日毎の糧

聖書全巻を朝ごとに1章づつ通読し、学び、黙想しそこから与えられた霊想録である。

神は多くの民の命を救うため、今日のようにしてくださった

2016-09-19 | Weblog
  創世記50章 

 20節「あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を 救うために、今日のようにしてくださったのです」(新共同訳)

  1~2節「ヨセフは父の顔に伏して泣き、口づけした。ヨセフは自分の侍医たちに、父のなきがらに薬を塗り、防腐処置をするように命じたので、医者はイスラエルにその処置をした」。小見出し『ヤコブの埋葬』。ヤコブ物語の終章である。遺言によりカナンの地に持ち運ぶ為、ヤコブの遺体は防腐処置がなされた。その期間は四十日要した(3節)。エジプト人の七十日間の喪が明けて、ヨセフはファラオの許に父の葬りを願い出て、了解を得て出掛けた(4~6節)。7~9節 カナンに向う葬列。ヨセフと共にカナンに行く人々の葬列には、ヤコブの親族だけでなく、エジプトの宮廷の元老や長老に、戦車や騎兵も加わった。国を上げてヨセフに対する敬弔を表わしたのである。
 10節「一行はヨルダン川の東側にあるゴレン・アタドに着き、そこで非常に荘厳な葬儀を行った。父の追悼の儀式は七日間にわたって行われた」。「ゴレン・アタド」とは「いばらの脱穀場」という意味。ここで七日間行われた追悼の儀式を見て、土地の人々は「エジプト人の盛大な葬儀だ」(エベル)と言った。その場所は「アベル・ミツライム」(エジプトの川)と呼ばれるようになった(11節)。「エベル」と「アベル」は語呂合わせ。続いて一行はカナンの地に入り、ヤコブの遺言(49章30~32節)通り、アブラハム、イサクが葬られているマクペラの洞穴に埋葬した(12~13節)。
  15節「ヨセフの兄弟たちは、父が死んでしまったので、ヨセフがことによると自分たちをまだ恨み、昔ヨセフにしたすべての悪に仕返しをするのではないかと思った」小見出し『赦しの再確認』。これはヨセフが身を明かした時の言葉(45章5節)で赦しを得ていた筈だったが、父ヤコブの死で再び悪の仕返しを思ったのである。そこで父が亡くなる前に兄たちの咎と罪を赦してほしいとヨセフに告げた通りに、「あなたの父の神に仕える僕たちの咎を赦してほしい」と人を介しいて懇願する(18節)。父がヨセフに願ったことはどこにも記されていないが、49章で兄弟たちに告げた言葉の中でヨセフには特別な祝福の継承が告げられている処(25~26節)から、それを読み取っているとも考えられる。これを聞いてヨセフは涙を流し、赦しを受け入れた。
  20節「あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです」。悪の計画を神は善に変え、救いの道を開かれたという理解は、聖書の中に脈々と示される救いの歴史(救拯史(きゅうじょうし))である。ここに45章5~6節と同じ神の摂理(providence)を読み取ることが出来る。キリスト者の生涯もまた、神の摂理の御手に導かれるのである(ローマ8章28節see)。 
  22節「ヨセフは父の家族と共にエジプトに住み、百十歳まで生き」小見出し『ヨセフの死』。ヨセフは兄弟たちに『わたしは間もなく死にます。しかし、神は必ずあなたたちを顧みてくださり、この国からアブラハム、イサク、ヤコブに誓われた土地に導き上ってくださいます』と告げた(24節)。ヨセフは百十年の生涯を送り、ヤコブと同様に孫を抱き、兄弟たちにカナンへの帰還の言葉を語り、埋骨に関する誓いをさせている(35節)。彼は神が顧みてくださると再度繰り返して死んだ。ヨセフの遺骨が実際に埋葬されるのは、幾世代も後のこととなる(ヨシュア記24章32節)。

父は彼らを、おのおのにふさわしい祝福をもって祝福した

2016-09-18 | Weblog
  創世記49章 
 
   28節「…これは彼らの父が語り、祝福した言葉である。父は彼らを、おのおのにふさわしい祝福をもって祝福したのである」(新共同訳)

