私の日常

毎日の生活で印象に残った出来事を記録しておきたい。

「オピニオン」

2013-01-31 15:14:30 | Weblog

January 31, 2013

1月29日(火)
今年最初の理数点訳の講習会。一緒に講習を受けている方が欠席だったため、いつもより早く終わった。お天気も良かったので、代々木八幡界隈を少し散策した。始めて気がついたことだが、本屋が一軒もないのが不思議な気がした。本屋に足を止めるという土地柄ではないのだろう。渋谷をはじめもっと都心へ出かける人々の通り道であり、少し道を外れれば、松濤の高級住宅街といった場所には、立ち寄って本も覗いてみるという暇人とは無縁なのかもしれない。帰宅して、はちみつ入りのリンゴジャムを作った。暮れからお正月にかけていたいたリンゴがまだたくさんある。砂糖は控えたいのでネットで探していたら、はちみつ入りリンゴジャムのレシピが見つかった。トロっとした感じで出来上がったので、この頃飲んでいるしょうが紅茶に入れて、ロシアンティーにしてもいいかもしれない。

1月31日(木)
図書館で本を返却し、パウンドケーキ用の紙型を買う。さらに有隣堂で「POSSE」という雑誌について調べてもらう。実は今日の朝日新聞の「オピニオン」欄の高橋源一郎さんの時評を読んでいたら、この雑誌からの引用が多かった。知らなかったので書店で見てみようと思ったが、売り場に見当たらなかった。有隣堂には置いてないという。家に帰りネットで調べると、日本で唯一の若者による労働問題を扱った雑誌だという。今問題になっている生活保護や貧困問題にも切り込んでいるようだ。まあこの雑誌のことはさておいて、最近の政治関連のニュースは、全く見る気がしない。「安倍ノミクス」とかいってメディアが調子に乗って騒いでいるのが腹立たしいのだ。一方それではいけないのではないかということも分っている。皆が口をつぐんでしまったために戦争に突入した戦前の大衆と同じではないか、と思うからだ。 この時評で高橋源一郎さんは、「政治家たちはダメだ、話がぜんぜん通じない、というのは簡単だし、たぶん当たっているんだろう。けれど、政治ジャーナリストたちは、いい加減な返事が出来ないと彼らを恐れさせ、勉強しなきゃいけないと思わせるような質問をしてきただろうか。」(朝日新聞、2013年1月31日)と書いている。政治ジャーナリストだけでなく、高橋氏は、対話の大切さを語っている。 いろいろなことについて、見方の違う人ともあきらめずに対話する必要性を、私も感じている。


イタリアン

2013-01-27 11:23:21 | Weblog

Januaru 27, 2013

外は北風が冷たいが、室内にいれば暖かい、穏かな1日である。パソコンに向かっていると、足元にカーテンを開けた窓から差し込む日差しが熱いほどに感じられる。太陽の恵みを実感する。こんな日に、朝から試みたおいしい食べ物を2品書いてみよう。「アボガドしょうゆ」と「トマトスープ」。ともに、先日買った貝谷郁子『和イタリアンのレシピノート』(主婦の友社)を参考にした。 アボガドは輸入品なので、製品の質がピンからキリまである。私は、いつもは1個180円ぐらいのものがセールで100円になった時に買うことにしている。アボガドの種をとってディップし、オリーブオイルを温めにんにくの薄切りで香りを出し、しょうゆを小さじ1杯入れてすぐにアボガドに混ぜて、塩、黒コショウで味付けする。しょうゆの味がついたにんにくの薄切りが残る鍋では、白菜とか玉ねぎを炒めるとおいしい。私はこれを、カリカリに焼いた食パンに付けてランチにした。「トマトスープ」のほうは、玉ねぎを炒めてトマト缶と水を加え、ブイヨンで味付けした。これはビンに入れて冷蔵庫に保管した。いろいろな種類の豆とペンネを加えて明日のランチにしよう。アボガドのディップもトマトスープも沢山出来たので、夕食にも使える。読書会の新年会でイタリア料理の店で食べた、パスタやピッツアが新鮮だった。たまに外で食べるのも楽しいし、その後の自分の食生活が豊かになる。

