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北タイ陶磁の源流考・#10<インドシナの治乱攻防と窯業・#6>

2017-01-17 06:50:31 | 北タイ陶磁
<続き>

6.まとめ

#1~#5まで、各時代のインドシナの勢力の変遷をみてきた。各民族の戦いと共に平和な時代も存在した。戦や交易による人的交流があり、互いの文化も伝わったことであろう。これらの歴史が陶磁生産の歴史に、どのように関わったのであろうか。
つい最近、山川出版社刊「東南アジア史①大陸部」を読み返して、ハットなった。長文であるが、以下引用する。
南詔国は民族系統的には、現在のイ族やペー族の先民であったと考えられ、南詔国=「タイ族」支配国家は完全に否定されている。
近年の言語学者たちの研究では、南西タイ諸語の話者(当該ブロガー注記:現タイ王国のタイ人と理解)たちの源郷を、今日のベトナム東北部と中国の広西壮族自治区の境界付近とみなす仮説が有力視される。そして、漢人やキン族(ベトナム)の圧迫を受けたタイ族は7世紀頃から動乱状態にあり、11世紀に起こったとみられる集団的大移動の容態は、むしろ東から西方ないし南西方向への移動であったと考えられている。
現在の「タイ族」の分布では、ベトナム北西部に住む黒タイ(ディエンビエンフー)、白タイ(ソンダ省ライチャウ)、および赤タイと呼ばれる人々が、前記仮説による故地とされる地帯にもっとも近くにいる人々である。彼らは比較的早い時期にほかの「タイ族」グループと分かれたとみられ、上座部仏教を受容しなかった。
ランナーの地にタイ族が定着し、やがてムアンを形成し始めたのかはあきらかではない。考古学的遺物からは、今のところ12世紀半ば以前にさかのぼることはできないが、移住の初期にまつわる伝承(「プーン」ないしは「タムナーン」)を総合すると、その過程がリーダーに率いられた小規模集団により徐々に進行したと、そしてその間、この地域に幅広く先住したモン・クメール系の民族との交流・混住・混血があり、彼らの一部を「タイ人」化していったことが考えられる。それは大規模な軍事征服によらず、交通の要所に立地したムアンに不可欠の一部をなした市場を経済的交流の場とした関係を想像させるものである。
「タイ族」は稲作の適地を選び、灌漑・移植をともなう水稲作を主に展開した。しかし谷間では焼畑を行う場合もあり、先住民文化との連続性は多面に認められる。
後のランナー王国を築いたメンライ(在位・1259-1317)は今日のチェンセーンあたりからコック川流域の勢力であったムアン・グンヤーンの王子として生まれた。伝承によれば、グンヤーンの王統は付近のトゥン山に天から降臨したラワチャンカラートに始まり、のちに低地へ下って治めたという。これはグンヤーンにおいてモン・クメール系の先住民であるラワ族と混じったことを示すであろう。

以上が「東南アジア史①大陸部」に記されている。これには若干の戸惑いを覚える。南詔国は確かにチベット・ビルマ語族であったろうが、938年に段思平(ペー族出身)によって樹立した大理国は、多くのタイ語族が居住した国家であったと云われている。
後世の元(元寇)の南下圧力で、多くのタイ族が雲南から、現在のタイ北部に下って来た。このことは元史が述べる八百息(女偏に息)婦(ランナー)攻防記事から明らかである。
南詔国=タイ族国家は否定されても、タイ族の南下は否定されるものではない。しかしながら、ベトナム東北部や広西チワン族自治区境界付近から西南下したとの説は、蓋然性が高いことからでてきたのであろう。
それを裏付ける・・・と、思われる伝承がラオスに存在する。関千里氏の著作によれば、“ラオスの神話「クン・ボーロム物語」”、山川出版社刊“東南アジア史①大陸部”によれば“「クン・ブーロム年代記」”に以下のように記されているという。インドラ神の統べる天界から下界の地に、有徳の支配者として下されたクン・ボーロムを7地域のタイ族諸国の祖とみなしている。
関氏の著作によれば具体的には、クン・ボーロムが7人の息子たちを長男から順にルアンプラバーン、シェンクワーン(以上ラオス)、ラヴォー(現・ロッブリー)、チェンマイ(以上タイ)、シーサンパンナー(雲南)、ペグー(ミャンマー)、ゲアン(北ベトナム)へ送り込んで統治させたという。
これは何を物語るのか。タイ族の源郷は北ベトナムの東北部としても、民族大移動の中継地としてディエンビエンフーやルアンプラバーンを捉えているのではないか。そこから四方に拡散したとの位置づけであろう。
このことは、雲南南下説一本やりの話と異なることになる。しかしながら当該ブロガーが考えるのは、雲南南下とベトナム東北部からの西南下が併存した・・・と思われる。

以上、各民族の治乱攻防と陶業開始の関係をみてきた。それによると、東南アジアにおける陶業の開始には、3つの流れがあるように思われる。一つは北タイ陶磁の源流は雲南よりも、ラオスを経由して北ベトナムからと考えられる。9世紀の呉朝ないしは、丁(ディン)朝の頃にドゥオンサー窯が操業を始めたとされる。この窯は横焔式単室窯である。福建ないしは広東諸窯の影響をうけ、操業を開始したものと思われる(現時点で当該ブロガーは、影響を受けたであろうドゥオンサー窯の製陶技術の源流を把握できてはいない)。このドゥオンサー窯がインドシナの製陶技術の一端を担ったであろうと考えている。
二つ目の源流は、モン・クメール系の先住民である。クメールの製陶技術を伝えたのは、クメール族と濃厚に接触したモン族であろう(クメール陶なかでもブリラム陶はコラート台地で焼成された、そこはモン族の故地でもあった。従ってクメール族からモン族が陶業を学んだとしても、何ら不思議ではない)。モン族の存在が認められる処の多くが窯業地であることから、このような見方は大きく外れてはいないであろう。
クメール陶は中国の影響を唱える識者も多いが、製陶技術の面からは、それらとの共通性は低く、中国陶磁を参考にした可能性は考えられるものの、クメールで独自に展開した可能性が高いであろう。
三つ目は、ミャンマーで古くから施釉の建築材が焼成されていたと記す、中国文献の存在である。想像の域を越えないが後世、緑釉の塼が焼成されていたことを考えると、低温焼成釉薬つまり西方の影響を受けたことが考えられる。
これらの三つの想定される流れのなかで、モン族が濃厚に関係する立場にあったと思われる。

関千里氏の著作である「東南アジアの古美術」で、氏はモン族が東南アジアの古陶磁に深く関わっていたであろうと、述べられている。書籍を読んだ当初は、その意味が呑み込めなかったが、タイ各地の博物館や古刹、窯址を巡った見聞から、氏と同様な感触が頭を支配するようになってきた。
それらのことについて以降、器の形式や焼成技法の共通性、更には窯の形態が相互に影響を与えたであろう事柄について、浅薄ながら考察してみたい。




                                 <続く>