日々徒然

日々の中での色々なこと 書いていきます。
(*^^*)

良い面と欠点は表裏一体

2013-01-21 00:57:34 | 日記
ものすごく昔 えた インスピレーションがあって

それは その人の欠点は その人の良い面と関連している。

ともに表裏一体で存在している可能性がある。というものだった。


そのインスピレーションをえたときには、
具体例を認識・みたような気がする。

だけど、、、、、 忘れてしまった。汗


次は

いろんな場合で そういうことをみれるようになるような気がする

わからないけれど、とりあえず そんな気がする。
とかい






味方の質

2013-01-18 22:19:18 | 日記
圧倒的な感情的な味方 というのが 最近 とても苦手だと思うようになりました。

確かに、ちょっと しんどいな、、、

というような 事件があったとして。

内容は 前回のブログに書いたような

私の意見・考えがあるといっているのだけれど、
それは、まったく尊重されず、他の人の根拠の無い意見を無理やり押し付けられる。
とか

どよーん しんどいな、と思うようなことが起きたとき、
そして ちょうど どよーんの最中に私がいるとき、

たまたま そういうことを報告しなくちゃかな、、というような相手がいたり

メールをしている知り合いからきた
メールで タイムリーに そういうことに関する話題が触れられていたりして、

どよーんとすることがあった。。。と報告したりすると、



私の知り合いからの その返事のメールが
非常に とても強く 感情的な感じも多少あって 
私への味方ですよっ!! そんなどよーんとするようなこといった人は変だ 
という感じの 内容だと


げげっ!やばい。こんなことを言ってもらうためにメール書いたんじゃなかったのに

と私は あせりまくって、
そんなこと言った人の「事実」は語るけれど、「悪口」には ならないように
フォローしまくる返事を また送る。ということが
最近 続いて起きて、


私は 昔の私とは けっこー変わってきているような気がする。と 思いました。


昔の私だと
一方的に 理不尽にひどい怒鳴られ方をしたりした場合、
それでもって 私が ひどく傷ついている場合などには、

詳しい事情や事実を知ることもなく、
感情的に 近い立場だから、というだけのことで、
私の味方になってくれる人 というものを得ると
妙に安心していた自分が 昔はいたなぁ、、、と
ふと 昔をすこしだけ懐かしく思ったりもしました。

今の私は 
そんな 事情や事実を知らずに いくら 相手が信じられないようなことを
したり言ったからといっても、

即 自分に距離が近いほうの味方!
その話の相手が悪い!と

断言するのは あんまり好きじゃない。
それは 私がもし悪口をいわれる側になったとしても
おかしくない話で(あり得ることで)、

私が 愚痴を話してしまったりする深い動機は 

そこから どういう理解や どういう中庸の見方や立場の獲得や 
事態の整理の仕方ができるだろうか、
という観点へむけての、愚痴の発露の性質なのです。


一方的な味方 て 家族とかは無条件にそうかもしれない。
でも、その見かたを もっと広い 理解へと広げつつあるときなのかもしれないです。


例えば、自分の師とか 魂とかは、
どう考えても 私の味方です。

しかし 一方的ではないぽいっのです。


もっと 大きな私像に 私を近づけるため という想定があって、の味方とか 
かわりあい方のようで、

しかし たまに起きる 霊的な視点から見た私の大切な時には 
しっかりと 寄り添い たまには 私をのっとってもいます。


こういうサポートをもらっていると、
突然 感情的に味方になってくれる(現実の生身の)人は やさしいのだと思うけど、

でも そういう形ではなくて、
もっと見方を広げられるような友人関係とかが
私は好きぽいようです・最近。













ふかーい 人への尊厳とか 人を 真から魂から敬うとかは

2013-01-17 19:29:33 | 日記
昨日 起きたことから ちょっと 人について理解が深まったことについて
書いてみようと思いました。


あるAさんという人が、けっこー いたらんこと言いな人と私は思っています。


私の自由で かつ自己責任で十分に理解して していることについて
「それはしないほうがいい」というので

「私は違う考えがあります。人それぞれにいろいろな考えがあるものですね。」
と やんわれと、人の考えっていろいろあってよいのでは?と伝えたのですが、

それに対して 返ってきた答えは

「それはしないほうがいい。これは私が信頼するBさんという人が言っていることだから」
と 私の考えというものを聞こうとはせずに
Aさんが体験しAさんが信念をもって伝えようとしているわけではない
独自の考えでもないBさんの言っていることだから。

