世界の街角

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「陶磁器・パヤオ」シリーズ・10

2016-01-31 09:11:54 | 北タイ陶磁
<続き>

<ウィアン・ブア陶磁>

●ウィアン・ブア陶磁の魚文
ウィアン・ブア陶磁に、はっきりと見られる模様は多くの場合、魚文である。単魚文の場合や双魚文の場合もあるし、数匹も描かれる場合もある。魚の文様を描く際、特に双魚文の場合は、頭と尻尾が交互になるように描かれる。中国の道教(陰陽道)の影響を受けたものだと云われている。
しかし、この見方はまだ明確ではないであろう。様々な論点から議論が必要である。バーンブアの陶工集団が、中国の道教思想やその考え方の影響を受けることが可能であるかどうか、という問いについてである。
当時の仏暦20-21世紀(西暦14世紀半ばー15世紀半ば)頃、タイの北部地域、またはランナー地域はスリランカ式仏教の影響下にあった。スリランカ式仏教はこの土地でますます発展し、有力者たちの支持を得た。
よってウィアン・ブアの魚文様について、ブア村の陶工集団が魚文を、中国やその他の地域の陶磁器や仏教由来の品々に、見かけることは可能であったはずだ。例えば魚文様のあるスコータイの盤を、更には仏足石(跡)に刻まれた双魚を、目にする機会はあっただろう。そして、その形式や文様を自分たちの盤に反映させた。このことは、陶磁器作りにおいては、昔も現在も普通のことである。お互い常に模倣しあう。
特に中国陶磁はよく模倣される。タイ国内も中国陶磁器からの文様の模倣はある。例えばスコータイの盤、ランナー地方の窯の盤など。元朝時代の盤からの魚文の模倣、明朝時代の青磁の麒麟文様の模倣などである。カロン窯群の陶工は、麒麟文を応用してカロンの盤に描き出した。
(写真の盤が明青花見返り麒麟文盤で、その麒麟を写したカロン鉄絵麒麟文皿と鉄絵麒麟文玉壺春瓶である)
上記の理由から、ウィアン・ブアの魚文様は、道教視点と云う意味があるのではなく、芸術的な影響を受けたと考えたほうが良さそうだ。もっと踏み込めば仏教由来の仏足石双魚文、その根底には黄道十二宮の双魚宮があるのだが、その影響も考えられる。
盤類にある魚文様は双魚だけと決められているのではなく、2匹以上のもの、8匹も描かれたものもある。そして様々な形、様々な種類の魚文様がある。大部分はその土地の魚であり、日常生活で目にするものである。よって、陶工は文様を作るときに応用して用いた。魚文については、中国陶磁の影響だけでなく、他の地域の陶磁や品々からも、影響を受けたであろう。
(青磁釉のかかった盤片。見込みに8匹の印花魚文様を見る。パヤオ県ムアン郡メーガー地区ウィアン・ブア窯群より出土)
(上の盤片は印花三魚文でウィアン・ブア窯群のジャーマナス古窯址より出土した)
Kriengsak Chaidarung氏は、その著書「陶磁器・パヤオ」で、興味深い盤片を紹介しておられる。それは元時代の福建省同安窯⑩にて焼成された、青磁印花双魚文盤片だという。先ず写真を紹介したい。
写真の解像度が低く、印花魚文の詳細が分かりにくいが、腹側の鰭が2箇所ある。背側の鰭は残念ながら分かりにくい。パヤオの印花双魚文盤の魚文の特徴は、腹側の鰭が2箇所、背側の鰭が1箇所である。断定はできないが、なにやら示唆するものがありそうだ。
このKriengsak Chaidarung氏の記述に、驚きを禁じ得ない。上の写真の説明文を何度も読み返す。下の棒線部分は、タオ・トンアン(窯・同安)と記され、同安窯産となる。
この印花双魚文盤片の説明書きを翻訳すると、青磁釉のかかった双魚文盤で、元時代の福建省同安窯にて焼成された。ウィアン・ブア窯群とチェンマイ県のサンカムペーン窯群で作られた皿と非常によく似ている・・・となる。
この盤片の出所はウィアン・ブア古窯址であろうか? いずれにしても、この盤片は大きな課題を突きつけている。それは従来の考察を覆すに値する資料を提供したことにある。従来、パヤオやサンカンペーンの印花双魚文は龍泉窯貼花双魚文の影響を指摘する識者が多く、バンコク大学付属東南アジア陶磁館も龍泉窯盤とサンカンペーン盤を対比して展示している。これについては、印花双魚文のオリジンに迫る、何事かを示すものであり別途考察する。