日曜日なので、朝日新聞の「読書」欄の本について触れよう。呉智英『吉本隆明という「共同幻想」』(筑摩書房)。「吉本隆明」という文字を見ただけで反応してしまう自分がおかしい。多分この本を読むことはないだろう。また難解だとか悪文だとか言われる『共同幻想論』、私もよく分らないままだ。しかし20代に入ったばかりの頃に読んだ吉本の初期の抒情詩は、今でもたまに読み返すほど好きた。もう一人、私の好きな作家、アーネスト・へミングウェイの短篇集、『心ほがらなれ、誰もみな』(原題は、Gd Rest You Merry, Gentlemen)の、柴田元幸さんによる新訳が紹介されている。新潮文庫の高見沢浩訳では『神よ、男たちを楽しく憩わしたまえ』となっているそうだ。私は、これとは別の高見沢浩訳『へミングウェイ未発表短篇集』(新潮社)を持っている。19993年発行のだいぶ古い本だが、もう一度読み返したくなった。

 画像は、参考にしたイタリアンレシピ本の表紙の一部。


ベジタリアン

2013-01-24 15:27:09 | Weblog

Januaru 24, 2013

春の足音が聞こえるような穏かな日、図書館に、本の返却と予約してあった本の受け取りに出かけた。本は、イーユン・リー『黄金の少年、エメラルドの少女』(河出書房新社)。著者は、北京生まれ、北京大学卒業後渡米し、アイオワ大学で創作を学び、英語で執筆した短篇集。現在はオークランドで暮らしているという。なぜこの本を予約したのか、いつものように忘れてしまったが、ほぼ新品に近いようなきれいな本が手に出来るのはありがたい。

駅の北側にある図書館から南側に来て、有隣堂による。ここで、今月の私の贅沢、貝谷郁子『和イタリアンのレシピノート』(主婦の友社)を買う。実はブログでもやかましいほど書いてしまった足の湿疹が治らない。ヒスタミン系の薬を飲んでいればかゆみは和らぐが、いつまで薬を飲み続けるわけにはいかない。自力で治すヒントを求めてネットを検索していると、あるブログに出会った。湿疹が私の状況と酷似している。この方も皮膚科に通い、薬を処方されるだけの医療に失望し、体質改善をめざしたそうだ。私も、湿疹が身体の中から来ているのだという実感はあったので、食生活に問題があるのではないかと思ってはいた。この方はベジタリアンをめざしたといったことがブログに書いてあった。そのほかにも、間食はしないとか、ゆっくり食事をするとか、私には耳の痛いことが書かれていた。というわけで、完全なベジタリアンにはなれないが、野菜中心の食事に切り替えることにした。又戦後の食糧難の時に味わった卵のおいしさが忘れられないので、卵とは別れがたいが、卵、乳製品は出来るだけ少なくし、又砂糖の摂取も控えることにした。いろいろと食事に気をつけられている方にとっては当然のことかもしれないが、私がこれを実行するのはなかなか大変だ。まあいってみれば、胃腸が丈夫なので、食べたいものを食べていたということだ。

別に料理本を買うことはないのだが、やはり活字や写真で食欲をそそり、また作る意欲もかきたてたい。というわけで先に書いた本を買ったり、根菜類を買って、帰宅した。バスに乗って本を開こうとして、本を入れた袋をショッピの買い物を入れる場所に忘れたことに気づき、途中で下車して戻り、預かってもらっていた袋を受け取って、再びバスで帰った。買ったものは、出来るだけ2つぐらいの袋にまとめること、という教訓を得た。

