ちょっと前 夢の中で、
存在感のあるしっかりした感じの男の人が マホガニーのような
高級な木材の家具(マホガニーの壁)や調度のそろった家、、背景を背に して 私のほうを見ていた。
素敵な雰囲気だった。
いいな。と純粋に思った。
そういえば 私は 本物であってもなくてもいいけれど、
こんなマホガニーのような雰囲気と色調の家具や部屋調度に
昔からあこがれていたなぁ、、忘れてた、、、と おきてから 思っていた。
夢のなかでも おきてからでも うらやましいと思っていた。
うらやましい。。。私もそんな家で暮らしたい、、私はそんな家で暮らしていない。。と
思っていた。
数日後 また夢を見た。
過去 いろんな私の家の夢を見ていて、いつもの ああ あの家というのも多いし、
今でも はっきり 間取りもわかるような家もあるし、、なんですが
初めてみた 私がはじめて引越しした家でした。
それが、、、、、汚くて、、、
あっ いや 鉄筋コンクリートぽいし、ちゃんと最低限はそろっているけれど
古くて、壁とかも塗りなおししてなくて、隅々にかびがあったりして
掃除とかが行き届いていないという感じで、
夢のなかでも、
はぁ、、、、、こんな家かよぉぉぉ、と思いつつ、
掃除してたり 掃除しなきゃと思ったりしていたような気がします。
おきて、あらためて 以前みた マホガニーでそろえたような家がいいのになぁ、、、
と思いつつ、
今の現実の生活のあまりの時間や余裕のなさで そんなことすら 忘れていたことも思ってました。
しばらくして、これは、、、私の 今の 忙しくて余裕のない 低位3体の状態の象徴かもしれないかな、、、
などと ふと思いました。
そしたらば、またその夜 同じ家の続きの夢をみました。
前回のその家は キッチン 居間 他の部屋 玄関などなどがあったのですが、
次は 風呂やベランダや ペット(?)とか ほか いろいろでてきて、
(あいかわらず みんな古臭い。ずっとほったらかしにされていた部屋 みたいな感じで
ちまちま掃除する私)
そして、 地下室に洗濯機があるらしいことも発見して 行ってみたら、
あ゛っ、、、、と驚く。
私の敬愛する マスター方の写真が飾られていたのでした。
そのうちの一人は あのマスターだとエネルギー的に察するものでした。
おきてから、これは、私の深層には マスター方は 完全に根付いていることなのかもな、、
と思ったりもしました。
なんで こんなまどろっこしいこと書いているか、、、、
マスターというよな存在は いる とか いない とか
いろいろ言われてるのですが、
私の個人的な感覚では、本当にそういう人智を超えたものだと知る形で
実際に 会って(いや遭遇というべきか)
そのときにも そのことが 刻々と ちゃんと記憶に残り
なにが起きているのかもしっかり知識を超えて直観で理解できていて、
かつ記憶がしっかり残る形で 脳が記憶・正確な理解をしるような
そんなふうに 会った 遭遇した 経験がないと、
そりゃ 本当に存在する とは なかなか 断言できないものがあるかもしれない。と
思ったりします。
(ぶっちゃけ オーバーシャドウされれば わかるしかないはず)
マスター方 とか 覚者 とか 大師 とかいうとき、
はぁ?という うーん、、とかいう 反応の人をみると、
それも ま 当然かもなぁ。
まっとうな反応だよなぁ、と思ったりします。
ただ私が これは間違いがない という理屈ではなく感情でもなく、
間違いなく理屈を超えてわかってしまう感覚を得るときは、
そんな 人生観がコペルニクス的転回を果たす衝撃的な経験 だけではなく、
普通のときにも あります。あんまりないですが。でも ま あります。
わかってしまうから、わかる。としかいいようがない感覚。
疑いようにない感覚。
ほんのわずかでも疑いがはいるようなものは それ ではありません。
でもって、 なんでこんなまわりくどく 書いているかというと、
私の深層(あくまで深層)には こういう存在への確固たる事実認識があるので
(想定をこえて 不思議なんてものも超えて、もうそれは私にとっては事実でしかない)