  1節「ヤコブは息子たちを呼び寄せて言った。『集まりなさい。わたしは後の日にお前たちに起こることを語っておきたい』」。小見出し『ヤコブの祝福』。48章でヨセフの息子エフライムとマナセの祝福があるが、本章はヨセフの他の11人に向けられたヤコブの言葉である。
  2節「ヤコブの息子たちよ、集まって耳を傾けよ。お前たちの父イスラエルに耳を傾けよ」。「耳を傾けよ」(シェマー)は拳々服膺することで、申命記6章4節と同じである。
  3節「ルベンよ、お前はわたしの長子、わたしの勢い、命の力の初穂。気位が高く、力も強い。」。長子の誉れを失うと言われる(4節)。35章21~22節に言及
  5節「シメオンとレビは似た兄弟。彼らの剣は暴力の道具。」。34章シケムの虐殺事件に言及
  8節「あなたは兄弟たちにたたえられる。あなたの子は敵の首を押さえ、父の子たちはあなたを伏し拝む」。「たたえられる」(ヨドゥーハ)は「イエーダ」(ユダ)と語呂合わせ。「獅子の子」は力強さの象徴。ユダ族からダビデが生れ、メシアの到来につながる(ヨハネ黙示録5章5節see)。13節ゼブルンは地中海沿岸に住み、シドンを境にする。14~15節イサカルは二つの革袋を背負って伏せるロバの姿を描写する。16~17節ダン 「裁く」(ヤディン)と「ダン」と語呂合わせ。道端の蛇に譬えられる。馬の踵を噛むという。カナン定住に際して、ユダの領地から追い出され北の山地に追いやれる(ヨシュア記19章46~47節、士師記1章34節)。
  18節「わたしはあなたの救いを待ち望む」。ダンとガドの小さい領有地となる部族に対して、救いを待ち望む民として、ダンとガドの間に挿入された言葉。19節ガドはヨルダン川東側でしばしば砂漠の民の略奪に襲われる。
  20節「アシェルには豊かな食物があり、王の食卓に美味を供える。」。カルメル山北側の肥沃な海岸地帯を指す(ヨシュア記19章24~31節)。21節ナフタリはアシェルに隣接したイスラエル北部の肥沃な地(ヨシュア記19章32~39節)。22~26節ヨセフ 十二部族では、エフライムとマナセの名が挙げられるが、ここではヨセフとして言及される。泉の辺に植えられた若木で、石垣を越えて伸びる(22節)。外敵を受けるが、イスラエルの石(強さを表わす)となり牧者となる(24節)。全能者からの祝福、それは母の胎からの祝福、父からの祝福(25~26節)がヨセフの頭の上にあるという(26節)
  27節「ベニヤミンはかみ裂く狼/朝には獲物に食らいつき/夕には奪ったものを分け合う」。ヤコブの最も愛する子が、ここでは狼に象徴される。それは勇気と力を象徴するものである。朝と夕への言及は、常に敵から戦利品をもたらすことを指す。エフラエムとユダの間の重要な地域に位置している。最初の王サウルはベニヤミン族の出身であった(サムエル記上10章20節)。
  29節「ヤコブは息子たちに命じた。『間もなくわたしは、先祖の列に加えられる。わたしをヘト人エフロンの畑にある洞穴に、先祖たちと共に葬ってほしい』」。小見出し『ヤコブの死』。既に47章29~30節で依頼していたことを、ヤコブはここで改めて十二人に求めた。ヤコブは両足を揃え寝床の上に横になり、息が絶えた(33節)。

わたしの生涯を今日まで導かれた牧者なる神よ

2016-09-17 | Weblog
  創世記第48章
 
  15節「そして、ヨセフを祝福して言った。「わたしの先祖アブラハムとイサクがその御前に歩んだ神よ。わたしの生涯を今日まで導かれた牧者なる神よ」(新共同訳)

