日々徒然

日々の中での色々なこと 書いていきます。
(*^^*)

自分の内の芯 体験

2015-09-18 20:57:39 | 日記
ちょっと前 夢の中で、
存在感のあるしっかりした感じの男の人が マホガニーのような
高級な木材の家具(マホガニーの壁)や調度のそろった家、、背景を背に して 私のほうを見ていた。

素敵な雰囲気だった。

いいな。と純粋に思った。

そういえば 私は 本物であってもなくてもいいけれど、
こんなマホガニーのような雰囲気と色調の家具や部屋調度に
昔からあこがれていたなぁ、、忘れてた、、、と おきてから 思っていた。


夢のなかでも おきてからでも うらやましいと思っていた。
うらやましい。。。私もそんな家で暮らしたい、、私はそんな家で暮らしていない。。と
思っていた。



数日後 また夢を見た。

過去 いろんな私の家の夢を見ていて、いつもの ああ あの家というのも多いし、
今でも はっきり 間取りもわかるような家もあるし、、なんですが
初めてみた 私がはじめて引越しした家でした。


それが、、、、、汚くて、、、

あっ いや 鉄筋コンクリートぽいし、ちゃんと最低限はそろっているけれど
古くて、壁とかも塗りなおししてなくて、隅々にかびがあったりして
掃除とかが行き届いていないという感じで、

夢のなかでも、
はぁ、、、、、こんな家かよぉぉぉ、と思いつつ、
掃除してたり 掃除しなきゃと思ったりしていたような気がします。

おきて、あらためて 以前みた マホガニーでそろえたような家がいいのになぁ、、、

と思いつつ、
今の現実の生活のあまりの時間や余裕のなさで そんなことすら 忘れていたことも思ってました。



しばらくして、これは、、、私の 今の 忙しくて余裕のない 低位3体の状態の象徴かもしれないかな、、、
などと ふと思いました。


そしたらば、またその夜 同じ家の続きの夢をみました。


前回のその家は キッチン 居間 他の部屋 玄関などなどがあったのですが、
次は 風呂やベランダや ペット(?)とか ほか いろいろでてきて、
(あいかわらず みんな古臭い。ずっとほったらかしにされていた部屋 みたいな感じで
ちまちま掃除する私)

そして、 地下室に洗濯機があるらしいことも発見して 行ってみたら、

あ゛っ、、、、と驚く。


私の敬愛する マスター方の写真が飾られていたのでした。

そのうちの一人は あのマスターだとエネルギー的に察するものでした。




おきてから、これは、私の深層には マスター方は 完全に根付いていることなのかもな、、
と思ったりもしました。





なんで こんなまどろっこしいこと書いているか、、、、


マスターというよな存在は いる とか いない とか
いろいろ言われてるのですが、

私の個人的な感覚では、本当にそういう人智を超えたものだと知る形で
実際に 会って(いや遭遇というべきか) 
そのときにも そのことが 刻々と ちゃんと記憶に残り
なにが起きているのかもしっかり知識を超えて直観で理解できていて、
かつ記憶がしっかり残る形で 脳が記憶・正確な理解をしるような
そんなふうに 会った 遭遇した 経験がないと、

そりゃ 本当に存在する とは なかなか 断言できないものがあるかもしれない。と
思ったりします。
(ぶっちゃけ オーバーシャドウされれば わかるしかないはず)

マスター方 とか 覚者 とか  大師 とかいうとき、
はぁ?という うーん、、とかいう 反応の人をみると、
それも ま 当然かもなぁ。
まっとうな反応だよなぁ、と思ったりします。





ただ私が これは間違いがない という理屈ではなく感情でもなく、
間違いなく理屈を超えてわかってしまう感覚を得るときは、

そんな 人生観がコペルニクス的転回を果たす衝撃的な経験 だけではなく、

普通のときにも あります。あんまりないですが。でも ま あります。

わかってしまうから、わかる。としかいいようがない感覚。
疑いようにない感覚。

ほんのわずかでも疑いがはいるようなものは それ ではありません。





でもって、 なんでこんなまわりくどく 書いているかというと、

私の深層(あくまで深層)には こういう存在への確固たる事実認識があるので
(想定をこえて 不思議なんてものも超えて、もうそれは私にとっては事実でしかない)