こんなに しんどい日々とか、生活の大変さとか 身体の不調とか
いろいろあっても
なんとか 自分の芯をなくさずにいるのでは ないか。
近未来の期待なんかじゃなくて、
もちょっと魂的な展望での大きい ゆったりした希望をもてて
生きているのじゃなかろうか、という気がします。
(あ たまーに、いやもう かんべんして 死にそう とか根を上げるときも まま一時的にはあるのですが 笑)
昔、何十年と 神なんて 言葉すら毛嫌いし、そんな言葉を使う人を軽蔑し、
マテリアル 物質的なことだけを信じて(そう周りの大人や社会に教わった)、
生きていたときの 辛さは すさまじいものだったな、、と
今思うと 胸が痛みます。
人生と生活すべての基礎には 恐れ 恐怖が 隠れていて、
怒りや 脅迫 悲嘆 貪欲 混乱 無関心 差別 ほか、
いろんなことが行われていたな、、と思います。
んじゃ 今 私は そんなものから完全に開放されているか というと
そういうことはなくて、今でも、たまーにパニックになるし、
ちょくちょく 辛くなるし、怒りでどうしたらいいかわかんなくなるときもあるし、
やっぱり それらのベースには不安や恐怖が潜んでいて、
人生や生活の表面では いろんな混沌があるのだけれど、
でも、違う これじゃない、こうじゃなかった とか 瞬間立ち止まれたり、
本当に心の深層にはいったら そういった進化した存在に助けを求めていたり、とか
立ち止まれると
自分の芯となるものは決して動いていないのが わかる感覚が間違いなくあるのです。
なので、昔に比べたら、まだ ずっと ましに生きているような気がするのです。
私は、すごく辛い人とか、昔の私のような渦中で絶望したり、
どこに希望をもったらいいか などと思っているよな人は
自分の内に、魂を通じて 次の人生でも続くような はっきりした
生きている意味の経験が起きたらいいのに。と思っています。
きっと いつか そんななるのでは、、と 淡く期待しています。
そんなこと思って さっき ちょっと泣いてました。
存在感のあるしっかりした感じの男の人が マホガニーのような
高級な木材の家具(マホガニーの壁)や調度のそろった家、、背景を背に して 私のほうを見ていた。
素敵な雰囲気だった。
いいな。と純粋に思った。
そういえば 私は 本物であってもなくてもいいけれど、
こんなマホガニーのような雰囲気と色調の家具や部屋調度に
昔からあこがれていたなぁ、、忘れてた、、、と おきてから 思っていた。
夢のなかでも おきてからでも うらやましいと思っていた。
うらやましい。。。私もそんな家で暮らしたい、、私はそんな家で暮らしていない。。と
思っていた。
数日後 また夢を見た。
過去 いろんな私の家の夢を見ていて、いつもの ああ あの家というのも多いし、
今でも はっきり 間取りもわかるような家もあるし、、なんですが
初めてみた 私がはじめて引越しした家でした。
それが、、、、、汚くて、、、
あっ いや 鉄筋コンクリートぽいし、ちゃんと最低限はそろっているけれど
古くて、壁とかも塗りなおししてなくて、隅々にかびがあったりして
掃除とかが行き届いていないという感じで、
夢のなかでも、
はぁ、、、、、こんな家かよぉぉぉ、と思いつつ、
掃除してたり 掃除しなきゃと思ったりしていたような気がします。
おきて、あらためて 以前みた マホガニーでそろえたような家がいいのになぁ、、、
と思いつつ、
今の現実の生活のあまりの時間や余裕のなさで そんなことすら 忘れていたことも思ってました。
しばらくして、これは、、、私の 今の 忙しくて余裕のない 低位3体の状態の象徴かもしれないかな、、、
などと ふと思いました。
そしたらば、またその夜 同じ家の続きの夢をみました。
前回のその家は キッチン 居間 他の部屋 玄関などなどがあったのですが、
次は 風呂やベランダや ペット(?)とか ほか いろいろでてきて、
(あいかわらず みんな古臭い。ずっとほったらかしにされていた部屋 みたいな感じで
ちまちま掃除する私)