  1節「これらのことの後で、ヨセフに、『お父上が御病気です』との知らせが入ったので、ヨセフは二人の息子マナセとエフライムを連れて行った」。小見出し『ヤコブ、ヨセフの子らを祝福する』。老衰状態のヤコブはヨセフが来たことを知って力を奮い起し、寝台の上に坐った(2節)。「力を奮い起し」(イトファゼク)は「強くなって」である。力を振り絞ったのである。ヤコブをイスラエルと言い換えるのは祝福を授ける人を明確にする為である(14、20節see)。
  3節「ヤコブはヨセフに言った。『全能の神がカナン地方のルズでわたしに現れて、わたしを祝福してくださったとき~』」。「ルズ」はベテルの別名(28章19節)。ここでは35章10~11節のベテルの祝福を指している。ヤコブはヨセフの二人の子エフライムとマナセを「わたしの子にしたい」と告げる(5節)。二人は孫格であるが、ヨセフを通してヤコブの子として受け入れ、十二部族に二人の名が挙げられ、この後ヨセフに生れる子らの嗣業の地は兄たちの名で呼ばれることになる(6節)。8~20節 ヨセフの二人の子エフライムとマナセをヤコブが祝福する箇所。老齢で目がかすんでよく見えないヤコブにヨセフは二人を近か寄らせ、そしてヤコブは彼らを抱きしめ、口づけし、喜ぶ(8~11節)。
  13節「ヨセフは二人の息子のうち、エフライムを自分の右手でイスラエルの左手に向かわせ、マナセを自分の左手でイスラエルの右手に向かわせ、二人を近寄らせた」。ここでヨセフは、寝台に坐っているヤコブの前に向き合って、左側に次男エフライムを、右側に長男マナセを立たせた(12節)。ヤコブは両手を交差して、二人の頭に手を置き祝福した(14節)。
  15節「ヨセフは二人の息子のうち、エフライムを自分の右手でイスラエルの左手に向かわせ、マナセを自分の左手でイスラエルの右手に向かわせ、二人を近寄らせた」。祝福の言葉でヤコブは「先祖が…御前に歩んだ神」「わたしの生涯を導かれた牧者なる神」「~あらゆる苦しみから贖われた御使い」と三様に呼んでいる。「苦しみから贖われた御使い」とは32章23節以下のペヌエルの経験である。
  17節「ヨセフは、父が右手をエフライムの頭の上に置いているのを見て、不満に思い、父の手を取ってエフライムの頭からマナセの頭へ移そうとした」。父は「わたしの子よ、判っている」と答え、弟の方が彼より支配は大きくなり子孫は国々に満ちると告げたのである(18節)。
  19節「ところが、父はそれを拒んで言った。「いや、分かっている。わたしの子よ、わたしには分かっている。この子も一つの民となり、大きくなるであろう。しかし、弟の方が彼よりも大きくなり、その子孫は国々に満ちるものとなる。」これはカナン定住の時、人口がエフライムより二万人も多かったことで知られる(民数記26章34~37節)。この兄より弟が父からの祝福を受けるという出来事は、兄エサウとの間にあったその追体験ということになる(27章)。神の選びが、人の判断と異なることを物語る出来事である(ヨハネ福音書15章16節)。「分け前」(シェヘム)は「シケム」(地名)と結びつき、これはイスラエル十二部族がカナンを侵略し定住した時、エフライムとマナセの二部族がその中央部分の広範囲を領有したことを預言している(ヨシュア記16~17章see)。


ヤコブはファラオに祝福の言葉を述べた

2016-09-16 | Weblog
  創世記47章 
 
  7節「それから、ヨセフは父ヤコブを連れて来て、ファラオの前に立たせた。ヤコブはファラオに祝福の言葉を述べた」(新共同訳)

  1節「ヨセフはファラオのところへ行き、『わたしの父と兄弟たちが、羊や牛をはじめ、すべての財産を携えて、カナン地方からやって来て、今、ゴシェンの地におります』と報告した」。小見出し『ファラオとの会見』。ヨセフは打合せ通り五人の兄弟らを連れてファラオにゴシェンの地にきたことを報告した(2~3節)。ファラオはこれを受け入れ、一族に有能な者がいれば家畜の監督に登用しようと告げた(5~6節)。
  7節「それから、ヨセフは父ヤコブを連れて来て、ファラオの前に立たせた。ヤコブはファラオに祝福の言葉を述べた。」。異国の王に祝福の言葉を告げるという事柄は、一般には考えられないことであるが、神がアブラハムに約束した祝福は、今ヤコブを通してイスラエルを越え、すべての国民に向けられたことを証明する事柄であった(12章2節)。ファラオから何歳かと尋ねられ百三十年と答えた。しかし「生涯の年月は短く、苦しみ多いものだった」と述懐している。幾度も住居を変えねばならない旅路の生涯であったが、わたしの先祖たちには及ばないと述べた(9節)。
 1 3節「飢饉が極めて激しく、世界中に食糧がなくなった。エジプトの国でも、カナン地方でも、人々は飢饉のために苦しみあえいだ」。小見出し『ヨセフの政策』飢饑は民族、国土の境界を超えて全ての民の上に起こった出来事であった。
  20節「ヨセフは、エジプト中のすべての農地をファラオのために買い上げた。飢饉が激しくなったので、エジプト人は皆自分の畑を売ったからである。土地はこうして、ファラオのものとなった」。激しい飢饉が続く中、ヨセフは巧みな知恵でエジプトの宰相として国の財力を富ませ、支配権を絶対のものとした。民は家畜も農地も食糧を得るために手離してしまったからである。ただ祭司らはファラオから給与を受けて生活していたので、農地を売らなかった(22節)。やがて飢饉も終わり、農地を耕して種蒔きをする時期になった時、ヨセフはファラオに買い取られた土地に蒔く種を民に与えて、収穫の五分の一を納めることを定め、約束させた(23~26節)。ヨセフの政策は、神の計らいを受けて立ったものと言えるであろう。
  27節「イスラエルは、エジプトの国、ゴシェンの地域に住み、そこに土地を得て、子を産み、大いに数を増した」。小見出し『ヤコブの遺言』。ヤコブの一族はゴシェンの地に滞在しやがて十七年が経過し、ヤコブは百四十七歳となって。死の日が近づいたのでヨセフを呼び寄せた(28~29節)。
  30節「わたしが先祖たちと共に眠りについたなら、わたしをエジプトから運び出して、先祖たちの墓に葬ってほしい。」ヨセフが必ず、おっしゃるとおりにいたします」と答える。
  31節「『では、誓ってくれ』と言ったので、ヨセフは誓った。イスラエルは、寝台の枕もとで感謝を表した」。「感謝を表す」(イシャターフー)は「ひれ伏した」で、つまり拝礼を指す。この時の態度をかつてヨセフが夢の解釈で「父もヨセフの前に行って地面にひれ伏す」としたことの実現とする解釈がある(37章10節see)。
  しかしここで、「寝台」(ミッター)を「杖」(マッテー)と読み(七十人訳)、ヘブライ人への手紙では「杖の先に寄りかかって神を礼拝した」(11章21節)となっている。ヨセフをも祝福する立場にあるイスラエルにとって、この方が自然であることを知るのである。


