私の日常

毎日の生活で印象に残った出来事を記録しておきたい。

遠のく政治

2012-07-27 21:28:22 | Weblog

July 27, 2012

7月26日(水)
今年2月に図書館に予約してやっと手元に届いた、綾辻行人『奇面館の殺人』(講談社)を読んでいる。ミステリはずいぶん読んできたが、日本の作家のものは数えるほどしかない。朝日新聞の「読書」欄での推薦の言葉に惹かれて予約した。著者の履歴を読んでみると、京都大学院卒ということで、硬派のミステリのようだ。まだ途中だが、今までの所では面白い。

今日は、久しぶりにサンドイッチをたくさん作り冷凍した。今井 偕子『フリージング』(婦人の友社)を参考にして、以前はよく作ったものだ。冷凍するので、キュウリやトマトは使えない。せいぜいパセリでグリーンを補う。本の中で野口薫さんが書いているコラムを少し引用しよう。堅実な日常生活を送られていることがうかがえる文章を読むと、どこに行くわけでなくても、何日分か作って、自分の昼食にしたいといった気分になる。
 
 一人暮しの私は毎日のお勤めに、お弁当を持参します。前晩の材料があまった時など、ご飯で和風のものも作りますが、ほとんどの日はサンドイッチを持っていきます。ひとり分のサンドイッチを作ると、種類を多くすれば入れるものに無駄が出来、せいぜい2,3種しか出来ません。そこで冷凍庫を活用し、一度に2斤、6食分をまとめて作ると、一食に6種類ぐらい組み合わせることが出来楽しく、また忙しい朝はそれをバッグに入れるだけなので、大助かりです。
 一週間ぐらい前から材料を考え、取り分けておいたり、少しずつ用意して、手順よく作ります。冷凍庫が小さいので、ちょうどそのころまでに6食分の空間が空くように心がけ、中がすいたところで掃除もしておきます。(『フリージング』講談社)
 
昭和50年発行の本なので、古い感じはいなめないが、私には今でも大いに役っ立っている。
 
7月27日(金)
50数年ぶりにデモに参加した。いわゆる60年安保の時以来だ。原発再稼働反対を叫ぶデモは、様々な形で行われているようだ。毎週金曜日のデモは、10万人を超え始めたという報道がある中で、友人と出かけた。こういう行動を共にできる友人がいることがうれしい。ほんの1日、1時間ほど、皆と「再稼働反対」を叫んだにすぎず、ちょうど読み終わったばかりの藤原新也『コスモスの影にはいつも誰かが隠れている』(河出文庫)の中に書かれていた、「都会の鳥たちが食べた木の実が消化されず糞とともに屋上に落ち、それが雨で洗われ、あちこちにむき出しになった種子が転がっていたのだ。」という文章から思いついたことではあるが、そんな種子の一粒のような行動だったとしても、無よりは有をと思えば、それなりの力にはなるだろう。しかし、遠い遠い何かに向かて届かないメッセージを送っているような虚しい気持ちにもなった。メディアの取り上げられて、話題を提供しただけで終わりというのではいけないという感想も持った。見まわしたところ50歳以上の人の姿が多かった。日曜日に行われているという集会には、また別な顔が見られるのかもしれない。
 
画像は、遠くに見える国会議事堂。警察の機動隊の車両が囲んでいて近寄れないのは少し腹立たしいが、60年安保の時の機動隊とデモ隊との敵意に満ちたまなざしはまったくなく、帰りに地下鉄への道を立ち並ぶ警察官の一人に尋ねたりした自分の姿も、内心おかしかった。
 
 
 
 

