ミーロの日記

日々の出来事をつれづれなるままに書き綴っています。

今年をふりかえって

2015-12-31 13:51:33 | 日記
子どもたちが帰省してから毎日の家事や最後の仕事と忙しく過ごしていました。

ヘルパーの仕事は今月末をもって長期休暇に入ることになりました。

もうそろそろ辞めようかと思っていたところ、ちょうど辞めざるを得ない事情ができてしまい、しばらく仕事ができなくなったのですが、会社に退職を申し出たものの長く休んでもいいから辞めないでと言われ休職ということになりました。

休職よりきっぱりと退職のほうが良かったのかもしれないと思いますが、とりあえず今はほっとした気持ちがしています。

しばらく仕事を離れてみて「また復職したくなったら、いつでも電話ちょうだい」というお言葉に甘えて仕事をしようと思います。

さて年末が迫ってきたので、新しい神札をいただきに神社へ行ってきました。

崇敬する神社である相馬神社です。



鳥居の向こう側には急斜面で登り道の参道が見えます。

こちらの神社は行くたびにすがすがしい気持ちになる場所なのですが、今回は特にそのように感じました。

このような写真ではわからないかもしれませんが、鳥居のこちら側と向こう側ではがらりと空気が違う気がしました。

鳥居の向こう側、つまり神社へ向かう参道はいつも以上に澄んでいて清らかな空間になっていました。



相馬神社の本殿です。厳しさも感じます。

この日の気温はマイナス4度。

凍える寒さの中、誰もいない神社は新年を迎える準備を整えて、静かに新しい年が来るのを待っているかのようでした。

さて、いよいよ2015年も今日で最後。

このようなことを書いてしまっていいものかと、まだためらいがありますが、少数の方しか見ていないブログなのでやはり書こうと思います。

今年は私にとって、とても感慨深い年になりました。

それは、何か今まで自分が生きてきた世界とは違った世界に入ったかもしれないと感じるからです。

思えば10月に書いた「金魚」という記事の出来事が起こった前くらいから、少しずつそのような感覚になっていました。

そして、最近は「あの世」と言われる世界があるのならば、そのような世界と非常に近くなったというような気がするのです。

このようなことを私ごときが感じているなどと書くことはあまりにも僭越ですが、実は私は最近たまにですが、あの世と言われる世界に行くことがあります。

そこはこの世と光が違っています。

私自身、以前はあの世というのは地獄を除けば光があふれているような世界だと想像していましたが、実際に行ったあの世は決してまぶしいほどの光の世界ではなく、温かく柔らかな光の世界でした。

そこは太陽がないにもかかわらず、とても明るい世界でした。
(この世での太陽の光線のような強い光ではなかったです)

またほかに変ったことといえば 霊からのメッセージを感じることが多くなりました。

「会津」と何度も教えてくださったお姑さんのご先祖さまもそうですが、自分がどのように死んだのかを見せてくるような霊もいました。

これは自殺された人で、たぶん家に入ってきた浮遊霊のような気がします。

自殺というものを選んでしまった人に対して、どのような理由であれ、私はまったく同情する気持ちはないのですが、家内に入ってきた霊はとりあえず供養だけはすると思っていましたので、仕舞い込んだ床供養のセットを再び出してきては供養をすることが多くなりました。

ふだんは普通の暮らしをしていますし、そのようなことを考えることもないのですが、ふとした瞬間に今までいた世界とは違う世界に入ったことを実感しています。

そんなことで新しい年は一体どのような年になるのか、個人的にもそうですが、日本が、世界が、すこしでも平和で安定した世界になればいいなと願っています。









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子どもと一緒にフィーバー

2015-12-24 17:01:14 | 日記
「クリスマスツリーは飾った?」

スーパーで食料品の買い物をしていたら次女ピーチからメールが来た。

「飾ったよ。今、明日のクリスマスパーティの買い物中だからね」と返事をしたら、「了解しました!」と満足そうな返事が来た。

ピーチは子供の頃から、我が家では「お祭りオンナ」と呼ばれているほど、にぎやかなことが好きな子で、そんなお祭りオンナのピーチが最も好きなのがクリスマスなのだ。

と言っても、うちはクリスチャンでもなんでもなく、単にクリスマスを口実に楽しむだけなのだが、実は私も子供の頃、クリスマスがとても待ち遠しかった思い出がある。

赤や青の電球がピカピカと光っているクリスマスツリー、いつもよりもちょっぴり豪華な食事、そしてイヴの翌朝、枕元に置いてあったプレゼント・・・
今でもプレゼントを包んでいたデパートの包装紙の匂いを憶えているほど嬉しかった。