神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになった

2016-09-14 | Weblog
   創世記45章 


  5節「しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです」(新共同訳)

  1節「ヨセフは、そばで仕えている者の前で、もはや平静を装っていることができなくなり、『みんな、ここから出て行ってくれ』と叫んだ。だれもそばにいなくなってから、ヨセフは兄弟たちに自分の身を明かした」。小見出し『ヨサフ見を証しする』。ヨセフは、エジプト人の仕えている者らを部屋から出して、身分を明かし兄弟水入らずの時を持つのである。「わたしはヨセフです」と言われ、兄弟たちは言葉もでない程驚いた(3節)。そしてエジプトの宰相になるまでの十三年間を思い起こしながら、あなた方がエジプトに売ったヨセフだという。(隊商に売られた事実を知らず行方不明で死んだと思っていた彼らは、そのことで口論になると予想された)。
  5節「しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです」。先に遣わされたとは、二年も続いている食糧飢饉が襲っている時に買い出しに来ることを指す。これら一連の出来事の背後に神の配慮(providence摂理)があったことを伝えるのである。これから五年とあるが、三年経って飢饉が止み、再度収穫を得るには二年はかかるということ(6、11節)。
  9節「急いで父上のもとへ帰って、伝えてください。『息子のヨセフがこう言っています。神が、わたしを全エジプトの主としてくださいました。ためらわずに、わたしのところへおいでください。」そしてヨセフは急いで父の許に帰り、ためらわず父を連れてここゴシェンの地に移住するようにと伝えた(10節)。ゴシェンはナイル川デルタ地域で、肥沃な土地であった。やがてイスラエルの民がエジプトを脱出する時の退路となる(11~13節)。
  14節「ヨセフは、弟ベニヤミンの首を抱いて泣いた。ベニヤミンもヨセフの首を抱いて泣いた」。兄弟とも抱き合い懐かしく語り合った。その様子が、ファラオの宮廷に伝わり、父と家族を呼んで来るのに必要なものは国が負担すると告げた(15~20節)。ヨセフもファラオが示した贈り物以上のものを様々贈った。然しベニヤミンだけは色を付けている(22節)。父親に対しても特別であった(23節)。
  24節「いよいよ兄弟たちを送り出すとき、出発にあたってヨセフは、『途中で、争わないでください』と言った」。「争う」(ティルズゲー)は「喧嘩する、動揺する、苛立つ」で、言い換えると心穏やかにし、兄弟同志の恨みや高ぶりを持つことがないようにということとなる。一行はベニヤミンとシメオンらと共に無事に帰り、ヨセフが生きていてエジプトの宰相の地位にあることなどを一部始終をヤコブに報告した。
  26節「直ちに報告した。「ヨセフがまだ生きています。しかも、エジプト全国を治める者になっています。」父は気が遠くなった。彼らの言うことが信じられなかったのである」。「気が遠くなった」(ヤーフォグ)は彼の心が「麻痺状態になった」ということである。死んでいたものが、生き返ったのであるから、想像にかたくない(ルカ福音書15章24節see)。そして彼は生きている間にヨセフとの再会を心から願うのである(28節)。

神が僕どもの罪を暴かれたのです

2016-09-13 | Weblog
  創世記44章

  16節「ユダが答えた。『御主君に何と申し開きできましょう。今更どう言えば、わたしどもの身の証しを立てることができましょう。神が僕どもの罪を暴かれたのです。この上は、わたしどもも、杯が見つかった者と共に、御主君の奴隷になります』」(新共同訳)