こんなに しんどい日々とか、生活の大変さとか 身体の不調とか 
いろいろあっても 
なんとか 自分の芯をなくさずにいるのでは ないか。 
近未来の期待なんかじゃなくて、
もちょっと魂的な展望での大きい ゆったりした希望をもてて
生きているのじゃなかろうか、という気がします。

(あ たまーに、いやもう かんべんして 死にそう とか根を上げるときも まま一時的にはあるのですが 笑)




昔、何十年と 神なんて 言葉すら毛嫌いし、そんな言葉を使う人を軽蔑し、
マテリアル 物質的なことだけを信じて(そう周りの大人や社会に教わった)、
生きていたときの 辛さは すさまじいものだったな、、と
今思うと 胸が痛みます。

人生と生活すべての基礎には 恐れ 恐怖が 隠れていて、
怒りや 脅迫 悲嘆 貪欲 混乱 無関心 差別 ほか、
いろんなことが行われていたな、、と思います。


んじゃ 今 私は そんなものから完全に開放されているか というと
そういうことはなくて、今でも、たまーにパニックになるし、
ちょくちょく 辛くなるし、怒りでどうしたらいいかわかんなくなるときもあるし、
やっぱり それらのベースには不安や恐怖が潜んでいて、
人生や生活の表面では いろんな混沌があるのだけれど、

でも、違う これじゃない、こうじゃなかった とか 瞬間立ち止まれたり、
本当に心の深層にはいったら そういった進化した存在に助けを求めていたり、とか

立ち止まれると
自分の芯となるものは決して動いていないのが わかる感覚が間違いなくあるのです。


なので、昔に比べたら、まだ ずっと ましに生きているような気がするのです。






私は、すごく辛い人とか、昔の私のような渦中で絶望したり、
どこに希望をもったらいいか などと思っているよな人は

自分の内に、魂を通じて 次の人生でも続くような はっきりした
生きている意味の経験が起きたらいいのに。と思っています。

きっと いつか そんななるのでは、、と 淡く期待しています。


そんなこと思って さっき ちょっと泣いてました。











  








思考と言葉の上でだけ 理解したつもりちゃん2

2015-09-14 07:27:31 | 日記
例えば クリシュナムルティ の 本を いくつか読んでみて、
(わたしはほぼあんまり読んでないほうではあるけれど)

思考や言葉で捉えようとすると あきらかに矛盾することが多々ある。

例えば 
「神」という言葉について イメージや条件付けをつくりだしてしまっている風にいっているときもあれば、
「神 それはあなたが自分自身で見つけ出しなさい」。というときもある。


規則を条件付けの最たるもののようないいかたをしているときがあれば、
みんなが仲良くするためにルールは必要なのです というときもある。

秘教エソテリックの教えには 思考や言葉などで捉えようとすると
矛盾と感じられるようなことがあるものだといわれている。

当然だろう、、と思う、言葉を超越したことを 全体的に捉えている認識を
言葉の次元におきかえることが そもそもは 正しくは無理なこと。

人が普通の状態で理解し得ないことも言葉にするとしたら、
言葉は道具としては かなり 不足するものだと思う。

例えば 3次元(たて よこ 奥行き)(言葉を超えたもの)を見ている人が 
そのことを ほかに伝えるには 2次元(たて よこ)(言葉)でしか 表すことができないとき、
やっぱり そりゃ 言葉という道具は不備だろう。


そして 言葉は 例えば同じ言葉でもその意図するものは 
時間や時期的、時代的に異なり、
地域ごとに異なり、流派のような思想体系で異なり、
個人個人ごと個人的には まったく異なるものであり、


言葉を超えた 包括的な意識で使う言葉は、
その場の (かぎりなく その場のみにおける)道具や記号として使われていて、
使っている人や場、などで その本当に意味すること、
例えば動機であるとか 深く意図していたこと、は 異なってくる。

その人個々人ごとの成長や認識の段階や理解の段階 などでも異なってくる。

その言葉をつかった 個々人の背景・世界観が その言葉をつかわせたのであって、
言葉がさきにあったのではないのだから。

 

なにか規則ぽいものがあったとき、
これが 人が仲良くやっていくために必要なルールなのか、
または 条件付けをつくりだしているものなのか、わからなくなることがある。

