創世記50章
20節「あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を 救うために、今日のようにしてくださったのです」(新共同訳)
1~2節「ヨセフは父の顔に伏して泣き、口づけした。ヨセフは自分の侍医たちに、父のなきがらに薬を塗り、防腐処置をするように命じたので、医者はイスラエルにその処置をした」。小見出し『ヤコブの埋葬』。ヤコブ物語の終章である。遺言によりカナンの地に持ち運ぶ為、ヤコブの遺体は防腐処置がなされた。その期間は四十日要した(3節)。エジプト人の七十日間の喪が明けて、ヨセフはファラオの許に父の葬りを願い出て、了解を得て出掛けた(4~6節)。7~9節 カナンに向う葬列。ヨセフと共にカナンに行く人々の葬列には、ヤコブの親族だけでなく、エジプトの宮廷の元老や長老に、戦車や騎兵も加わった。国を上げてヨセフに対する敬弔を表わしたのである。
10節「一行はヨルダン川の東側にあるゴレン・アタドに着き、そこで非常に荘厳な葬儀を行った。父の追悼の儀式は七日間にわたって行われた」。「ゴレン・アタド」とは「いばらの脱穀場」という意味。ここで七日間行われた追悼の儀式を見て、土地の人々は「エジプト人の盛大な葬儀だ」(エベル)と言った。その場所は「アベル・ミツライム」(エジプトの川)と呼ばれるようになった(11節)。「エベル」と「アベル」は語呂合わせ。続いて一行はカナンの地に入り、ヤコブの遺言(49章30~32節)通り、アブラハム、イサクが葬られているマクペラの洞穴に埋葬した(12~13節)。
15節「ヨセフの兄弟たちは、父が死んでしまったので、ヨセフがことによると自分たちをまだ恨み、昔ヨセフにしたすべての悪に仕返しをするのではないかと思った」小見出し『赦しの再確認』。これはヨセフが身を明かした時の言葉(45章5節)で赦しを得ていた筈だったが、父ヤコブの死で再び悪の仕返しを思ったのである。そこで父が亡くなる前に兄たちの咎と罪を赦してほしいとヨセフに告げた通りに、「あなたの父の神に仕える僕たちの咎を赦してほしい」と人を介しいて懇願する(18節)。父がヨセフに願ったことはどこにも記されていないが、49章で兄弟たちに告げた言葉の中でヨセフには特別な祝福の継承が告げられている処(25~26節)から、それを読み取っているとも考えられる。これを聞いてヨセフは涙を流し、赦しを受け入れた。
20節「あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです」。悪の計画を神は善に変え、救いの道を開かれたという理解は、聖書の中に脈々と示される救いの歴史(救拯史(きゅうじょうし))である。ここに45章5~6節と同じ神の摂理(providence)を読み取ることが出来る。キリスト者の生涯もまた、神の摂理の御手に導かれるのである(ローマ8章28節see)。
22節「ヨセフは父の家族と共にエジプトに住み、百十歳まで生き」小見出し『ヨセフの死』。ヨセフは兄弟たちに『わたしは間もなく死にます。しかし、神は必ずあなたたちを顧みてくださり、この国からアブラハム、イサク、ヤコブに誓われた土地に導き上ってくださいます』と告げた(24節)。ヨセフは百十年の生涯を送り、ヤコブと同様に孫を抱き、兄弟たちにカナンへの帰還の言葉を語り、埋骨に関する誓いをさせている(35節)。彼は神が顧みてくださると再度繰り返して死んだ。ヨセフの遺骨が実際に埋葬されるのは、幾世代も後のこととなる(ヨシュア記24章32節)。
20節「あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を 救うために、今日のようにしてくださったのです」(新共同訳)
1~2節「ヨセフは父の顔に伏して泣き、口づけした。ヨセフは自分の侍医たちに、父のなきがらに薬を塗り、防腐処置をするように命じたので、医者はイスラエルにその処置をした」。小見出し『ヤコブの埋葬』。ヤコブ物語の終章である。遺言によりカナンの地に持ち運ぶ為、ヤコブの遺体は防腐処置がなされた。その期間は四十日要した(3節)。エジプト人の七十日間の喪が明けて、ヨセフはファラオの許に父の葬りを願い出て、了解を得て出掛けた(4~6節)。7~9節 カナンに向う葬列。ヨセフと共にカナンに行く人々の葬列には、ヤコブの親族だけでなく、エジプトの宮廷の元老や長老に、戦車や騎兵も加わった。国を上げてヨセフに対する敬弔を表わしたのである。
10節「一行はヨルダン川の東側にあるゴレン・アタドに着き、そこで非常に荘厳な葬儀を行った。父の追悼の儀式は七日間にわたって行われた」。「ゴレン・アタド」とは「いばらの脱穀場」という意味。ここで七日間行われた追悼の儀式を見て、土地の人々は「エジプト人の盛大な葬儀だ」(エベル)と言った。その場所は「アベル・ミツライム」(エジプトの川)と呼ばれるようになった(11節)。「エベル」と「アベル」は語呂合わせ。続いて一行はカナンの地に入り、ヤコブの遺言(49章30~32節)通り、アブラハム、イサクが葬られているマクペラの洞穴に埋葬した(12~13節)。
15節「ヨセフの兄弟たちは、父が死んでしまったので、ヨセフがことによると自分たちをまだ恨み、昔ヨセフにしたすべての悪に仕返しをするのではないかと思った」小見出し『赦しの再確認』。これはヨセフが身を明かした時の言葉(45章5節)で赦しを得ていた筈だったが、父ヤコブの死で再び悪の仕返しを思ったのである。そこで父が亡くなる前に兄たちの咎と罪を赦してほしいとヨセフに告げた通りに、「あなたの父の神に仕える僕たちの咎を赦してほしい」と人を介しいて懇願する(18節)。父がヨセフに願ったことはどこにも記されていないが、49章で兄弟たちに告げた言葉の中でヨセフには特別な祝福の継承が告げられている処(25~26節)から、それを読み取っているとも考えられる。これを聞いてヨセフは涙を流し、赦しを受け入れた。
20節「あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです」。悪の計画を神は善に変え、救いの道を開かれたという理解は、聖書の中に脈々と示される救いの歴史(救拯史(きゅうじょうし))である。ここに45章5~6節と同じ神の摂理(providence)を読み取ることが出来る。キリスト者の生涯もまた、神の摂理の御手に導かれるのである(ローマ8章28節see)。
22節「ヨセフは父の家族と共にエジプトに住み、百十歳まで生き」小見出し『ヨセフの死』。ヨセフは兄弟たちに『わたしは間もなく死にます。しかし、神は必ずあなたたちを顧みてくださり、この国からアブラハム、イサク、ヤコブに誓われた土地に導き上ってくださいます』と告げた(24節)。ヨセフは百十年の生涯を送り、ヤコブと同様に孫を抱き、兄弟たちにカナンへの帰還の言葉を語り、埋骨に関する誓いをさせている(35節)。彼は神が顧みてくださると再度繰り返して死んだ。ヨセフの遺骨が実際に埋葬されるのは、幾世代も後のこととなる(ヨシュア記24章32節)。