  1節「ヨセフは執事に命じた。『あの人たちの袋を、運べるかぎり多くの食糧でいっぱいにし、めいめいの銀をそれぞれの袋の口のところへ入れておけ』」。小見出し『銀の杯』。43章でヨセフは念願の弟ベニヤミンとの再会を果たし、祝宴を開いて慶び合った。そして帰途に着くことになる(2~3節)。その時執事はヨセフから命じられた通りにした。翌朝早く出発し町からまだ遠く離れていない処で、執事が追ってきて呼び止め、ヨセフからの伝言をユダと兄弟たちは聞いて驚く(4~6節)。
  9節「…僕どもの中のだれからでも杯が見つかれば、その者は死罪に、ほかのわたしどもも皆、御主人様の奴隷になります。」「銀の杯」は王の所有する占い用のもので、盗むことは死罪に当たる(5節)。ヨセフの代弁者として執事は、連帯責任は問わない、他の者に罪はないと告げて、各自の荷物を点検したところ、こともあろうにベニヤミンの袋の中から杯が出てきた(10~12節)。彼ら一行はやむなくヨセフの許に引き返した。ここで何故ベニヤミンの袋から出てきたのか兄弟たちは詮索しない。連帯責任ではないと言われても、ベニヤミンを残して帰る訳にはいかない。
  16節「ユダが答えた。『御主君に何と申し開きできましょう。今更どう言えば、わたしどもの身の証しを立てることができましょう。神が僕どもの罪を暴かれたのです。…御主君の奴隷になります』」。罪をあばくのは、人ではなく神であるとのユダの答弁に、神がすべてを見通しているという「神への畏れ」とその支配とが伺える。ここでヨセフは命じていた通り、ベニヤミンだけを置いて他の兄弟たちは父親の許に帰るようにと伝えた(17節)。
  18節「ユダはヨセフの前に進み出て言った。「ああ、御主君様。何とぞお怒りにならず、僕の申し上げます事に耳を傾けてください。あなたはファラオに等しいお方でいらっしゃいますから」小見出し『ユダの嘆願』。ユダの弁明と嘆願は大きく二つに分けられる。まずエジプトに食糧買い出しに来た時にヨセフと話した内容をまとめて語った(42章13~16節)。次に25~31節で二度目に父親との約束により、末の子を連れてエジプトに買い出しに来た事を語る(42章38節、43章11~14節)。
  32節「実は、この僕が父にこの子の安全を保障して、『もしも、この子をあなたのもとに連れて帰らないようなことがあれば、わたしが父に対して生涯その罪を負い続けます』と言ったのです」。そしてユダは、あなたの奴隷としたここに残し、他の兄弟と一緒にこの末の子も父親の許に帰らせてください。わたしが帰って父親に襲いかかる苦悶を見るに忍びないと嘆願する(33節)。
  ここに緊張した悲劇のクライマックスが描き出されている。かつてヨセフを失い、またベニヤミンを失う父親が「陰府に下ることになる」(28、31節で繰り返す)という苦悩の中で、十二人の心は解け合い結ばれることになる。父親がわが子を失うことの耐えがたい苦悩は、アブラハム物語にある(22章)。ダビデ物語にも出てくる(サムエル記下19章1節)。この人間愛を神の愛と置き換えることは出来ないが、類似として示されているのは、ルカ福音書15章11~24節である。「神は独り子を賜うほどにこの世を愛された」というメッセージもそのことを読み取ることが出来る(ヨハネ福音書3章16節)。

このわたしがどうしても子供を失わねばならないのなら、失ってもよい

2016-09-12 | Weblog
 創世記43章 

  14節「どうか、全能の神がその人の前でお前たちに憐れみを施し、もう一人の兄弟と、このベニヤミンを返してくださいますように。このわたしがどうしても子供を失わねばならないのなら、失ってもよい」(新共同訳)