寝不足

2012-07-24 18:15:26 | Weblog

July 24, 2012

7月23日(月)
最近は早寝早起きを心がけているが、ここ4日間は、全英オープンゴルフを見ていて、睡眠がかなり不足している。今日は早く寝よう。タイガー・ウッズを応援している。ウッズが怪我もせず、女性問題のごたごたもなかったとき、この全英オープンは必ず見ていた。ウッズは、断トツで優勝しても、逆転で勝利を勝ち取っても、常に何か人を引き付ける魅力があった。いろいろあった後の今回の全英オープン、結局3位に終わったが、寝不足になっても見ていたかいはあったように思う。ウッズに限らず、上位にいる何人かのゴルファーのゴルフは、見ていて飽きない。今でもあまり好きではない勝負の世界であることは間違いないが、「美」に通じるものを感じる。

7月24日(火)
読書会。本は、大澤真幸『夢よりも深い覚醒へ』(岩波新書)。東北大地震に関連したあれこれを、様々な角度から論じている。―3・11後の哲学―という副題がついていることを見ても、難解な本であることには違いない。しかし語られている言葉は分りやすく、こういった本を多くの人が読んで、3・11を改めて考えてもらいたいと思った。読後感をひと言で語ることは出来ないが、3・11の事件は、戦後今日までの日本人の歩みのすべてを透明にして、私たちの前に突きつけたといってもよいものだ。この新書という限られたページの中で語られている事柄は、私自身の生きてきた日常のなかで見て見ぬふりをしてきたことを反省させてくれた。これからも続くであろう3・11後の社会の出来事を、シビアな目で見続け、語っていきたい。

画像は、「ブットレア」。住まいの団地の北側にひっそりと咲いている。たぶん以前にも載せたと思うが、あまりにも美しく、今年もカメラを向けてしまった。


生きている意味

2012-07-17 14:31:56 | Weblog

July 17, 2012

7月14日(土) 
姪が、さいたまアリーナで開催されているコンサートのチケットが入ったからと、上京するというので、楽譜点訳の例会を早めに切り上げて、東京駅で落ち合った。姪は、大学生から中学生まで3人の子供の母親だが、まぶしいくらいに若い。良い時代に生きているということだろう。豪華な昼食をご馳走になり(反対ですね)、おしゃべりやショッピングで楽しい時を過ごし、3時半ごろに別れた。5時すぎからのコンサートを聴いて、翌日娘のバレーの試合の母親としての仕事があるとかで、そのまま新幹線で岐阜の自宅まで帰るという。ハードなスケジュールと思うが、何も心配することはない。自分の同じ年代の頃を考えれば、人生で一番力の発揮できる年ごろかもしれない。幸せな時を持たせてくれてありがとう。

7月17日(火)
理数点訳の講座を受けに、代々木八幡駅方面に出かける日、車中で読む本を探しに、少し早目に家を出て、早くから開いている駅構内の本屋に立ち寄る。前日友人が、以前お貸しした本、司修『本の魔法』を返しがてら寄られた。友人といってもひとまわり以上若い方で、30年近く前に、息子さんが私の英語教室に通ってきていた方だ。お母様とこんなに深くお付き合いしているのは彼女だけだ。何かご縁があったのだろう。大変な読書家で、特にお若いのに1年ほど前に軽い脳梗塞になられ、快癒してからは、読書三昧の日々を過ごされている。私の書棚からもいくつか選んで借りていかれる。この本も、私のようにさっさと読んでしまうのと違って、ゆっくりと、時間をかけて読まれたようだ。ずいぶん気に入ってくださって、私もうれしかった。読書会はべつとして、人と本について話をするのは難しい。たまたま同じ本を読んでいないと、一方通行になってしまう。昨日は、石牟礼道子・藤原新也『なみだふるはな』をお勧めした。そんなこともあってか、新刊の文庫が積まれている中から、藤原新也『コスモスの影にいつも誰かが隠れている』(河出文庫)を選んだ。代々木八幡駅までは、ローカルで40分ほど、冷房が効いている(少し寒い)片隅の座席は、素晴らしい読書室になる。藤原新也さんは写真家としてしか知らなかったが、味わい深い短編の数々は、とても面白く読んでいる。小説ではあるが、ノンフィクションのようにも思える。著者が、「あとがき」で、「…あらゆる人々の人生の中には自ら気付かないままに、他者から見るとそれはドラマ的だと思われるような出来事が潜んでいる・・・」と書いている。誰もが、気付かずにフィクションになりうるような生活を送っているのかもしれない。

