北山・京の鄙の里・田舎暮らし

北山、京の北に拡がる山々、その山里での生活を楽しんでいます。

甲賀三郎兼家の八頭大鹿退治伝説

2009-03-14 19:34:38 | 歴史・社寺・史跡など
昨年の7月1日に、「夏近し。蛇ケ池や吉大夫さんの碑など」、と題して書いた記事で「知井村史」の甲賀三郎の八角鹿退治の伝説などを楽しんで読んでいると書いたのであるが、北さんからコメントを頂き、知りたい、とのことでした。書きます、とコメントを還しましたので、次に紹介したいと思います。

この伝説は、「京北の昔がたり」に、<八つ頭の大鹿退治>と題して、また「美山・伝承の旅」に、<大鹿退治>と題して記されています。これは「北桑田郡誌(大正版)」をもとに書かれているようです。京北の方は群誌よりももっと脚色されていますが、美山の方は群誌に近い形で書かれています。また「知井村史」には<八股角鹿>と題してこれに関する考察が記されていて読んでいくと楽しいものです。美山町誌にも記述があろうと思いますが、今我が手許にはありませんので省きます。

ここでは「北桑田郡誌・大正版」p588、知井村、土俗伝説に記された<甲賀三郎兼家猛獣退治の事>に従い紹介したいと思います。

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第42代元明天皇の和銅6年(713)、妖怪が都に出没して禁裏や農地に被害をもたらした。悩まれた天皇は占ってもらったところ、丹波北部の深山に八頭の巨鹿がいて、これが都に災いをもたらしているという。
命を受けた甲賀三郎兼家は猛者を従え丹波の国へと向かう。丹波についた兼家は、神社(1)で加護を祈り、弓矢の準備をしたのであるが(2)、一夜のうちに竹が繁茂したという(3)。準備を整えた兼家は山へと入るが、山深くどちらへ向かえばいいのか分からず困っていたところ、二人の童子が現れ、その案内で八丁山へと向かった。その途中、甲冑に身を固め(4)、更に佐々里川上流朽柳谷の深山へと進んでいった。
すると天地鳴動して八頭の大鹿が洞窟から飛び出し、兼家目がけて飛びかかってきたが、彼は怯まずに弓を放つと巨鹿に命中した。矢を負った鹿は山を下るまで逃げたがついに力尽き、血で岩や道をそめた(5)。追いつめた兼家は鹿を岩の上で斬った(6)。この岩は後の大水で唐戸まで流され、その付近を俎板淵という。
大鹿を退治した兼家は甲冑を脱ぎ(7)狩衣に着替え、佐々里の里へと下り、部下の安全を確認して休息した。そして祠をたてて八幡大明神を祀り神の加護に謝したが、これが今の知井八幡神社である。

(1)京北弓削の八幡宮社
(2)弓を削ったので弓削村の起源
(3)弓削村矢谷の集落
 ※竹藪が多かったそうです。「一的放弓居士」の碑について福山藩士との話を
   以前書きました。
(4)ここで狩衣を掛けたので、ここを衣掛山という
 ※このキヌガケという呼称の起源については、澤潔さんは「北山を歩く」で衣笠
   との関連で異説を述べられています。
(5)ここを赤石ケ谷という
(6)この岩を俎板岩と名付けた
(7)ここに鎧岩があるという

群誌では、「彼少しも屈せず直に矢を番えへ強弓を満月の如くに張り、ひようと放てば矢壺はたがわず彼の巨鹿に中りぬ。」などと文学表現も交えていて楽しいのですが、上では要点のみの記述にしました。
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なお群誌ではこの項の後、知井十苗の話に続きます。
兼家に従った家来の中にこの地に残ったものがいて、その子孫が知井十苗の先人と言われていて、十苗とは、林・勝山・高野・大牧・中田・東・長野・名古・中野・津元とされているとのことのことです。

甲賀三郎兼家は伝説の人物で、長野の諏訪神社や甲賀の里にいろいろな伝説に登場するようです。群誌にはこの項の最後に「鶴ヶ岡村の傅説にも之に酷似せるものあり、彼此對照せんには興味あるべし」と記してあり、鶴ヶ岡といえば諏訪神社、この神社の名前との関連も面白そうです。知井村史では数あるこの伝説には佐々里の地名が出てこないことや甲賀三郎を奈良時代のことと群誌に書かれていることに疑問を呈しておられます。また、八角の鹿とは当時八人の頭立った人達に治められていた先住民を征服したことの象徴かも知れない、などという記述があります。読んでいて楽しいものです。

そうですね、京都に近い人でないと、知井、佐々里、八丁ってどこ?と思われるでしょう。でも芦生の研究林と言えば大体分かるのではないでしょうか。芦生は京都大学が知井村(現南丹市)から研究林として借りているものです。地図で芦生の近くを探されればこういった地名が出てくると思います。


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7 コメント

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地名 (鎌倉街道)
2009-03-15 21:30:25
お気を使わせて済みません。知井、佐々里(変換してもこの二、三文字ですと出てきません。)、という地名は、mfujinoさんと小畑先生がお話をなさっている時にその地名が出てきていましたので、「綺麗な地名だな」と思い記憶してました。

八頭の巨鹿がかってはいたのでしょうね。伝説や民話は小さな冊子になってお土産屋さんなどに売っていましたので、民話のありそうな土地に行きますと集めていました。今は止めてしまいましたが。。。
それにしてもどの様な強弓をつかわれたのでしょう? 私などは11キロの弓を引くのが精一杯でしたが???

