前に書きました、大学の恩師がお亡くなりになりました。
家族での密葬とのことで、今週末には偲ぶ会を同期の間で開こうかってことに。。。
前に先生を囲んで集まった時には、まさかこんなに早く逝かれてしまうなんて。思いもしなかった。
先生を偲んで、緒方洪庵の話を読んでみたいと思っていたところに、十六の話が借りられることになったので図書館に受け取り、読んでみた。
「洪庵のたいまつ」というのが読みたかった話だ。
偉人洪庵、その生き様に学ぶことは多いが、どこまでも自分には真似が出来る話ではない。洪庵も恩師から受け取り、自分で大きく育てたたいまつの火を弟子一人一人に移していく。そんな偉業が彼の功績であろうと文章は短く結ばれていた。
そのまま最終章のコラム、二十一世紀に生きる君たちへを読み進む。
「二十一世紀にはおそらく私は生きていない。話し合えない、そんな君たちに」という文章は、どこまでも刹那な文章の印象だった。
そして、、、あとがきの後にある、「二十世紀末の闇と光」という、井筒俊彦との対談がとても心に残った。
井筒俊彦ってあらゆる言語が学びたくって、アラビア語を学んだ時の話が妙に熱っぽく語られる。
結局この言語を学ぶには、その後ろにあるイスラームを学ぶべきだという師の話を受けて、色々と深く切り込んでいくのだが、新しい師が来るというので、その師を家に招いたところ、本だらけの部屋に驚愕したというのだ。
どういう意味だと思います?
この本でどうするんだ?と聞かれたので、井筒は本を読んで勉強するんだと答えると、じゃあ火事になったら勉強できないじゃないか?と切り返されてしまったそうだ。
その後、お前旅行するときはどうやって勉強するんだ?と聞いてくるので、必要な本を持っていて読むと答えると、そんなのは勉強じゃない、お前みたいなのは学者じゃないと言われてしまう。
勉強とは基本的なテクストは全部暗記して頭に入れた上で、自分の考えを縦横無尽に走らせることこそが勉強だというのである。
その新しい師は本は一週間で必ず暗記してくるというのだ。恐るべし、イスラム学者!
そして言語の複雑さについても、アラビア語はとても難しく、書いていないことを読まなければいけないという、難解の上の次元の言葉なのだという。。。。近代語の中でもロシア語は少し難解なんだってさ。うううんんん。知らん。
そして、話は民族の数だけ争いが起きうる可能性が増えるという二十世紀末の混沌の始まりに、言語間の上位の言語を共有する必要があり、という意見の前に、最終的な文化の融合の前には大きな揺れのような時期が必要と、それが今だという結び(すいません、ちょっと強引)。遥かな融合を見る前にはどうしてもこう各地で乱闘騒ぎ、衝突が起きまくるの仕方がない、今は衝突する過渡期だ、だからこれを経ないとその上の次元に行き着かないという結論だった。。。利害ってどこかで一致するのかという次元ではなくて、もっと大きな物で結び付けられれば、尊厳という言葉が近いものだと思うけど、お互いをどこか敬虔な者として認め合うことが出来るというね。
無意識という禅のようなものが求めるのとは逆の、識、唯識、識ることを、でお互いを識るには、お互いの言語を覚え合うというレベルではなくて、メタランゲージの確立が必要という結論に至っていく。
この話の紆余曲折の中に出てくる、韃靼という単語と、空海という話が引っかかった。韃靼は韃靼そばの韃靼。タタール、モンゴルと何故かアラビアを結びつけた話が展開される。空海は、ドロドロした体系だっていない(無秩序の)ものから綺麗な結晶体のようなものを作り上げたと表現している。そこにはギリシアまでの思想の流れを汲んだとしか思えないような融合が見られるというのが書かれていた。
司馬の著作で、「韃靼疾風録」「空海の風景」に興味が沸く。
井筒俊彦の著作自体を知らないが、何か読めるようなものはあるんだろうか?探してみるか。。。
でも今、楠木正成は、後醍醐天皇、護良親王の挙兵に付き従って赤坂城で奇襲・奇策、常識を凌駕する争いに向かっていく。ところを読み進んでは他に飛び火している。。。
どんどん図書館に予約していた本が届くので、こなして返すを繰り返す。その中に楠木を捩じ込む。。。。
用意できている本をしばらく取りに行かないようにするか。。。
まだ心の準備できていないとか言い聞かせながら。。。
