日毎の糧

聖書全巻を朝ごとに1章づつ通読し、学び、黙想しそこから与えられた霊想録である。

しかし、ファラオの心はかたくなになり

2016-10-29 | Weblog
  出エジプト記7章 
 
  13節「しかし、ファラオの心はかたくなになり、彼らの言うことを聞かなかった。主が仰せになったとおりである」(新共同訳)

  1節「主はモーセに言われた。『見よ、わたしは、あなたをファラオに対しては神の代わりとし、あなたの兄アロンはあなたの預言者となる』」。6章の続きである。「預言者」(ナービー)は、告知者、代弁者である。「唇に割礼のない」自分の言うことをファラオは聞かないと尻ごみするモーセに、神がモーセに語り、それを代弁してアロンがファラオに語るということである(2節)。つまりアロンはモーセの口になるということである(4章16節see)。本章から神がイスラエル救出のためにエジプトとファラオに向けられる「十の災禍」に対して、八十歳のモーセと八三歳のアロンが立てられることを、明確にしたのである(4~7節)。
  8節「主はモーセとアロンに言われた」小見出し『アロンの杖』。もしファラオがあなたたちに向かって、『奇跡を行ってみよ』と求めるなら、あなたはアロンに、『杖を取って、ファラオの前に投げよ』と言うと、杖は蛇になると告げる。アロンはモーセの代弁者になるだけでなく神の杖(4章20節)をファラオの前に投げて奇蹟を起こす。ここでは「アロンの杖」(10節)となっているが、アロンが手に持っていた杖」ということで、モーセが「神の杖」としていたのを彼に手渡したのであろう。主が言われた通りファラオと家臣の前に行き杖を投げる蛇になった(10節)。エジプトの賢者も魔術師も、秘術を用いて杖を投げて蛇になったが、然し「神の杖」は彼らの杖を呑み込んだのである。しかしファラオの心は頑なで聞かない(11~13節)。
  14節「しかし主はモーセに言われた。「ファラオの心は頑迷で、民を去らせない」、小見出し『血の災い』。ここから、次々と十の災禍がエジプトの国に起きる事になる。ファラオは受け入れないのである。
17節「主はこう言われた。『このことによって、あなたは、わたしが主であることを知る』と。見よ、わたしの手にある杖でナイル川の水を打つと、水は血に変わる。」モーセとアロンは主の命じられた通りにした。川の水は血に染まり、魚は死に悪臭を放ち、エジプト人は水を飲むことが出来なくなった。エジプトの魔術師も同じ事をしたのでファラオの心は頑なで、二人の言うことを聞かなかった(18~24節)。「心は頑なになり」(ヒャーザク)は直訳「心を重くする」である。水が血のように赤く変わるのは、海が赤く染まることがあり、これはプランクトンが大発生することによって起こり「赤潮」と呼ばれる現象であるが、この災禍を自然現象とする解釈があるが、それをここでは取らない。  
  25節「主がナイル川を打たれてから七日たつと、」小見出し『蛙の災』。第二の災禍である。七日後、主から言われた通り、モーセはファラオの処に行き「わたしの民を去らせ、わたしに仕えさせよ。もしそうしないなら領土全体に蛙が群がり、災いを引き起こし、王宮を襲うことになる」と告げた。預言の通り、蛙は異常繁殖して王宮の寝室まで侵入する(28節)。ファラオの心は一層頑迷になり(8章11節)、イスラエルの民を去らせなくする。神は人の心のすべてを知っておられる方であり(詩139篇)。また頑なにしようと思うものを頑なになさるのである(ローマへの手紙9章18節)。

わたしがあなたたちの神、主である

2016-10-28 | Weblog
  出エジプト記6章 

  7節「そして、わたしはあなたたちをわたしの民とし、わたしはあなたたちの神となる。あなたたちはこうして、わたしがあなたたちの神、主であり、あなたたちをエジプトの重労働の下から導き出すことを知る」(新共同訳)
 