 1~2節「この地方の飢饉はひどくなる一方であった。エジプトから持ち帰った穀物を食べ尽くすと、父は息子たちに言った。「もう一度行って、我々の食糧を少し買って来なさい」。込み出し『兄たち、エジプトに下る』。最初の買い出しで人質を取られたヤコブ一族が、再び出掛けるのは直ぐではなかった。42章の終りのヤコブの苦悩はどうなったのか。ユダはここで再度エジプトに行く条件を父ヤコブに伝えた(3~5節)。父が「なぜもう一人弟があるなどと言ったのか」と苦情をもらした(6節)。これに対して他の兄弟らも弁明した(7節)。この一連の会話の中心は相手つまり素性が明かれていないヨセフの「弟ベニヤミン」である。説得に応じたヤコブは土地の名産品と、戻されていた銀の二倍とを用意してエジプトに出掛けることになる(11~13節)。
 14節「どうか、全能の神がその人の前でお前たちに憐れみを施し、もう一人の兄弟と、このベニヤミンを返してくださいますように。このわたしがどうしても子供を失わねばならないのなら、失ってもよい」。原文は「わたしの子を失う(シャホルティ)時には、わたしの子を失うのだ(シャハルティ)」となっている。「成るようにしかならない」とも取れるが、そうではなく、ここには苦難への忍従と神への信任が表わされている。ヤコブの神への自己放棄perfect surrenderともいえる。ヨセフは兄たちが弟ベニヤミンと共に来たことを知る(15節)。彼は宰相の私邸に兄たちを招待し、食事を一緒にする手筈を整えるよう執事に伝えた(16~17節)。然しこのことを知らない兄たちは恐れて、前に来た時に銀の包みが袋に返されていたことで報復を受けるのではないかと案じた(18節)。そこで執事に、その事情と経緯について丁寧に説明し、返すために持って来たと告げた(20~22節)
23節「執事は、「御安心なさい。心配することはありません。きっと、あなたたちの神、あなたたちの父の神が、その宝を袋に入れてくださったのでしょう。あなたたちの銀は、このわたしが確かに受け取ったのですから」と答え、シメオンを兄弟たちのところへ連れて来た」。彼らの抱いていた恐れは一掃されることになった。
そして人質のシメオンを牢から連れて来て、外出中のヨセフが帰宅し食事を一緒にすることになる(24~25節)。
 26節「ヨセフが帰宅すると、一同は屋敷に持って来た贈り物を差し出して、地にひれ伏してヨセフを拝した。」。それはかつての夢の実現である(37章7~8節)。「年とった父上は元気か」と尋ねると、「あなたの僕である父は元気だ」と答える(27~28節)。弟ベニヤミンをじっと見つめて「これが末の弟か」と尋ね、「わたしの子よ、神の恵みがお前にあるように」(29節)と言った。年齢差はベニヤミンと左程になかった筈であり、隊商に売られた十七歳の時から既に二十年程は経過しているにも関わらず何故か「わたしの子よ」と言っている。ヨセフは弟懐かしさに胸が熱くなり、席を立って別室に行って泣いた(30節)。この会食で注意をうながしていることが二点ある。エジプト人がヘブライ人と一緒に食事をするのを忌んでいたので、ヨセフと兄弟たちとは別々に準備をしたこと(32節)、またヨセフが食卓に兄弟たちの年上から年齢順に座らせられたことに驚き互いに顔を見合わせたことである(33節)。

わたしは神を畏れる者だ

2016-09-10 | Weblog
  創世記42章 

  18節「三日目になって、ヨセフは彼らに言った。「こうすれば、お前たちの命を助けてやろう。わたしは神を畏れる者だ」(新共同訳)。

  1節「ヤコブは、エジプトに穀物があると知って、息子たちに、『どうしてお前たちは顔を見合わせてばかりいるのだ』と言い、更に~」。小見出し『兄たち、エジプトへ下る』。42~45章は、飢饉のためエジプトに食糧を兄弟たちが買い出しに行く物語である。ヤコブは息子たちにエジプトに穀物があると聞いているので買って来るようにと言った。カナン地方に飢饉が襲っていたからである(2節)。但しヨセフの弟ベニヤミンは、その身に何か不幸なことが起きては思い同行させなかった。十三年前のことを思い出したのだろう。
  6節「ところで、ヨセフはエジプトの司政者として、国民に穀物を販売する監督をしていた。ヨセフの兄たちは来て、地面にひれ伏し、ヨセフを拝した」。ヨセフは一目で兄たちだと気づいたが、素知らぬ顔で厳しく何処から来たかと問うた(7節)。
  8節「ヨセフは兄たちだと気づいていたが、兄たちはヨセフとは気づかなかった」。
「それと『知った』(ヴァヤキレム)が、彼らに向かっては『知らぬ者』(ヴァイトゥナケル)のようにした」(口語訳)。語呂合わせがある。その時ヨセフはかつて見た夢を思い起こした(9節、37章7節)。お前たちは回し者だと言われ、必死に弁明する(10~11節)。しかしヨセフは尚しつこく問い質したので、僕どもには十二人兄弟で一人は父の許におり、一人は失ったと身上を語った(13節)。そこでヨセフは父の許にいる末の弟を連れて来い、そうしたら回し者でないことが立証できると要求した(14~16節)。
  18節「三日目になって、ヨセフは彼らに言った。「こうすれば、お前たちの命を助けてやろう。わたしは神を畏れる者だ」。「神を畏れる者だ」とは、言葉の信頼性を示し、これに正直であるかどうかを試す者だとしたのである。ヨセフはここで人質を一人残して帰国し末の弟を連れてくることを命じた(19節)。兄弟らは、この苦境がかつて弟のことで罰をうけているのだと話し合っているのを聞いたヨセフは別室で聴き、涙したとある(21~23節)。シメオンが人質になり、食糧をラクダの背に乗せて帰途についた(24~26節)。途中第一日目一人がラクダに餌をやった時、袋の中に支払いに持参した代価が入っていたのに驚いた(27節)。身に覚えのない事で神のなさったと受け取った(28節)。しかしカナンに帰国した時他の兄弟たちにも同じように代価が入っている袋を見て、彼らは恐れを抱いた(35節)。それはこの代価をヨセフに返さねばならず、同時に人質を取り返す為にベニヤミンを連れて行かねばならない約束を想ったからである。
  36節「父ヤコブは息子たちに言った。『お前たちは、わたしから次々と子供を奪ってしまった。ヨセフを失い、シメオンも失った。その上ベニヤミンまでも取り上げるのか。みんなわたしを苦しめることばかりだ』」。ルベンは父に旅の一部始終を報告し、ベニヤミンもシメオンも連れて帰るからと進言したが、聞き遂げられなかった(37~38節)。ヨセフの側では、すべての成り行きが悲しみでなく、再会の喜びを秘めた事柄であるにも関わらず、ヤコブと兄弟たちには悲嘆にくれる出来事であることを示している。神の定められた計画と聖意を今は悟ることが出来ないが、やがて理解することが出来ることを知ることになる。「神の秘められた計画を悟る」者でありたいと願う(コロサイ2章2節)。


