、天気予報では、晴れると言う。
 
 人の心も、同じように、以外と強いようで、もろいものだとおもう。

 さて、今日は、主・イエス様に祈り、ドストエフスキーの二重人格から主・イエス様によって、教えら

れた事を書こうと思います。

 主人公は、九等官で身分の低いがお金の蓄えもあり、将来には、料理屋のドイツ女という結婚しようと
 
していた相手もいる。  
 
 普通の人よりも、恵まれていると言えるごくどこにでもいる男です。
 
 この男ゴリャートキンは、実直で素直で、舞踏会で踊ったりするのが苦手、人に取り入ったり、社交性

のない人ですが、人一倍、野心もあり、五等文官 ベレンジェーイエフ の一人娘クラーラ・オルスーフ

ィイェヴナに恋をしてもいた。
 
 ある時、上記のクラーラの誕生日を祝う会があったとき、主人公のゴリャートキンは、この晩餐会に出

席しようとする。 しかし、彼は、使用人により呼ばれてないからと、追い返されてしまう。
 
 でも、主人公は、強引にこの晩餐会に出席してしまい、しかも、クラーラと踊ってしまおうとし、

周りからひんしゅくを買い、追いだれてしまう。 この時から、ゴリャートキンには、二人の自分が

妄想として、存在し始める。

ドストエフスキーは、この二人の自分を新ゴリャートキンと旧ゴリャートキンと区別する。

新の方は、社交的、狡猾、そして、社会で生きていくのが、上手で、出世するタイプ、旧の方は、上記で

説明したように、真面目で実直だけども、小心者、まったく正反対ではあるが、知的で、品位を感じさせ

る存在達です。

 最初は、この二人は仲が良いように見えたのですが、新ゴリャートキンが、仕事を取り、意地悪くなっ

て、行き、旧ゴリャートキンは、忍耐し、耐える姿が描かれている。


 そして、最終的には、旧ゴリャートキンは、初め、新ゴリャートキンの無礼な行為に怒り、和解の手紙

を試みるが、役所で、ひと悶着する、遂に忍耐も限界に達する。

 この二人の葛藤は、まるで、善と悪との葛藤に私は、感じられる。あくまで私の感想ですが・・。

また、この物語で、著者は、妄想の手紙を良く、出現させる。 手紙により、バフラメーイェフに舞踏会

での事、また、ドイツ女に対して、無礼な態度について、主人公は、言い訳をし、自分を正当化しようと

試みる。 ここに、この作品のドストエフスキーの二重人格を書いた訳、意味があると感じます。この上

記の手紙は、妄想であると私は判断します。 まず、バフラメーイェフの主人公に対しての批判があり、


その結果バフラメーイェフという、親友に近い、友を失う結果となる。

妄想の手紙には、主人公が、罪と感じた上記の罪の結果、最愛の人をうしなうと言う表現を使う事で

罪の結果にもたらされる害を書いている。 そして、ゴリャートキンの言い訳の手紙には、聖書でいう罪

の本質が書かれている。 罪とは、自分の責任を放棄する事であり、責任転嫁する事でもある。

こう考えると、新ゴリャートキンは、自分自身であり、自分の理想だけでなく、自分の罪狡猾さ、

意地悪さ、他人を蹴落とし、自分が社会でのし上がろうとし、他人の罪を揶揄し、露呈させる。

出世欲と傲慢に満ちた、自分自身をうつしていて、この物語は、聖書て゛主・イエス様を売った、ユダと

いう人物がいるが、自分自身の罪=ユダである自分との葛藤であったのではないかと思われる。

私は、ドストエフスキーがどのような意図で、この作品を書いたのかは、分かりませんが、私の

が、この物語から教えられた事は、正しく生きるという事、神である主・イエス様の義を信じる事、そし

て矛盾した世の中で、私達がどのように生きればよいのかと言う事を教わった。

この物語では、最後、彼は、精神的な病をし、破滅してしまう。

 舞踏会から、追い出されたゴリャートキン、皮肉にも自分の罪醜い自分を強く持ちすぎた為に、

ゴリャートキンは、二重人格になり、心が分裂し破滅してしまった。

善と悪との戦い、それを抽象的にこの著者は、二重人格と言う形で書いているのだと、思うのですが、

うつ病の人達や精神分裂症の人たちもきっと、唯物主義過ぎたり、自分の事しか考えず、他者と共有

し、理解し愛し合う生活から、離れてしまう結果に上記の主人公のゴリャートキンのようになって

しまうのでは、ないかと思うのです。

 仏教では、阿含経の中で、世間一般の人は、執着しやすく、生・老・病・死・愛に至るまで、この

執着が、疑いを生じさせ、苦の原因になると言う。 この執着の正体それは、わだかまりです。

主・イエス様を信じ、律法を学び、神の言葉である主・イエス様を知ること、真理であり道であり、命で

ある


安部 哲 ( あべ さとしさんの 救いの証 )

2012-11-09 22:34:52 | 偉人

 