  1節「主はモーセに言われた。「今や、あなたは、わたしがファラオにすることを見るであろう。わたしの強い手によって、ファラオはついに彼らを去らせる。わたしの強い手によって、ついに彼らを国から追い出すようになる」。ファラオが益々頑な心になるのを知り、モーセは主に抗議するが(5章23節)、これに主は応えて反論する。わたしは「わたしの強い手」で民を追い出すようになると二度繰り返した。
  2節「神はモーセに仰せになった。『わたしは主である』」。小見出し『モーセの使命』。更に「わたしは主である」(アニー・アドナイ)が八節までに四回繰り返されるが(2、6、7、8節)、この通りモーセが語っても民は労働意欲を失い、彼の言うことを聞かなかった(9節)。アニー・アドナイ(わたしは主)は神の主権を示す宣言であり、モーセ五書に25回出てくる(20章2節see)。
  3節「わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに全能の神として現れたが、主というわたしの名を知らせなかった」。モーセが主の名を知らなかったのではない。ここで言われているのは、神がイスラエルの民を奴隷の身分から救い出し贖う主であることを実体験として未だ知らないことである(6~7節)。これはモーセだけでなく、奴隷として厳しい労働の意欲を失っているイスラエルの民にも言えたのである。
  11節「エジプトの王ファラオのもとに行って、イスラエルの人々を国から去らせるように説得しなさい」。主はモーセにファラオを説得するよう言われたが、民が「唇に割礼のないわたし」のいうことを聞かないと反論した。「唇に割礼のない」とは、口に包皮がかぶさり、なめらかに言葉が出てこない比喩である。これは既に主に訴えてその語る言葉を兄弟アロンが担った事は明らかであるが、ここで改めて不徹底なモーセを自己暴露させ、主なる神の主導を強調する(4章14~17節)。
  14節「彼らの家系の長は次のとおりである。イスラエルの長男ルベンの子らは、ハノク、パル、ヘツロン、カルミで、これらがルベンの氏族である。」小見出し『モーセとアロンの系図』。アロンの系図を書き記すのは、モーセがレビの家系に属することを明らかにするためである。十二部族で長男ルベン、シメオン、レビの名が挙げられる(15節)。続いてレビの生涯が百三十七年、ケハトの生涯百三十三年、アムラムが百三十七年であったと記す(16~20節)。そしてアムラムがヨケペトを妻に迎え、その間にアロンとモーセが生れた。アロンの妻エリシェバ、子エルアザル、孫ピネハスの名前まで出てくる(23~25節)。レビの子の家系からイスラエルのエジプト滞在四百三十年とは一致しない(12章40節)。律法の書に出てくる数字の多くは象徴的であったり、概数的だったりで、バビロニヤの六十進法(60×6)に七を加える(7×10)ことなどがある。
  28節「主がエジプトの国でモーセに語られたとき」。小見出し『アロンの役割』。主はモーセに「わたしは主である。わたしがあなたに語ることをすべて、エジプトの王ファラオに語りなさい」と告げた(29節)。ここでもファラオに対して「わたしは主である」ことを伝えることになる。
  30節「しかし、モーセは主に言った。「御覧のとおり、わたしは唇に割礼のない者です。どうしてファラオがわたしの言うことを聞き入れましょうか。」。12節と同じ反復をする。何故か、どこまでも主なる神の主体性を強調する為である(7節)。


わたしたちの神、主に犠牲をささげさせてください

2016-10-27 | Weblog
  出エジプト記第5章 


  3節「二人は言った。『ヘブライ人の神がわたしたちに出現されました。どうか、三日の道のりを荒れ野に行かせて、わたしたちの神、主に犠牲をささげさせてください。そうしないと、神はきっと疫病か剣でわたしたちを滅ぼされるでしょう」 (新共同訳)