いつもサンタさんのプレゼントは、まるいさん(札幌の老舗百貨店)の包装紙で、サンタクロースはプレゼントをまるいさんで買ってくるのだろうかと思っていたものだが・・・

そんなワクワクした子供時代のクリスマスだったので、私も親になって自分の子供たちにも同じ思い出を作ってやりたいと、毎年クリスマスはプレゼントを用意して、張り切って食事の用意もしてきた。

20歳前後になった子供たちは、さすがにもうプレゼントを置いていくのはサンタさんではないことは分かっているが、それでも毎年クリスマスプレゼントを深夜にそれぞれの寝室に置いて歩く。

朝起きてプレゼントを開ける子供の顔を見るのが、わたしの幸せの瞬間なのです。(過保護ですね・・・)

ところで、さすがお祭りオンナのピーチは友人達を自室に招き、もうすでにみんなでクリスマスパーティをやったと、写真つきで教えてくれた。

みんなで一緒に作ったという料理はなかなか豪華でおいしそうだった。

三種類もの手作りケーキ、揚げ餃子、鍋物、それから・・・クラッカーの上にクリームやチーズをのせただけのオードブル。

このオードブルはぜったいピーチが作ったのだろう、あまり料理ができないピーチらしいわ・・・と思ったら、やっぱりオードブルはピーチ作で、ほかの料理はすべて友だちが作ってくれたとか。

よそのオタクの娘さんは、ちゃんと料理ができる子が多いのね・・・ピーチにも、もっと料理を教えなければいけなかったと反省。

さて、我が家のクリスマスはピーチが帰省する25日にやることになったのだが、長男パインはまだ帰れないそうで、クリスマスに参加できないパインのために年末にも盛大な?パーティをすることにした。

その時は「ビンゴ大会」をしようと思っている。

ビンゴの景品も買ってきた。

あ~楽しみ。

みんな盛り上がってくれるかなぁ。

ここまで書いて思ったのだが、ピーチのお祭り好きはもしかして私譲りだったのかもしれない。

元祖お祭りオンナってね・・・

時間は矢のように瞬く間に過ぎ去っていく。

子供たちと一緒ににぎやかに過ごすのも永遠に続くわけではない。

そう思うと、この時間、この瞬間がとても大切なものに思えてくる。

ところで子育てをするのに、とても心に残っている言葉がある。

脚本家の倉本聡さんが、このようなことをおっしゃっていた。

「今の日本では親と子供が一緒に感動することが非常に少なくなりましたよね。
一人ひとりは感動してもそれを共有している家族がどれほどいることか。

今は親が子供に感動を与える機会が少なすぎます。
親には子供が成人するまでの間に感動という遺産をきちんと伝える責任があるはずです。

死んでからカネや土地を残しても何の意味もない。
本当の遺産とは何か、いつ伝えるのが最も有効なのか、を親たちは考えないと。

親子で感動をともにしてきた家族からは、絶対に曲がった子供は出てきません」

そう、親子で感動できる時をたくさん作ろうと思う。











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つるつる道の歩き方

2015-12-21 16:56:56 | 日記
最近、気温が高く日中に雪が解けた道路が、気温の下がる夜間に凍ることが多い。

すると朝から路面はツルツルのスケートリンク状態になる。

このような道での車の運転はもちろん、歩行はとても危険なので最大の注意を払いつつ外出している。

出歩く時は金属のピンが靴底にたくさん打ってある靴を履くのだが、それでも滑ることがある。

高齢者などは転んだ時に骨折をすることが多いと聞くが、私もそろそろ他人事とは思えないお年頃になってきたので、なるべく・・・というか絶対に転びたくない。

なのでツルツル路面の時は、歩幅を小さくして、足の裏全体を一緒に地面に下ろすようなイメージで歩いている。

ところで転びにくい歩き方があると聞いて今朝さっそく試してみた。

すると、これが安定感があってなかなか良かったので書きとめておこうと思う。

さてツルツル路面では、一本の線の上を小股で恐る恐る歩くような格好になりがちだが、幅の狭い平均台の上ではバランスを崩しやすいのと同じで、左右の足幅が狭いと、滑ったときに体勢を立て直すのが難しい。