私の自宅近くのバスどおりには、イチョウ並木がある。

 ようやく、最近イチョウが、緑から黄色に変わってきた。

夕方になると、そのイチョウが、秋の訪れを伝えてくれる。

さて、私は、最近まで、咳が中々止まらずに、苦しんでいま

したが、体を鍛えつつ、食事もバランスよくとっていったおかげ

と私の為に祈ってくださる方々の祈りが、届き病が完全に癒され

ました。 

さて、今日は主・イエス様に祈り霊満クルセードの代表を務めた、安部 哲

あべ さとしさんの事を書こうと思います。

彼は、福岡県 糖屋群 青柳村で生れ、安部家の長男で実家は蚕種業を営む大地主

でした。

そして、かれの子孫は、安部水軍30数代目の子孫でした。

水軍とは9世紀頃から西日本を中心に海上を荒らしまわっていた海賊で、

倭寇として恐れられていました。

そんな血筋からか、安部さんは、長い間ノルウェーを仕事の拠点においていたのですが、

バイキングを生み出した、ノルウェー気質と合うので、安部さんを神は、宣教の盛んな

ノルウェーに遣わしたのかもしれない。

安部さんは、ノルウェーのブリーネでグラスモー宣教師の3年間の学び本人曰く、グラスモ

ー聖書学校で救われましたが、グラスモーさんは頑固で、真面目な人で気質があったので

学びが続いたのだと思う。

安部さんも頑固なので、救われる前救いについて3年も学んでいても、安部さんには、救いの方法がわからず苦慮

していました。


なぜ、安部さんが、ノルウェーにいれたのかと言うと、かれは、雛鑑別師の仕事をしていて、海外を拠点に仕事を

する事も多かったからです。

雛鑑別のチャンピオンにもなり幸せを手にしたはずの安部さんは放蕩の限りを尽くしましたが、仏教をまず信じました
 

安部さんは、収入を得て遊興に走る往復馬鹿を繰り返しました。

楽しい日々のはずが、空虚感が増し、乾いた心の穴はどんどん大きくなり、そのおかげで仏教の道に入る。

結婚し戦争に行ったときでさえ、死者のともらいやお経を大事に持っていっていたそうだ。

仏教では、自力による救いを強調するので、他力本願的な部分もあるが、自分で見て納得しなければ

理解できない人も多い。

だから信じるのも大変で、3日断食し、それでも理解できず、信んじる事に対してあきらめかけて

た時の救いを受け、聖霊による喜びも大きかった。

普通どんな人でも、子供の頃は、大喜びして、なりふり構わず喜ぶこともあると思う。

けれども、踊りまくって喜ぶと言うことは大人になると体裁の事もあり、中々上記のような自分理性を上回る

程の救いの喜びの体験をする人は少ないと思うのだが、安部さんは、夜中に救われ、隣の人がうるさいと言う

おうとも机のまわりを何度も踊り回ったそうです。

その時、座っていた床が落下し明かりが灯っていたはずなのに真っ暗になり、自分の体が硬直し、底なしの奈落

に匹敵するほどの孤独地獄へ落ちる疑似体験をする。

罪の悔い改めと同時に闇を体験し、その上記の疑似体験から救われる為に必要だった事は、多くの言葉ではありませんでした


「神様、イエス様、助けてください、助けてください。」 この数行の言葉により落下は止まり、辺りがにわかに明るくなっ

たのだそうです。

いままで、グラスモーさんに「あなたは罪びとですよ」何十回と言われた言葉、今まで、うっとおしいと思うだけで、

それが一番大事な事だったとも気づかず、救いを模索していた安部さんに52年味わったことのない喜びがあった

そうです。