帰宅して郵便受けを覗くと、千葉に住も妹から、朝日新聞千葉版の切り抜きが、粉末ショウガと一緒に送られてきていた。千葉県市原市出身で、「点字の父」と言われる石川倉次(1859ー1944)の生涯を、船橋市出身の作家、小倉明さんが『闇を照らす六つの星』(汐文社)にまとめ刊行したという内容だった。点字は、フランス人のルイ・ブライユのよって、アルファベットの6点式点字として、1825年に考案された文字であるが、アルファベット26文字、いろは48文字と文字数が違うため、日本語に適合した点字の翻案が必要だった。かなが母音と子音で構成されることに着目して作り上げた石川案が、1890年11月1日(点字の日)に採用された。その後も石川氏は、点字板や点字印刷機の開発、普及に尽力された。今私たちはパソコンを使って点訳しているのでずいぶん楽だが、先駆者の作った点字を使っていることには変わりはない。改めて偉大な業績に、頭が下がる思いを抱いた。

画像は、「リーガースベゴニア」。今の時期、花屋さんの店先に行かないと、お花にありつけない。自然の中で撮ったものでないのでちょっと不満はあるが、花の写真が欲しくて載せてみた。


紫花豆

2013-01-21 10:59:31 | Weblog

January 21, 2013

前夜一晩水につけておいた花豆を煮た。栗原はるみ『ごちそうさまがききたくて。』(文化出版局)を参照して煮る。いつもはやめに砂糖で作った蜜につけてしまい失敗するので、今日は気長にじゅうぶん柔らかくなるまで待った。豆を煮るのが目的ではなく、昨日から読み始めた後藤みな子『樹滴』を読むためのバックミュージックのようなものだ。1日で読み終えることが出来た本だが、少し重かったので、煮豆に助けられながら読んだ。朝日新聞の「読書」欄で取り上げられていたのを図書館に予約して手元に届いた本だ。「阿修羅になった書いた鎮魂歌」とあったと記憶する。著者は1971年、「刻を曳く」で芥川賞候補になっている。しかし家族を題材にしたことから、私小説とフィクションの間で苦しみ筆を断っていたが、40年後の2012年に、ご両親が亡くなったのを機に、この作品を書かれたのだという。原爆投下後の長崎に勤労動員中の兄を探しに行き、その死をみとり帰宅して精神を病んだ母と、ニューギニアから復員後大学病院の院長から学長にまで上り詰めた父、両親のそれぞれの死に寄り添った日々を描いた、私小説をにおわせる長編小説だ。私はフィクションとして読んだが、私とほぼ同年齢の著者の、原爆投下後の長い戦後は、姿は違うがかさなる思いもある作品だった。

当然のことながら私の両親も亡くなっている。しかし、なぜか両親がこの世に本当に存在しないのだという事実と、深く向き合わないで過ごしてきた。父も母も、終わりの日があまりにもあっさりと過ぎていったようで、その時までの父と母の生きてきた日々、当然私も含まれる日々を回想することがなかった。今、『樹滴』を読み終わって、私の両親への鎮魂が出来る気持ちになった。 2日にわたって読み継いだ本は、心に重く語り掛けてきた。と同時に、生と表裏にある人の死を、心の底から分らせてくれた本でもあった。

読了後、ちょうど煮あがった花豆をお茶うけにしてコーヒーをゆっくり飲んだ。眠れなくなるので午後は飲むのを控えているコーヒーが、喉の奥へとしみ込んで行った。明日は新年会を兼ねた久しぶりの読書会。田園調布のイタリア料理店でランチを済ませ、近くのメンバーの方の家でくつろいでお話しする予定になっている。雪が降るといっているお天気が心配だ。


荷物

2013-01-19 09:52:02 | Weblog

January 19,2013

1月18日(金)
午後1:00から『医学大辞典』点訳の例会が池袋であった。池袋駅から徒歩15分ほどの会場へは、自宅からは正味1時間少々だ。しかし私が家を出たのは10:30、帰宅したのはpm5:00を過ぎていたので、1日を費やしたことになる。この間の時間を振り返ってみると、先日の雪の日の残骸がまだ残っているので、足元に気をつけるためにいつもよりも徒歩に時間をとった。快速に乗れば25分で新宿まで着く電車をローカルに乗る。40分近くかかる。さらに途中で昼食を済ませなければならない。なんとか少し余裕を持って到着したが、東京在住の人がうらやましい。

