世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

小京都・竹原

2017-01-08 10:45:56 | 旅行
昨年末の30日、思い付きで竹原へ行ってきた。予てより一度は行ってみたいと考えていたが、孫が泊りに来て時間もあったので、行ってみようと決まった。幕末ころの古い家並がつづいている。格子窓には花が活けてある。なるほど雰囲気は小京都か。
その格子窓の住居から100mほどであったろうか、竹鶴酒造が見えてきた。塩田業のかたわら享保18年(1733)に酒造業を始めたという。ニッカの竹鶴政孝の生家である。

その生家から300mも離れているであろうか、広場で2人(竹鶴政孝とリタ)の銅像を見ることができた。
竹鶴酒造の斜向かいが、松坂邸と呼ぶ豪商の住居で塩田経営、廻船業、醸造業と多角化経営であったとのことである。
儒学者と呼べばよいのであろうか、多彩多芸の頼山陽の父・春水は、当地の豪商の生まれで、その父が大阪遊学中に頼山陽は生まれた。下の「春風館」は塩田経営していた頼山陽の叔父・頼春風の住居で元明元年(1781)の建築。
その隣は、頼春風の養子である小園が建てた住居で「復古館」と呼ぶ、その三男が分家として独立したとのこと。その三男家は幕末から明治にかけて酒造業を営んだと云う。下の光本邸・今井政之陶芸の館は、「復古館」の離れであったという。

時は12月30日の年末で閉館しており、見学はできなかった。今井政之の陶磁が約30点展示されているという。代わりに当該ブロガーのコレクションを紹介しておく。

箱書きには象嵌彩柘榴文とあり、サイズは20cmほどの中皿である。収縮率の異なる胎土と彩土の象嵌を見事に焼き上げる技術は相当なものであろう。




北タイ陶磁の源流考・#5<インドシナの治乱攻防と窯業・#1>

2017-01-08 08:45:26 | 北タイ陶磁
<続き>

1.6世紀頃のインドシナ諸国

以下、ウキペディアを参考に6世紀頃から中世までのインドシナ地域の治乱攻防と、窯業の発生について概観してみたい。
 (ウキペディアより)

「北属期・前李朝」・・・キン(ベト)族
北ベトナムの北属期とは漢から唐までの隷属期を云うが、6世紀は隋に属していた。約3世紀後の9世紀の呉朝ないしは、丁(ディン)朝の頃にドゥオンサー窯が操業を始めたとされる。

「CHAMPA・林邑国」・・・チャム族
西暦192年、漢の最南端、日南郡象林県(北中部、現フエ付近)で功曹という官吏であった区連という者が叛乱を起こし、林邑国(チャンパ王国)を建てた。日南郡を滅ぼした林邑国は、中国南朝に朝貢を繰り返し当初は中国文化の影響を受けていたが、間もなくベトナム南部からカンボジアに掛けて存在した交易国家扶南の影響を受け、ヒンズー文明を受容した。

「扶南国」
1-7世紀にかけて、メコン下流域に栄えたヒンズー教、仏教(但し5世紀以降)を奉じた古代国家。
扶南を建国した民族は、クメール系かオーストロネシア系か、はっきりしていないが、当時属国としていた真臘は、クメール族の国であった。

「真臘」・・・クメール族
扶南の属国であったが628年、イシャーナヴァルマン1世が扶南を占領した。クメール族国家。
6世紀より3世紀後のインドラバルマン1世(877-889年)頃、施釉陶(小瓶や盒子)と施釉瓦がロリュオス遺跡で出現したとされている。

「ドヴァーラバティー王国」・・・モン族
6-11世紀頃まで存在したと云われているモン族国家。ナコンパトムを中心とした、チャオプラヤー川沿いのモン族国家の連合体。
メコン川支流のチー川、ムーン川流域にもモン族による環濠集落や製塩、製鉄遺跡がみられるので、タイの東北部(イサーン)にまで勢力が及んでいたと思われる。
上座部仏教が信仰され、ドヴァーラバティー時代の建物の煉瓦は、ミャンマーのピュー王国(3世紀?-10世紀)時代の煉瓦と規格が似ているという。
モンはビルマ語で「タライン(Talaing)」と呼ばれるが、これはビルマ人がモン人を、インドのコロマンデル海岸のタランガ(Talanga)から渡来した民族と考えたことに由来する。それはともかく操船技術にたけたモン族は、古くから印度、スリランカと密接な交易関係をもっていた

「ピュー王国」・・・ピュー族
版図を示す地図には「SRI KSETRA」、つまりシュリークシェートラと記されている。それはピュー王国(漢字表記・驃)を構成する最古の城郭都市と云われている。
ピュー族は、1-2世紀頃に南インドから下ビルマに、移住したであろうと考えられている。ピューは「隋書」に「朱江」と記され、真臘(クメール)と交流があったと、伝えられている。
「新唐書」は驃について、その東に真臘、北は南詔と隣接していたこと、王城の周囲が160里あり、煉瓦造りの濠で囲まれ、12の城門があること、百を超える寺院があり、屋根が輝く甍で葺かれている等と記している。
さらに中国側史書によれば、王国の城壁が焼物で装飾されている・・・とのことである。従って8-9世紀には施釉陶が存在していた可能性がある

「シュリービジャヤ王国」・・・マレー系
6世紀に遅れる7世紀に、マラッカ海峡を支配して、東西交易で重要な位置をしめた交易国家。
本拠はスマトラ島であるが、マレー半島でドヴァーラバティー王国と接しており、相互に影響を与えあった。従ってモン族の領域にシュリービジャヤ文化の影響を見ることができる。
(ウキペディアより)

6世紀頃のインドシナ諸国をみてきた。中世タイ族が南下・西南下する以前はクメール、モン族等々が先住民で、彼らの世界を築いていたことになる。モン族はマレー半島の東岸と西岸を制し、東西交易をになって繫栄していた。それに接するシュリービジャヤ王国もまた、東西交易にて繫栄していた。6世紀頃の版図を示すウィキペディアの図を用いて説明してきたが、奇しくも9世紀頃には3箇所で、ほぼ同時に施釉陶の生産が開始されたかと思われる。それは北ベトナムのドゥオンサー窯とクメールの施釉陶、ミャンマー・ピュー王国の施釉陶である。先進の技術は伝染病のように伝播するのであろうか?




                                 <続く>