夜から朝まで踊りまくり、冬の朝田舎町を「ハレルヤ!アーメン」と両手を振り上げ踊るような足どりで歩く安部さん

が、救われた後聖霊に導かれたであろうノルウェー西南部で信徒伝道者として知られてたバスビックさんに言われた

ことばが印象的でした。

「安部さん、伝道は決して難しいものではありません。 今のあなたの喜びを証すればいいのです。 人間の知恵

 を宣べ伝えるのではありません。 献金に励む事も心がけてください。 神は必ず豊かに導いてくれます。

 これは、私の経験から確かに言える事です。」

後に安部さんは、霊満クルセードという団体の代表になり、共産圏伝道に世界の伝道に従事した、ソ連、や鑑別師でさえ入る

事が難しい鎖国政策のアルバニア、ブルガリア、ルーマニア、また鎖国政策ではないが感染症や紛争地域、伝道に行くと死者
もでる国ソマリアやアフリカ地域へ大きな荷物に無数のタグつきのリュックを背負い、ソ連では、電気ごてで腹を焼くかれて

までも伝道したのは、日本に対して日本の教会をたてるのに貢献してくださった外国の人達やまた自分達だけでは

なく、すべての人達に対して主・イエス様の愛を伝えたいこの聖霊による救いの喜びを伝えたいのだと言う安部

さんの純粋でまっすぐ天国を目指し、キリストの十字架の愛を安部さんの行動と体で示してくださいました。

聖書で救いの喜びについては、サマリアの女の話がある。ヨハネによる福音書4にある。

当時サマリア人とユダヤ人は、一緒に交際しなかった教えに従ったかそうでないかの問題なのでしょうが、

サマリアのこの女は、5人の夫が以前いて、今の男とは結婚していないまさに罪のどん底にいたひとでした。

福音書の箇所には、彼女の生い立ちや罪について詳しく書いてないが、イエス様は、異邦人であるサマリアの女に温かく

接し、罪の重荷から解放された喜びはいかに大きかったのか連想されます。

彼女はサマリアの女の証言により多くの同胞を救いに導いた。

安部伝のあべさんにしても英語は少々できたようだか゛ノルウェー語が堪能であったわけでなく、安部語ノルスク

にちなんで、アベスクという自分なりの言葉で、会話していたようだ。

雛の鑑別の仕事のほとんどを身振り手振りで教えたのだと言う。

安部さんには、知識、知恵、は対してありませんでした。

でも、救われましたイエス様に助けを求めたから、救われました。

だから、私達も主・イエス様の十字架を信じ、罪の赦しを願うならば、すくわれます。

 

マタイ28章 19 だから、あなたがたは行って、すべての民を私の弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名に

          よってバプテスマを授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。

          私は世の終わりまでいつもあなたがたと共にいる。

          キリストを主・イエス様の救いを伝える人のもとには、いつも神が共にいてくださり必ず救われます。

 


 


白洲 次郎

2012-09-04 21:21:39 | 偉人

最近、連日暑い日が続いている。

でも、不思議な事に、夜は以外と涼しく、私の家の庭には、コオロギかスズムシの音色が響く。

 さて、今日は、主・イエス様に祈り、私の家にも近いのですが、町田の武相荘と言う家に住んでいた。

白洲次郎と言う人について、書こうと思います。

彼は、兵庫県武庫群 精道村(現在 芦屋市)白洲 文平、芳子夫妻の次男としてうまれた。

 