注釈
⑩当該ブロガーのつたない知識で同安窯と云えば、オリーブ・グリーンに発
 色した、上手とは云えない一群を指し、その代表が珠光青磁であるが、写
 真の盤片は翠色に発色し貫入をみる。このような陶磁が同安窯や同安窯系
 に存在するのか?知識を持たない
                       
                            <続く>

「陶磁器・パヤオ」シリーズ・9

2016-01-30 08:22:09 | 北タイ陶磁
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<ウィアン・ブア陶磁>

●その他の遺跡で出土したウィアン・ブア陶磁
パヤオ県ジュン郡ロー地区のウィアン・ロー遺跡近くにある廃寺ワット・シーチュムで、2005年に行われた芸術局による遺跡調査で、双魚文様のある黄緑色の青磁釉が掛かった盤が出土した。これは、ウィアン・ブア窯群の盤である。合わせて高台底に陳□□造と書かれた、明時代の陶片も同時に出土した。
(写真は、ウィアン・ブア窯群のひとつである、ジャーマナス古窯址から出土した双魚文盤片で、ワット・シーチュム廃寺から出土した盤片と同じものである)
この他、上記のウィアン・ブア陶磁と中国陶磁が出土した同じ場所で、下写真のファクカーム文字が刻文された煉瓦片も見つかっている。煉瓦片に書かれたのは、ファクカーム文字である。仏暦21-22世紀(西暦15世紀半ばー16世紀半ば)頃のもので、これまで見つかったものと同じ頃である。
もっとも古いファクカーム文字の刻印は、仏暦1954年(西暦1411年)ワット・スワンマハーウィハーン⑨のもので、ファクカーム文字の手本になる刻文であるとされている。
ワット・シーチュムで出土した、中国陶磁の銘と煉瓦片の刻文から推測できることは、同時に出土したウィアン・ブア窯群の陶磁器は、同時代のものであると推測される
盤の魚文は、豊かであることを意味する。中国の格言では、“魚”は物事が有り余るほど豊かに多くあること、もしくは食べ物が豊かに多くあること、を意味する。
中国人は、同音の言葉をよく用いる。余る、有り余るという意味である、余(ウィー)と、魚を意味する、魚(ウィー)は、関連づけて用いられているうちに、完全さ豊富さを意味するようになり、シンボルとして用いられるようになった。伝統文化と人生に対する、中国人の哲学であろう。
現在でも、中国人が中国旧正月の時などに、年年有余というお祝いの言葉を書くのをよく目にするだろう。これは、ニアン ニアン ヨウ ウィー と読み、「毎年食べ物、使うものが豊富にありますように」、という意味になる。魚を文様に使う場合は、たくさんの魚文を使うほど、とても豊富な、とか食べ物や使うものが有り余るほど豊富な、という意味になる。

話は飛んで恐縮である。下の大壺は、透明釉の下に鉄彩で文様が描いてある。カロン窯群⑩のもので、文様の描き方が中国陶磁と安南陶磁によく似ている。仏暦21世紀(西暦15世紀半ば)頃のもので現在、パヤオ県ムアン郡ウィアン地区のワット・シーコムカム付属文化展示館に収蔵されている。


注釈
⑨パヤオ県内で見つかった刻印。現在、チェンラーイ県チェンセーン郡の国
 立博物館に収蔵されている。
⑩正式にはガーロンとタイ人は呼ぶが、日本で通りのよいカロンと表示する



                             <続く>


「陶磁器・パヤオ」シリーズ・8

2016-01-29 07:54:22 | 北タイ陶磁
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<ウィアン・ブア陶磁>

●ウィアン・ブア陶磁の刻文
Kriengsak Chaidarung氏は以下のように述べている。“仏暦2530年(西暦1987年)、ウィアン・ブア窯群から盤片が3つ出土した。薄い黄色がかった青磁釉のかかった盤である。盤の見込み中央には、日輪もしくはピクンの花に似た形の印花文が押してあり、外壁には古代文字が、一行刻文されている。これは3つの盤片で同じである。文字の形とつづり方を見ると、ファクカーム文字という、仏暦20-22世紀頃(西暦14世紀半ばー16世紀半ば頃)にランナー地域で用いられていたことのあるタイ文字の一系統であることがわかった。刻文されている文字の内容は同じで、筆跡も同一人物のものである。筆跡を見ると、書いた人は流麗に文字を書くことを知っている人であり、つづり方も知っていることがわかる。しかし、内容がはっきりせず、読み方は、「グーマー」または「ゴマー(ゴーマー)」の二通りが考えられる。もし、「グーマー」と読むなら、これは恐らく陶工の名前であると思われる。もし、「ゴーマー」⑦であったら、これは窯の名前であると思われる。”・・・以上のように刻文について説明している。
              (3つの盤片のひとつ)

