日毎の糧

聖書全巻を朝ごとに1章づつ通読し、学び、黙想しそこから与えられた霊想録である。

約束された嗣業の地

2009-11-30 | Weblog
 エレミヤ12章 

  1~4節 エレミヤの苦悩(11章18~23節の続き)
  3節「主よ、あなたはわたしをご存知です。…わたしの心を究められた筈です」。
  正しい主と論じても、彼らは口先だけ敬い、神の逆らっていて、なお平穏でおられるのは一体何故なのか判らないと訴えている。苦悩する孤独なエレミヤの姿を見る。

  5~6節 それに神は応える
  6節「あなたの兄弟や父の家の人々…彼らを信じるな~」。彼らとの対立は一層厳しくなり、親族も欺くことになる。預言者の孤独を一層明らかにする

  7~13節、主の嗣業の地は打ち捨てられる
  7節「私はわたしの家を捨て、わたしの嗣業を見放し…」。その嗣業の地は猛禽の住み家になり(8~9節)、
  10節「多くの牧者が、わたしのブドウ畑を滅ぼし、わたしの所有地を踏みにじった。…」。牧者とは諸国の王を指し、侵略してユダの大地を荒らし打ち捨て(11節)、麦を蒔いても刈り取るのは茨でしかない(13節)と主は告げる。

  14~17節、主の嗣業の地は新しく回復される
  14節「主はこう言われる。『わたしが、わたしの民イスラエルに継がせた嗣業に手を触れる近隣の悪い民をすべて、彼らの地から抜き捨てる』…」。しかし主はいつまでも見放すのではない。その日が来れば嗣業の地を奪った近隣の民を大地から抜き取って、再びイスラエルを憐れみ、嗣業の地に帰らせるという(15節)。
  16節「もしこれらの民が、かつてバアルによって誓うことをわたしの民に教えたように、わが名によって、『主は生きておられる』と誓うことを確かに学ぶならば、彼らはわたしの民の間に建てられる」。そして嗣業の地を奪った近隣の悪しき民も「主は生きておられると告白し、新しくされてこの地に来る。これはエレミヤの召命を受けた時の約束である(1章10節see)。ここにエレミヤの万民救済予言をみる。

  キリスト者にも神の嗣業地を約束されている(エフェソ1章14、18節、テトス3章7節、ヘブライ9章15節、ヤコブ2章5節)。ここではペテロ第1手紙1章4節(口語訳)を読みたい。「あなたがたのために天にたくわえてある、朽ちず汚れず、しぼむことのない資産を受け継ぐ者として下さったのである」


はらわたと心を究める方

2009-11-29 | Weblog
エレミヤ11章
 
 1~8節 主の契約に聞き従え
 2節「この契約の言葉を聞け…告げよ」。それは契約の言葉に聞き従わない者は呪われるということ。これは申命記28章に記されている。
 4節「これらの言葉は…エジプトの地から導き出した時、命令として与えたものである。…わたしの声に聞き従い~」。それは出エジプトの時になされた契約である。
 5節「…わたしは答えて言った『アーメン、主よ』と」。予言者として主に対して態度表明をする。しかし繰り返し民に聞き従えと言ってきたが民は耳を傾けなかったと主は言われる(7~8節)。
 この背景には、エルサレム神殿修築の時壁から巻物(律法の書=申命記の一部)を発見したヨシヤ王が宗教改革を行ったことがある(列王記下22~23章see)。しかしヨシヤはメギドの戦いで戦死した。その宗教改革が実を結ばない現実をエレミヤはここで指摘している。

 9~14節 契約の言葉に背く民
 9節「主はわたしに言われた『ユダとエルサレムの住民が共謀しているのが見える』」。この共謀とは何か。神との契約を破り、バアルの神々の祭壇に行って香を焚き、助けを求めるという背反である(12~13節)。しかし神はエレミヤに嘆き祈るなと言われる(14節)。