そしてそればかりか、身体ごと真横にどすんと倒れ、大腿骨骨折などといった大ケガにつながる可能性もある。

このリスクを回避するために、腰幅ほどの2本の線の外側を歩くイメージを持つとよいそうだ。

これだと、万一滑っても咄嗟に踏ん張りがきき、バランスを保ちやすい。

小股でちょこちょこ歩くのはバランスを取るのが難しいと言われてみたら、そのとおりだった。

左右の足幅を広く取って歩けば、確かにバランスが取り易い。なるほど・・・

納得しながらツルツル路面を足幅を広く取って歩いていたらハタと気付いた。

もしかして私、がに股で歩いていない?

なんだかかっこ悪いなぁと思って、もう一度歩き方を確認したら、見落としていたけれどしっかり書かれていた。

「ツルツル路面では、がに股歩きがポイント!」

道路がツルツルになった時は、ぜひ試してみてはいかがでしょうか・・・










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げんき

2015-12-18 16:16:37 | 日記
昨日から降り続いている雪は今日もまた降っていて、窓から見える森林は雪をかぶってすっかりまた銀世界になった。

今朝は20センチ以上積もっていた雪の雪かきをしたのだが、このぶんでは夕方にまたしなければならないだろう。

これから数ヶ月間、雪かきの日々が続く。

はぁ~~~っ
・・・といつもなら深いため息をつく所なのだが、今年はなぜかそれほど雪かきが苦ではない。

なぜなら、それはいつもより身体の疲れを感じないからかもしれない。

今年の雪は、降るとなったらいっぺんにど~んと大量に降るし、気温が高いせいで水分を含んだ雪はとても重たい。

しばらく雪かきをしていると背中に汗をびっしょりかくほどで、体力を使っているはずなのだが今年はまだまだ雪かきをし続けていられるほど元気なのだ。

これはどうしてだろうかと考えると、もしかしたらクエン酸を摂っているからなのかもしれないと思った。

朝晩2回ほんのわずかの量を飲んでいるのだが、気のせいか疲れを感じなくなったような気がする。

今朝もまだまだ雪かきができそうなくらい元気だったので、バードテーブルに餌を置きに行くための道をつけるために、いつもはあまりやらない裏庭の雪までかいた。

毎日いろいろな野鳥達がやってくる。

家事の合間に野鳥の観察がいつも冬の楽しみになっている。

写真もたくさん撮って、できることならここにも載せたいのだが、実は今使っているパソコンが息も絶え絶えの瀕死状態になっている。

このパソコンは長男パインのお下がりで、パインが高校に入ったときに買ったものなので、もう8年以上使っているかな。

時々パソコンがすごい音をたててうなるので、いつ壊れるかとびくびくしながら使っていると「もうやめろよ。そのうち火を吹くぞ」と夫に言われる。

たしかに火が吹いてもおかしくない音だわ、これは・・・

自分のお小遣いで新しいパソコンを買おうかなと思っていたら、昨日帰宅した夫から「新しいパソコン買ってきたから。クリスマスプレゼントだよ」と言われた。

やった~!!