さらに読んでいて感じたことは、藤原新也という人の人となりだ。「あじさいのころ」という短編、友人を介して、撮りためた写真を持ってきた若者に、「私」という人物は、写真家をめざすのをやめてまともな職業に就いた方がいいという。10年近く経ってその若者から、写真の個展の案内状が来る。その辺のところを少し引用しよう。

 私はその葉書を見てあまりに辛辣にものを言っていた自分の若い頃のことを少し恥じ入る気分になった。人より秀でた者のみが表現に携わることが出来るという考えはいささか傲慢だ。人それぞれにその人の器に応じて表現するものがあり、それはそれで尊重すべきだったのだ。・・・   (藤原新也『コスモスの影にはいつも誰かが隠れている』河出文庫)

これは藤原新也という、写真家・作家の作品の中の言葉だが、この言葉の直線状に、石牟礼道子さんとの共著『なみだふるはな』が出来たのだと思う。私のつたない言葉でいいかえると、人間に対する尊厳が、藤原新也さん、また石牟礼道子さんの心の中にあるのだと思う。その心が、1950年代に起こり、今なお犠牲者が絶えない「水俣病」と、2011年の東北大震災という二つの悲劇について、お二人が語った対話集、『なみだふるはな』という本につながったのだと思う。

車中で読み進めた文庫本が、私の毎日の生活のなかに、小さな生きる意味を見つさせてくれたように思う。

 


名文に触れて

2012-07-12 13:16:18 | Weblog

July 12, 2012

三木卓の作品を図書館から借りようとして、ネット上の図書館の蔵書を調べていたら、三木卓の作品も含まれている岩波書店編集部編『エッセイの贈りもの 5』(岩波書店)という本にぶつかり、借りてきて読んでいる。これは岩波書店が発行している新刊情報を兼ねた、読書家を対象とした小冊子『図書』に、1938年から1998年までに掲載されたエッセイの中から29編を収録したものである。「図書」は、父がずっと愛読していて、 私は、家を出てひリ住まいを始めてからは、自分で年間契約をし、10年以上講読していた。本の好みが、岩波の本に限定されるのがいやで、そのうちに止めてしまったが、父が面白いと思って抜粋した文章をを綴じて送ってくれたものが、一度も目を通さないまま、今でも書棚の奥に隠れている。執筆者を選んで拾い読みしようと思ったが、どのエッセイも面白く、3分の2ほどまで読み進んできた。名文家の文章は、読んでいて飽きないものだと、つくづく感心している。

三木卓さんの「時代を体現する人間像―文学者を描いた小説めぐり―」も面白かった。高井有一『立原正秋』から始まり、いくつかの作品に描かれた文学者が登場する。このエッセイだけでなく、他の文の中にも、我が読書会で読んだ本がいくつも出てくる。内容はすっかり忘れていても、どこかで血となり肉となっていたのだと思ったりもする。ここでは、佐多稲子『夏の栞』(新潮社)が取り上げられている。対象となっているのは、詩人作家・中野重治である。読書会では、昭和58年3月に読んでいる。三木卓さんのエッセイの中で、興味深く読んだ部分を次に引用させていただく。私が要約するよりも、一部でも名文に触れていただきたい。