15~17節 エルサレムとユダの国(緑のオリーブ)は焼かれる。

18~23節 エレミヤの苦悩
 20節「万軍の主よ、人のはらわたと心を究め、正義をもって裁かれる主よ。わたしに見させてください」あなたが彼らに復讐されるのを…」。彼は「はらわたと心」を探られる方に、自らを赤裸々に告白し訴える。
「はらわたと心を究める」は口語訳「人の心と思いを探られる」。岩波訳「諸々の思いと心とを試される~」。原語「思い」キルヤー(はらわた複数形)は感情の座と考えられている。20章12節see
 21~22節に命を狙うアナトトの人々が出ているが、エレミヤの神殿批判、契約違反の言葉に対する出身地の祭司らの迫害である。

 主イエスもナザレの人々から命を狙われた(ルカ4章28節)。また主は「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」という言葉を引用して不信仰を批判している(マタイ13章53~)。

 何故か。真実を求める神(5章3節)は、人のはらわたと心を暴き出すからである。主イエスも隠されている秘密を明るみにされる方と向き合うことを求められた(マタイ6章6節)。
「主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の企てをも明らかにされる方」である(第一コリント4章5節)。
 年末を迎え、はらわたと心と探って大掃除をして頂こう。

永遠を支配する王

2009-11-28 | Weblog
 エレミヤ10章  

  10章は、9章25節で告げている通り、予言の矛先は諸国諸民族である。
  1~5節 偶像を恐れるな
  3節「もろもろの民が恐れるものは空しいもの、森から切り出された木片…」。それは木工が鑿で造り、金銀で飾り、身動きできない。畑の案山子だ(4~5節)。イザヤ40章18~20節、44章9~20節see

  6~11節 諸国民の王なる主
  6節「主よ、あなたに並ぶ者はありません。あなたは大いなる方…」。「諸国民の王なる主」である(7節)。諸国の民は木片にすぎない空しいものを戒めにしている(8節)。
  10節「主は真理の神、命の神、永遠を支配する王…」。岩波訳「ヤハウェは、真実の神、彼こそはいける神、永久の王」。その憤りに諸国の民は耐ええない。

  12~16節 万物の創造者 51章15~19節と同じ
  12節「御力をもって大地を造り、…世界を固く据え~」。天と地を造り、地の果てから雨雲を湧きあがらせ、雨を降らせ、風を起こされる。
  16節「…万物の創造者であり、…その聖名は万軍の主」。銀細工人の作った像は欺瞞で滅びてしまう。

  17~25節 エレミヤの苦悩
  19節「ああ、災いだ。わたしは傷を負い わたしの打ち傷は痛む。しかし、わたしは思った。『これはわたしの病 わたしはこれに耐えよう』」。4章19~31節と同じ苦悩である。
  24節「主よ、わたしを懲らしめてください、しかし正しい裁きによって」。「正しい裁きによって」は口語訳「正しい道にしたがって」、岩波訳「あなたの公正(ミシュパト)によって」。預言者は、諸国の民に神の真実を求めると同時に、自らを公正な神にゆだねて「懲らしめて」(アーシャル)、「教え、訓練」して下さいと祈る。

 懲らしめるとは、訓練を意味している。ヘブライ12章5~11節を引用したい。

嘆きのことば

2009-11-27 | Weblog
エレミヤ9章 

   1~8節 偽りを語る民と神の裁き
   2節「彼らは舌を弓のように引き絞り、真実でなく偽りをもってこの地にはびこる。…」。隣人は中傷して歩きわる(3節)。
4節「…惑わし、まことを語らない」。惑わし(シェケル)とまこと(エムナー)が対比される
   7節「彼らの舌は人を殺す矢、その口は欺いて語る」。
   8節「…わたしは罰せずにいられようか…必ず悪に報いる」。

  9~21節 再びエレミヤの嘆き
  8章の後半に続いて預言者の嘆きが聞かれる。山々で哀歌をうたうと家畜も空の鳥もその声に驚いて逃げ去る(8~9節)。それは何故か。
  10節「わたしはエルサレムを瓦礫の山、山犬の住みかとし、その町を荒廃させる」。主は敵の襲来によってエルサレムは瓦礫の山となり、ユダの町々は荒廃するからだ。
  16節「万軍の主はこう言われる。事態を見極め、泣き女を招いて、ここに来させよ」。事態は深刻なのだ。
  19節「女たちよ、…仲間に、嘆きの歌を教え、互いに哀歌を学べ」。広場には人間のしかばねが…わら束や糞土のように覆っているという。
  理由は明らかである。「わたしを知ろうとしない、拒む」(2、5節)、「わたしの教えを捨て、わたしの声に聞き従わず」(12節)、「目覚めてわたしを知ること」(23節)をしないからだ。
 