注釈
⑦「ゴー」という言葉は、木の一種の名前で、中世の人はその枝と葉の灰を
 土と混ぜて陶磁の釉薬として用いた。焼成すると青磁の緑色になる。ゴー
 の木は地域によって様々な名前、様々な種類がある。同じものであるが、
 名前が違うこともある。よってゴーの木の名前については土地により異な
 る。例えば、ゴームー、ゴーミー、ゴーノック、ゴーウォークなど。
 「ゴーマー」は、恐らく中世の人が呼んでいた、ゴーの木のもうひとつの
 種類だと思われる。先にマゴータームーの木の灰を使うと釉薬は、翠色の
 青磁となる旨紹介したが、同じ種類の灌木と考えられる。

●ウィアン・ブア窯群の中国陶磁
仏暦2550年(西暦2007年)の末に行われたウィアン・ブア窯の調査で、中国陶磁片がひとつ⑧見つかった。明時代の中国陶磁で、器底(高台裏)には漢字が4文字、大明年造と記されている。

仏暦20世紀(西暦14世紀半ば頃)の始め、洪武帝の時代、陶磁器の商取引は厳しく管理され、一般民衆が外国と商取引をすることは禁止されていた。従って、中国陶磁器は世界的に品不足の状態であった。この理由により、タイの遺跡では明時代初期の中国陶磁はあまり見ることができない。
仏暦21世紀(西暦15世紀半ば頃)に入ると、明朝は厳しかった方針を緩め始め、外国との陶磁器取引を奨励し始めた。よってタイ国内の中国陶磁の取引市場は拡大した。中国の方針は陶磁器価格を安くし、輸出量を拡大した。これにより、タイ国内の取引市場は急速に拡大した。ランナー地方でも、他の都市と同様中国陶磁器の取引量は拡大した。
よって北部地域の遺跡で、明陶磁が見つかることは何の不思議もない。中国陶磁片がよく見つかることは、中国陶磁がランナーの社会で人気があり、よく使われたことを意味している。特に王宮や上流階級の人たちで、中国陶磁器は多くの場合、寺院に寄進するものだった。
上記にみられる中国陶磁片は、仏暦20-21世紀頃(西暦14世紀半ばー15世紀半ば)の明代のもので、その時代にウィアン・ブア窯群で陶磁生産が行われていた証拠である。

注釈
⑧この中国明代の碗片は、パヤオのウィアン・ナムタオにある、廃寺のひと
 つで見つかった陶片と非常によく似た文様であった。刻文によると、
「ワット・チェーラー」とある。ここで見つかった刻文は仏暦21世紀
(西暦15世紀半ば頃)のもので、仏暦21世紀の明青花磁器の碗片と一致
 する。
(これはパヤオ県ジュン郡ロー地区のワット・シーチュムで出土した明朝時代の碗片。赤絵顔料で文字が書いてある)
(上の写真は、パヤオ県ジュン郡ロー地区のワット・シーチュムで出土したファクカーム文字の刻文のある煉瓦。刻文は、"インタート“と書かれており、意味するところは、信徒が仏塔を建てるために寺院に寄進した煉瓦、とのことである)




                              <続く>






「陶磁器・パヤオ」シリーズ・7

2016-01-28 09:42:10 | 北タイ陶磁
<続き>

<ウィアン・ブア陶磁>

●ウィアン・ブア窯群の操業年代
Kriengsak Chaidarung氏は以下のように述べている。”これについては、未だはっきりと特定できていない。ウィアン・ブアの陶磁の操業年代を示す証拠が、まだ見つかっていないからである。
C-14年代測定法なる科学的手法が用いられるが、これは、窯の中の有機物を測定するもので、多くは窯の中の炭素を調べることになる。しかし、この方法では、数値の偏り(Deviation)が比較的大きく、検査物質のサンプルや採取量が検査に必要な量を確保できない問題。更には採取箇所の偏りがあった場合、年代の数値を間違う可能性が高い。
過去に研究者により、C-14年代測定法を用いた、ウィアン・ブアの測定を行った。検査物質は燃え残りの炭で、窯に薪を入れる焚口付近に掃き出されていたものである。分析の結果それは、仏暦1830-1833年(西暦1287-1290年)頃であった。”