 中学頃から、手のつけられない程の乱暴者で、サッカー部、野球部で、身長もアメリカ人にも劣らずほどの体格

で、イギリス留学し、ケンブリッジ大学で学びイギリス人達にも劣らない程の語学力を身につける。

 彼は、のちに戦後、吉田 茂に信頼され、憲法改正の時に、アメリカのマッカーサー率いるGHQとの折衝する

重要な役割をしていく。

 今回私は、白洲次郎と、日本国憲法の辺りを中心に書こうと思う。

 戦後の日本は、敗戦国として、アメリカに追随し、弱腰の中日本の政治家たちは、今もそうだと思うのですが、

自己保身に走っていた。

 そんな中で、欲や自己の思いではなく日本国を愛し、自分の信頼する吉田 茂の為に白洲は、終戦連絡中央

事務局に席をおく。

 彼は、マッカーサーであろうとも地位の高い人であろうとも、公正に物事を判断し、また、愛国心のある

方でした。

 就任当時から、GHQの民生局長に就任したばかりの、ホイットニーに対して、イギリス仕込みの英語を

でこういったのだそうです。

「あなたの英語だって、そう聞き苦しくありません。もう少し勉強なされば、一流になりますよ。」

 ブラック・ジョークだが、アメリカ人にとって、イギリスの英語と比較され、田舎者扱いされる事は、大変な侮辱で

あった。

 でも、憲法改正をマッカーサーに求められている中で、日本人として、まっすぐと意見を言える人が必要だから

こそ、吉田は、白洲を終連次長に選んだのだろう。

白洲は、マッカーサーに対して、昭和天皇が、クリスマスプレゼントをされた時マッカーサーがそのプレゼントをぞんざいに扱った時も、勇敢に「仮にも天皇陛下からの贈り物をその辺におけとは何事か」

と怒鳴りつけ、持ち帰ろうとしたという話がある。

 私は、終連次長に抜擢され、吉田と懇意であったのには、運命的な神の計画があったのではないかと思う。

二人は、共に一匹オオカミで、豪放磊落な人でした。

が、律儀で義理人情にもあつく、政治の空気を読むのにも卓越していた。

 吉田 茂の娘の和子は、麻生 太賀吉と結婚するが、麻生家は九州の財閥で、太賀吉は、若き当主であった。

子供の長男麻生太郎は、第92代内閣総理大臣、第23代自由民主党総裁になった人だ。

そんな縁があったのも主・イエス様の日本を愛してくださり、傀儡国の中にも、日本の事を憐れんでくださった愛

を感じます。

 ところで、上記の皮肉な態度は、一見悪い事でもあったし、行き過ぎた行動をした白洲であったが、それには、占領軍のいいなりになったのではない日本には、日本の自己判断=アイデンティティーがあるのを知らしめるため、敢えて、極端に行動をしたのだ、そうしなければ、国民から疑問の声があがるからしていたのだそうです。

よく、時代と人を見れるひとでありました。

 また、当時憲法改正案で、天皇の主権と基本的な人権の問題、戦争放棄などについて、白洲は、はっきり

とこうも主張している。

「新憲法のプリンシプルは、立派なものである。主権のない天皇が象徴となり、政治の機構としては、

あいまいな憲法が出来上がったが、そのプリンシプルは実に立派であるという。

 プリンシプルとは、原則とも主義、信条とも言える言葉であるが、ここに折衝をして、憲法改正にたずさってきた白洲次郎という人物の聡明さがあると思う。

 私が今日主・イエス様から諭された事は、戦争やどのような時に於いても本来の自己である。真理を見失わないことこそ私達が愛国心を持つということであり、私達が、主・イエス様を愛するということであると教えられた。

 相手がだれであろうとも、公儀と公正を重んじた白洲次郎は、のちのサンフランシスコ講和条約で、吉田茂首相が、英語の演説でするのを、尊厳の為に日本語でするのが良い米国の提案に従い、日本語で演説したというが、この事は、白洲がGHQの了承を得たうえで、美辞麗句を並べ英語で書いたことに白洲が激怒し、