新しいパソコンはクリスマスの25日に届くそうだ。

クリスマスプレゼントをもらえるなんて久しぶりだなぁ。

思えば夫はずいぶん変わった。

昔はパソコンに私が向かっていると、とても不機嫌になっていたものだったが・・・

というわけで新しいパソコンもくることが決まって、私はますます元気が湧いてきました。








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あいづ

2015-12-16 15:40:56 | 日記
昨日は夫の叔父さんの話を書いたが、叔父さんが家に来る数日前からずっと頭に浮かぶ言葉があり、それが気になっていたのだが、なんとなくそれが分かったような気がしている。

自然に頭の中に浮かんでくる言葉とは「会津」だった。

「あいづ、あいづ」

家事をしていても気がつけば、その言葉が頭の中に響いていた。

実はお姑さんの先祖は会津藩の藩士だったとかで、会津藩解体の時に北海道に渡ってきたそうだ。

お姑さんやその弟である叔父さんは北海道で生まれたのだが、実家にはふるさとから持ってきた鎧兜や刀があったのだとか。

またお姑さんが親から聞いた話では、藩士の子弟である少年たちで構成された白虎隊にも参加した先祖がいるそうだ。

白虎隊についてはドラマなどでも放送されていたようで有名だが、私は観たことはないものの、それはドラマなどで美しく語られるような話ではなく、実際はまったく悲惨な事件だったのではないかと思う。

だって16~17歳の子供が、満足な武器もなく人殺しをするために戦いに行ったのですから・・・死にに行くようなものです。

子供たちは絶対に勝つという気持ちで行ったのでしょうが、本当になんという時代だったのでしょうか。

毎朝、お線香を三本たてて先祖供養をしているのだが、叔父さんに会ってからお姑さんの実家のご先祖さまたちへ向けて手を合わせている。

そして、今朝は大勢の方がいらしたような気がしている。

ところで、お線香を三本たててする先祖供養は確実に亡くなった方々に届いていると思う。

先祖供養は否定しないまでも目に見えない世界についてはとても懐疑的だった夫が、この先祖供養で不思議な現象を目の当たりにしたことがあり、それ以来ほんとうに亡くなった方がやってくるのだと信じるようになった。

そのことについては、今はここに書くことはしないが、それよりももっともっと供養をして早く皆様に楽になっていただきたいという気持ちで一杯だ。

思えば昔、北海道に渡ってきた方は、私の先祖もそうだが、様々な事情から心ならずも故郷を離れなければならなかったという人たちが多い。

だから、その方々の無念さが今も残っているような気がする。

自分に縁のある方からでも、すこしでも供養させて頂きたいと思っている。









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苦しみの先

2015-12-15 12:07:58 | 日記
年に1度くらいの割合で、道東に住む夫の叔父さん(お姑さんの弟)が仕事ついでに、お姑さんの顔を見に我が家へ来てくれることがある。

叔父さんの仕事が空いた時間に来るので、いつも突然やってくることが多い。

そんなわけで昨日も一年ぶりに叔父さんが訪ねてきてくれた。

ところが急なことだったので、お姑さんはデイサービスに行って留守だった為、家に上がっていただき、お姑さんの帰りを待ってもらうことにした。

私は夫の叔父さんとは挨拶くらいしかしたことがなく、今まで面と向かい合ってお話をしたことはなかったのだが、今回はお姑さんを待つ間、お姑さんや家族の近況などの話をした。

夫の叔父さんは60代後半だが、お姑さんはその叔父さんをとても可愛がっている。

元は公務員をしていそうだが、30代の時に公務員を辞めて好きだった写真の道へ入られたと聞いていた。

地元で写真館を経営されるかたわら、道内の自然や動植物の写真を撮り、首都圏や関西でも個展を開いて、そこで写真を買ってもらうそうだ。

また旅行雑誌に何度も載って、わざわざ遠くからお客さんが来てくれるほどの素敵な喫茶店も経営されている。

まさに自分の好きな道で成功されたという、傍から見るとうらやましいほど順調な人生を歩いて来られたような方だと思っていた。

そんな夫の叔父さんとお姑さんを待つ間、初めて長くお話をすることができた。

叔父さんが撮った美しい写真のカレンダーを見ながらお話を伺っていたのだったが、叔父さんが疲れたように「好きで始めたことですが大変ですよ」とおっしゃった。

最近は写真のデジタル化が進み、写真館で写真を撮る人が少なくなったので、経営していた写真館を閉めたそうだ。

写真がたまに売れるとは言え、食べていけるほど売れるわけではない。

また童話の中に出てきそうな素敵な喫茶店も大自然の中の素晴らしいロケーションに建っているのだが、大自然=ど田舎でもあるわけで、利益は出ているものの、いつも満員御礼というわけにはいかないのだそうだ。