  1節「その後、モーセとアロンはファラオのもとに出かけて行き、言った。「イスラエルの神(エロヒム)、主がこう言われました。『わたしの民を去らせて、荒れ野でわたしのために祭りを行わせなさい』と」。小見出し『ファラオとの交渉』。モーセとアロンはエジプトの王のもとに出掛け、三日の道のりほど荒れ野に行きそこで犠牲を献げることが出来るようにと願い出た。これに対しファラオは願いを拒否し、「主(原文・エフォワーであるが、これを主=アドナイと呼ぶ)とは一体何者か、わたしは主など知らない」と言った(2節)。そこで重ねて相手に通じる「ヘブライ人の神」から告げられたことだと言い換えた。三日路の距離云々は主の指示によるものである(3章18節)。エジプト脱出の目的が主への服従によることを言い表わした。
  5節「ファラオは更に、言った。「この国にいる者の数が増えているのに、お前たちは彼らに労働をやめさせようとするのか。」。「この国にいる者」は口語訳「土民(アム・ハーレツ)である。然しファラオは頑固に否定し、民を追い使う者と下役人に「藁を与えないでレンガの数量を今より減らしてはならない」と命じさせた(6~7節)。これで彼らが労働を偽って犠牲を奉げさせてくれとは言わなくなるとファラオは思った(8~9節)。「民を追い使う者と下役人」(6節)を、TEVではthe Egyptian slave drivers and the Israelite foremenとなっている。この無理な要求には応えることが出来なかった(10~13節)。
  14節「ファラオに任命された追い使う者たちは、監督として置いたイスラエルの人々の下役の者らに、『どうして、今までと同じ決められた量のれんがを、その日のうちに仕上げることができないのか』と言って、彼らを打った」。そこで打たれたイスラエルの下役らはファラオのもとに行って訴えた(15節)。
  16節「僕らにはわらが与えられません。それでも、れんがを作れと言われて、僕らは打たれているのです。間違っているのはあなたの民の方です」。この非合理な要求を直訴したがファラオの返事は同じ言葉の繰り返しであり、過酷なノルマを要求した(17~18節)。一層下役の人らは苦境に立たされ、待ち受けていたモーセとアロンに抗議した(19~20節)。
  20節「彼らがファラオのもとから退出して来ると、待ち受けていたモーセとアロンに会った。」。そこでモーセは主のもとに行き、わたしをエジプトに遣わされたのは何故ですかと問うた。我々を殺す剣を彼らの手に渡したと同じだと訴えた(21節)。彼は問題解決が主によらねばならないこと知っていたからである。
   23節「わたしがあなたの御名によって語るため、ファラオのもとに行ってから、彼はますますこの民を苦しめています。それなのに、あなたは御自分の民を全く救い出そうとされません」。主の御名によって語ることが、一層民の苦しみを増すことになると訴えるのである。これは、モーセにとっては正に「ゲッセマネの祈り」である(マルコ14章34~36節)。

ああ主よ、全くわたしは口が重く、舌の重い者です

2016-10-26 | Weblog
  出エジプト記4章 
  
  10節「それでもなお、モーセは主に言った。「ああ、主よ。わたしはもともと弁が立つ方ではありません。あなたが僕にお言葉をかけてくださった今でもやはりそうです。全くわたしは口が重く、舌の重い者なのです」(新共同訳)

  1節「モーセは逆らって、それでも彼らは、『主がお前などに現れるはずがない』と言って、信用せず、わたしの言うことを聞かないでしょうと言うと~」小見出し『使命に伴なうしるし』。3章終りから継続。モーセは確信の無さを主なる神に向かって語った。2~17節は主との会話で、使命に伴うしるしを主から告げられる。先ず手に持つ杖を地面に投げると、それは蛇になり、再び掴むと杖に戻った(2~4節)。こうすれば「先祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神、主が現われたことを信じる」という。更に主に言われた通り、手をふところに入れ、手を出して見ると重い皮膚病になり、その手を再びふところに入れて出すと元の肌になった。しかしそれでも言うことを信じないなら、ナイル川の水を汲んできて地面にまくと、水は血に変わると言われた。
  10節「それでもなお、モーセは主に言った。『ああ、主よ。わたしはもともと弁が立つ方ではありません。…全くわたしは口が重く、舌の重い者なのです』」。主は一体誰が人に口を与え、誰が口を利けなくし、耳と目を聞いたり見たりし、そうしなくするのは誰か。わたしはあなたの口となって語るべきことを教えると伝えたが、モーセは誰か他の者にと、重ねて拒んだ(11~13節)。主は怒って、兄弟アロンに語る言葉を託すがよいという。そして彼はあなたの口となり、あなたは彼に対して神の代りになると告げた(14~16節)。
  18節「モーセがしゅうとのエトロのもとに帰って、『エジプトにいる親族のもとへ帰らせてください。まだ元気でいるかどうか見届けたいのです』と言うと、エトロは言った。『無事で行きなさい』。小見出し『モーセエジプトに戻る』。主もヱジプト行を指示された。彼は妻子をろばに乗せ、手には神の杖を携えて、エジプトの国を指して帰って行った(19~20節)。羊飼いの杖は「神の杖」になる。エジプトのファラオは主が奇蹟を行っても心を頑なにして民を去らせないが、しかしイスラエルはわたしの長子、去らせてわたしに仕えさせようとするのに拒んだのでわたしはお前の子、お前の長子を殺す」と告げると、主はモーセに語られた(21~23節)。
  24節「途中、ある所に泊まったとき、主はモーセと出会い、彼を殺そうとされた。」。エジプトに帰る途中の出来事で、主がモーセを殺そうとした時、妻ツィポラが石刀で二人の息子の包皮を切り取り、モーセの両足(恥部)に付け「わたしにとってあなたは血の花婿です」と叫んだ(25~26節)。主は彼を殺すことを止めた。「血の花婿」とは割礼によって死を免れたモーセだという意味である。モーセはこれまで割礼していなかったことが明らかになり、エジプトから救出される割礼の民イスラエルを導くために、これは彼に必要な出来事であった(ヨシュア記5章4~5節see)。
  27節「主はアロンに向って「さあ、荒れ野に行ってモーセに会え」と命じられたので、彼は出かけて行き、神の山でモーセと会い、口づけした」。二人は荒れ野の奥に入り、神の山ホレブ(3章1節)に行き、モーセはアロンに、自分を遣わされた主の言葉と、命じられたしるしをすべて伝えた(28節)。続いてエジプトに到着すると、モーセとアロンはイスラエルの全長老を集め、主がモーセに語られた言葉をアロンは語り、モーセはしるしを行ったので民はこれらのことを信じ、主が親しく民を顧み苦難を知っていることを聞いて、ひれ伏し礼拝した(29~31節)。