日本語に急遽書き直したためと言われている。

 今日私は、真に信頼すべきは、主・イエス様の真理の言葉であり、真理である事を、そしてそのように歩む人と共に主・イエス様はおられることをまなんだ。

なぜならば、彼の正しい主張は、現代の私達の多くの人に共感を得ているし、フランシスコ講和条約でも、

彼の主張は、米国側にも伝わったからこそ、米国側も日本語で語るようにすすめたからだ。

 聖書には、モーセ5書と言う書物があり、モーセの十戒は、神が、預言者モーセに石の石版に書いたものであるといいます。

もし、律法が守られていたのならば、平和であり、戦争も戦さも起こらなかったことでしょう。

  しかし、人には、罪の性質があり、現在でも虐殺などが横行し、独裁者がおり、一部の富裕層だけが、富を独占する悪い世でもあります。

 主・イエス様は、そんな中私達の罪を赦すために十字架に架かり私達の罪を皆引き受け、贖ってくださるのです。

ヨ11:25 イエスは、言われた。 「私は、復活であり、命である。私を信じる者は死んでも生きる。」

主・イエス様との歩みは、信じたときから始まり十字架は、すべての罪をあがない天国へと導かれます。

 

 

 

 

 


アッシジのクララ

2012-05-28 01:45:56 | 偉人

今年5月は金環日食があった。
 私が今度日食を見ることは、おそらくないだろうとおもう。
太平洋側を中心とした広いエリアの大都市で見ることができ、日本総人口の3分の2にあたる8300万人の生活圏で金環日食が見られるうえに、これほど広範囲で見られるのは西暦1080年以来932年ぶりの出来事といいます

 世間では、日食を見る為に日食用のサングラスが売れ、学校では、休校にしてその日は、日食を学んでほしいと言う所もあった。
 

 日食当日、私は、完全な日食を見ることは、会社に行く途中でしたので、見ることは、叶いませんでしたが、幸いにも、日食が三日月のようになった姿を見ることは、できました。

 日本には、日食に関する神話があります。
ある時、スサノオノミコトらんぼうろうぜきに怒り、太陽神である天照大神があまのいわどにお隠れになり、世界が真っ暗闇になった。
最後には、やおよろずの神が天の安河原(あまのやすがわら)の川原に集まり、どうすれば良いか相談をし、相談の結果、天細女命(アメノウズメ)が天岩戸の前で半裸で踊り、何事かと岩戸を開けたとき、力自慢の手力雄命(タヂカラオノミコト)が岩戸をこじ開けて天照大神(アマテラスオオミカミ)を外に出し、入り口を塞いでいた岩の戸を手力雄命(タヂカラオノミコト)が投げ飛ばしました。そうすると天界と地上界は元のように明るくなった。
という物語があります。
私も、日食を通して、太陽を与えてくださり、永遠の命の言葉を光のごとく与えてくださ
ったことと、この世には、光と闇があり、罪があるということを主・イエス様から教えられました。

 さて、今日は、ペンテコステ:聖霊降誕日で、教会では、とてもめでたい日です。
私たちの救い主のイエス様が、十字架の死に3日目によみがえったあと、五旬祭の時に
使徒達が聖霊を受けた日です。
 私達は、聖霊を受けることにより、力が与えられ、救いは完成します。
 聖霊を受けるということは、私達が新たに生まれると言うことでもあり、私にとって日々の生活を見直す日でもあります。
そんな中私がすぐに思い出す人がいます。
その人は、1194年生まれの人で、アッシジで生まれたアッシジのクララといいます。
1210年の四旬節で聖フランチェスコの説教に接し、その精神に心酔、その後、ふたつの結婚話を断り18歳の時、アッシジの聖フランチェスコに師事するため家を出た。

 それから、たったの3年後の1213年には、修道女になり、裕福な生活を捨て、1215年までベネディクト修道院で、生活する。
18歳から献身をし、愛も裕福な家庭も捨て、ただただ、全世界の創造主である。
主・イエス様に右にも左にもそれず、彼女は、真っ直ぐに真理の道を歩みます。
 