  22~23節 主を知るとは、人間の知恵や力、富を誇らないで(22節)
  23節「…わたしこそ主、この地に慈しみと正義と恵みの業を行う事、そのことをわたしは喜ぶ」。ことである。ここで三つのことが求められている。口語訳「いつくしみ(ヘセド)と公平(ミシュパト)と正義(ツェデカー)を行っている者」。この欠落が、嘆きの根本原因である。

  24~25節 神の審判は民族意識を超える
  包皮の割礼を受けた者も(24節)、心の割礼のないイスラエルも、また割礼のない民も(25節)、皆例外なく神の前に罰せられるのである。

  ヤコブの手紙に、キリスト者の持つべき嘆きの言葉がでている(4章8~9節)。

 時のしるし

2009-11-26 | Weblog
エレミヤ8章

1~3節 7章後半からの続き
ベン・ヒノムの谷で殺害され焼却されたその時、先祖の王を初め総ての民の墓があばかれるという預言。

4~13節 民の背信
4節「…主はこう言われる…倒れて立ち帰らない者があろうか」。悔い改めのない民であると指摘する。
7節「空を飛ぶコウノトリもその季節を知っている。山鳩もつばめも鶴も、渡るときを守る。しかし、わが民は主の定めを知ろうとしない」。時の徴を知る渡り鳥は本能的に行動するが、しかし民は心に刻み込まれた「主の定めを知らない」。方向感覚が失われてしまった。「知る」は人格的な関わりを表す(6章27節、9章2節、31章34節see)。
 10~12節は、6章13~15節を繰返している。
時の徴を知らないのは、民だけではない。「賢者といわれる者」(8節)、「律法筆記者」(口語訳=書記)、そして「預言者から祭司」(10節)にまで至る。

14~17節 敵の攻撃
14節「…我々の神、主が我々を黙らせ、毒の水を飲ませられる」。主なる神が民になされる采配を黙して待つのである。それは「毒の水を飲む」という容易ならざる事柄である。

18~23節 預言者エレミヤの嘆き
16節「ダンから敵の軍馬のいななきが聞こえる…」。敵の襲来の予告である(17節)。
18節「わたしの嘆きはつのり、わたしの心は弱り果てる」。エレミヤは嘆き、心は弱り果てるという。それはシオンの娘(都エルサレム)が偶像に犯されている状態に対してである(19節)。更に嘆きは恐怖に変わる(21節)。「娘なるわが民の傷は癒えない…」(22節)。「わたしの目が涙の源となればよいのに」(23節)という。

  キリスト生誕物語を読むと、神が現された時の徴を知ったのは、東方の賢者や羊飼い達であった。そして、ファリサイ派らはそれを知ることが出来なかった(マタイ福音書16章3節)。

  キリスト者も時のしるしを見分ける霊的鋭い感覚を与えられたい(フィリピ1章9節)。

耳を傾けず、…うなじを固くする

2009-11-25 | Weblog
  エレミヤ7章 

  1~14節 神殿での預言
  エレミヤの召命は1章2節にある通りヨシア治世13年(BC627年)であるが、初期預言は宗教改革(列王記下23章 628~年)と重なる。神殿預言が、26章と同じとすれば、ヨアキム治世の初め(BC608年)になる。彼の20年近くの預言活動が処々に伺える。
  2節「主の神殿の門の前に立ち…言え『主を礼拝するために、神殿の門を入って行くユダの人々よ』~」 エレミャは神殿の門前で告げた。
  4節「主の神殿、主の神殿、主の神殿という、空しい言葉により頼んではならない」神殿を絶対化し、どんな外敵からも不可侵であるという誤まった考え方は、ヒゼキヤの時代アッシリヤ軍が一夜にして敗退した出来事(列王記下19章35節)に端を発すると考えられている。偽りの預言を信じてはならない。主が求められるのは
5節「この所で、お前たちの道と行いを正し、お互いの間に正義を行い、寄留の外国人、孤児、寡婦を虐げず、無実の人の血を流さず、異教の神々に従うことなく、自ら災いを招いてはならない」。
 主は繰り返し語ったが、その言葉に従わず、呼び掛けに答えなかった(13節)。そこで北イスラエルと同じように、民を放棄すると告げる(15節)。

