マラナ・タ  …  私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

悟るとは

2023年03月31日 | キリスト教

 

「だれが自分の数々のあやまちを悟ることができましょう。どうか、隠れている私の罪をお赦しください。」

                                                詩編  19扁 12節

主に調べていただく祈りです。聖霊が私たちに自分の心の内を示してくださり、

そして自分の道ではなく、主の道に導かれるように祈っています。

ダビデがここで話しているのは、知らずに犯した罪のことです。

私たちは、霊的に鈍くなっていて、罪を罪と認められないものがたくさんあります。

気づいていないところで犯している罪があります。

神さまとの交わりに罪が妨げになってほしくないと願っているダビデは、

知らずに犯している罪に対しても、その赦しを願っています。

 松明に ・・ ?

 知識と悟りの区別について。
 
           「 知識があるという事は、」 ・・・ 道を照らそうとして、松明を使う事。
           「 悟ったとは 」        ・・・ 松明になる事

 

詩篇139: 23~24で自分で自分の心が分からなくなっているのを認めてダビデが次の祈りをささげています。

「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。

私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。」

 

詩篇 19:14 
「私の口のことばと、私の心の思いとが御前に、受け入れられますように。わが岩、わが贖い主、主よ。」

この祈りを私たちの祈りにしたいと思います。自分が発する言葉において、主に受け入れられるものであるように。

また、心の思いが受け入れられたものでありますように。

情欲、ねたみ、怒りなどの悪い思いを心の中にとどまらせることがないように、お祈りしましょう。

 

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万軍の主

2023年03月24日 | キリスト教

・・・ 、万軍の主の名によってお前に立ち向かう。

                                                            Ⅰサムエル 17章 45節B

このダビデの言葉に、神の御国と人の国の対峙の本質があります。ダビデが表しているキリスト、とその御国は、御霊によるものです。

主の御名によるものです。祈りと御言葉の霊的訓練によるものです。信仰によるものです。

 

悪魔は、キリストの死とよみがえりによって、完全に敗北した者となっています。

ですから、私たちがキリストのうちに立つとき、私たちが主の御名によって祈るとき、

そのときにすでに悪魔は何も手を出すことができず、ただ退くことしかできません。

 

そこで悪魔は、私たちの焦点をずらす戦法を取ってきます。

あたかも問題が物理的な、肉的な問題であるかのように見せかけ、私たちを肉の領域に、物理的な領域に引き込もうとするのです。

例えば、教会の中で言い争いが起こったら、何とかして自分が仲裁に入って両者を取りまとめようとしますが、

かえって問題をこじらせてしまいます。けれども、ひざをついて祈りはじめるとき、

 

主に自分たちが抱える問題を持っていくとき、そのときに初めて私たちの高慢さやその他の罪を聖霊によって示されて、

私たちはへりくだることができ、それから悪魔や悪霊どもによって引き起こされた混乱や無秩序が終息に向かうのです。

いつ、霊の武器を取り出すかにかかっており、ゆえに私たちは絶えず祈ること、目をさまして、すべてのことに主を認めることが必要です。

主は私の牧者であって、主は私と共に歩んでくださり、私が病み悩むときも癒してくださる神です。

また、私が貧しく乏しいときにはあらゆる恵みょ持って備えてくださるから。私は声を大きく叫んで言います。

主は私の頭の上にある旗ですと宣言するとき、主の平安が私のうちに満たされるのです。何故なら、わたしを守ってくださるお方は。 

万軍の主であり、全能の神だからです。そして神は主キリスト・イエスを私に贈られた。ただただ感謝に尽きない。


第二コリント12:9-10
「主は、『私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。

だから、キリストの力が私の内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。

それゆえ、私は弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、

キリストのために満足しています。なぜなら、私は弱い時にこそ強いからです」。

 

 