だから今は食べていくために観光ガイドの仕事もしているそうだが、歳をとったせいか、最近はなかなかきついと感じるそうだ。

叔父さんはこのようにおっしゃった。

「私は本当はちゃらんぽらんでダメな人間なんですよ。女房や子供がいるのに、安定した職を捨てて、自分が好きだというだけで、写真なんて道に飛び込んだんですから。
今になって奥さんが言うんです。
公務員時代の同僚が定年して、悠々自適の暮らしで海外旅行に行ったりしているのに、私は海外なんて一度も行ったことがないってね。」

私は叔父さんをちゃらんぽらんだともダメ人間だとも、微塵も思ったことはない。

物静かでいつも穏やかで、微笑を絶やさない方だ。

そのように自分の事を言うなんて、叔父さんは好きな写真の道に飛び込んだことを、今になって後悔しているのだろうかと思った。

夫から聞いた話によると、叔父さんが公務員を辞めて写真の世界に入ると言った時、お姑さんをはじめ親戚一同が猛反対をしたそうだ。

「養っていかなければいけない家族がいるのに、安定した職を捨てて成功するかどうかわからないような世界に飛び込むなんて無謀だ」と・・・

それでも叔父さんは写真の道へ進んだ。

叔父さんの口調からは、歳をとって健康に不安を感じるようになった今、公務員を続けていればよかったという後悔の思いが感じられたような気がした。

でも公務員を続けていたとしたら、叔父さんは写真の道に入らなかったことを後悔していたのではないだろうか。

生活は安定して家族にかける金銭的な苦労も少なかったかもしれないが、叔父さんの気持ちが納得できないままだったかもしれないし、公務員の仕事でも苦労があったはずだ。

だから結果はどちらでもよかったのだと思う。

どんなに成功したように見える人でも人知れず苦労や嫌なことがあるはずで、すべて自分の思ったとおりに事が進んでいく人なんて皆無だろう。

自分にとって良いことばかりが起こることを望み、できるだけ嫌なことや苦しいことには遭いたくないと思うが、もがき苦しみを抜けたその先に思っても見なかった心の安定や幸せがあるのかもしれない。

そんなことを考えながら叔父さんのお話に耳を傾けていたのだが、叔父さんは最後にこのようにおっしゃった。

「すべては他人に支えられて、ここまで来たんです。家族にも支えてくれた人たちにも感謝しかないです。本当に有り難いことです」

さらに続けてこうおっしゃった。
「写真はね、待っている時間がいいんです。一人静かにシャッターチャンスを待っている時間が私は好きなんですよ」

満足そうな叔父さんの笑顔になんだか私まで嬉しくなったところで、ちょうどお姑さんが帰ってきた。

家の中からとつぜん現われた叔父さんを見て、お姑さんの驚いた顔がうれしさで涙顔に変わった。







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眠りの意味

2015-12-10 17:04:09 | 日記
いつもなら布団に入ると30分くらいで眠ってしまうのだが、昨夜はなかなか寝付かれなかった。

きっと日中うっかり1時間ちかく昼寝をしてしまったせいだと思う。

ほかにも夕方に煎茶を飲むと、やはり寝付けないことが多い。

さて、なかなか寝付かれずにいると色々な考えが頭に浮かんでくる。

昨夜は寝る直前まで読んでいた本の内容を思い出していた。

これはずっと前にブログに書いたことがあるのだが、もしかしたら消去してしまったかもしれないので、また書くことにします。

ロシアに住むある女性の話。

かつてその女性は47年間一睡もできないまま生きてきたことがあるそうだ。

彼女は夜、横になると気分が悪くなり、どうしても眠れなかったそうだ。

そこで、家族が寝静まったあとも、ひとりロッキングチェアに座り、編み物をしたり本を読んだりして朝まで過ごしていた。

47年間一睡もできなかったことについて彼女はこのように述べている。

「いま振り返ってみると、それはどんな恐ろしい病気よりもつらいものでした。
眠れないという事は、肉体的な痛みや苦しみよりもっと深いつらさです。
それは、孤独というつらさです。
単に夜の闇に閉ざされた中で、たったひとり目を覚ましているという孤独感ではありません。
はてしない、たとえようのない深い、深い孤独でした。