  16~28節 執り成しの禁止
  悔い改めを求め、執り成しをする預言者の存在理由を奪われる神の言葉。そこにははなはだしい偶像礼拝がある(9節、17~19節)。
  18節「天の女王のために献げ物を~」。「天の王女」とは、アシタロテ、アシュラと呼ばれる豊穣の女神であると言われる(44章16~23節)。
執り成しを禁止した最大の理由は26~28節で繰り返されている。
  「わたしに聞き従わず、耳を傾けず、…うなじを固くし」(26節)「…すべての言葉を語っても聞き従わず、呼び掛けて答えない」(27節)「…主の声に聞き従わず~その口から真実が失われ」といることである。

  29~34節 ベン・ヒノムの谷での人身御供
  これまであった歴史を取り上げ(列王記下16章3節、21章6節)、ユダ王国の危機的な状況から「哀歌をうたう」(29節)ことになると告げる。

本物の証明 

2009-11-23 | Weblog
 エレミヤ6章 

真実なる神は、襲来によって滅ぼされる理由として民の不義不正を暴く。
  1~9節 エルサレムは敵に包囲され、神の懲らしめを受ける
  1節「ベニヤミンの人々よ、エルサレムの中から避難せよ」。敵は城を包囲し災いが迫っている。
  5節「立て、夜襲をかけよう」。周到な準備ができている。攻城のために木は切られ土塁は築かれた(6節)。エルサレムよ、らしめを受け入れよと主は言われる(8節)。
  9節「万軍の主はこう言われる『ぶどうの残りをつむように…』」。襲来する敵に主が呼びかけている言葉。1

  10~12節 預言者エレミヤの独語
  10節「…見よ、彼らの耳は無割礼で耳を傾けることができない~」。しかし神の警告を伝えねばならない。それに耐えることに疲れたという(11節)。
  13~30節 預言者も祭司も民を欺いている。然し預言者は真実を暴露しなければならない。それは三つある。
  第一 14節「彼らは、わが民の破滅を手軽に治療して、平和がないのに『平和、平和』と言う」。口語訳「手軽にわたしの民の傷をいやし、平安がないのに『平安、平安』と言っている」。岩波訳「わが民の傷を、手軽に癒して言う『平安だ、平安だ』と。しかし平安などない」。偽りの医師の言葉だから「心配いらない、安心せよ」の訳が直裁でよい。傷を癒さないばかりか安心せよと言う二つの悪がある。
  二番目 16節「主はこう言われる。『さまざまな道に立って、眺めよ。昔からの道に問いかけてみよ どれが、幸いに至る道か、と。その道を歩み、魂に安らぎを得よ。』しかし、彼らは言った。『そこを歩むことをしない』と」。新改訳「四つ辻に立って見渡し…」。口語訳「わかれ道に立ってよく見」。道標を見誤るとそこは奈落の底である。いや樹林に迷込んで抜け出せない。何という危険なことか。
  三番目は預言者エレミヤに求められたこと
  27節「わたしはあなたをわが民の中に金を試す者として立てた。彼らの道を試し、知るがよい」。預言者の言動は、坩堝に鉱石を投じて溶かし、金銀銅鉄を検出することになる(28~30節)。その結果は、みな金滓ばかり。

  火で精錬されて純粋な金を取り出すこと、それが神の真実である。第1ペテロ1章7節を読みたい。「あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。」

真実を求める神

2009-11-22 | Weblog
 5章1~31節 

  外敵襲来の原因を一層明らかにする。
  1~6節 エルサレムの堕落の有様を見る
  1節「エルサレムの通りを巡り、よく見て、悟るがよい」。そこで、正義を行い、真実を求める者を尋ねる。しかし彼らは口先では主は真実を求めていると言うが、鉄面皮で立ち帰ることをしない(2~3節)。
 4節「わたしは思った『これは身分の低い人々で、彼らは無知なのだ』」。
 5節「身分の高い人々を訪ねて語り合おう~」。しかし身分の低い者も高い者も等 しく神に対する背信は変わらないことを彼は知る(6節)。