この日、やっと、『辞典』の各自の最初の分担個所が配られ、B5のコピー用紙500枚セットもいただく。会場を提供してくださるお寺の方からとのことだ。毎回、最中1個とお茶のサービスなどもあり、私が今回入会させていただいたこの点訳の会との、長い間の関係なのだろう。データをコピーする回数が多いので、コピー紙をいただくのはありがたいが、ただでさえ重い荷物がもっと重くなった。住まいの最寄りのローカルの駅から2停留所のところを、バスに乗り、そろそろと帰宅する。まず原稿を精査し、調べるものは調べてから点訳にとりかかる、これが大分な点訳の一番のノウハウだということが分ってきた。点訳は校正していただいたり、ほかの方の点訳原稿を校正したり、またそのたびにデータを郵便でやり取りしたりと、なかなか煩雑だ。 点訳の間違えよりは、データがどこかに紛失しないか、そちらの方が心配だ。気をつけましょう。

1月19日(土)
簡単に家事を済ませてから図書館に予約が届いている本を取りに出かける。今日が取り置いてもらえるぎりぎりの日だ。思いがけない雪ふりで、遅くなってしまった。その間にアマゾンで保坂和志『小説の自由』(中公文庫)を注文した。次回の読書会の本にしようかと思っているが、まだ開いてみてもいない。図書館の隣の、近隣の農家の人たちが開いている野菜売り場で、ホウレン草、小松菜、手作りキムチ漬けなどを買う。本、後藤みな子『樹滴』は、ハードカバーなので、これだけでも重い。野菜類と一緒にするとかなりの重さになり、バスで帰宅する。たぶん読み始めたら夢中になると思うので、夕食の準備もしておく。

背中と腰を圧迫骨折し、骨粗しょう症になってから、すでに12年経った。最初に駆け込んだ整形外科で、医者から、「重いものは持たないように」と厳しく言われた。ホルモン注射をし始めたのがこわかったので、その日だけで医者に通うのはやめて、自力で治した。最初はこの言葉を守り、重いものは避けたり、カートをひいたりしていたが、最近はけっこう重いものを持っている。病気や、その人の考え方、年齢にもよるが、私は出来るだけ自力で治したいという主義だ。皮膚の発疹も、最初はおさまって感激した。しかし、結局薬を止めると元に戻ってしまう、薬を出せば終わりという現在の医療の現状が見えてくる。医者は本当に治す気があるのか、というわけで、発疹の方も、たくさんもらった薬はやめて、何とか体の中から、食べ物で治すことにするつもりだ。少しひねくれた私の生活態度は、異論もあるだろうが。

画像は、駅前に行く途中にある公園にいる「ハト」。いつもはもっと何羽もいるのに、今日は一羽だけだった。孤独なハト。気になったので携帯でパチリ。

 


雪の日に

2013-01-15 09:11:55 | Weblog

January 15, 2013

昨日は昼ごろから雪が降り始め、夜半まで降り続いた。昨年暮れから今年に入っても例年よりは寒いなと思っていたが、今日が初雪だそうだ。上等な酒粕(八海山の酒の實)をいただいたので、甘酒にして飲んだ。自分では気付かなかったが、これは身体がしんから温まるようだ。寝る前にも温め直して飲んだら目覚めずに朝までぐっすり眠れた。今日は理数の例会だがお休みになったので朝からブログを書いている。雪の日の翌日の晴天は、朝日に雪が反映して美しい。あちこちで雪かきをする音が聞こえる。たまの雪日をこんな風に語れるのは、関東南部に住んでいるからだこそ、ありがたいと思う。

