聖書の学び

 このブログでは、主・イエス様の教えを知りたい人の為に書いてます。

信徒=祭司

2009-09-20 17:33:00 | 神を恐れるということは
今日は、とてもいい天気でした。

そろそろ紅葉してきている木もあります。

食欲の秋読書の秋といいますが、私は、読書をしてます。

さて、今日は、主・いえす様のいのり、信徒としての心がまえ

について書こうとおもいます。

私達の創造主、である主・イエスは私達の罪をあがなうため

にモツ薬を拒むほどに私達を真に愛して十字架にかかって

くださいました。

だから喜んでください。

信じるものには永遠の命がやどっています。

しかし私達は、父である主・イエス様から、聖書をもらって

います。

そしてその聖書では、神を恐れよと何回も出てきます。

神は、愛ですから、私達を心配してくださっているのです。

新約の例え話にしても愚かな花嫁のたとえにしても、心の種

の話にしても、自分が神の掟を守らないでいるならば、どうな

るのかという教えが目立ちます。

コリント第一13で愛に対してかかれています。

しかし、愛することの裏返しは憎むことでもあります。

神は愛の神であると同時にねたむ神であり、厳しい裁き主

でもあるのです。

罪をおかしたものを罰する・・。

たとえ100000人の人を愛せても、一人の罪びとを赦せな

いのならば、その人の罪も残るわけです。

だからこそ、私達クリスチャンは、絶えず、罪を犯さないよう

にいのり、賛美し、聖書を読みます。

聖書には、神の愛や神の意思または、人の罪や律法があり、

この世の罪の価値観と違うものです。

人の世では、正しいとされることでも、神の前には、罪で

あることもありえるのです。

  
またよく教会で、何か質問されると、牧師に聞いてくださいという人がいます。

教会によっては、戒めあうことと、教会で物事を教えること

とを混同し勘違いする人もいます。

でも、聖書では、教師はキリスト一人であるといいます。

では、どうしたならばよいのか。

聖書では2人3人のいるところに私もいるのだといいます。

主にたずね求める門をたたくことを主はもとめます。

もし私達が、聖書を理解し、真の救いの知識に到達してる

ならば、もうこの地上にはいません。

エノクのように、天へあげられているはずだから。

だから主・イエスは、姦淫の罪を犯した女に石を投げる前に

罪を犯したことのないひとから投げなさいといいました。(ヨ8:1~11)

そのとき、年をとったひとから去っていったとあります。

これは、私たちがいかに神を恐れて生きなければならないの

かを示します。

そして救われたものは、こうよばれます。ヨ黙示録1:6また私たちを王国とし、

ご自分の父である神の為に祭司としてくださった方であるキリストに栄光と力が

とこしえにあるようにアーメン。

主の十字架を信じたものは、救われたものとして、神の祭司としてもちいてくださり

、この地上は、神の福音でみたされます。 

ブレンダーヌス

2009-09-06 17:59:36 | 偉人
今まで8月は、猛暑で、夜も暑苦かったのに、9月にはいってから涼やかだ。

最近は、セミの声と、鈴虫やコオロギの声が、交互に聞こえる日がある。

両虫とも、季節の変わり目が分からずにいるのかもしれない。

さて、今日は、主・イエス様にいのり、ブレンダーヌスについて書こうとおもいます。

その前に聖書のたとえを紹介します。

 聖書では、主は、人を魚に例えて、あなた方を魚をとる漁師にしてあげようといいます。

また、5つのパンと2つ魚のたとえでは、パンも魚も絶えず、増えて、5000人の人が

そのパンと魚を食べたといいます。

教会では、よくパンを御言葉として教えます。

魚は未信徒、まだ信じていない人たちをさします。

この教えは、アウグスティヌスの説教でもなされていますが、御言葉を学び

良い心を身につけ、地の光として、歩むようにとの主の教えであります。

では、上記の良い漁師とはどういう漁師なのでしょうか。

魚を釣る人ならば、わかるとおもいますが、さかなは、雨や昼の気温により、いる場所が違います。

人間も同じで、社会人ならば、オフィス街にいるだろうし、母ならば、午後買い物にいったり、

その途中公園によっているかもしれません。

良い漁師は、魚のいる場所を心得ています。

また、魚の中で、鮭は、産卵の為に川を上ってきます。

逆境の中、かえってめげずに勢いよく生きる様子は、主・イエス様が私たちに求める信仰のあり方

として見習うべきところがあると思います。

 さて488年頃アイルランドのケリー州にブレンダーヌスはうまれた。

幼少期は、アイルランドのリマルク州にあった生活共同体の女子修道院院長のイータにそだて

られた。


 また彼は、別の修道者ケリーの司教エルクからも教えをうけていた。彼は、人から教えを

聞くのが好きだったのでしょう。

他の修道者や司教の間を度々訪れていた。

そんな彼の名を有名にしたのは、ブレンダーヌス航海記という空想冒険旅行であったと

いいます。

 その内容は、ブレンダーヌスと修道士達が大西洋を西に進み、約束の地へと向かうとい

いうものがたりである。

彼は、クロンフォード修道院を設立し599年頃大修院長の座に就きました。

そのかれが、上記の空想物語を書いたのは、きっと、全世界に主の御言葉と十字架

の救いを述べ伝えてほしいという意図があったのではないかと思います。

主は、この地に住む人を魚としてたとえたとしたならば、教会は船であるといいます。

だから、この地を、海としてとらえるならば、私たちも、ブレンダーヌスと修道士達が大西洋を西に進み、

約束の地へとむかったように、私たちも約束の地=天国へはいれるのです。

信じるものもそうでないものにも、主は、同じように愛を与えてくださいます。

エレミア16章16をみると、私は多くの漁夫をやって彼らをすなどらせる

とあります。

ここでの話しは、神の教えをまもらなかった人達をとらえるようなないようです。

しかし、これは旧約の話しです、

新約聖書では、主・イエス様は、民の不信仰の怒りをゆるし、愛をもって示してくだ

さいました。

主・イエスの十字架を信じるものは、こんどは、人の赦しを伝える伝道師として

つかわしてくださいました。

主の十字架を伝えるものは、この地を救いでみたします。