北山・京の鄙の里・田舎暮らし

北山、京の北に拡がる山々、その山里での生活を楽しんでいます。

廃村八丁雑話

2008-05-03 23:59:39 | 歴史・社寺・史跡など
先日廃村八丁を同窓生と訪れ、4月28日に書いたのであるが、その廃村八丁にまつわる話です。

我がブログにコメントをよせて下さる硯水亭さんから、ガイドの件にふれられて民俗学の大切さを示唆していただきました。というわけで手始めに、宮本常一著「塩の道」を読んでみたのですが、同時に購入した「民俗学の旅」に次の様な記述を見つけました。

>峠の上ではたいてい一息入れる。第三の峠をトウゴンダオといったが、その上は
>見晴らしがよくて、そこから西方に久賀の町がみおろされる。久賀は大きな町で、
>そんなに大きい町を見たのは初めてであった。われわれの住んでいる島の東の方
>を島末(しまずえ)といったが、島末の者は田舎者だとして島元(島の西部)の者に
>は少々馬鹿にせられていた。
>その島末の者の親子がトウゴンタオまで来て、久賀の町の広いのにおどろいて、
>「とと(父)とと、久賀は広いのう、日本ほどあろうか」と聞いたら、父親が、
>「馬鹿、日本は久賀の倍ほどある」
>と言ったという笑話がある。
(「民俗学の旅」 宮本常一 講談社学術文庫 1993.12.10 p21,22)

あれれ、この話、私が北桑田高校時代に世界史を教えていただいた、今は亡き冨永輝雄先生から聞いた次の話と一緒ではないか!

>ある日八丁の親子が山国の里へ出て来た。小塩から大野を過ぎ、六ケ(井堰)まで
>来て目の前に拡がる山国盆地を見て、
>「広いなあ~、チャン、これでも日本か?」と息子が言うと、
>「こら、恥ずかしいことを言うな。日本はこの三倍広いんや。」と父親が答えた。
という話である。

これは広い方に住む人が上で言えば、島末や八丁の人を茶化して語った作り話であろう。私にはこの同じ類の話に出逢ったのは初めてである。この類の話は各地にあるのであろうか。

もう一つ佐々里峠から品谷峠を越え廃村八丁~卒塔婆峠~井戸と歩いた時、卒塔婆峠から井戸の東谷に下る途中、上に類する話を聞いたことを思い出す。則ち;
「小学校のグランドで夜上映された映画を見に八丁の人がやって来た。当然帰路は歩きであるが、八丁の人は真っ暗なこの峠を歩いて帰った。真っ暗で誰かに鼻をつままれてもだれか分からないほど暗い道を彼らはちゃんと歩いて帰れたそうな、」
というものであった。

しかしここで生活されていた人達の気概を物語る文が、ふるさと京北鉾杉塾による「ふるさと再発見」の p34 にあるので紹介します。

題して「八丁山 山守の見果てぬ夢とロマン」;

 200年近く住み続けた奥山の集落が、昭和初期の豪雪を機に廃村に至る。「八丁廃村」と呼ばれ訪ねるハイカーは今でも途切れないが、過疎・高齢化時代の地元民としては悠長な他人事ではない。
 集落跡の入口の八幡宮の傍らに「八丁山五人衆」の記念碑がある。再訪問して記念碑の前に立ち、リーダーと目される山本吉左衛門の六文字に目をこらす。
 「八丁山の生活財源は炭と木材である。それを京都まで運び出しその代金に依存して暮らしをたてていたが、重い木材の搬出は容易ではない。もちろん筏による以外にすべはなかった。八丁山の木材は、一度由良川に流しその筏を解体して越木峠に運び上げ滑り落として再び筏に組み水系の違う大堰川から嵯峨まで運んでいた。大変な苦労をなめた山本は、一計に及んだ。
 明治23年(1890)山本は、完成直後の京都疎水を見学し触発されて、越木峠を隧道化する計画をたて、京都府知事に陳情した。知事はその計画を聞き届けたものの技術的にも資金的にも困難が多く、日の目を見ることはなかった」(京北町誌ほか)
 明治中期、日常の往来すらままならない僻遠の地、八丁山にありながら、疎水情報をいち早くキャッチしての構想力、知事陳情への行動力など凡人の及ぶところではなく舌をまくばかり。それにしても、壮絶ともいえる当時の山守の苦難と壮大な見果てぬ夢・ロマンに心打たれる。

(国土地理院の地図を見てみると、八丁川から越木峠の下を通り西谷へトンネルを掘るとすれば500ms弱のものであったと思われます。)

知事を説得するには、それ相応のプランを作ったりそのメリットも説明しなければならなかったはずです。そこには提案者の思いや気迫も必要であったろうと思います。昔、琵琶湖と若狭湾を結ぶ運河の構想もあったそうな。それに匹敵するかどうかは別として古人のロマンに感服するばかりであります。


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2 コメント

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感動しました (硯水亭 Ⅱ)
2008-05-08 22:44:04
    Mfujinoさま


 早速勉強をなされていらっしゃってて、いたく感動致しました。宮本常一先生は近畿日本ツーリスト内に「日本観光文化研究所」を作り、永年「歩く見る聞く」というPR誌(小冊子)を手掛け、多くの若者を育てあげました。昔日曜日のテレビ番組に近鉄沿線の奈良を特集した長寿番組(真珠の小箱?)があったようですが、それも先生が裏に廻って指導していたようですよ。全国を歩いて廻り、多分その距離だけは柳田國男先生を凌ぐかも知れません。

 こうした廃村のお話には壮絶なものを感じますが、今度は逆に鄙びの村から主体性を持って発信すべきでしょうね。政治の責任にするのは簡単過ぎますから。自らの手で幾らでも開発出来るはずでしょう。これだけの色々な豊富な材料がゴロゴロしてるんですから!頑張りましょう!
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山奥に住めばこそ (mfujino)
2008-05-09 03:48:07
廃村八丁について書かれたものを読んでいますと、会津藩士がここに入り込み、村のために貢献した話にも出逢いました。こんな山奥にまで教育の場があり、またそこに住んでおられた人達が広い世界を見ていたということです。
都会に住む人にはこれからの地球環境を考えた社会の有るべき姿をリードできないのではないでしょうか。都会に住みながら自然の中へどんどん入っている人は別です。
話は逸れるようですが、大学時代吹田でアルバイトしていた頃、それは丁度千里ニュータウンがどんどん開発されていた時期ですが、そのニュータウンの中を車で走っていたとき、「藤野君、この街は一見華やかだけど、基礎が無い。ちょっと不景気になればイチコロだよ。」と話してくれた人がいます。ある講演会で、鉄筋コンクリートをもじった、「借金コンクリート」という言葉を聞いたことも思い出します。それに比べて田舎には歴史を感じ強かさも醸し出してくれるものがあります。我々が先人に学ぶべきは、どんな山奥に住んでいても、世界を見据えていた、ということです。この観点からいうと、ここ京北では情報インフラの整備が遅れていて、先人に学んでいないということです。それと外国語の大切さを認識する人が少ないことが残念です。
「真珠の小箱」はわりとよく見た懐かしい番組です。確か日曜日の朝にやっていたのではなかったでしょうか。
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