朝日が当たるベランダからの雪景色をデジカメで撮って、今日のブログは終わり。


消えるスプーン

2013-01-13 12:17:08 | Weblog

January 13, 2013

私だけに起こることではないけれども、小さいティースプーンがよくなくなる。もちろんゴミと一緒に誤って捨ててしまうのだが、いろいろ気をつけているという言い訳は、これだけ頻繁な現実を突きつけられると、通用しないだろう。今回は計量スプーンの小さじまで消えてしまった。というわけで、今日は計量スプーンを買うことから始まった。この頃お菓子作りに励んでいるので、秤と計量スプーンは欠かせない。ついでに砂糖と朝食用の食パン、主に文鳥のための緑の野菜を買うつもりだった。文鳥は青梗菜が一番の好物だが、あまり実用的ではないのに、値段が高い、ご主人様が節約経済で臨んでいるのに、ペットだけ贅沢させるわけにはいかない。しかし最近の野菜の値上がり方はすごい。 結局白菜を買って、先の方の柔らかいところを文鳥用に使うことにした。

一週間はたちまちのうちに過ぎていく。朝日新聞の日曜の読書欄についてブログで書いたばかりだと思っていたら、もう次の日曜日がめぐってきた。先週図書館に予約した本は当然手元に来てはいないが、昨年11月に予約した、後藤みな子『樹滴』(深夜叢書社)が整ったたという連絡がきた。これは明日取りに行くことにして、まず新聞を読む。読みたいと思っていたスティーヴ・ハミルトン『解錠師』(ハヤカワ文庫)が、「売れてる本」のコーナーで取り上げられていた。すぐにも読みたいが、まずは図書館に予約する。「思い出す本忘れない本」のコーナーは、ピアニストの舘野泉さんが、北欧文学の作品を取り上げていた。「母は一昨年97歳で大往生を遂げたが、一生読書の蟲で、押入れの中までが美術書から小説、歴史、医学書まで何でもありだった。」という言葉が印象に残った。本当の本好きというのは、こういう方を指すのですね。

今、出かけるときに携帯して車中で読んでいる本は、保坂和志『言葉の外へ』(河出文庫)だ。いろいろな雑誌に掲載されたエッセイをまとめたもので、最初の、新聞の「読書欄」に連載されたものを読み終わったところだ。芥川賞をはじめとして、ずいぶん沢山の賞を受けている方だが、私は『書きあぐねている人のための小説入門』(草思社)という本をだいぶ前に読んだだけだ。何の気なしに手にした本だが、私はこういった、小説家が書く評論を読むのが好きなのだということに改めて気付いている。ここで取り上げられている本は、読んだことがあるものが多い。一冊の本に対して深い洞察があって、ただただ感心している。北杜夫『楡家の人びと』について書かれているものの一部を、次に引用させてもらった。

 戦争が始まった直後は、みんなとても楽観している。戦争を前にしたその楽観ぶりはとてもよくわかる気がする。ちょうどサッカー日本代表を応援するような気分だ。本当に大変なことはこんな風に始まって、気がつくと抜き差しならなくなっているんだろうと思うのだけれど、では、サッカーやオリンピックの時にだけわき起こる「愛国心」というのは何か、ということになる。あれはけっこうアブナイ要素を孕んでいる。そのアブナさは単純ではない。つい日本を応援する心理は実はとても複雑なのだ。『楡家』はその複雑さをじゅうぶんに伝えている。(保坂和志『言葉の外へ』河出文庫)

わたしはこの文章を読んだだけで、もう保坂氏のファンになってしまった。今、この時代に、今日こそ必要な言葉ではないか、と思う。保坂氏の作品を、少しずつ読んでいきたい。

画像は、「ポリアンサス」、毎年一鉢は買う。300円ほどの安い花だが、絵具の色そのもののような花色が好きだ。昨年はオレンジだったと記憶する。「プリムラ・ポリアンサ」ともいうそうだ。花言葉の中に、「運命を開く」というものがあった。1月に相応しい花かもしれない。

 


友人宅へ

2013-01-10 17:11:47 | Weblog

January 9, 2013

八王子の友人宅にまねかれて出かけた。八王子の駅からさらに30分ほどバスに乗る。浅川橋を渡ると、眼前の景色が一変し、山間の町に来たような気分になる。静かな場所だが、交通手段がバスだけというと、なかなかひらけてはいかないのだろう。ご馳走になり、忌憚のないおしゃべりをして、帰宅した。都心のゴミゴミしたところにしか出かけないので、たまにこういう広々としたところの空気を吸うのもいいものだと感じた。