 7~9節 発情した馬のようだ。
 真実なる神に背いている民を馬になぞらえる。
  10~14節 神に対する慢心
  ここでは神が植えられたぶどう園になぞらえる。
  12節「彼らは主を拒んで言う『主は何もなさらない。我々に災いが臨むはずはない』…」。新改訳「主が何だ。わざわいは私たちを襲わない…」。「主が何だ」(ローフー)と言って預言者の口を通して語られる神の言葉を無視し否定して慢心を抱く。そこで「わたしの言葉をあなたの口に授ける」とエレミヤに告げる(14節)。
  15~19節 北からの敵
  北から騎馬軍団が襲来して、野の収穫物を奪い、城壁を破壊する(17節)。しかし神は「民を滅ぼし尽くす」のではない(19節)。これは4章27節、5章10節にもあり、未来に向けての神の憐れみの計画である。
  20~31節 ヤコブとユダの罪
  21節「愚かで、心ない民よ、これを聞け。…耳があっても、聞こえない民~」。彼らは「心がかたくな」で(23節)、その咎の故に降り注ぐ「恵みの雨」を留めた(24~25節)。
  富める者らが私腹を肥やし貧しい者やみなしごの訴えを退け(26~28節)、偽預言者と祭司らも同調している(31節)。

  「正義を行い、真実を求める者」(1節)がいないという結論になる。神は真実を求められる方である(1、3節)。真実とは何か。真実(エムナー)は、「信仰、まこと、忠信、安き、堅く立つ、忠実」と同じ意味である。真実は正義と結ばれて切り離せない(4章2節)。何故なら正義は真実(忠実)に遂行されねばならないからである。

  真実なる方は神唯ひとりであり、その真実を表された方はイエスである(Ⅰコリント1章9節、Ⅱテモテ2章13節)。

わたしのはらわたよ

2009-11-21 | Weblog
  エレミヤ4章 

  1~4節 「立ち帰り」を求める3章の続き
  2節「もしあなたが、真実と公平と正義をもって『主は生きておられる』と誓うなら…」。主への悔改めて立ち帰ることは、真実(エムナー)と公平(ミシュパート)と正義(ツェデク)をもって示さねばならない。
  3節「…耕作地を開拓せよ。茨の中に種をまくな」。口語訳「あなた方の新田を耕せ。茨の中に種をまくな」。そこは荒地であり、新しい出発となる処である。それは新しい契約によって実現する。

  5~31節 北からの襲来
  6節「…避難せよ、足をとめるな。わたしは北から災いを、大いなる破壊をもたらす」。これは既に「煮えたぎる鍋の幻」(1章13~15節)で告げられていた。北からの敵はスクテヤ人による騎馬軍団が予想されている。
  9節「その日が来れば…」。王も高官も、祭司や預言者もうろたえあわてることになる。そして「あなたたちに平和が訪れる」と偽りの言葉を彼らは伝えて、神が欺かれたと言う(10節)。
  「その日」11節「その時」には厳しい審判が下る。
  その有り様をエレミヤは23~26節に「わたしは見た」と繰返し告げている。「それゆえ地は喪に服し上なる天は嘆く」(28節)とある。

  しかしこの時預言者は決して傍観者たりえない。
  19節「わたしのはらわたよ、はらわたよ。わたしはもだえる。心臓の壁よ、わたしの心臓は呻く。わたしは黙していられない」 襲来の角笛の響き、鬨の声に彼の体が呼応し、身もだえする。
  22節「まことに、わたしの民は無知だ。…」。ユダの民の無知、無分別で悪を行うことには長けて、善を行うことを知らないのである。
北からの襲来の有様は、大地は混沌として闇となり(23節)、人も鳥も姿を消し、稔りの無い荒れ野の状態になる(25~26節)。

