昨年9月に母が入院してから、新たな転移が見つかり、治療を10日程している間に、介護申請もしながら、私はとんぼ返りで福岡に父の墓終いをし、遺骨を東京に持ってきた。その二日後に母は退院予定だったが、羽田から母の病室に直行したら、一日でも早く病院から出たいと言いだした。
しかし、翌日の10月12日の午前中には母の介護ベッドや車いすなどの搬入があるし、仕事の締め切りもあるからあと一日待って、と言っても、母「ベッドの搬入は午前中でしょ?私が帰っても家で仕事できるでしょ?」とどうしても一日待てないと言う。
私は福岡でもいろいろとごたごたした上、父や祖父母の遺骨も持ち帰ったので勘弁してよ。とは思ったものの、病院に入ってから母は歩けなくなるし、一人ポツンと24時間病室に横たわっているのは確かに地獄だろうと思い、急遽、翌日に退院の手続きを取った。
10月12日母、無事約1か月振りに退院。帰宅後、母の顔つきも、病院にいる時とは見違えるほどになったし、何よりもチビたちが、待ってました!とばかりに大はしゃぎ。歓迎された母も「地獄から天国に来れた」と喜んでくれた。
そして翌日の13日からは一日4回のヘルパーさんの来訪、週2の訪問看護師さんに先生の往診、日赤への通院、仕事に、母の食事から掃除洗濯まで全部やらなくてはならず、夜は毎晩母の介護ベッドの横に簡易ベッドを置いての睡眠…
この頃の私はいつ自分のブレーカーがぶちっと落ちるか?と思うくらいきつかった…とりあえず、一つづつこなして行くしかなかった。
母の介護度はその時4だったけれど、私との同居の為、共同部分の掃除はできません。洗濯もまりっぺのはできません。と言われ、結局、ヘルパーさんに頼めたのは、母のトイレの介助、着替えと、シャワー浴等と極限られていた。
祖母の介護経験があるから退院して来た頃には全く歩けなくなっていた母のトイレや着替えくらい私にできると思っていたものの、私が倒れては元も子もないと母やケアマネ、そして看護師さんの薦めもあり、日に4回のヘルパーさんの出入りのスケジュールを組んだものの、その制限ある作業や、5名ものヘルパーさんの出入りには気も使い正直、疲れた。
それに母の入院費は祖母の時のように、新車のベンツが買える程ではなかったが、やはり新車が買えるような金額だった。そこに一日数回のヘルパーさんが毎日来るということは、いくら要介護4の母でも、完璧、上限を超えており、訪問看護師さん、往診の先生、日赤の通院治療、介護用品のレンタルで、毎月ものすごい額の出費がかさむ…
そんな気が狂いそうな日が続く中、母は自分がしっかりと回復しなければならないと思ったと同時に、家に帰ってきたことで、少しづつ自分で車いすを操作し、自分でなんとかベッドにもどれるようにもなってきた。そんな母を見た先生と薬剤師さんが、この調子なら新年会を外出して、やりましょう、という話まで出て、友人たちが差し入れてくれた年越しそばや、おせちを元旦には美味しい、美味しいと食べてくれた
なのにお正月が明けてから、母の体調が再び急降下
日赤での治療もとうとう中止となり、酸素機の導入に、病状悪化の為に介護度の変更申請…
そして昨日の19時頃、私が夕飯の用意をしていたら、ベッドから母がゲーゲーやっているのが聞こえたので、飛んで言ったら、息も絶え絶えに「苦しい…苦しい…」と訴えた。
実は先日もこのようなことがあり、往診の先生に「どうしよう?」と電話をしたら、「薬を飲ませておいて」の一言で終わってしまったので、今回は頼りになるヘルパーさんに連絡をし、15分で駆けつけてもらい、処置をしてもらったら、少し落ち着いたが、それでもぐったりしていたので、訪問看護師さんに来て頂き、更に処置をして頂いた。そうしたら、大分落ち着き、22時半頃にすやすやと寝始めたので、一安心と思って、私は母の様子を見ながら、用足しをし午前2時に母の介護ベッドの下で、仮眠をとることにした。
午前3時、再び、「苦しいから助けて」という言葉で、飛び起きる。
頓服を飲ませ、水分補給をさせ、背中やおなかをさすっていたら、消え入りそうな声で、「ごめんね、ごめんね」と言う母。
私は母の横に潜り込みおなかをさすりながら、「そんな誤らないで、当たり前のことをしているだけだから」と答えた。
母「あなたのことがとにかく心配。私が死んでも、皆が通る道だから、どうにか乗り切りなさい。」
私「ママ、まだ親孝行できてないから、お願いだからもう少し頑張って…ママの期待に添えない娘でごめんね」
母「私が死んでも、あなたがいい人生を送ってくれるのが一番の親孝行よ。
あなたのことが心配でしょうがないけど、一つ安心したのは、あなたの周りには沢山人が集まってくれ
て、友達が多いことよ。
これからは友達を大事にして、お願いだから、楽しい、いい人生を送ってね。
こんな夜中まで本当に心配かけてごめんね」と言って、寝入った。
母の隣で涙があふれ出た。
今まで、ママの病気を治すために、頑張っていたけれど、この時、初めて母が死んでしまうということ、看とるということに気づいて泣けた。
でも泣いている場合ではなくなり、再び6時前から、母が苦しみ始めた。
薬を飲ませ、水分補給をし、マッサージをしてもその苦しさは収まらないので、日曜だけど朝7時から、往診の先生に電話で助けを求め、9時過ぎに来て頂いた。
先生の診察としては、昨夜からの苦しさでちゃんと寝られていないだろうから、今日はとにかく昼間もしっかり、寝て、睡眠を取り戻すこと。そうすることで苦しさも軽減されるはずだから、と言って、母に投薬して下さった。それで母は大分、楽になったようで、直ぐに寝付いた。
先生は帰り際に「長期戦になるからまりっぺもお母さんが寝ている間に睡眠を取るんだよ」と言って帰っていった。
しかしですね、先生、私にはやることてんこ盛りで、寝るどこの時間はないのよ
結局、昨夜は1時間程の仮眠だけで、昼間も寝ずに、用を足していた。
その用事が一段落した夕方、すやすや眠る母の顔を見ていたら、明け方の会話を思い出し、涙が止めどもなく出てきた。
疲れていたり、泣いている場合ではないのに、この数カ月分の涙と、これからのことを考えると泣けてしょうがなかった。
そこへ、昨夜来て下さった、看護師さんから電話が入り、「今、ドクターと話をしたのですが、長期戦になるからまりっぺが倒れないように、たまに私が泊まりこもうと思うの。その時はまりっぺはホテルでも取って、しっかり睡眠を取る形にしませんか。」と提案して下さった。
この看護師さんは祖母のことも看て頂いていた方で、本当に有難かった。そこまで親身になってくれて、電話を切ってから、また泣けた。
でも、もう泣いている時間はない。とにかくしっかりしなきゃ、私!