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偽善が問題でした。

2023年03月17日 | キリスト教

「それはもともとあなたのものであり、売ってからもあなたの自由になったのではないか。

なぜこのようなことをたくらんだのか。あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」  
                                                          
                     使徒の手紙   5章4節 

アナニヤとサッピラの罪は、代金を全部持って来なかったことではなかったことが、ここから分かります。

持ち物は残していても良かったし、売っても、その代金は自分のものにして一向に構わなかったのに、とペテロは言っています。

この二人の悪は偽善でした。自分たちを人々に良く見せるために、嘘をつきました。この偽善が問題だったのです。

 

また、アナニヤとサッピラの夫婦の根本にある問題点は、神に対する不信です。

だれが自分たちの生存と防衛を保障してくれるのかというニーズに対して、

完全に神に信頼していなかったという点です。単に、ごまかしたということではなく、

神への不信こそ、神を欺き、聖霊を欺くことへと発展しました。

神の民がエジプトから脱出して以来、神の民の心配はだれが生存と防衛の保障を与えてくれるのかという問題でした。

偶像礼拝の問題は基本的にこの「ニーズ」から起こって来るのです。これはいつの時代においても不変のテーマです。

 

しかし、知ってほしいことは、アナニアは特別に悪い人ではなく、私たち自身なのです。同時にバルナバの献身的信仰も私たちの中にあります。

私たちの心の中にアナニアと同じように惜しむ心(毒麦)があり、同時にバルナバのよう燃える信仰(良い麦)がある。

私たちが為すべきことは心にある毒麦と戦い、良い麦を伸ばしていくことだ。

そして、私たちは葛藤して獲得した献金を正直に神の前に差し出した時、私たちの献金は清められていく。

私たちは「僅かですがお納め下さい」として献金しない。僅かではない。戦って勝ち取った献金なのである。

 

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食べ物

2023年03月10日 | 日記

 

「食べる人は食べない人を侮ってはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったからです。」                                    
 
                                          

                           ローマ 14章 3節

「 私はキリストの憐れみによって嘆願する。あなた方も誤りを犯すこともあり得ることを考えて見て下さい 」 クロムウェル

教会には厳格な狭量派と寛大な自由派があります。この時代にも、また現代と言うときにも、二種類の人たちがいます。

それは表に出さない人と、はっきりと態度で表す人たちです。

 

私たちは教会の交わりから、あら捜しや軽蔑を ( 色んな意味を込めて )、共に無くさなければなりません。

ただ同情と愛と理解を持っことをに努めなければならないのです。

 

主イエスは 「 信仰は食べ物に関する規則を守ったり、安息日の過ごし方などという規則で縛ることはできない 」 とハッキリ言われています。

食べ物に汚れたものなどははない。安息日に働きさえしなければいい、と言うものではなく、

主が望まれているのは、もっと生き生きとした愛であり、義であると言われているのです。

私たちは神の前では、だれもほとんど似たり寄ったりだということを知りながら、差の小さな差に悩みます。

相手のほんのわずか違うことを、私たちは怒ったり、非難したりします。

主は、どんな人も使われるし、愛されます、愚かな人も賢い人も、勇気ある人も小心な人も、だらしない人も潔癖な人も、

それぞれ、それなりに心をもって尽くしていることを知ったうえで愛し、私たちを適材適所によって使ってくださるのです。

      

   何故。人を裁いてはならないのか ?  それは、神が愛をもってその人を受け入れているからです。 

 

食物についての聖句を。
 
 「・・・・ イエスは、このように、すべての食物をきよいとされた。 」 マルコ 7:19
 「・・・・ しかし食物は、信仰があり、真理を知っている人が感謝して受けるようにと、神が造られた物です。」 Ⅰテモテ 4:3
 「・・・・ 神に近づけるのは食物ではありません。食べなくても損にはならないし、食べても益にはなりません。」 Ⅰコリント 8:8
 「・・・・ しかし、疑いを感じる人が食べるなら、罪に定められます。なぜなら、・・・・  」  ローマ 14:23
 「・・・・ 、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。 」 Ⅰコリント 10:31 その他。
 
 そして最後に。
     「 しかし、イエスは彼らに言われた。「わたしには、あなたがたの知らない食物があります。」 ヨハネ 4:32

        裁くのも疲れてしんどいものです。裁かれるのもまた辛くしんどいものです、平安がありますように。アーメン

 

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