 「はらわたよ」メイームは、内臓、胎とも訳される(歴代誌下21章15節、イザヤ49章1節)。ここは胃痙攣を起こし鼓動が激しく心臓が止まりそうな状態である。

  これほどまで、民と同じ身になって神の裁きに悶え苦しむ人がいただろうか。
 イエスのゲッセマネの祈り、十字架上での叫びを思う。

 神よ、あなたの許に参ります

2009-11-20 | Weblog
  エレミヤ3章
 
 3章にも姦淫を行う背信の女への呼びかけが続く
  1~13節 悔い改めへの呼びかけ
 1節「…お前は多くの男と淫行にふけったのに、わたしに戻ろうというのか~」。神とイスラエルが夫と妻で譬えられる。バアル礼拝に陥ったイスラエルは姦淫行為にな る。
  2~3節 バアルは自然繁栄をもたらす神として山頂や野に祭壇を築き拝跪した。
  6~13節 姦淫行為は初めに北イスラエルでなされ、夫が離縁状をもって離別したように神は民を見放したが、これを知った南ユダは姦淫を続けて立ち帰ることをしない。
  8節「背信の女イスラエルの姦淫で離縁状を渡したが、姉妹ユダは裏切り淫行を続けている」。怒りと嘆きの声が聞こえる。
しかしそれでも主なる神は呼び続ける。「背信の女イスラエルよ立ち帰れ」(12節)「背信の子らよ立ち帰れ」(14節)。

  13節「ただ、お前の犯した罪を認めよ…」。それに対する主の要求の第一は、背信を認めることである。次に必要なことは
17節「…主の聖名の下に集まり、~再び、かたくなで悪い心に従って歩むことをしない」。悪しき心が砕かれて、再びその道に歩まないという態度を主に示す。

  19~22節a 預言者を通して告げられる神の聖意
  22節「背信の子らよ、立ち帰れ。私は背いたお前の罪をいやす」。立ち帰りを三度も示した(12節、14節)。

22節b~25節 立ち帰りを言い表す
22節b「我々はあなたのもとに参ります。あなたこそ我々の主なる神です」。立ち帰り(シューブ)は、引き返す、悔い改める、心翻す、離れる、向きをかえると訳せる。神の許に行くことから立ち帰りがはじまる。方向転換しなければならない。

 23~24節 次にバアル礼拝の誤りを認める。
25節「我々は主なる神に罪を犯しました。御声に聞き従いませんでした」。日本語でいう「後悔する、悔いる、深く反省する」とは違う。シューブは、主なる神の前になされる事柄である。

 地獄への道には、後悔する、反省するという言葉が敷き詰められている。百万遍悔いても、立ち帰りには至らない。


生ける水の源

2009-11-19 | Weblog
エレミヤ2章
  
 イスラエルの罪を告発する預言 内容は以下八項目になる。
 (1)イスラエルへの呼びかけ(1~3節)
  (2)ヤコブの家(イスラエルすべての部族)への呼びかけ(4~9節)
  (3)イスラエル周辺の諸国を尋ねイスラエルが犯した罪を告発する(10~13節)
  (4)アッスリアの奴隷となっているイスラエル(14~16節)
  (5)主に対する背反(17~19節)
  (6)その背反を、手綱を切った子牛、雌のらくだ、雌ろばに譬える(20~25節)。
  (7)偶像礼拝と忘恩に陥っている(26~32節)
  (8)情事に等しい背信(33~37節)

  北イスラエルは遥か100年も遡ってアッスリアに滅ぼされ属国となっているが、エレミヤは複眼的な目で時代を見ている。

  2節「…わたしはあなたの若いときの真心、花嫁の時の愛…荒れ野の時の従順を思い起こす」。エジプト脱出の時の民は花嫁の純愛(ヘセド)で神に従順だったが、今は不倫の遊女で、諸々の偶像礼拝で情事に陥っている(20、32~34節)。それは雌らくだ、雌ろばのようだ(23~25節)。それは諸国の力と政治に頼る、主なる神への背信である(19節)。

  13節「まことに、わが民は二つの悪を行った。生ける水の源であるわたしを捨てて無用の水溜めを掘った。水をためることのできない こわれた水溜めを」。
 無用の水溜とは「ナイルの水、ユーフラテスの水」でアッシリヤとエジプトへの依存を指す(18節)。
 
