エレミヤ12章
1~4節 エレミヤの苦悩(11章18~23節の続き)
3節「主よ、あなたはわたしをご存知です。…わたしの心を究められた筈です」。
正しい主と論じても、彼らは口先だけ敬い、神の逆らっていて、なお平穏でおられるのは一体何故なのか判らないと訴えている。苦悩する孤独なエレミヤの姿を見る。
5~6節 それに神は応える
6節「あなたの兄弟や父の家の人々…彼らを信じるな~」。彼らとの対立は一層厳しくなり、親族も欺くことになる。預言者の孤独を一層明らかにする
7~13節、主の嗣業の地は打ち捨てられる
7節「私はわたしの家を捨て、わたしの嗣業を見放し…」。その嗣業の地は猛禽の住み家になり(8~9節)、
10節「多くの牧者が、わたしのブドウ畑を滅ぼし、わたしの所有地を踏みにじった。…」。牧者とは諸国の王を指し、侵略してユダの大地を荒らし打ち捨て(11節)、麦を蒔いても刈り取るのは茨でしかない(13節)と主は告げる。
14~17節、主の嗣業の地は新しく回復される
14節「主はこう言われる。『わたしが、わたしの民イスラエルに継がせた嗣業に手を触れる近隣の悪い民をすべて、彼らの地から抜き捨てる』…」。しかし主はいつまでも見放すのではない。その日が来れば嗣業の地を奪った近隣の民を大地から抜き取って、再びイスラエルを憐れみ、嗣業の地に帰らせるという(15節)。
16節「もしこれらの民が、かつてバアルによって誓うことをわたしの民に教えたように、わが名によって、『主は生きておられる』と誓うことを確かに学ぶならば、彼らはわたしの民の間に建てられる」。そして嗣業の地を奪った近隣の悪しき民も「主は生きておられると告白し、新しくされてこの地に来る。これはエレミヤの召命を受けた時の約束である(1章10節see)。ここにエレミヤの万民救済予言をみる。
キリスト者にも神の嗣業地を約束されている(エフェソ1章14、18節、テトス3章7節、ヘブライ9章15節、ヤコブ2章5節)。ここではペテロ第1手紙1章4節(口語訳)を読みたい。「あなたがたのために天にたくわえてある、朽ちず汚れず、しぼむことのない資産を受け継ぐ者として下さったのである」
1~4節 エレミヤの苦悩(11章18~23節の続き)
3節「主よ、あなたはわたしをご存知です。…わたしの心を究められた筈です」。
正しい主と論じても、彼らは口先だけ敬い、神の逆らっていて、なお平穏でおられるのは一体何故なのか判らないと訴えている。苦悩する孤独なエレミヤの姿を見る。
5~6節 それに神は応える
6節「あなたの兄弟や父の家の人々…彼らを信じるな~」。彼らとの対立は一層厳しくなり、親族も欺くことになる。預言者の孤独を一層明らかにする
7~13節、主の嗣業の地は打ち捨てられる
7節「私はわたしの家を捨て、わたしの嗣業を見放し…」。その嗣業の地は猛禽の住み家になり(8~9節)、
10節「多くの牧者が、わたしのブドウ畑を滅ぼし、わたしの所有地を踏みにじった。…」。牧者とは諸国の王を指し、侵略してユダの大地を荒らし打ち捨て(11節)、麦を蒔いても刈り取るのは茨でしかない(13節)と主は告げる。
14~17節、主の嗣業の地は新しく回復される
14節「主はこう言われる。『わたしが、わたしの民イスラエルに継がせた嗣業に手を触れる近隣の悪い民をすべて、彼らの地から抜き捨てる』…」。しかし主はいつまでも見放すのではない。その日が来れば嗣業の地を奪った近隣の民を大地から抜き取って、再びイスラエルを憐れみ、嗣業の地に帰らせるという(15節)。
16節「もしこれらの民が、かつてバアルによって誓うことをわたしの民に教えたように、わが名によって、『主は生きておられる』と誓うことを確かに学ぶならば、彼らはわたしの民の間に建てられる」。そして嗣業の地を奪った近隣の悪しき民も「主は生きておられると告白し、新しくされてこの地に来る。これはエレミヤの召命を受けた時の約束である(1章10節see)。ここにエレミヤの万民救済予言をみる。
キリスト者にも神の嗣業地を約束されている(エフェソ1章14、18節、テトス3章7節、ヘブライ9章15節、ヤコブ2章5節)。ここではペテロ第1手紙1章4節(口語訳)を読みたい。「あなたがたのために天にたくわえてある、朽ちず汚れず、しぼむことのない資産を受け継ぐ者として下さったのである」