別の研究者であるサーヤン・プライチャンチット氏とタマサート大学社会遺産学部の学生達によって、2005年3-4月、Tao Po-Ui Taeng とTao Gao Ma-Fuangの塚が発掘された。燃焼室から採取した炭化物をC14年代測定したところ、1280-1300年の年代を示した。
しかし、ウィアン・カロン窯の年代は、この時代より更に古いとの推測もあるとのことで、未だ議論すべき点が多々ある。
様々な面から分析研究をしなければならないであろう。例えば、地層の順序とその状態の研究は、用いられるべき重要な方法のひとつである。この他に、並べて比較する方法がある。これは歴史的、考古学的、美術的観点からウィアン・ブアの陶磁に関連する、並列した証拠を研究するものである。
Kriengsak Chaidarung氏によると、更に注目すべき点として、ウィアン・ブア窯群の古窯址から石碑が出土したという、内容については未だ未解明のようだが、操業年代特定の助けになると考えられる。

(薄い緑掛かった黄色に発色した青磁の盤片。見込みにピクン(北タイの花の名称)ないしは印花日輪文を見る。盤の外側には刻文がある。直径24cmでウィアン・ブア窯群にて出土)

(2枚目の盤片の刻文(表裏の写真)で、緑の青磁釉が掛かる。見込み中央にピクンないしは印花日輪文を見る。ファクカーム文字の刻文がある。パヤオ県メーガー地区ウィアン・ブア窯群にて出土。ファクカーム文字とは14世紀頃ランナー地域で用いられたタイ文字の一系統であると云う)

 ここで述べた操業年代を示すC-14年代測定に於ける、13世紀末から14世紀初頭は、パヤオ・ガムムアン王(1277-1317)、チェンマイのメンライ王(1296-1311)そしてスコータイのラームカムヘーン王(1279-1319)の時代に重なってい。伝承によると3王同盟を結んだと云われており、これが北部諸窯開始とどのように繋がるか?・・・単なる偶然の一致と思われないないのだが・・・。




                      <続く>







「陶磁器・パヤオ」シリーズ・6

2016-01-27 13:11:22 | 北タイ陶磁
<続き>

<ウィアン・ブア陶磁>

●焼成技術
ウィアン・ブア窯では盤や鉢について口縁同士を重ね合わせ、一番下には「ギージャーン」と呼ばれるDisk supportを置く。更に北タイで「ジョー」と呼ばれる匣鉢を用いる⑥
匣鉢(Sagger)は、植木鉢に形の似た筒形状の容器で、砕いた石などの熱に強い材料を混ぜた土で作られている。上下の端の近くには3~4個の丸い穴が開けられており、強度を高めるために熱く作られている。匣鉢は、この中に施釉した盤、皿、鉢を入れて窯の中に並べて使われる。これは、傷の原因になる窯体や焼成物の落下を防ぐために用いられる。
       (パヤオで「ジョー」と呼ぶ、筒状の形をしている匣鉢) 
それ以外に匣鉢内の雰囲気温度を安定させ、焼成中の焼歪の問題を防ぐこともできる。匣鉢の一般的な大きさは、直径が約6cm-21cm、高さが約8cm-30cm、厚さは約1-1.5cmほどである。ブア村小学校の近くの古窯址で出土した匣鉢は、直径が約20cm、高さが約30cmであった。
北タイでは、ナーン・ボスアック窯の後期陶磁に匣焼成が確認されているが、パヤオでも上写真のような匣が、用いられていたことは注目に値する。そして、その形状が特異である。これはパヤオのオリジナルか?それとも何処からかの影響か?
いずれにしてもウィアン・ブアの陶工が、この匣鉢を用いたことについて、どのように理解すればよいのであろうか。新たな課題である

注釈
⑥スコータイ、シーサッチヤナーライを除く北タイで匣鉢を用いるのは、
 ナーンの後期陶磁が知られているが、当地ウィアン・ブアでも用いられて
 いるのは驚きであり、焼成技術伝搬解明の一助のなることが期待される。




                         <続く>