と またも押し付けられました。
他人からのうけうりなので、その具体的な根拠の説明もありませんでした。

(ちなみに蛇足としては Bさんという人を私は知っていて
この人のいうことは間違っていることが多いのと 押し付けが多いので
私は嫌いだし あんまり信頼してないです。誰にも言っていませんが)


むっ ときましたが、どうもAさんは善意で言っているらしい と思えるので
とりあえず無視することにして なにもいわないでおきました。
なにもいいたくもなかったですし。
完璧に この人はほっとこう。という感じでしょうか。。。




昨日 また 上記と近いことが起きました。

頼んでもいないし、ぜんぜん別の時間で、そんなことを突然言うのは
全体から・みんなの立場からすると 無茶だし、
場合によっては迷惑とも言えるのだけど、

そんな場違いな みんなの時間に 勝手に 突然、

私個人に向かって、私はあなたのことを知っている という感じで
個人的コメントをされてきました。


!!私はびっくり。

いちおー、はぁ。はぁ。
という程度に相槌はしたのですが。



頼んでもいないのに、、、、これは いったい?

と考えました。

今 私にわかるのは、

・たぶん Aさんは 私よりAさんのほうが よく知っている。
と思っていて、かつ それを
アピールしたかったのだとわかりました。
しかも それには 一応の 本人理論での善意らしき(いってあげるのはよいこと・とか?)
煙で包まれている可能性が高いと思いました。



突然Aさんが いわれた私向けの個人的コメントは 
私は すでにもっと前に気づいていて Aさんが語ったこと言葉よりは
もっちょっと深く理解していることでした。

私は その理解の部分については、ただ語っていないだけなんですが、
(別に求められてもいないこと だらだらしゃべらないでしょう。
普通でしょう それって)
語っていないだけで、

私はしらないだろうから、しらせてあげよう。とか
思っているらしい、ということ。

しかも 求められていないのに
みんなの時間を突然 さいて(なんとも迷惑な)、個人的コメントをする。
とかは

Aさんは、なにかの大切なものを失っている可能性があります。



しかし これは 同時に 私への大きな示唆であるようにも思いました。


そうなのです。

この人は 私より知らないのだ。
と 私が勝手に思い込んでいるような人は、、、、

もしかしたら 私より もっと深く知っていることがあるのかもしれないのです。
ただ その人は 聞かれないから話さないだけなのかもしれないのです。


人の魂への尊厳や敬い、 人への真の 本当の尊厳とは
こんな深いところから行っていくものなのかな、、、、と感じました。

でなければ、表向きの人への尊厳や 薄っぺらい敬いは
すぐに ばれるものかな、、、、と思いました。


それと 私に昔から ずっとあるテーマの「無知の知」の大切さを
あらためて 感じました。



ということは、、、、

Aさんという人に対し、私は Aさんの魂からの尊厳をもち、
Aさんを見、対峙しなくてはならないということでもありますね。

Aさんの魂には 私にはわからない 何かの意図があるのかもしれません。

回り道とか 分離とかにしか思えないようなこと・言動も、
一時的には必要である場合もあるかもしれません。
もっともっと大きな視点からは計画の一部かもしれません。。
(私には今のところ わかりません)