八王子の駅で「AERA」を買って、読みながら帰った。新聞の広告に、「安倍内閣に『アキレス腱』」という文字があったので読んでみたかったが、特別どうという内容ではなかった。50年以上も携わってきた自分たちの政策の誤りをどこ吹く風で、民主党政権をバカ呼ばわりしているこの内閣に、何となく腹立たしいと思っている人は大勢いるのに、それが少しも政治に反映されないもどかしさ、なんだか虚しい。 久しぶりで手にした「AERA」は、それなりに読み応えがあった。佐藤優さんの書評の欄では、チィム・プッチャ―ほか著、角田光代訳『Because I am a Girl わたしは女の子だから』(英治出版)を取り上げていた。女の子だからという理由で差別をされている途上国の状況を変えるために、世界的に活躍する7人の作家が書きおろした短編が収められているという。世界に目を向けると、多くの問題が山積している。近視眼的に身の回りばかりを見ていてはいけない、というわけで、図書館に予約しようと思ったが、川崎の図書館にはまだないようだ。手に入ったら読んでみたい。

今日は皮膚科に行った。まだ完治したとは思えないが、まあこれで治ったということらしい。明日から点訳の例会が始まる。今年は健康により一層気をつけていきたい。


今年も読もう

2013-01-06 09:40:06 | Weblog

January 6, 2013

点訳など目の前のことに追われて、昨年は、朝日新聞の読書欄もあまり熱心に読んでこなかった。今日は、新たな気持ちでゆっくり目を通した。表題に出ている本を読む読まないにかかわらず、書評そのものが読みものになている。気持ちに余裕がないと、本の題名を見て、これは自分が読む本ではないと判断、素通りしてしまう。ただでさえ生活の範囲が狭まりつるある歳になって、これではいけない、という思いに駆られた。友人のブログを見て刺激を受けたことにもよる。大変な読書家だが、取り上げられている本について、よく「読書欄」にもあったということを書かれている、ところが私には、ほとんど記憶がないものばかりだ。一年を振り返って、今年は、以前のように、朝日新聞の読書欄も、読書の軸の中に加えたいと思っている。

さて、今日の「読書欄」では、末永照和『評伝・ジャン・デュビュッフェ』(青土社)が、まず目についた。デュビュッフェは、簡単に紹介すると、従来の西洋の伝統的価値観を否定した前衛美術運動の先駆者だ。美術家の横尾忠則さんが評を書いてられる。私がこの画家の作品に親しんだのは、遥か昔のようにも思えるが、40歳を過ぎた頃だったと思う。実際の作品も、展覧会で目にしたことがある。作品そのものよりは、彼の芸術に対する考え方に魅せられたのだと記憶している。いま横尾さんの本書への評を読んでいると、自分とこの画家との関係がよく理解できる。横尾さんは、
 
ぼくがデュビュッフェに惹かれたひとつは、膨大な作品を制作する傍ら、彼の日常生活の中で普通人以上に生活者であることだ。生活に伴う多くの雑事を片っ端から処理しながら、病弱の妻のためにも自らのためにもたえず走りっぱなしである。絵さえ描ければいいのではない。芸術家以前に立派な生活者であることにぼくは感動するのだ。(朝日新聞、2013年1月6日)
 