  水はライフラインである。サマリヤの女はイエスから純愛ヘセドの泉を与えられた(ヨハネ福音書4章)。今ここで「生ける水の源」を保有しているかが問われる。

 わたしは若者にすぎません

2009-11-18 | Weblog
エレミヤ1章 
 
 1節「エレミヤの言葉…アナトトの祭司ヒルキヤの子」。彼の出生
 2節「主の言葉が彼に臨んだ」。彼の召命は一方的である。
2~3節 預言者活動期間。ヨシア治世13年からゼデキヤ11年迄とある。列王記下22章~25章、歴代誌下34章~36章から知ることが出来る。それはユダ王国の繁栄と滅亡の時代を背景にしている。
5節「わたしはあなたを母の胎内に造る前から…知っていた。…聖別し、預言者として立てた」。母の胎内に宿る前から聖別され預言者として立てられていた。
6節「…ああ、わが主なる神よ、…わたしは若者にすぎません」。年齢に関わりないと主は告げる。だから命じることをすべて語れという(7節)。
 8節「…恐れるな。わたしはあなたと共にいて必ず救い出す」。神の約束である。
 10節「見よ、わたしはきょう、あなたを万民の上と、万国の上に立て、あなたに、あるいは抜き、あるいはこわし、あるいは滅ぼし、あるいは倒し、あるいは建て、あるいは植えさせる」(口語訳)。その召命は厳しい。

11~13節 エレミヤの見た二つの幻
11節「…アーモンド(シャーケード)の枝が見えます」。これは12節「わたしの言葉を成し遂げようと見張っている(ショーケード)」と語呂合わせになる。預言者の使命が示される。
13節「…煮えたぎる鍋が見えます。北からこちらに傾いています」。北から外敵が襲来することを予告させるものである(14~15節)。

 14~19節 神の警告と預言者の働き
16節「…わが民のはなだしい悪に対して裁きを告げる」。それは偶像礼拝の罪である。
17節「あなたは腰に帯を締め、立って語れ…」。神はエレミヤを「鉄の柱、青銅の城壁」として、ユダの高官たち、祭司や国民に予言活動をするが、彼らに負けることはないと告げる(18~19節)。


平和を大河のように  

2009-11-17 | Weblog
  イザヤ66章1~24節   
 
 1~2節a 新しいエルサレム神殿
 1節「主はこう言われる。天はわたしの王座、地はわが足台。…どこに…神殿を建てうるか~」。それは人の手によって地上に建てる神殿ではない。

 3~4、15~17節 偶像礼拝の徹底した排除
 牛と羊を献げる祭司らが人を打ち倒し、犬の首を折り豚の血をささげて偶像をたたえる有様(3節)。神は彼らを見放し(4節)、やがて怒りの煙火で焼き滅ぼされる(15~17節)。同じ記述が65章2~7節にある。

 2節b、5~6節 主の言葉を聞け
 2節b「わたしが顧みるのは苦しむ人、霊の砕かれた人,わたしの言葉におののく人」。ここで神の言葉に心砕かれて聞く人に呼び掛けられる。それは神殿から響く神の声である(6節)。

 7~14節 妊婦の出産と乳児の譬
 7節「産みの苦しみが臨む前に彼女は子を産み…」。妊婦は新しいエルサレムの都を指す。陣痛が臨むや否や、神は妊婦の胎を開く(8~9節)。乳房に養われる乳児も産婦も喜びと慰めに満たされる(11、13節)。
 
 ここに素晴らしい予言の言葉が響く。
 12節「主はこう言われる。見よ、わたしは彼女に向けよう 平和を大河のように国々の栄えを洪水の流れのように。あなたたちは乳房に養われ 抱いて運ばれ、膝の上であやされる」。岩波訳「流れのように平安を、あふれる川のように国々の栄光を」。ここは新共同訳が良い。「平和を大河のように」という。

  18~24節 民族と国境を越えた新創造
  19節「わたしは彼らの間に一つのしるしを置き…諸国に遣わす」。それは神の栄光を見るためである(18節)。
20節は海外の遠い国々、島々から聖なる都に捧げ物を携えて集る様子である。
22節「わたしの造る新しい天と新しい地が、わたしの前に永く続くように」。これは預言者イザヤを通して告げられる神の終結の言葉となる。