わたしではありません。

2016-09-07 | Weblog
  創世記41章 

  16節「ヨセフはファラオに答えた。「わたしではありません。神がファラオの幸いについて告げられるのです」(新共同訳)

  1節「二年の後、ファラオは夢を見た。ナイル川のほとりに立っていると~」。ヨセフの夢解きについての続きの物語となる。ファラオはよく似た夢を二度みたが、それは心を騒がせるものであった。初めの夢は2~4節にある。
  2節「突然、つややかな、よく肥えた七頭の雌牛が川から上がって来て、葦辺で草を食べ始めた」。これは水牛と考えられる。この後やせ細った七頭の水牛が来て、肥えた七頭の牛を食べた(3~4節)。
  5節「ファラオがまた眠ると、再び夢を見た。今度は、太って、よく実った七つの穂が、一本の茎から出てきた」。第二の夢は七つの穂が一本の茎からでてきたが、続いて実のない七つの穂がでて来て、これをのみ込んだ(6~7節)。未来を予測させるような夢だったのでファラオが悩んだのである。
  8節「ひどく心が騒ぎ」(ヴァティバエム)は、「掻き立てられる、心が高鳴る」で、夢が何を意味するのか不安と恐れを抱いたのである。そこでエジプト中の占い師や賢者を集めて夢の解き明かしを命じたが、誰一人解くことは出来なかった。その時牢獄から解放された献酌官長が約束を破って忘れていた「自分の過ちを思い出し」(9節)、ヨセフのことをファラオに告げた(9~13節)。早速ヨセフは牢から呼び出され、夢を解き明かす者がいないのだが、お前は夢の話を聞いて、解き明かすことが出来るそうだが、と言った(14~15節)。
   16節「ヨセフはファラオに答えた。「わたしではありません。神がファラオの幸いについて告げられるのです」。「わたしではありません」(ビルアーダイ)は「わたし抜きです」ということ、それは「神のもの」(レロヒーム)だという(40章8節see)。つまり神の賜物ということである。17~25節でファラオは夢を彼に語った。
  25節「ヨセフはファラオに言った。『ファラオの夢は、どちらも同じ意味でございます。神がこれからなさろうとしていることを、ファラオにお告げになったのです』」。ヨセフは雄牛と穂の数を年数と解釈して、未来の起こる豊作と飢餓の各七年間だと告げた。そして夢を二度続けて見たのは、神が既にこれを決定しておられ、実行しようとしているからだと語った(29~32節)。そこで聡明で知恵ある人物を立てエジプト治めさせ、豊作の七年間に五分の一を徴収して保管し、その後の七年間に備蓄するなら飢饉で国が滅びることはないと進言した(33~36節)。
  39節「ヨセフの方を向いてファラオは言った。「神がそういうことをみな示されたからには、お前ほど聡明で知恵のある者は、ほかにはいないであろう」。ファラオはヨセフの夢解きと提言に納得し、彼を高位へと任命する(40~41節)。印章のついた指輪を渡し、宰相と同じ宮内長官に任じた(42~43節)。「第二の車」はそれを示す。「アブレク」は「ひざまずかせよ」「跪け」である。
  45節「ファラオは更に、ヨセフにツァフェナト・パネアという名を与え、オンの祭司ポティ・フェラの娘アセナトを妻として与えた。ヨセフの威光はこうして、エジプトの国にあまねく及んだ」。「ツァフェナト・パネア」とは「かくれたものを解く人」のこと。この時三十歳だったという。十七歳で売られて十三年が過ぎたことがわかる(37章2節)。彼が予告した通り、七年の豊作の間、穀物を備蓄した(47~49節)。続く七年は凶作となり飢饉が国内外に及び、穀物を求めてヨセフにもとに来た(53~57節)。豊作の時にヨセフは二人の子を与えられ、長男を「マナセ」(メナシェー=忘れさせる)、二男を「エフライム」(ヒフラーニ=実り豊かにする)と命名した(50~52節)。深い感慨が込められている。