これ、、、すぐにわかるようになりたいものだな


今ある法律は じゃ 条件付けだから すべてなくなるべきだ と
私は思わない。

詳細には 無用でなくなったほうがいい法律もあるかもしれない
けれど、
今の人類の人々の意識、状態では どう考えても必要な法律は多々あると思う。



ルールも 規則も すべてが条件づけだ と言い切るよな人は
まさしく 思考と言葉の上でだけ 理解したつもりちゃん なんだろう、、と
今日 ふっと うかんだので 書いておいた









思考で 悟りの感覚になったつもり ちゃん

2015-09-12 17:58:55 | 日記
ずっと ずっと 違和感を感じていて、それ明らかに違う、、ということだけは
はっきりわかっているけれど、どう違うか 言葉にはっきりできなかったこと。

今日 すこしわかったので、ここに書いて言葉にしておこうと思いました。


悟りの道とか いろいろ 学んだり 
その道の裂き行く人の本を読みあったり(ま これも学びあいですね)
とかに参加している人とか 主催しているらしき人とか

例えば

条件付けをしない、とか 自由 とか いって
グループとして とんでもないよなことをしたり またはそんな人がいたり
そんなことがおきても 
ほっておくとか みないふりとか、、、、。
これが自由だ とかいったり。。。。

しかし、なにか その人自身が すこしでも揺らぐと(えっそんな程度のことで?というほどのこと)
人に雑言いったり、ブチ切れてとんでもないことをしたり
とんでもないよな感じの 人に自分の価値観の強制をしたり、
言ったりしたのに 言ってないとか はっきり自覚をもってうそついたり、
もう過去のことは忘れたとか 忘れたふりしたり、
(単に人格が分裂していただけかもしれないけれど)


または、別の人で
「私はいつもいまここにいるので過去のことは忘れた」とかいって
(これは単に 自己正当化だろうということがよくわかる事例だったけれど)
世間一般からは考えて、迷惑だし、ものすごい無責任な言動をしていた人とか、、、。



なんで これが 悟りの一種の感覚である 自由とか 条件付けしない とか
「いまここ」の感覚だ とか
いえるのだろうか、、、と 長年 ずっとひっかかっていたのだけど。

確かに いまここ の感覚に 確かに 想念(知識や思考で)でなったつもりになるのではなく
本当に うそ偽りのない、疑いようのない その体験の渦中にいると

現世的なことに関して すこし忘れっぽくなったかな? と 
もとの日常の自分の感覚に戻ったとき、
すこし不安になることがあるけれど、

でも、その 疑いようのない 真実の 自由な いまここ という
いわゆる 身体・感情・思考が 秘教的にいえば一時的に死んでいる状態。
人智を超えたとしかいいようのない 完璧な静寂 深遠の真っ只中 という体験をして
その体験の影響が関与して(?ここはどれほど関与があるのかはっきりは今はわかってないですが) 
現世的ことを うっかり忘れてしまったり、そんなことがもしあったりしたら、
自己正当化 とか ブチギレ とか 放任とか 無責任 なんて でてこなくて できなくて、

あっ それは迷惑をかけましたね。すいませんね。とか とてもなんの葛藤もなく
フレキシブルにいれるのです。

事態の理解に ほんとうに 自分の我(つまり正当化とか嘘とかブチギレとかいろいろ)が介入する隙間はなく、
相手の我も みえてはいるけれど そんなに重要視はせず、

むしろ なんで 今こんなことが起きたのか、この人とこの時期に こんなことが起きたのか
原因の世界がみえたりして、

自分の我 が 介入したと思われる言動は一切できないのです。




しかし、理屈(思考)で 

これが いまここ だ とか 
これが自由なんだ とか
これが 条件づけないである とか 
これが あるがままなんだ とか

なったつもりでいる。←※ここ重要
(または ただ単に屁理屈しているだけの低いレベルかもしれませんが。
本人はわかっているかいないかは不明)


のは なんと弊害の多いことか、と 今日 わかりました。



自分は それ(悟りの感覚)をわからない。そんな状態に例えば一度か二度とか数度なったことはあるけれど、
日常の多くに その感覚はあまりなくて、、、、、などと認めていることは
どれだけ謙虚で かつ どんだけ弊害が少ないか、、と思いました。



こういうのは ふつーの人にもあると思うけれど、
なんというか、、、

こういった感覚への探求を 「思考として」長くしてしまった人とか

または、こういうことを教える立場になっている人とか(本人がいつもその状態であるわけでないのに)
教える立場になりたいと思っている人とか

そういう人に すこし多めな気がします。



 
なんか 今日は すこしすっきりしました





追記。なんでこれ 書こうかと思ったかというと、
一瞬 あっ これまですっきのしなかったこと こういうことかな、と
腑に落ちたとき、書いておかないと 忘れることがけっこう多いから ということと、