そして、 地下室に洗濯機があるらしいことも発見して 行ってみたら、
あ゛っ、、、、と驚く。
私の敬愛する マスター方の写真が飾られていたのでした。
そのうちの一人は あのマスターだとエネルギー的に察するものでした。
おきてから、これは、私の深層には マスター方は 完全に根付いていることなのかもな、、
と思ったりもしました。
なんで こんなまどろっこしいこと書いているか、、、、
マスターというよな存在は いる とか いない とか
いろいろ言われてるのですが、
私の個人的な感覚では、本当にそういう人智を超えたものだと知る形で
実際に 会って(いや遭遇というべきか)
そのときにも そのことが 刻々と ちゃんと記憶に残り
なにが起きているのかもしっかり知識を超えて直観で理解できていて、
かつ記憶がしっかり残る形で 脳が記憶・正確な理解をしるような
そんなふうに 会った 遭遇した 経験がないと、
そりゃ 本当に存在する とは なかなか 断言できないものがあるかもしれない。と
思ったりします。
(ぶっちゃけ オーバーシャドウされれば わかるしかないはず)
マスター方 とか 覚者 とか 大師 とかいうとき、
はぁ?という うーん、、とかいう 反応の人をみると、
それも ま 当然かもなぁ。
まっとうな反応だよなぁ、と思ったりします。
ただ私が これは間違いがない という理屈ではなく感情でもなく、
間違いなく理屈を超えてわかってしまう感覚を得るときは、
そんな 人生観がコペルニクス的転回を果たす衝撃的な経験 だけではなく、
普通のときにも あります。あんまりないですが。でも ま あります。
わかってしまうから、わかる。としかいいようがない感覚。
疑いようにない感覚。
ほんのわずかでも疑いがはいるようなものは それ ではありません。
でもって、 なんでこんなまわりくどく 書いているかというと、
私の深層(あくまで深層)には こういう存在への確固たる事実認識があるので
(想定をこえて 不思議なんてものも超えて、もうそれは私にとっては事実でしかない)
こんなに しんどい日々とか、生活の大変さとか 身体の不調とか
いろいろあっても
なんとか 自分の芯をなくさずにいるのでは ないか。
近未来の期待なんかじゃなくて、
もちょっと魂的な展望での大きい ゆったりした希望をもてて
生きているのじゃなかろうか、という気がします。
(あ たまーに、いやもう かんべんして 死にそう とか根を上げるときも まま一時的にはあるのですが 笑)
昔、何十年と 神なんて 言葉すら毛嫌いし、そんな言葉を使う人を軽蔑し、
マテリアル 物質的なことだけを信じて(そう周りの大人や社会に教わった)、
生きていたときの 辛さは すさまじいものだったな、、と
今思うと 胸が痛みます。
人生と生活すべての基礎には 恐れ 恐怖が 隠れていて、
怒りや 脅迫 悲嘆 貪欲 混乱 無関心 差別 ほか、
いろんなことが行われていたな、、と思います。
んじゃ 今 私は そんなものから完全に開放されているか というと
そういうことはなくて、今でも、たまーにパニックになるし、
ちょくちょく 辛くなるし、怒りでどうしたらいいかわかんなくなるときもあるし、
やっぱり それらのベースには不安や恐怖が潜んでいて、
人生や生活の表面では いろんな混沌があるのだけれど、
でも、違う これじゃない、こうじゃなかった とか 瞬間立ち止まれたり、
本当に心の深層にはいったら そういった進化した存在に助けを求めていたり、とか
立ち止まれると
自分の芯となるものは決して動いていないのが わかる感覚が間違いなくあるのです。
なので、昔に比べたら、まだ ずっと ましに生きているような気がするのです。
私は、すごく辛い人とか、昔の私のような渦中で絶望したり、
どこに希望をもったらいいか などと思っているよな人は
自分の内に、魂を通じて 次の人生でも続くような はっきりした
生きている意味の経験が起きたらいいのに。と思っています。
きっと いつか そんななるのでは、、と 淡く期待しています。
そんなこと思って さっき ちょっと泣いてました。