解き明かしは神がなさることではありませんか

2016-09-06 | Weblog
  創世記40章 

   8節「『我々は夢を見たのだが、それを解き明かしてくれる人がいない』と二人は答えた。ヨセフは、『解き明かしは神がなさることではありませんか。どうかわたしに話してみてください』と言った」(新共同訳)。

  1節「これらのことの後で、エジプト王の給仕役と料理役が主君であるエジプト王に過ちを犯した」。給仕役の長(新改訳=献酌官長)とは王に酌をしながら相談にのる役職、料理役の長(新改訳=調理官長)はパンを焼いて王に献げる役職であった。二人がどんな罪を犯したかは触れていない。二人は侍従長の家にあるヨセフが繋がれている監獄に引き渡された(2~3節)。
  4節「侍従長は彼らをヨセフに預け、身辺の世話をさせた。牢獄の中で幾日かが過ぎた」。39章21節には「監守長」がいるが、ここでは出てこない。「侍従長」の下に置かれていた牢獄の長と思われる。幾日か過ぎて、ある朝ヨセフは二人のところに行ってみると「ふさぎ込んでいた」。口語訳「悲しみに沈んでいた」、新改訳「いらいらしていた」。何故そのような憂鬱な顔をしているのかと尋ねた。
  8節「『我々は夢を見たのだが、それを解き明かしてくれる人がいない』と二人は答えた。ヨセフは、『解き明かしは神がなさることではありませんか。どうかわたしに話してみてください』と言った」。そこで先ず献酌官長が話した。ぶどうの木に三本のつるが伸びて芽を出し、花がつき、実を結んだ。それを絞って杯に満たしファラオに献げたというもの(9~11節)。
  12節「ヨセフは言った。「その解き明かしはこうです。三本のつるは三日です」。彼はは「それは三日後、ファラオが頭をあげて元の職務に復帰するということだ」と解いた。「頭を上げる」とは、王の前に頭を下げて坐し、謁見の時顎に手をかけて頭を上げるのである。その時にはわたしを思い出して牢からでるよう取り計らって欲しいと頼んだ(12~15節)。
  16節「料理役の長は、ヨセフが巧みに解き明かすのを見て言った。『わたしも夢を見ていると、編んだ籠が三個わたしの頭の上にありました』」。続いて調理官長も夢についてヨセフに話した。頭の上に載っている三個の籠の、一番上の籠から調理官長が作ったパンをファラオでなく鳥が来て食べているというものである(17節)。
  18節「ヨセフは答えた。「その解き明かしはこうです。三個の籠は三日です」。セフはその夢は「三日後にあなたの頭を上げて切り離し、木にかけられ、鳥に肉をついばまれる」と告げた19節)。
  20節「 三日目はファラオの誕生日であったので、ファラオは家来たちを皆、招いて、祝宴を催した。そして、家来たちの居並ぶところで例の給仕役の長の頭と料理役の長の頭を上げて調べた。」そしてヨセフの預言した通りに献酌官長は無実で復職したが、料理官長は有罪となり木に架けられてしまった。二人の嫌偽を受けた内容が何であったか不明であるが、ヨセフが夢解きで伝えた通りの結果になった。彼が料理官長に、臆することなく夢の内容を伝えることは、容易ならざることであっただろう。
  23節「ところが、給仕役の長はヨセフのことを思い出さず、忘れてしまった。」
ここで問われているのは、ヨセフの夢解きの結果が正しかったことより、献酌官長が、その事実を忘れてしまったことである。それを思い出す二年間は、神の時としてヨセフは待たねばならない。「たかが夢、されど夢」、神の幻は夢の中に示される(使徒言行録2章17節)。