芦生の森へ足を踏み入れるのは5月です。でも、忙しいのですよ。河鹿荘に一泊して翌日芦生の森を歩き、そのまま園部まで送っていただき、京都に泊まります。わたしは、葵祭りまで京都に滞在しますので、美山をノンビリ歩く日を一、二日過ごしてから京都へ向かいたかったのですが、連れの二人が「早く帰ろう。交通の便が悪くて動きが取れないから。」と言うものですから、、、団体行動をしないといけませんので。

来週も旅の帰りに京都に一泊して帰ります。桜が咲き始めていると良いのですが。
未知の佐々里。 (道草)
2009-03-16 09:56:35
「八頭大鹿退治」の伝説も諸説あるのてすか。私は京北50周年記念誌で読んだだけですので、いずれが実態なのかは全く分かりません。ただ、八頭は八匹ではなくて、八つ頭の大鹿だったように記憶しています。甲賀も香賀となっていて、部下を連れるのを断わって一人で出掛けたとか。場所は弓削の奥で、里の入り口で弓を削ったから弓削の地名となったとされていました。佐々里説だと更に奥地になるのでしょうか。いずれにしても、この大鹿は山賊だったのかも。1人か8人かは、どちらが本当なのか分かりませんが。mfujino説はどうなのでしょうか。
いずれにしても、佐々里は私の同級生(山国出身)が教師になって初めて赴任したのが佐々里分校でした。また、父も出張で出掛けたことがあり、その名前だけはかなり古くからから知っていました。一度は訪れたい場所です。
驚きました (徘徊堂)
2009-03-16 13:52:18
甲賀三郎の伝承が、美山に伝わっているとは驚きました。北桑地域の文化の豊かさを感じます。鶴ヶ岡に諏訪神社があるということで、少し納得しました。室町から江戸のある時点で、鶴ヶ岡の諏訪社でも「本地物」の説法が行われ、甲賀三郎の名が広がっていったのでしょうか。かつてこの地域で現実に生活した人たちの中で成長した話ですね。今度、例の池田文庫に酒を飲まずに到達できたら、柳田国男全集など調べてみたいと思います。興味深いお話をありがとうございました。
京都の山も楽しんでください (mfujino)
2009-03-16 20:29:50
鎌倉街道さま、 芦生は京都のチベットと呼ばれています。また八丁は山奥の代名詞の様に使われます。八丁と言えば廃村八丁がハイカーにはあまりにも有名です。鎌倉街道さまが歩かれた河内谷の東にあります。河内谷の終点、深見峠から東へ両川沿いに広域基幹林道が走っています。八丁と言えばこの当たりは本シャクナゲが群生しています。それは見事でございます。この広域林道は既に卒塔婆峠まで開通していますし、更に東へ衣懸山の方まで工事が進み間もなく伏条台杉で有名な片波の方へも通じます。何れにしましてもこのあたりはまだまだ自然が残っていて山の好きな人はよく歩いておられます。

そうですね、折角芦生へ入られるなら、芦生の色々なコースを楽しまれたり、少し趣を変えて八丁界隈も宜しいのではないでしょうか。一泊だけではもったいない。

今年は桜が早く咲くのでしょうね。でも来週はまだ無理なのではないでしょうか。でも又々京都ですか、旨く時間が合えば京都に来られたときにあちこち案内させていただきますよ。京都市内はあまり興味がありませんので知りませんが、少し山里に入ったところなら任してください。
香賀三郎・甲賀三郎 (mfujino)
2009-03-16 20:31:06
道草さま、 あ、そうですね、今読み返したら、北桑田郡誌(大正版)、京北の昔がたり、美山・伝承の旅、は香賀三郎になっていますね。知井村史は、甲賀三郎になっています。インターネットで検索すると、香賀三郎で検索すると殆ど出て来ません。兼家はふつうは甲賀兼家だと思います。
弓削や矢代、衣懸山、などの由来として説明されているのは上に書いたとおりです。仰るように八頭は八匹でなく、やつがしら、則ち八つの頭を持つ大鹿です。北桑田郡誌にしたがいますと、兼家のたどったのは、京都~京北の弓削~小塩~衣懸坂~八丁方面へ、そして大鹿が出て来たのは、郡誌では朽柳谷、美山伝承の旅では栃柳谷となっています)、矢を射られた大鹿が佐々里川沿いに逃げ、絶命したのが佐々里のあたりだ、ということなのでしょう。物語の筋書きはまあ色々ありますので語る人それぞれになるのではないでしょうか。そもそも甲賀三郎も伝説の人ですし。ただ八頭の鹿というのとヤマタの大蛇の八頭、などと結びつけたりして考えると面白いのではないでしょうか。鳥取県には八頭郡がありますしね。機会が有ればご案内させていただきます。
北山は京の裏山 (北山は京の裏山)
2009-03-16 20:31:42
徘徊堂さま、 北桑、すなわち北山一体はまあ京の裏山という位置づけで考えてます。京の北の抑えという軍事的位置でもありますし、また都からそう遠くない奥山ですので隠棲の地でありました。細川頼之・因果居士・光厳天皇などの名が出て来ます。また文化財の疎開地でもありました。
柳田国男さんも甲賀三郎について、その伝承を考察されているはずです。またお教え下さい。
前のコメントは (mfujino)
2009-03-16 20:36:05
mfujinoが書きました。
北山は京の裏山、と間違って貼り付けてしまいました(*_*)失礼しました。

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