ただ 魂をもつ同胞である同じ人 というだけでみるようにする
しか今の私には できないのかもしれないですねっ。



















主体の立ち位置 コペルニクス的転換は可能か? 2

2013-01-17 19:09:57 | 日記
前回の続き 書きます。


私の場合を振り返ると、

たとえば 前回 簡単に書いてみた 3つの自己

魂 か 
人前では抑圧している自分か、
人前での仮面的な自分か(そうであろうとしている自分)、、、

を 知らないうちに どれかをふらふらと 移行していて、

どれでもあり得る。というのが現況の私ぽいです。


時に 魂とは ぜっっったい思えないような どよーんとした私であることあります。。。


魂の時の自分というのは、そうなっているときは
気づきにくいことが多い。

私が 魂の状態とかけ離れている状態でいるときに、
あまりに 強烈に 突如 として 魂にのっとられ を されると、

心の奥で、これは また いつもの私のじゃない!!
また のっとられている と どこかで思いつつも

魂主導で言動とか動いたりしている自分を 低我の私が みている。。。

という感じです。



魂と一致していて それに違和感を感じていないときは、
ただ 一生懸命で、その場その場で ただ 必要・するべきことができている。

という感じなだけで 不要なものが言動や私の状態にすごく少ない。という
感じなだけです。



そういうときは、疲れがほぼないとか
すごく冴えているぽい とか
よい感じの自分でいることが多いです。


こういう自分を いろいろ振り返りながら、
魂の意図や 魂の状態と 低我の自分の状態を
把握しつつある というのが 今の私の状態のような気がします。





ところで、題名の コペルニクス的転換は可能か?ですが。。。

きっと可能なんだと思います。

可能で、実際 そうなっている人は 数が少ないほうかもしれないけれど、
世の中にはいますし。


どうやって そうなっていくのか、
表向きの低我や 抑圧した低我ぐらい しかなかった 昔の「自分」から

本来は もっとも主体であるはずの 魂の自分が主体であるための移行を
今 経験しつつ 
その道を探り 探ること=その道 を行っているということと同義だと思うので、
こんなことをしながら 道を歩いている私なのかな、、と思っているところです。




主体の立ち位置 コペルニクス的転換は可能か?

2013-01-14 01:05:57 | 日記
先日 複数人が集まっていて、ある人が語っている言葉を聞いて

違和感を感じた。

その違和感は その人への批判とか ほか 分離をもたらすためのものではなくて、

私の理解していることの芯となる柱とか 
私の今の状態や 今後の状態への 大きな示唆である可能性が高くて

書いてみることにした。



お金の黒字の幅のことを心配している人がいた。
すでに黒字なのだけど これ以上 さらにどれぐらい儲けるか が関心が高いらしい。
しかし その人は、黒字なのに さらに こんなにお金を心配している自分に 
はっとして
霊的なことをしているのは自分のためだったのか、、?
霊的なことへのある種の使命感からだったのか、、、、
と 自分をすこし反省したそうだ。

発表会のようなところでは、
その人は 霊的な教科書が明記している・分かち合いの必要性を唱えた。

しかし その直後の 雑談会のような場では、
突如として、「物よりお金(がほしい)!!」と 言い切ってしまって

私は 思わず 吹いて笑ってしまった。


その人は 笑った私や 「物よりお金」と言った自分に はっと気づいて

「・・・・本音が出てしまったかな。。。。」と 小さくいって すこし無口になった。

私が一番の違和感を感じたのは なにが本音なんだろう、、というところだった。



私が感じた違和感は、
その人が 発表とかの場では、
「わかちあいなさい」
とか霊的な教科書の内容を 伝え、広めているのに
同時に 個人的には
「お金が とにかく より欲しい。」
とも思っていて 個人的な言動は こちらに基づいていることがけっこうあるらしい。

というではない。

これは 前から知っていたので、
思わず 反射的に 
あーあ 人前で言っちゃってる。という感じで
吹いて笑ったほど である。




私が違和感を感じたのは、

「本音」とは お金がより欲しいと思っている低我な部分ではなくて、
「人の本当の 本音の部分」は 魂の意図・魂の思い なのではないのか?

むしろ 人の本当の芯からの声である本音・魂の思いを 
低我が隠している という構造から考えると、

ああ 本音(魂の思い)を お金が強く欲しいという低我が
隠しているなぁ。

ということになるのでは。。。?
というところでした。




上記の人の言ったことを 正確に 私が今 言い表しなおすとすると


低我の中の 魂の意図に従おう という自分を表に出そうとしていて
発表会などでは そう伝えていて。

おそらく 魂の意図とは、矛盾するような考えではないか、と自分では位置づけている

同じ 低我の中の もっともっとお金が欲しい。という部分の自分を
人前では、矛盾するし、また、整合や整理ができてないので、
抑圧しているが、

抑圧しているため そっちのほうが本音のように思えて、
本音を言ってしまった。(矛盾していることを言ってしまった)と言った。


ということかな。。。と翻訳しました。



しかし、、、、

魂の意図のなかに お金はまったく不要とかあるとは
私には思えないし、

必要なお金もあると思うし、

場合によっては 未来が見える存在から 先々の未来を見据えると 
多額のお金を今のうちに入手しておく必要があるのかもしれないし、
(そういう印象付けを受けて今お金を欲しているのかもしれないし、、
わからないけれど)

本当の魂の意図は 何なのか、はっきりわからないので


なにが 本音・魂の意図 であり、

なにが 低我独自の突っ走っていて魂に沿っていないものなのか

は わからないので、なんともいいようがないことなのではないでしょうか。。。。


というのが 私の今のところの意見ですが。


いずれにしろ
本当の自分(本音)というのを どこに位置づけているのか、

魂 か 
人前では抑圧している自分か、
人前での仮面的な自分か、、、


で コペルニクス的に 世界の見方は変わるのでは、、?

とふと 思いました。