わたしはある。わたしはあるという者だ

2016-10-25 | Weblog
  出エジプト記第3章 
 
  14節「神はモーセに、『わたしはある。わたしはあるという者だ』と言われ、また、イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと」(新共同訳)。

  1節「モーセは、しゅうとでありミディアンの祭司であるエトロの羊の群れを飼っていたが、あるとき、その群れを荒れ野の奥へ追って行き、神の山ホレブに来た」。「それから長い年月がたち」(1章23節)、四十年近くミディアンでの寄留生活を羊飼いとして過ごしたのである(7章7節)。エジプトの宮廷四十年に匹敵する神の僕としての訓練をここで受けたと思われる。ある時羊を追ってホレブ連山の麓に広がるシナイの荒れ野に来た(19章1節)。そこで柴の間に燃え上がっている炎の中に主の使いが現われた(2節)。柴とはアカシヤの木である。
  3節「モーセは言った。『道をそれて、この不思議な光景を見届けよう。どうしてあの柴は燃え尽きないのだろう』」。彼は不思議な光景を見ようと近づくと、主が柴の間から「モーセよ、モーセよ」と呼び掛けた。そして「足から履物を脱げ、その立っている場所は聖なる土地だ」と告げられた(4~5節)。履物を脱ぐことは神への畏敬を表わす。そして「わたしはあなたの父の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神」、「ヱジプトにいるわたしの民の苦しみを見、叫び声を聞いた。~素晴しい乳と蜜の流れる土地に導き出す。あなたをファラオのもとに遣わす。今、行ってわが民をエジプトから導き出すのだ」との使命が伝えられた(6~10節)。モーセは「わたしは何者でしょう」と言って、自らの無力を訴えて拒んだ。
  12節「神は言われた。『わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。…』」。「わたしは必ずあなたと共にいる」(エヘイェ・イムマーク)。モーセはイスラエルの民のところに行って先祖の神がわたしを遣わされたのだと言えば、「その名は一体何か」と問うに違いないので、何と答えるべきかと尋ねた(13節)。
  14節「神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと」。「わたしはあるというものだ」(エヘイェ・アシェル・エヘイェ)、口語訳「わたしは、有って有る者」、新欽定訳 "I AM WHO I AM."。12節の「エヘイェ」と語呂合わせになっている。「エヘイェ」は「ハーヤー」(存在する)の未完了態一人称単数で、過去、現在、未来に継続した状態を表わす。神の自存性、独一性、永遠性を示している。「ハァ・ヤァ」は息を吐き出す「喉音」で命の根源とも言える内容を指している。このお方が「わたし(モーセ)をあなたがたのところにつかわされた」と応えることになる(14節)。更に進んで今モーセを遣わそうとしているお方は「あなたたちの先祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神である主」であり、これこそ、とこしえにわたしの名、世々に私の呼び名であると告げて(6節)示されていた(15節)。16節以下はこれから起きる事柄を順次示す。
  16~17節 イスラエルの長老たちに告げる言葉。先祖の神、主がわたしに現われて苦しみのエジプトから乳と蜜の流れる土地へ導き上ろうと神が決心した。
  18節 長老たちを連れだってファラオのもとに行き、告げる言葉。三日の道のりを荒れ野に行き、主に犠牲をささげさせてくださいと言う。
  19節 しかし王は、わたしが強い手を用いなければ言うことを聞かない。
  20節 あらゆる驚くべき業をエジプトで行って後、初めて王は民を去らせる。
  21~22節 出国に際し、多くの高価な品々を与えられ、それを分捕り物とする。

