日毎の糧

聖書全巻を朝ごとに1章づつ通読し、学び、黙想しそこから与えられた霊想録である。

主よ、私の祈りをお聞きください

2020-05-09 | Weblog
詩39篇 主よ、私の祈りをお聞きください 

 13節「主よ、私の祈りをお聞きください。私の叫びに耳を傾けてください」聖書協会共同訳 
  
1節 指揮者によって。エドトンの詩、賛歌。ダビデの詩。
2節 私は言った。『舌で罪を犯さないように。わたしの道を守ろう。悪しき者がわたしの前にいるうちは、口に轡をはめておこう』と。神への嘆願。38篇と同じ重い皮膚病を担っているかに思われる。何故口に轡をはめておくのか。それは悩ませている苦難のゆえに人生の空しさつぶやき「神に逆らう者」(口語訳=愚かな者)からのそしりを受けることがないためである。岩波訳「不法者の冒涜と曲解をうけさせぬように言葉を慎む」。ここでは悪意を抱いている者で9~⒑節で繰り返されている。
3節「私は黙り込み、口を閉ざし善いことついても沈黙した。だが、わが私の苦痛は募り」。私の内で心が熱くたぎった。私の呻きで火は燃え上がり、私の舌で私は語った。(4節)忍耐の限界を覚え、沈黙を破って神に呼びかけずにおれないのである。
5節「主よ、そこで知らせてください、私の終わりを。私の日々の長さ、それがどれほどであるかを。私は知りたい。如何に私が儚いかを」。
6節「そうです あなたが私に与えたのは手の幅ほどの日々。私の寿命など、あなたの前では無にひとしい。確かに立っているようでも人間は皆等しい」。「手の幅」とは四本指の幅で距離(場所―旅路)の表現で僅か10センチにも満たないのである。
7節「人は影のように歩き回り、空しいことであくせくしている。積み上げはするが、誰が集めるか知らない」。「空しいことであくせくする」直訳「虚しく(ヘヴェる)彼らは騒ぐ(イエへマユン)」。地上で積んだ富は、誰の手に渡るのか判らないが、知らぬ間に消えてしまう。「影の中」(ベツェれム)は暗黒の中のことである。
8節「今、私は何に望みを置きましょう。わが主よ、私が待ち望むのはあなただけです」。背きの罪のすべてから私を助け出してください。愚かな者のそしりを受けることのないようにしてください(9節)。「愚かな者のそしりを受けること」直訳=「恥としてヘるパット 愚か者のナヴアる 私を 置き給うな アるテスイメーニ」,岩波訳「愚かな者の笑い草として置かないでください」
10節「私は、黙り込み口を開きません。あなたがそうなさったからです。」これは3節にもある。私は御手に撃たれて衰え果てています。私をさいなむその御手を放してくださいと訴える(11節)。「御手に撃たれて」は意訳で「あなたの手の(ヤデウは-)打撃によって(ミティグラット)」。肉体的苦痛を指す。岩波訳では「あなたの鞭を私から離して下さい」となっている。
12節「あなたは過ちを責めて人を懲らしめ、人の欲望を、虫が食うように溶かしてしまいます。まことに、人間は皆空しい」。新共同訳は「虫けら」であるが直訳は「しみが食い尽くす」で漢字では「衣魚、紙魚」で「しみ虫」と呼ばれるので間違いでは無いが、ヨブ記4章19節、エフェソ5章28節など出てくる。
13節「主よ、私の祈りをお聞きください。私の叫びに耳を傾けてください。私の涙に黙していないで下さい。私はあなたに身を寄せる者、すべての先祖と同じ宿り人」。しかし結語では、苦難の中で虚しさを覚えながら唯一残されたことは主への祈りである。私の祈りを聞き、叫びに耳を傾け、涙に沈黙しないで下さいと訴える。影の中にうつろう日々では無く(7節)、あなたと伴う寄留者、居住者としてくださいと祈る。私が去って行く前に、私を立ち直らせてくださいと心から嘆願する祈りである。
14節「私から目を離して下さい。そうすれば、私は安らぎます。私が去って、いなくなる前に」。「目を離して」は直訳「目をそらせ給え(ハシャは)」で立ち直る為である。別訳は「解放する」(ヨブ記22章7節、イザヤ22章4節)である。空しい人生が転換する信仰を、ここで読み取ることができる。




最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。