どうしてこれほど深い孤独を味わうのか、それはあとでわかりました。
眠りを奪われた孤独とは、他の人から完全に断ち切られた孤独だったからなのです。

人間は寝ている間に、深い意識を超えた世界に入ります。
その世界では、人間同士が現実やエゴの世界から離れて、単に人間としての存在の世界に入っていきます。
そして、みんなが同じ状態で眠りを通して共通の生命を生きるのです。
そこでは生命のつながりがあって、みんながあたたかい思いを交換し合っているのです。

だから、よく眠れた朝は、どの人も蘇ったようにハツラツとして目覚めます。
それは単に眠りによって身体の疲れを癒したというだけではなく、もっと深い意味があるのです。
魂の栄養を、眠っているあいだに、無数のひとと分かち合っているのです。
眠りという状態の中で、生命のつながっている無数の人々と愛を分かち合い、エネルギーを貰い、心とからだの疲れを癒し、新しい息吹に満たされて目覚めるからです。
これがほんとうの眠りの意味です。
そうした愛のつながりを断ち切られた状態が、47年間続き、真の孤独を体験した私は、いま、ふたたび眠りを取り戻すことによって、愛というものがどんなに素晴らしいものか、理解することができました。

いま眠りを取り戻した私は、やがてこの世を去って、眠りよりもっと深い、愛のつながりの世界に帰っていける。
それが毎日のかぎりない希望と喜び、生きる源泉です」

こうコメントをした当時、このロシアの女性は90歳を過ぎていました。

彼女に残された人生の時間はもう少なく、じきにこの世を去って愛のつながりの世界に帰っていけることを信じて、それを生きる糧にしていたのでしょうか。

それにしても、たかが小一時間眠れないのとは訳が違って、47年間も眠ることができなかったとは、それはつらかったことだろうと思う。

彼女の言う「眠っている間に現実やエゴの世界を離れて、生命のつながりのなかであたたかい思いを交換し合っている」ということが、実際にそうなのかどうか私にはよくわからない。

ただ、何か大きな光の存在のようなもののがあり、人間ひとりひとりは、すべてがその光の現れだと思っている。

そうだとしたら、深い眠りという状態で、互いにつながりあい、生かし合っているということもありうるのかもしれない。
なぜなら、みんな同じ大きな光から生まれたのだから・・・

眠っている間に見る夢は、昼間の現実世界で気になっている事などが夢として現われることが多いと思うのだが、たまにどうしても説明のつかないような不思議な夢というのもある。

それは例えば予知夢のようなものがそうで、私も母の不治の病がわかる前に、なんども母の死の夢を、それも非常にリアルな夢を見ていた。

だから人は眠っている時には、人間同士がつながり合っている共通の生命の世界に入ることがあるという気はしている。

ただしエゴが大きすぎた場合、互いにあたたかい思いを交換するようなステキな眠りの世界には入っていけないのだろうとも思う。

そこはもしかしたら地下深くにある恐ろしい魔物の住む世界かもしれない。

魔物は本当に醜くて身の毛もよだつような姿をしている。

薄ら笑いを浮かべた魔物たちに囲まれて「ここはそんなに悪い所ではないよ」とささやかれるのだ。

とかなんとか、考えていたら、ますます眠れなくなってしまった!

