インディオ通信

古代アメリカの共感した者の備忘録8年。

自分だけが幸せになってよいか?

2008-03-08 01:02:04 | 苦しみを分かち合う
 深夜に、ふと考えた。
 「自分が幸せになるためには、自分だけが問題である。他人は一切関係ないか?」

 哲学的な問いかもしれない。
「幸せ」という言葉自体が曖昧だ。「豊かな暮らし」なのか「子供のいる家庭」なのか「とにかく健康第一」なのか、書いている自分でもわからぬ。

 妻子があっても経済力がないと話にならないし、経済力があっても健康でないと意味はない。「孤独で、金がなく、病気である」という三重苦の人々は多い。誰かが手を差し伸べなければ、幸せにはなれないのだ。


 みんなで問題を考えよう。
「ある人、A氏は今、三重的に幸せであるとしよう。別のある人、B氏は三重苦に陥っているとしよう。AとBは、意外にも?兄弟であったとする。B氏は最後の頼みの綱として、A氏に助けを求める。果たしてA氏はどうすべきか?」

 この問題は、「企業」「国家」などにも当てはまるだろう。助けるべきか、助けないべきか。

①「Aは世間体を考え、Bを少しだけ助ける。後は金の配分の問題」
②「AはBを復活させるようなプランに着手する」
③「AはBを赤の他人として扱う。相手にしない」

『江戸のことわざ』に、「兄弟は他人の始まり」とある(もう一方で、「兄弟は両の手」「兄弟は後生までの契り」とある)。江戸時代には縁座制が行われ、従兄弟まで処罰が行われたようだ。やはり強盗に追い込まれるのは、血縁関係者などが面倒を見てやらなかったからだ、お前にも責任があるということだろう。

ただ自分が生きるのに精一杯な状態では、相手を助けるどころではない。相手を助けたとしても、自分が助けてもらえるとは限らない。だから自分は自分で守るしかない。だから金を貯める…、と一般的にこうなるのだろうか。

問題の解答は、一括に応えられないと思う。やはりAとBの具体的な内容によるか。Bの程度があまりに重ければ、幾らAの器と能力が優れていてもどうにかできるものではない。

Bの程度が軽ければ、Aは縁故採用でもして共に幸せになることも出来よう。

要するに、AがいくらBを何とかしようとしても、Aの実力以上にBという重石を持ち上げられないということである。

大阪府の橋下知事は、どうか…。弁護士って「口先だけ」って感じがする。
何か「行動」で示してもらいたい(私財を投げるなり、金持ちから税をとるなり、普通では無理な行動を)。大阪は人間味があるから、多少無理な政策でも支持されるかもしれない。



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