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私性からの跳躍

2006-07-16 23:51:15 | 撮影とテーマ設定2005~06年3月

やらねばならないことは山積みなのだが、合間を縫って福居伸宏氏と宮内克彦氏の二人展「と ま れ 、み よ」を鑑賞する。
会場となったgallery Archipelagoは新川の表通りからちょっと入ったところにあり、日曜の夕暮れ時には人影もほとんど見当たらなかった。


昨日が初日でオープニングパーティーだったのだが、残念ながら仕事の関係で参加できなかった。とりあえず、本当にささやかさ差し入れを持参し、両氏にご挨拶をさせていただく。
両氏とも金村ワークショップの受講生であり、旧知とは行かないまでも既に見知った間柄だったため、何とはなしに互いの制作状況や展示の準備などに関する話をしつつ小1時間ほどだらだらすごし、会場を後にしたのは閉廊時刻が迫った19時少し前だった。


両氏の作品について、自分が賢しらにあれこれ言うのもいささかおこがましい話ではあるのだが、あえて言うならば「私性を完全に超越した視線」に、否応無しに引き寄せられ、絡み捕られてしまったというか、それほどまでに深いレベルでの共感を得た。


私性といっても、自分は作家性と別次元の概念だと捉えている。


ただ、私性と作家性を同一視して、作品によって私性を主張することが作家の務めであるかのように活動している人々も数多く存在しており、またそのような考え方が一定の支持を得ているのは事実だ。かつて流行したガーリーフォトなどはその極端な事例だと思うが、自分はいわゆるクラシックカメラブームやロモブームでもまた、私性と作家性の同一視が前提となっていると思う。


既にスーザン・ソンタグの論考にも軽く触れられているのだが、作家や写真愛好者には特定の機材(それも、大半の場合は使い勝手の悪い旧式機か、性能の劣る大衆機)や感材を使うことにプライドを持つというか、機材によって他者との差別化を図る人々が少なくない。いや、少なくないどころか、そのような考え方は、写真の世界全体に蔓延しているといっても過言ではなかろう(HIROMIXとBigMiniのエピソードを持ち出すまでもなく、いわゆるガーリーフォトを代表する作家たちの中にも、機材や感材に対するフェティッシュなこだわりを隠そうともしない人々は少なくない)。
もちろん、そのような考え方は私性と作家性の同一視と極めて容易に結びつくし、そこから作品、あるいは「機材」を利用して私性を主張することまでは、ほんのわずかな距離しかないのだ。


自分自身をも含め、特定の機材や感材に拘泥する人間は、ほぼ例外なく「自己の作家性を表現するためには、その機材や感材が必要なのだ」と主張するが、ほぼ例外なく「特定機材や感材を使いたいがために、作家性なるものをでっち上げている」に過ぎない。
ただ、それでも私性と作家性とを峻別しているのであれば、破滅的な事態は避けられるのではないかと思う。


もし、私性と作家性を混同したまま機材や感材に拘泥し始めたならば、機材や感材によって私性を主張することが作品のテーマとなり、作品製作の目的になってしまうのはほぼ間違いないし、つまるところ本人の承認欲求を満たすためだけの作品が世の中に垂れ流されることになるのだろう。


まぁ、たとえ1台9千円のホルガだろうが、あるいはかつて1本100万円したこともあるニコラ・ペルシャイトだろうが、作品観るほうには機材関係ないやんって、正直そうおもうんやけどねぇ…



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