「やがてこの世を去って、眠りよりもっと深い、愛のつながりの世界に帰っていける」

これは私もそうだと信じているし、今からとても楽しみだ。

だからその場所に帰っていけるように、もっともっと魂を磨き、神に喜ばれるような生き方をして、一生懸命に与えられた命を生きたいと思っているのです。

そんなことを考えていたら、いつの間にか眠っていました・・・ZZZ








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カラオケ

2015-12-05 15:27:43 | 日記
人生長く生きていても、経験したことがないことってたくさんあるもので、そんな未経験だったもののひとつを経験してきた。

それはカ・ラ・オ・ケ店。

54年も生きてきて、初のカラオケ店デビューを果たしてきた。

といっても、カラオケ自体はもちろん経験したことがある。

学校を卒業後20代の頃に勤めていた会社の宴会では、二次会は必ずおじさんたち(上司たち)行きつけのスナックというのがお決まりのコースだった。

そして、そこでは必ずカラオケを歌わされた。

「歌わされた」という表現をしてしまったが、実はカラオケにはあまりよい思い出がない。

会社の宴会は若手男性社員が盛り上げなければいけなかったが、もちろん女子社員も一緒に頑張らなければいけなかった。

歌えと言われれば、音痴を自認していてもマイクを持ってとりあえず何か歌ったし、さらに上司からの要望があればデュエットにも応じた。

(あの頃は「昭和枯れすすき」をはじめ「三年目の浮気」や「別れても好きな人」などをよく歌ったものです)

さらにお酒がだんだんと回ってくると、今度は上司とのチークダンスもさせられた。

今思い出すと、まるでホステスさんのようなことをやらされていたなぁと思う。

それが徐々にわかってくると、一次会終了と同時に女子社員はすばやく消えるようになっていった。
・・・が、不幸にも逃げ遅れた数名は腕をとられてスナックへと連行されていった。

他の会社はどうだったのか知らないが、某大手銀行に勤めていた友だちも同じ事を言っていたので、バブル期の会社の宴会はわりとそういったことが多かったのかもしれない。

80年代当時、まだセクハラという言葉を知らない時代だった。

そんなわけで歌を唄う事は嫌いではないが、カラオケというのはどうも会社の二次会を思い出してしまって足が向かなかった。

しかし今やあちこちにできたカラオケ店は、安い料金で楽しめることもあって若い人たちから高齢者まで大人気だとか。

そんなカラオケ店に「行きたい、行きたい」とず~っと言っていたのが長女チェリーだった。

チェリーが高等養護学校に行っている頃、同級生のお母さんが同伴してくれて、子供たちをよくカラオケに連れて行ってくれた。

人前では恥かしがってあまり歌わないチェリーだったが、友だちが一緒に歌ってくれたりして、それなりに楽しんでいたそうだ。

さらに友だちとはあまり会えなくなってしまった卒業後は、妹のピーチが一緒にカラオケに行ってくれたが、ピーチが自宅を離れてからはついに一緒に行く人がいなくなってしまっていた。

「チェリーといっしょにカラオケ行って来いよ。意外と面白いかもしれないぞ」と私と同じくカラオケ店未経験者の夫に言われ、「いえいえ私は遠慮します。どうぞ二人で行ってきてください」と答え、夫婦でどちらがカラオケについて行くか押し付けあっていた。