家族での密葬とのことで、今週末には偲ぶ会を同期の間で開こうかってことに。。。
前に先生を囲んで集まった時には、まさかこんなに早く逝かれてしまうなんて。思いもしなかった。
先生を偲んで、緒方洪庵の話を読んでみたいと思っていたところに、十六の話が借りられることになったので図書館に受け取り、読んでみた。
「洪庵のたいまつ」というのが読みたかった話だ。
偉人洪庵、その生き様に学ぶことは多いが、どこまでも自分には真似が出来る話ではない。洪庵も恩師から受け取り、自分で大きく育てたたいまつの火を弟子一人一人に移していく。そんな偉業が彼の功績であろうと文章は短く結ばれていた。
そのまま最終章のコラム、二十一世紀に生きる君たちへを読み進む。
「二十一世紀にはおそらく私は生きていない。話し合えない、そんな君たちに」という文章は、どこまでも刹那な文章の印象だった。
そして、、、あとがきの後にある、「二十世紀末の闇と光」という、井筒俊彦との対談がとても心に残った。
井筒俊彦ってあらゆる言語が学びたくって、アラビア語を学んだ時の話が妙に熱っぽく語られる。
結局この言語を学ぶには、その後ろにあるイスラームを学ぶべきだという師の話を受けて、色々と深く切り込んでいくのだが、新しい師が来るというので、その師を家に招いたところ、本だらけの部屋に驚愕したというのだ。
どういう意味だと思います?
この本でどうするんだ?と聞かれたので、井筒は本を読んで勉強するんだと答えると、じゃあ火事になったら勉強できないじゃないか?と切り返されてしまったそうだ。
その後、お前旅行するときはどうやって勉強するんだ?と聞いてくるので、必要な本を持っていて読むと答えると、そんなのは勉強じゃない、お前みたいなのは学者じゃないと言われてしまう。
勉強とは基本的なテクストは全部暗記して頭に入れた上で、自分の考えを縦横無尽に走らせることこそが勉強だというのである。
その新しい師は本は一週間で必ず暗記してくるというのだ。恐るべし、イスラム学者!
そして言語の複雑さについても、アラビア語はとても難しく、書いていないことを読まなければいけないという、難解の上の次元の言葉なのだという。。。。近代語の中でもロシア語は少し難解なんだってさ。うううんんん。知らん。
そして、話は民族の数だけ争いが起きうる可能性が増えるという二十世紀末の混沌の始まりに、言語間の上位の言語を共有する必要があり、という意見の前に、最終的な文化の融合の前には大きな揺れのような時期が必要と、それが今だという結び(すいません、ちょっと強引)。遥かな融合を見る前にはどうしてもこう各地で乱闘騒ぎ、衝突が起きまくるの仕方がない、今は衝突する過渡期だ、だからこれを経ないとその上の次元に行き着かないという結論だった。。。利害ってどこかで一致するのかという次元ではなくて、もっと大きな物で結び付けられれば、尊厳という言葉が近いものだと思うけど、お互いをどこか敬虔な者として認め合うことが出来るというね。
無意識という禅のようなものが求めるのとは逆の、識、唯識、識ることを、でお互いを識るには、お互いの言語を覚え合うというレベルではなくて、メタランゲージの確立が必要という結論に至っていく。
この話の紆余曲折の中に出てくる、韃靼という単語と、空海という話が引っかかった。韃靼は韃靼そばの韃靼。タタール、モンゴルと何故かアラビアを結びつけた話が展開される。空海は、ドロドロした体系だっていない(無秩序の)ものから綺麗な結晶体のようなものを作り上げたと表現している。そこにはギリシアまでの思想の流れを汲んだとしか思えないような融合が見られるというのが書かれていた。
司馬の著作で、「韃靼疾風録」「空海の風景」に興味が沸く。
井筒俊彦の著作自体を知らないが、何か読めるようなものはあるんだろうか?探してみるか。。。
でも今、楠木正成は、後醍醐天皇、護良親王の挙兵に付き従って赤坂城で奇襲・奇策、常識を凌駕する争いに向かっていく。ところを読み進んでは他に飛び火している。。。
どんどん図書館に予約していた本が届くので、こなして返すを繰り返す。その中に楠木を捩じ込む。。。。
用意できている本をしばらく取りに行かないようにするか。。。
まだ心の準備できていないとか言い聞かせながら。。。
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