 マリヤに抱かれる乳児イエスの絵は、平和を象徴している。哺乳は安全、安心の中でなされるべき生命の営みだから。



 新しい天と地

2009-11-16 | Weblog
イザヤ65章1~25節 

 1~16節 神の招きに背く反逆の民
1節「わたしにたずねようとしない者にも、わたしは、尋ね出される者となり…」。背ける民に対して神は呼び掛けられる。
2節「反逆の民…絶えることなく手を差し伸べてきた」。神は忍耐をもって民を待ち招いている。ローマ10章2節see

3~7節 偶像礼拝に陥っている民
それは3~4節「園で犠牲をささげ、墓場に座り、豚の肉を食べる」という甚だしい神への背反である。神の怒りの火は絶えず燃え、その行為に報いがある(5~7節)。
 
8~10節 その背ける民の中に選ばれた「わたしの僕ら」がいる
8節新改訳「主はこう仰せられる。「ぶどうのふさの中に甘い汁があるのを見れば、『それをそこなうな。その中に祝福があるから。』と言うように、わたしも、わたしのしもべたちのために、その全部は滅ぼさない」。ぶどうの木に酸っぱい実でなく、美味しい実の房があるという。TEV No one destroys good grapes
 9節「…ユダからわたしの山々を継ぐ者を引き出そう」。選ばれた民である。

11~16節「わたしの僕ら」(選びの民)と「お前たち」(反逆の民)との対照。
 11節「禍福の神」 ギリシャのティケー神 「運命の神」 アラビアのマレード神
13節 僕らは糧を得、飢えることも渇くこともなく、喜びの声をあげるが、反逆の民は飢え、渇き、心の痛みに泣き叫ぶ。
それは真実の神が下す裁定である(16節)。神の選びの根拠は民の側にはない。

17~25節 新しい天と地
17節「見よ、わたしは新しい天と、新しい地を創造する…」。選ばれた主の僕らになされる約束である。四つの祝福
① 長寿 エルサレムに喜びと楽しみの声があがり(19節)、年老いて長寿に満たされる(20節)。
② 勤労の喜び 家を建て、ぶどう畑に豊かな実を結ぶ(21~22節)。
③ 子孫の繁栄23節「…彼らは、その子孫と共に主に祝福された者の一族となる」。民の繁栄が約束される。
④ そして祝福の結果として動植物との共生(24~25節)である。弱肉強食ではない(11章6~8節see)。



わたしたちは粘土、あなたは陶工

2009-11-15 | Weblog
 イザヤ64章1~11節 
 
  63章1~19節の祈りに続く
  1節「…国々は御前に震える」。神の威光が国々に示されることを祈る(63章19節)。
  3節「あなたを待つ者に計らってくださる方は、神よ、あなたのほかにありません。~」。真実の解放はあなたの外にないと訴える。
  4~5節は新改訳が判りやすい。 
  「ああ、あなたは怒られました。私たちは昔から罪を犯し続けています。それでも私たちは救われるでしょうか。私たちはみな、汚れた者のようになり、私たちの義はみな、不潔な着物のようです」。不潔は月経を指している。
  6節「…わたしたちの悪のゆえに、力を奪われた」。岩波訳「われらを蕩けさせて、われらの咎の手へと渡されました」。
  7節「しかし、主よ、あなたは我らの父。わたしたちは粘土、あなたは陶工 わたしたちは皆、あなたの御手の業」。「しかし主よ」は大きな否定。Great but。どうして「あなたは我らの父」と呼ぶことができるかである。63章10節にもある。何かが起きなければ出来ない。それは神の側の「たぎる思いと憐れみ」(63章15節)ではないか。「たぎる思い」(ハマッハ)とは神の痛み(北森嘉蔵)である。

  9~11節 エルサレムの荒廃した状況が出てくる。これが何時の時代か不明であるが、預言者はエルサレムの繁栄を思い描いて、神の救いとその威光を願い訴える。

  ここでは、7節で神と民との関係を陶工の手の中にある粘土として示す。これは既に29章16節、45章9節にあり、またエレミヤも取り上げている(13章1~23節)。これは創世記2章に象徴的に記されている通りである。神との本質的関係である。

  しかし機械的従属ではなく、徹底した自己否定であり絶対者への自己放棄を示すものである。重要なのは「あなたは我らの父」と呼ぶ人格的関係で、そこからの神の救済は始まる。ここから主の僕(イエス)による贖いへの光が射してくる。