  わたしは今、高井のことを〈見る人〉といった。作家だから〈見る人〉であるのは当然か、というとそうもいえない。 人間を知りたいという気持は全ての作家が持っているけれども、 人によってそのあらわれはさまざまで、〈見られる人〉というカテゴリーに入る作家も多い。〈見られる人〉というのは、作品でも現実の行動でも〈この小説家はいったいどういう人なんだろう〉と強い関心をひく小説家であり、だからスター性のある小説家、カリスマ性のある小説家、ベストセラーになるような小説家はまずこの〈見られる人〉であることが多い。たとえば日本の作家でいえば、安部公房や三島由紀夫、林芙美子や瀬戸内晴美などは〈見られる〉作家であるが、永井龍男や大岡昇平などは〈見る〉小説家といっていいだろう。
 そういうことでいうと、いうまでもなく立原正秋は典型的な〈見られる人〉だった。そしてこういう小説の場合、この組み合わせからがもっとも面白い作品が生まれる可能性が多い。
 見られる人と見る人の関係は、ハムレットとホレイショーの関係といっていい。立原はハムレットとは質的にちがうが、少くとも高井というホレイショーにじっと見られてしまったヒーローなのである。 (岩波編集部編『エッセイの贈りもの 5』岩波書店)

画像は、妹のメールからの、「ほおずき}。子供の頃の思い出に通じる植物です。 


目の自己療法

2012-07-11 16:27:25 | Weblog

July 11, 2012 

真夏の暑さを感じさせる梅雨の合間の晴れ日、以外にさわやかな風が、室内を通り抜ける。集合住宅に住んでいるとベランダ越しにお隣の声が聞こえてくる。最近隣の若夫婦が引っ越したと思ったら、すぐにお子さん3人がいる家族が、上の階から移ってきた。多分下の階の人から苦情を言われたので一階の部屋が空くのを待っていたのだろう。この住宅は、いろいろな間取りがあり、お隣はわが家よりはだいぶ広い。「うるさいと思いますが…」と、若いお父さんがご挨拶に見えた。私は子どもの声は全く気にならないし、こちらは独り暮らしなので、少しにぎやかなほうが、生活感があっていい。この頃、早朝にぎやかに聞こえていた子供たちの声が、10時ごろになるとぴたりとやむ。クーラーを入れて、窓を閉めたことが分る。幼い子供3人が暑い中で騒がれたら、母親も大変だろう。さて私は今年も、クーラーは極力使わないで過ごそうと思っている。ささやかな脱原発運動への参加の気持ちだ。

いろいろなことが一段落したので、図書館に予約してあった本を取りに出かけた。通知が来てから2週間は取り置いてくれる。待機者がいる本ではないので、ぎりぎりまで待ってもらった。本は、三木卓『鎌倉日記』(かまくら春秋社)、三木卓『かれらの走りぬけた日』(筑摩書房)、『エッセイの贈りもの』5(岩波書店)。3冊ともハードカバーだが、さっと読めそうだ。 ついでに本屋によって、シリーズで遊び半分に読んでいる、三上延『ビブリア古書堂の事件手帖』3(メディアワークス文庫)を買う。今月も東京まで出かけることが多いので、文庫本も欲しい。三木卓の短篇は、住まいがあるらしい鎌倉が背景になっているものが多い。特に古書店についての話は、読んでいて、『ビブリオ古書堂・・・』が頭に浮かんだ。三木卓の本がヒントになっているのかもしれない。もちろん内容は全く違うし、文学的なレベルで、この二人の作家を論ずるつもりなないが、活字が引っ張ってくれる力は、どちらも変わらない。パソコンにしがみついたり、本を読んだりと、眼を酷使している感がある。最近熱湯で絞ったタオルを目にあてると、 しょぼしょぼしていた目が復活することに気付 き、もっぱらこの療法に励んでいる。

画像は、妹のメールからの「カラー」。 品種が多い花だが、庭でたくさん咲かせるのは難しいと思う。


孤独も恐いが

2012-07-07 13:55:04 | Weblog

July 7, 2012

たちまち土曜日がめぐってくる。最近土曜日を中心にして一週間が回っているような気分だ。いつものように楽譜点訳の例会に出席した。なにもなければ欠席してもいいのだが、また抱えてしまったので、質問のために出かけた。その電車の往復で、タイトルのようなことが、頭をよぎった。孤独の対極には、コミュニケーションという言葉がある。東北大震災以来、この言葉を耳にすることが多い。絆にもつながる言葉だ。両方とも、今の社会を反映している。