と書いている。ここで、NHKラジオの深夜便で、「ヘルマンハープ」という楽器について語られていた方の話が頭に浮かんだ。寝ぼけた頭で聞いているので正確さは欠くかもしれないが、この方は、ご主人の赴任先のドイツにいられた頃、介護用品を販売している店でこの楽器と出会う。ドイツにはこういった障害者向けの品を扱う店が町々にあるという。日本では介護という言葉さえ語られなかった頃のことだ。このお話をされている梶原千沙都さんは、こういった介護関係の店が各所にあることについて、ドイツという国の姿勢を感じたと語っていられたのが、私には印象深かった。話がそれたが、梶原さんは、農場主のヘルマン・フェー氏が、ダウン症の息子のためにこの楽器を考案したことを知り、またこの楽器の高い音楽性に惹かれて、とうとう日本に帰られてから「日本ヘルマンハープ協会」を立ち上げ、日本中で演奏会や教室を開いてられるという。この楽器の素晴らしさは、障害者も普通の人も、同じレベルで合奏が出来ることだといわれる。梶原さんがドイツの介護に取り組む姿勢の高さを感じたのと同じ姿勢が、この考え方の中にもあると思う。人間として、皆が同じ土俵の上で誇りを持って生きて行くということ、世襲の政治家が闊歩する日本では難しいことだと思うが、普通の主婦であった梶原さんが、家庭内の諸事に追われながら、音楽のバリアフリーの道をめざされていることに、心から拍手を送りたい。デュビュッフェが、西洋の美と醜の二者択一の概念を否定した精神と通じるものが、障害者と健常者をバリアフリーにした「ヘルマンハープ」という楽器にもあると思った。
 
ジョン・ル・カレ『われらが背きし者』(岩波書店)、手元に届く頃には文庫本になっているかもしれないが、一応図書館に予約した。「思い出す本、忘れない本」のコーナーでは、坂口安吾の『風と光と二十の私と』(岩波文庫)を、ファッションデザイナーの山本輝司さんが語っている。坂口安吾は、『白痴』を、1989年の7月に読書会で取り上げている。翌月8月に、読書会のメンバーで乗鞍―平湯ー高山―妻籠ー馬篭へ2泊3日のドライブ旅行に出かけ、一泊した宿があまりにもひなびていて、坂口安吾の世界だといって皆で笑ったことを思い出した。「頭脳が明晰過ぎ文章は簡潔すぎて一筋縄ではいかない人だから」と、山本さんは安吾について書いていられる。たしかに難解であり、また理解しがたい生活館でもあるが、「安吾の世界」を、本を通して通り抜けた頃のことを懐かしく思い出す。この本は文庫なので、買って読んでみよう。
 
画像は、「キリシマツツジ」、母がねむる墓がある寺の庭で、携帯で撮った。ピンぼけているが、何か花の写真が欲しかったので。

2013年

2013-01-05 16:15:30 | Weblog

January 5, 2013

なんとか松のうちに、2013年のブログの書き初めがまにあった。特に忙しかったわけではないが、予定していなかった点訳がはいり、それにとりかかったり、 友人の家に招待されたりしているうちに、 日が過ぎていった。ゆっくり本を読むという気にならず、岡崎琢磨『コーヒー店タレーランの事件簿』(宝島文庫)を、寝ながら読んだくらいだ。作者の紹介のところに、京都大学法学部卒とあったのが、本書を読んでみようと思ったきっかけだが、あま頭脳的な謎ときのミステリではないように思った。ちょっと誤解を招きそうな書き方になってしまったけれど、別に学歴を問題にしているのではなくて、この本の表紙とのミスマッチが面白いと思ったからだ。 まあ、すでに私が古い世代の人間だということを暴露していることにはなる。

今年に入って、風は冷たいが、毎日晴天続きだ。今日は午後から「たまプラーザ」までバスで出かけた。来週からいろいろなことが動き始めるので、プレゼント用のパウンドケーキの材料などを「富沢商店」でそろえたい。さらに、毎日出かけるときに財布や通帳など貴重品を入れて持ち歩くバッグを探したかった。これまでは、妹からもらった布製の袋を愛用していたが、ただの袋なので、ちょっと心もとない。しかしこういうものは、気にいったものがなかなか見つからないものだ。今使っている袋のように底の幅が広く、軽くて、その上にハンドバッグのように入り口がしっかりしていて、小袋もいくつかついているもの。ところがさすがは横浜、さっと入ったカバン店で見つかった。うれしいので、画像に載せた。笑ってください。

しばらく中断していた読書会も、次回の予定が入った。健康第一で、でもあまり御身大切ばかりを考えずに、進んで行きたい。この頃私は運命論者、そうであるならば、心の赴くままに生きていくのもいいだろう。
今年もどうぞよろしく。どこかでどなたかが読んでくださっていることが、私の一番の支えです。