 その後、聖フランチェスコの助力により、クララは、クララ修道女会を設立する。
最初は、聖フランチェスコの支援で、アッシジのサンダミアーノの教会近くに家を与えられ、母や、姉妹を初めとする女性たちの小さな群れでありましたが、クララ修道会は、フランシスコ会と同様に、何にか精神的価値を見出そうとした人々により、ヨーロッパに於いて、急速に主・イエス様の助けにより、広まっていった。
極貧状態の貧困に甘んじて、寄付金のみで生活をしていたのにもかかわらず、寄付金は、かなり増えた。
普通ならば、欲がうまれそうなものだが、40年修道会のリーダーであったクララは18歳の頃とまったく変わらず、右にも左にもそれず、厳格な規律を決して緩めようとはなさらなかった。
1243年アッシジが、神聖ローマによる、脅威の時、祈りと自らの課した苦行により、町を救う。
 

ローマ教皇のグレゴリウス9世が歳費割当ての申し立てをしてくれた時にも、このような状況で、厳しい生活の中、その申し出を断りました。
彼女の人生は、ベットから起き上がれないような時にも、いつもアッシジの町と、自分の修道女達のことを心配し、まさに、主・イエス様のような心の清い生き方をなされた人でした。

 彼女は、ある時、具合が悪く、朝課に出られなかった時、教会で歌う、修道女の歌声と
共に、まぐさ桶の中のイエス・キリストをはっきりとみたのだと言います。
私は、この人の話を聞くときに、神は、神の言葉として、聖歌の中に、そして、真理の言葉の中に私達の心のなかに、住んでくださる、そして、上記のような生活を感謝して生き、町を救うことができたのは、すべては、聖霊様の御働きであると思います。

 今現代の世では、人は、常に争いの中にいます。
経済の中に、また貧富の中に、人の心の中に常に葛藤があり人は心休まることを知りません。
人の心は常に何かに満たされる為に、自分の幸せの事だけがすべてで、若い頃は特にそうなのですが、目にみえる短絡的な快楽楽しみにより、まどわされがちです。
しかし、私達人は、本来神の被造物として造られており、私を造ってくださった神の栄光を帰す為につくられています。
それは、上記のクララのように、誰かの為に生きることこそが、自分の為に生きることなのであるという、本来の神の恵みである、自己に気づくことを、主・イエス様は求められます。

 フィリピ1、21 わたしにとって生きるとはキリストであり、死ぬ事は益なのです。
なぜ、聖書のパウロも、クララもこのように生きれるのでしょうか。
それは、フィリピ2:6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しいものであることに固執せず、7 かえって自分を無にして、僕の身分となり、人間と同じ者になられました。

 人間の姿で現れ、8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。
だからこそ、私達は、原罪の罪の中にあっても、主・イエス様の救いを述べ伝えます。
そして、キリストの体を着るという表現が聖書で出てきますが、それは、上記のようにすべてを捨て、キリストの為に生きるならば、あのジョン・ウェスレーがいったように、大いに獲得し、大いにあたえるならば、この世は、平和でみたされ、私達日本も世界もすくわれます。

 


新川さんの神様からの召命

2012-03-22 21:54:26 | 偉人

最近、私は、仕事の関係で、朝早く起きる事が多くなった。
すると、まだ太陽の光はないなかで街頭の明かりが煌々と光、6時くらいには、幹線道路には、車の列ができていた。
ところで一年前の震災当時は、私の住んでいる町は一日くらい全ての電気が、消え去った。
乾電池は、売り切れコンビニには、食料がない状態で、贅沢してたんだなと考えさせられました。
さて、今日私はある教会で、出会った新川という人をとおして主イエス様から教えて頂いた事を書こうと思います。
彼の父親は、乱暴な方で、新川さんは、幼少の頃から、父親の事を父親として見れないどころかいつかはやっつけてやろと思っていたのだそうです。
そんな家庭環境で育った新川さん必然的に悪の道に入りました。あらゆる悪事をしていたようですが、主イエス様のめぐみでしょうか?
刑務所に入る事はなく、高校も偏差値が一番低い誰でも入れると言われている高校に何か入りました。
そんなどうしようもない人生を送っていた新川さん。ですが、主イエス様の導きで変えられます。
 彼は、カミナリ族当時の暴走族に、高校1年の時から入り、あらゆる悪事をして遊んでばかりいました。少年院に入りそうになったことも6度あったのだそうですが、高校卒業できました。