しかしふと目が覚めてしまったある晩、なぜか急に「チェリーとカラオケ行ってみよう。食わず嫌いはやめて、なんでもやってみようと」と思った。

翌日、チェリーに「一緒にカラオケ行こうか」と言った時のチェリーの喜びようは、思い出しても可笑しくなる。

ふだんチェリーはほとんど机に向かうことなどないのだが、それからは机に向かって何かを一生懸命書いている。

何を書いているのかと思ったら、カラオケで自分が歌おうと思っている曲名を書いているのだとか。

チェリー曰く「お店に行ったら何を歌うのか忘れるから、今から書いておく」のだそうだ。

そんなわけでついに(大げさですが)カラオケ店に行ってきました。

予想通り最初は恥かしがって歌わないチェリーに代わって、まずは私が声を張り上げて歌った。

曲はAKBの「恋するフォーチュンクッキー」

そのうちにつられてチェリーも一緒に歌いだし、2~3曲一緒に歌ってからはチェリーが一人で歌えるようになって、私はもっぱら機械の操作をしていた。

でも楽しかった~

やっぱり食わず嫌いでしたね、カラオケ。

また行こうねと言いながら帰ってきた。

今度はもっと新しい曲を憶えておかないとね。

さすがにチェリーと一緒に「昭和枯れすすき」は歌えないので・・・












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漬物

2015-12-01 15:38:11 | 日記
毎年かかさずに漬物をつけていたお姑さんだった。

秋になり店先に漬物用の野菜が並ぶと、お姑さんはそわそわし始める。

「今年は何を漬けようか?」

いつもそう聞かれるのだが、お姑さんの作る漬物は大体決まっていて、聖護院の粕漬けと茄子やきゅうりや瓜などの粕漬け、それから白菜キムチとニシン漬け。

たまに鮭やハタハタの飯寿司(いずし)なども作っていた。

しかし歳をとるにつれて(お姑さんは88歳)だんだんと作る種類が減っていき、ついに今年は漬物を作らなかった。

息子である夫が「子供たちは漬物をあまり食べないから、今年は作らなくてもいいぞ」と言ったせいもあるが、今までのお姑さんならば息子にそう言われてもどこ吹く風で、必ず粕漬けだけは作っていた。

それなのに今年は初めて何も作らなかった・・・やっぱり歳のせいなのかなぁ。

漬物は夫の姉達にもあげる為に、毎年大きな樽2つに漬ける。

これでもずいぶん量が減ったのだが漬物作りは体力が必要だから、歳をとってきたお姑さんには大変だったのだろうと思う。

また最近ではお姑さんの作る漬物の味が変わってきて、昨年はものすごく塩辛いのもあって、結局たべられずに捨ててしまったということもあった。

たぶん認知症の影響で昔の味が作れなくなったのかもしれない。

子ども達も漬物はあまり食べないし、私たちも少ない量で十分なので、どうしても作らなければいけないというものでもないのだが、やはり冬の食卓に手作りの漬物がのらない事は寂しい。

私が作ってみようかなと行きつけの八百屋さんで塩漬けのきゅうりを見て思った。

でも量はほんの少しでいい。

お姑さんが作るような大きな樽で漬けるのはやめて、冷蔵庫に入るくらいの分量で作ってみようと思った。

というわけで、1キロのきゅうりの塩漬けを使って酒粕に漬けてみた。
(夫がきゅうりの粕漬けが好きなので)

難しいのがきゅうりの塩抜きで、いい具合に塩味を残して抜かなければいけない。

抜きすぎてもダメだし、残しすぎても塩辛くなるし・・・

塩抜き方法はいろいろあるようだが、私は1キロのきゅうりに対して3リットルの水に24時間以上つけるというやり方をした。

こうすると塩きゅうり(ふつうは塩分20%)のものが塩分5%になり、さらに粕に漬けることによって塩分3%の漬物が出来上がる・・・ハズ。

と、ここで写真を載せたいところなのだが、パソコンが壊れてしまい写真が取り込めなくなってしまいました。

お見せすることができないのが残念。

現在、きゅうりの粕漬けは冷蔵庫の中で味がしみるまで寝かせてある。

年末くらいに出してみようと思っているが、さておいしくなっているかなぁ。

これがうまくいったら、来年はニシン漬けも作ってみたい。

ニシン漬けというのは、魚のニシンとキャベツや大根、人参などを麹と一緒に漬け込んだ漬物で、これを食べると子供の頃の年末年始の風景を思い出すくらい、冬には欠かせない漬物なのです。

それからハタハタか鮭で飯寿司も作りたいと思うのだが、子供の頃に母が「ハタハタの飯寿司っていうのは食中毒が怖いの」と言いながら飯寿司を作っていたことが今でも思い出され、自家製ハタハタの飯寿司=食中毒という図式が頭の中に定着してしまったせいか、なかなか自分で作る決心がつかなかった。
(実際はそうそう食中毒にはならないと思いますが・・・)

というわけで、来年こそは飯寿司にも挑戦してみたいと思う。

こんな風に最近は常備菜をはじめとして、いろいろと作って楽しんでいる。
(最近のヒット作は万能酢漬け玉ねぎ。これはまた機会があれば書きます)

そんなわけで今年は念願だった味噌作りに挑戦して、かなり自信がついたかもしれません。

そうそう、秋に仕込んだお味噌ですが、先日ちょっと覗いてみたところ、カビもなくいい調子で発酵が進んでおりました。

来年の夏頃にはお披露目したいと思っていますが・・・







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