まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第32番「斑鳩寺」~新西国三十三所めぐり・33(まずは網干から)

2017年05月21日 | 新西国三十三所
2016年の1月から始めた新西国三十三所めぐり。残りは比叡山横川中堂、大阪市内の太融寺と鶴満寺、西神の太山寺、前回納経帳に朱印をいただけなかった福崎の金剛城寺、兵庫・太子町の斑鳩寺、そして満願札所である佐用町の瑠璃寺というところである。まあ、今のペースで回っていれば今年の夏か秋には回りきるかなというところ。

今回はその中で兵庫・太子町の斑鳩寺に向かう。これまで、くじ引きとサイコロの選択肢では「龍野」と書いていた。寺があるのはその南の太子町であるが、昔からの城下町で知られる龍野とセットで訪ねるのがよいかなということで組んでいた。別に狙ったわけではないが、この4月~6月は、JR西日本の「ちょこっと関西歴史たび」のキャンペーンの舞台が龍野である。町のさまざまなイベントは日程が合わないので参加できないとしても、こういう時に訪ねるのもよいだろう。そういえば、新西国の札所めぐりでは、須磨寺に行った時にこのキャンペーンと時季が重なっていた。

で、その前に斑鳩寺である。こちらは兵庫の太子町にある。大阪から阪神高速を西に走ると、第二神明、加古川バイパス、姫路バイパスと来て、その次が太子竜野バイパスである。子どもの頃にこうした道を通って、「何で兵庫県に太子町があるの?」と思ったところである。太子町といえば大阪のそれというイメージが強かったし。

その兵庫の太子町だが、伝承によれば聖徳太子が推古天皇から播磨の揖保郡の土地を賜り、当地を斑鳩荘(鵤荘)と命名し、伽藍を建立した歴史からつけられている。その伽藍が現在の斑鳩寺の始まりとされている。そのことは、聖徳太子の頃から播磨のこの辺りというのが褒美として賜るにふさわしい土地だったということを示しているのだろうか。その辺の空いている土地を・・・というわけにもいかなかっただろう。

・・・話がいつものように長くなっているが、その斑鳩寺にどうやって行くか。最寄りはその名も鵤(いかるが)のバス停で、そのバスは姫路、または網干から龍野、そして山崎を結ぶ系統である。ただ本数はそれほど多いわけではないので、前もって時刻表でチェックする必要がある。そこで見つけたのは、JR網干駅9時09分の龍野経由山崎行き。JRの網干も、新快速に乗る時に「新快速網干行き」という放送はこれまでにも何度となく聞いているし、駅も何度となく通過したが、これまで駅に降り立ったことがない。一度そうした駅前を見るのもいいかなと思う。

ただここで、同じ網干でも駅はもう一つあると主張してくるのがある。JRから少し南にある山陽電車の網干駅。こちらは姫路への本線に対して飾磨から西に向かう支線である。上記のバスも山陽電車の網干駅8時59分で通過する。そうなるとどうするか。なかなか乗る機会のない山陽電車の網干にまずは行ってみようと思う。大阪からJRより所要時間がかかるが、そこは少し早起きすればクリアできることである。

・・・ということで、朝の6時20分頃に阪神電車の梅田駅に現れる。乗るのは6時29分発の姫路行きの直通特急である。これに乗って飾磨で降りることにする。そして私が手にしているのは、阪神・山陽の「シーサイド1dayチケット」である。阪神、山陽の両電鉄全線が2000円で1日乗り放題。大阪から姫路・網干まで往復するだけでも500円以上安い。山陽電車の5000系特急車両でまずは西を目指す。途中、須磨の海、そして明石海峡大橋を間近に見るのも楽しみである。

飾磨に到着。構内の真ん中の行き止まり式のホームに網干行きが停車している。姫路への本線に対して、網干行きは単線の区間である。ただそこは途中駅での行き違いをうまくダイヤに生かしていて、日中はおよそ15分に1本の運転となっている。15分に1本なら鉄道の運転間隔としては決して悪くない。

行き止まり式の山陽網干に到着。乗る予定の8時59分発のバスまで40分ほどある。思ったよりも早くに到着した。ただその待ち時間を駅前でボーっとして過ごすのももったいないかと思う。そこで思いついたのが、網干には何か近場で見るものはないのかということである。ともかく、南の方向に歩き出す。

すると揖保川に出た。揖保川にかかる橋のたもとに、「網干陣屋跡」の案内標識があった。歩いてもそれほど時間がかからないというのでそちらに向かう。

すると町並みが昔ながらの風情となり、その向こうに陣屋跡として復元された門があった。

この網干というのは江戸初期は姫路藩に属していたが、その後龍野藩のものとなった。しかし、その後の龍野藩主である京極氏が讃岐の丸亀にお国替えとなり、その後に入ったのが脇坂氏である。その京極氏が讃岐に移るにあたり、この網干一帯を丸亀藩の飛び地として領有したいと申し出た。それが幕府から認められ、その後丸亀の京極氏は網干に代官や奉行を置いた。揖保川の水運と、さらにそれに続く瀬戸内の交易を手に入れたわけだ。こうして見ると、「網干」の昔を伝えるのは山陽網干のほうで、JRの網干は単なる通過駅、または車庫のある駅というくらいでしかないのかなと思う。

網干の中には当時の風情を今に伝える建物もあるが、近年建てられたと思われるのが金刀比羅宮である。京極氏丸亀藩だからこうしたものも建立されたのであろう。まあ、こうしたものを見ることができたのも、網干まで来た甲斐があったと思う。

さてそろそろバスの時間ということで、少し駆け足になって駅前に戻る。やって来たのは山崎行き。これは斑鳩寺の最寄である鵤バス停を通るが、見事にガラガラであった。これではこの先バスもどうなることやらと心配である。

バス停から歩いて5分あまり。斑鳩寺の仁王門が見えてきた。まずはここに入ってみようということで・・・。
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