しかし、そのような人生を歩んできた新川さんを雇ってくれるような企業は、ありませんでした。
 しかしいとこの家が京都で宇治茶の問屋で、高校の頃からアルバイトでそこにいっていたのだそうで、そこで務める事になりました。
 彼は、そこでも店の金を毎日2000~3000円くすねてパチンコ、タバコ町では、女ばかり見るふしだらな生活を送っていました。あるとき隣りのコンニャク屋に、アルバイトの方が来られました。新川さんは、きれいな女の人がいいと思っていたらきたのは、おばさんでした。 

 当時新川さんは、おばさんは大嫌いだっそうで、早くやめるように嫌がらせをし、相手が話しかけても口をきかなかったのだそうですが、そのおばさんは、いつも愛いあふれ優しい人でした。
 ある時そのおばさんがコンニャクを誤って落とした時、正直にお店にお金を払い自分の財布の中から金を出す姿をみて、感心したのだそうです。 

 この時から主・イエス様の導きが新川さんにあったのかもしれません。 そんな中で、おばさんが、聖書と塩狩峠と言う実話の小説をもらう。 そしてこの主人公の 長野 信夫が結婚前にもかかわらず列車事故の時に自分の身を投げ出す姿に感銘をうけ、どのようにすれば、このように人の為に生きれるかをおばさんに聞くおばさんは、主・イエス様をしんじなさいといわれ、改心したのだそうです。 

その後彼は日本聖書神学校で学び台湾にいったのだそうです。
今から30年前の話で2年の手伝いの後に、台湾語を覚え、日本の帰国し、今度は宣教師の下で英語を学び、そんな中主・イエス様から、中国宣教の道を与えられて、日本で中国語を学びそして中国留学10ヶ月その時周りには早稲田、学習院、同志社などの大学出の人がいた中、彼は、ダニエル書を見て、ダニエルが学者よりも、すぐれた知恵を得られているのをみて、神にいのったのだそうです。 私に中国宣教のための知恵を与えてください。 
そして、彼は口述、筆記試験において、首席で卒業しました。 中学でしか、勉強せず、高校は、暴走族で遊んで暮らしていた彼が、首席で卒業したのです。 
 今でもかれは、北朝鮮、中国の人の為に活動をなされています。
  主・イエス様は、この新川さんを通しておっしゃりたいことは、信仰と希望と愛の中で信じる人には誰でも希望があるとおっしゃりたいのだとおもいます。
私達には、自由が与えられています。
善を行う自由もあれば、悪を行うこともあります。
 ボンヘッファーはナスチにより処刑されても義をとおした、偉大なキリスト教学者ですが、彼はこのようにいいます。
われわれは、個人的な希望や思想をわれわれに与えられる使命に従属せしめることが生活の意味であり、偉大さであると考えてきた。
 上に属するものに対して、恐怖ではなく、使命の中に職業を職業の中に召命を・・。
しかし、ドイツはナチスにより使命のために服従し恣意、あるがままの自分から理性により己れを解放してきたドイツ人、
その心を悪用され、ホンヘッファー自身も処刑されてしまうのですが、ボンヘッファーは、このようにいいます。
 自由ある責任とは責任ある行為がなす自由な信仰による冒険を求め、罪を犯す者となる人間に赦しと慰めとを約束したもう神に基づくものであるといいます。
 新川さんは、中国や北朝鮮で、大変な目にあってきたとおもいますが、彼は、その自由な責任において、信仰の冒険をもとめ、今も来るべき天国を見て歩んでいるのだおもいます。
聖書では、神独り子をお与えになった程に世を愛するといいます。ヨハネの福音書3:16
 また、私は復活であり命である私を信じる者は死んでも生きるのだともいいます。 ヨハネの福音書11:25主・イエス様の十字架を信じる人はすくわれ、永遠の命への冒険へといざなわれます。