開けてみると赤ん坊が泣いていた

2016-10-24 | Weblog
 出エジプト記2章 

 6節「開けてみると赤ん坊がおり、しかも男の子で、泣いていた…」(新共同訳)

 1節「レビの家の出のある男が同じレビ人の娘をめとった」。原文は冒頭に「そして」(and)があり、1章22節からの続きになる。彼女は男児を出産したが、可愛かった(a fine baby)。「神の目に適った美しい子」(使徒言行録7章20節)だった。三ヵ月間隠していたが、隠しきれないので、防水したパピルスの籠に男児を入れ、ナイル河畔の茂みに置いた(2~3節)。
 4節「その子の姉が遠くに立って、どうなることかと様子を見ていると」。そこにファラオの王女が水浴びをしようと川に降りてきた。そして葦の茂みの間に籠を見つけた(5節)。水浴びは古代エジプトでは神聖なナイルで身を清め厄払いをする習慣があった。王女の名は特定できない。
 6節「開けてみると赤ん坊がおり、しかも男の子で、泣いていた。王女はふびんに思い、『これは、きっと、ヘブライ人の子です』と言った」。ヘブライ人の子にも拘らず「ふびんに思い」(タハーマル)は「可哀そうに思う」(口語訳)「あわれに思う」(新改訳)で母性愛である。この時赤子が『もしオギャ-と泣かなかったら、モーセによる神のドラマは無かっただろう』(F.Bバックストン曰く)。葦の茂みから様子を伺っていた、その子の姉が直ぐにやって来て「あなたのためにヘブライの乳母を呼んできましょうか」と申し出たので王女はそうしてくれと言い、早速その乳児の母を連れてきた(7~8節)。王女は「わたしの代りに乳を飲ませて欲しい。わたしは賃金を支払うから」と言ってその子を引き渡し、乳母(実の母親)はこの子を安全に育てることになる。ここに神が仕組まれたユーモアがある。
 10節「その子が大きくなると、王女のもとへ連れて行った。その子はこうして、王女の子となった。王女は彼をモーセと名付けて言った。『水の中からわたしが引き上げた(マーシャー)のですから』」。「マーシャー」と「モーセェ」は語呂合わせ。この「モーセ」は、もう一つイスラエルの民を引き出すという使命を持つ名前でもあった。彼は宮廷で文武両道の教育と訓練を受けたのである(使徒言行録7章22節)。しかし彼の本心は「ファラオの王女の子と呼ばれることを受け入れてはいなかった(ヘブライ11章24節)。 
 11節「モーセが成人したころのこと、彼は同胞のところへ出て行き、彼らが重労働に服しているのを見た。そして一人のエジプト人が、同胞であるヘブライ人の一人を打っているのを見た」小見出し『エジプトからの逃亡』。この時40歳だった(使徒言行録7章23節)。ある時、モーセはヘブライ人が重労働に服している現場に来ると、ヱジプト人が同胞を打っていたので、この男を打ち殺し砂に埋めた。翌日、またモーセが同じ現場に行くと今度はヘブライ人同志が喧嘩をしていたので、止めに入ると彼らは「誰がお前を我々の監督や裁判官にしたか、我々を殺すつもりか」と言い返した。あの時のことが広く知れわたっているとモーセは悟る(12~14節)。やがてファラオの耳に入り、モーセを殺そうと尋ねていたので、モーセはファラオの手を逃れてミデアン地方に行き、とある井戸の傍らに腰を下ろした(15節)。そこで、ミデアンの祭司で羊飼いのレウエルの娘たちと、モーセは出会う(16~17節)。ヤコブ物語と似ている(創世記29章)。彼はレウエルの家に招かれ食事を振舞われ客人となる(18~20節)。そしてツィポラと結婚する(21節)。
 22節「彼女は男の子を産み、モーセは彼をゲルショムと名付けた。彼が『わたしは異国にいる寄留者(ゲール)だ』と言ったからである」。「ゲルショム」と「寄留者(ゲール)」は語呂合わせ。ファラオが死亡し帰国の機会が来たこと、同胞の苦役の声が神に届き、神のイスラエルを顧みる時がきたことを告げている(23~25節)。