さて、私はコミュニケーションが苦手だ。人付き合いが悪いというのではなく、人見知りが激しいので、人と慣れるのに時間がかかる。言葉が足りなくて誤解されることも多い。自分の来し方を振り返ると、出来るだけ面倒な人間関係を避けてきたとも言える。わがままに通じることだと反省しつつ、何とか生きてきた。しかし歳を取ると、そんなことは言っていられない。自分から人の中に入っていかないと、どんどん独りの生活に追い込まれていってしまう。私の日常を考えると、図書館に往復する生活で終わってしまいそうだ。70歳になってから始めた点訳のボランティアは、最初から意図したわけではないが、ひとりでは出来ないことなので(お独りで校正から何からやっている方もいるが、まれだ。)、コミュニケーションが必要になる。幸い良い友人に恵まれてここまでやってきたが、これからは本当のコミュニケーションの始まりであり、自己責任の世界でもある。私の苦手とする、どなたとも上手にお付き合いしていくことが求められる。

昨年亡くなった母は、環境に適応するのが上手な人だった。人の上に立って何かをやるというのではなく、穏かに人と過ごすことが出来る人だった。それは母が持っている生まれながらの性格だったと考えると、こういった母に守られていたところもあったのだと、今は思う。私には、人と無難につきあうことに努力が必要だが、これも老化防止のひとつだろう。母の面影を思い浮かべながら、こんなことを考えた。

またまた私の大好きな花を、友人がメールに添付してくださった。「百合」も種類が多い花だが、このピンクの色は、まさに自然の中の色ですね。

 

 


クライドルフ

2012-07-03 14:38:22 | Weblog

July 3, 2012

もたもたしているうちに7月になてしまった。先週末楽譜点訳の会に出席し、しばらく楽譜点訳はお休みしようと思っていた心とは裏腹に、引き受けてきてしまった。ボランティアなので、自分の意思で決めること、こういう状況は、私のような計画性のない人間には苦手だ。今回は日本語が主流なので、しばらく離れていた日本語の点訳の練習になる。日本語、英語、楽譜、理数と、いろいろ首を突っ込んできたが、日本語をしっかり習得していることが、すべての基本だ。継続は力というが、たしかに絶え間なく進んで行くうちに身につくものにまさるものはない。ただ対象とするものが、自分にあっていることは必要だろうが。

梅雨の季節、今日は空模様が怪しい。理数点訳の講習がある日なので、出かける。講習を受けた後、すぐそばの「Bunnkamura」に寄った。妹が趣味で習っている絵皿の絵付けのモチーフの参考にしたいと、「 Bunnkamura」で開催されている「クライドルフ展」の絵葉書を頼まれた。絵本には疎いので、クライドルフといわれてもピンと来なかったが、展覧会はとても楽しかった。会場内で写されているスライドを見て、クライドルフの生涯の大まかな所が分った。スイスのアルプスのふもとで生まれ、ミュンヘンに出て美術学校に入るが、都会の喧騒の中で病(たぶんうつ病だろう)にかかり、故郷に帰る。ここの自然の中で病が癒え、自然と一体化した世界を絵本という形で世に出す。並はずれた画才と、詩作の天分とがあいまって、独特の芸術の世界を作り出した。スライドに写されたアルプスの風景は、映像だけでも心をいやしてくれる。ピーターラビットの絵もそうだが、素晴らしい自然(風景も動物も)は、作家の天分に働きかけて、芸術を生み出すのだ。

最初は絵葉書だけを買って帰るつもりだった。しかし入場しないとグッツ売り場までたどり着けないようになっていたので、仕方なく(?)入場券を買って会場に入ったが、なかなか見ごたえのある絵の数々で、満足した。これから夏休みにかけて忙しい日々が続く。つかの間のほっとするひとときだった。