も1つは 私は そういう場面に出くわすとき、
ものすごくがっかりするのです。

そんな我の延長であり、思考でつくったレベルのことが、
悟り とか 自由 とか あるがまま とか いまここ とか いわれて、
当人の内面の問題だから いっさい なにも触れないようにしています。

それ偽者だから、、、
なったつもりで 思考やイメージでつくっているだけで、
などとは いっっっさい いいません。


本人の内面を 私がはっっっっきりみたわけでなければ
いってはいけないし、
たまに はっっっきり見ることもあるけれど、
そういうときは あまりにはっきりわかりすぎて 因果もすこしわかったりすると
とても いおうとは思わなくなるのです。


ただ ほんとに がっかりします。


本物は そんなもんじゃない、、、


もし 私が そういう場に 生きる希望や 生きる意味や
ほか希望をもっていたなら、ショックは激しいものになることでしょう。。。
(ショックを受け続けてきた人生です)

本物はそんなもんじゃない 

だから ものいったりしているとき、
その人の言動に
我がはいっているか いないか 
本物をしって その観点からいっているかどうか
思考のイメージからだけで 我はいりまくりなのか、
その真の動機も本人はわかってないかもしれないですが、、、

そんなこと、みえたり、違いを感じるのです。












あれはいったいなんだったんだろうか

2015-09-04 15:00:30 | 日記
UFOを見たいなぁ、と できることならば 宇宙からきた人にもあったり 話したりしてみたいなぁ と
時々 強く思うことがあります。

子供のとき、一時期 強く強くそう願っていたこともありました。


んが、出会うことはなく。


あっ あれUFOぽくない?とかいうもの そういう動きをするものをみたことはあるのですが、

いやー、、、、、飛行機だったとしてもおかしくないし 
てか夜にとんでるのでこれが飛行機か飛行機じゃないかとか私わからないし、、、
垂直に上下したり 早さもふつーじゃないから すごく飛行機ぽくないかも、、、、 でも、確証ないし、、

と 私としては UFOという確証なく そのまま 放置していた経験はありましたが、
放置していると だいたい 忘れていってしまうのです。


ユーチューブとかで もうものすごく 決定的に たくさん とか
はっきり あきらかに 見てしまって 衝撃受けているよな人の動画みると

うらやましい、、、。とひそかに思ってました
(日常ではわすれているんですがね)




昨日、ある場所で 窓際のベッドにしばらく寝てたとき。

1階で 上下に背の高い窓の横の 窓の横のベッドなので 寝転がると
窓の下半分は 外の植木の木々が みえてますが、
窓の上半分程度は 空が見えてました。

天気予報では 雨とあったのに、見事に晴れて、
気持ちのよい空で、
はるか高く遠くには 海外線らしき、ちっさな飛行機がゆっくりと
空に飛行機雲の線をつくりつつ、とんでて
のどかな 空模様を みていたら、


海外線飛行機よりも もっと低いんじゃないかな、という感じの高さで
まん丸の (球か円盤かはわかりません)
はっきりした雲の塊が ふつーじゃない動きで、
すこし円を描いたりして
ふつーじゃない速さで、つつーーーーと 動いてて


!!!!!  と びっくりした私は、う゛ええええええぇぇぇぇぇ?
と 凝視して その動きを追おうとしたのですが、
窓の横幅の限界で、たぶん10数秒だけ 追えました。




も一回みたいんだけど、、、みせてくれぇと 心の中で祈りましたがだめでした。

私は 空気中のエーテルとかいうものなのか、、、
いろいろ 見えることがあるのですが、
その日は ちょうど見えていた日で
今日のまわりの(自然の)エネルギーは元気やなぁと思っていたところだったので、

その延長で たまたま そんな 変わったものがみえたのだと思うのですが。

最近 UFOみたいな とたまに思ってたので
ufoかなと思ったりしましたが、確証ないです。
しかし はっきり見たのは 疑いようない事実です

あれはいったいなんだったのだろうか、、、、。




私の人生経験では こんな いまだに よくわからないものがあるんです。


あれはいったいなんだったんだろうか。。。。うーん