おびただしく数を増し、ますます強くなった

2016-10-23 | Weblog
 出エジプト記第1章 

 7節「イスラエルの人々は子を産み、おびただしく数を増し、ますます強くなって国中に溢れた」(新共同訳)

 1節「ヤコブと共に一家を挙げてエジプトへ下ったイスラエルの子らの名前は次のとおりである」。小見出し『エジプトでのイスラエル人』。本書の題名は七十人訳(ギリシャ語)の脱出(エクソドス)となっている。内容を要約した題である。先ずヤコブの子孫について述べる(2~5節)。
6節「ヨセフもその兄弟たちも、その世代の人々も皆、死んだが」。四百年近い歳月が流れ、イスラエルの人々は子を産み、おびただしく数を増した(7節)。
 8節「そのころ、ヨセフのことを知らない新しい王が出てエジプトを支配した」。このファラオはイスラエルの数が多くなり戦争でも起こると敵側について戦うかもしれないと警戒心を抱き、彼らに重労働を課して虐待した(9~11節)。「抜かりなく取り扱おう」(10節・新改訳=賢く取り扱おう)とする人の考えを、神は愚かなこととされるのである。
 12節「しかし、虐待されればされるほど彼らは増え広がったので、エジプト人はますますイスラエルの人々を嫌悪した」。エジプトの王は民が「多くなるといけない」(ベン・イルベー)ために虐待したが(10節)、天上の王は民を「ますます多くした」(ケン・イルベー)のである。語呂合わせ。粘土こね、れんが焼き、あらゆる農作業などの重労働によって彼らの生活を脅かした。彼らが従事した労働はいずれも過酷を極めた(13~14節)。
 15節「エジプト王は二人のヘブライ人の助産婦に命じた。一人はシフラといい、もう一人はプアといった」。小見出し『男児殺害の命令』。「シフラ」は「美しい」、「プア」は「輝く」という意味である。彼女らは、助産婦を取り仕切る責任的な立場にあったと思われる。彼女らに、ヘブライ人の女の出産を助けるとき、性別を確かめ、男の子ならば殺し、女の子ならば生かしておけと命じられた(16節)。「子供の性別を確かめ」直訳「二台の石を見て」、口語訳「産み台の上を見て」。出産の時一対の石を産み台にしたのである。ファラオが助産婦に、女児なら生かし男児なら殺せと命じたが二人は命令通りしないので、王はこれを知って咎めた(16~17節)。
 19節「助産婦はファラオに答えた。『ヘブライ人の女はエジプト人の女性とは違います。彼女たちは丈夫で、助産婦が行く前に産んでしまうのです』」。この弁明は真実であったが、しかし彼女らが神を畏れていたので、イスラエルの危機を脱することが出来た。
20節「神はこの助産婦たちに恵みを与えられた。民は数を増し、甚だ強くなった」。助産婦たちは神を畏れていたので、神は彼女たちにも子宝を恵まれた(21節)。新共同訳は「子宝を恵まれた」とあるが、意訳。直訳「家を造られた」で、口語訳「家を栄えさせられた」はとなっている。神は王の命令に従わない助産婦たちが苦しみ遭うことなく生活を支え祝福したのである。ここにイスラエルの歴史を導く神の御手の働きを伺い知ることが出来る。
22節「ファラオは全国民に命じた。『生まれた男の子は、一人残らずナイル川にほうり込め。女の子は皆、生かしておけ。』」小見出し『モーセの生い立ち』。ファラオがイスラエルに向けた迫害の第三弾は、産まれた男児を一人残らずナイル河に投げ捨てよということであった(22節)。