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東京の夜景動画ブログです。

オリジナルプリントマーケットのあけない夜明け

2007-06-10 18:44:54 | 撮影とテーマ設定2006~07年11月


今日は昼過ぎまで雨だったが、午後から急に晴れてきたこともあり、気晴らしをかねて出かけた。
ロールフィルムを2本消費したが、小型1眼レフのほうもだんだん調子がつかめてきたというか、考えずにシャッターを切るカットと、考えつつシャッターを切るカットがはっきりと分かれてきたように思う。



そんなこんなで、久しぶりに上野まで出かけ、東京藝術大学大学美術館の「陳列館」にて「写真: 見えるもの/見えないもの」展を鑑賞する。白状してしまうと、中山岩太氏のオリジナルプリントが目当てで出かけたのだが、そんな気持ちを完全に粉砕するだけの力を持った、すばらしい展示だった。もちろん、中山岩太氏のオリジナルプリントはすばらしく、それだけでも十分に満足はしているのだが、なんと言っても企画内容と展示作品とのマッチングがすばらしい。
特に展示のテーマとなった写真のメタフィクション性については、自身もテーマとして追いかけ続けていたものでもあるがゆえに、率直に言って「打ちひしがれるほど圧倒され」てしまった。また、年代的にも満遍なく目配りをしながら、注目すべき若手作家をきちんと押さえており、写真の「現在」を知るという点でも非常に価値の高い展示だ。
インスタレーションについても、作家の意図を最大限に尊重しているであろうことが十分に伝わってくるもので、空間的な制約が比較的厳しかったであろうことを考えると、インスタレーションも含めて楽しみたいし、自分自身も出来るだけ繰り返し鑑賞したい展示だった。



また、今回の展示はオリジナルプリントのすばらしさ、オリジナルプリントやインスタレーションの持つ表現力を十分に生かしたもので、ある意味では「オリジナルであるからこそメタフィクション性が強調された」という側面もある。そのため、前回のエントリーで触れたように、写真評論によって「オリジナルプリントを売ることの意味やオリジナルプリントそのものの価値」が全否定されたというのは、やはり日本の写真作家にとって極めて不幸な出来事だったし、写真評論の消えない汚点として語り継がねばならないと思う。



だが、そういう心情とは全く裏腹に、最近になって勢いを増しつつある、写真作家によるオリジナルプリントマーケット形成という試みについては、どうしても肯定的に受け止めることが出来ない。
確かに、自分は最近話題の「金と芸術 なぜアーティストは貧乏なのか」を読んで、6日には「画廊からの発言-2007」のシンポジウム『なぜアーティストは貧乏なのか? ―芸術という例外的経済―』における訳者のレクチャーも聴いているので、やはりどうしてもハンス・アビング的な考え方によっている部分もあるのだが、その分を割り引いてもあまり感心できる流れとはいえないのだ。



もちろん、日本でもオリジナルプリントのマーケットが成立したところで、アビングが指摘するようにほとんど全ての写真作家はその恩恵にあずかれないし、またマーケットが成立することによって「新たな見えざる障壁」が生まれる可能性も高い(つまり、バイヤーとつるんだ一部の作家が、マーケットのおいしい部分を独占するようなこと)。



しかし、自分もいい加減「オトナ」だし、そういうことに目くじら立てようというのではない。



逆に、トッド・マクファーレン村上隆のように、はっきりと「Creativityなんてのは、売れるコンテンツを作り出す能力のことだ」とか、あるいは「現代社会において、金銭的価値の無いものは存在する意味が無い」的な態度を明確にしてくれたほうがよほどマシだし、そうだったら自分も「あぁ爽快の阿藤快」という感じで流すことが出来た。
実際問題、例えコミケ並みの規模と米やん並みのカリスマティックな公平性が、新たに形成されるオリジナルプリントマーケットで「同時に実現された」としても、そこで生計を立てられるのは本当に一握りの作家だけで、また作家や周辺人物の形成する「暗黙の障壁」が形成され、新人の参入を「分かりづらい形で阻む」のは間違いない。
そして、そうならなくするための方法論の確立を「写真作家に求めるのは間違い」だ。



自分が本当にうんざりしてしまったのは、オリジナルプリント市場を再構築しようとしている人々が、むしろナイーブなまでに写真に対して真摯であり、また愚直なまでに「作家たらん」としていることだ。つまり、オリジナルプリントマーケットを再構築しようとしている人々は、本気で「それが写真というメディアの発展につながる」と信じていて、こういっちゃなんだがお気楽にも、マーケットが再構築されれば「より質の高い作品がモット世に出てくる」と信じてもいるのだ。
だからこそ、写真作品に表現されているイメージだけでなく、物質的存在としての写真が持つ質感とか明暗の調子とか、ボケ味とか、粒子感にもこだわっているのだろう。
さらに、写真に対して真摯であるがゆえに、マーケットへ持ち込む作品が「現代の美術マーケットで受けるような作品なのかどうか?」という、商業的な観点においては「絶対に避けて通ることの出来ない観点からの検討」すら、あえて無視しているのだろうというか、そう考えないと悲しくて嫌になる。



あくまでも自分が個人的に観た範疇ではあるが、ぶっちゃけ「腐女子の男装コスプレセルフやカラミ、リスカ痕のアップ」みたいなのが人気を博している現代の美術マーケットと、オリジナルプリントマーケットを再構築しようとしている人々が称揚する作品との間には、控えめに言っても無視できない距離があるとしか思えない。ただ、細江英公氏が果たしきれなかった夢が、時を隔てて実現するととらえれば少しは気も楽になるし、オリジナルプリントの販売に熱心な作家さんは世代的にも細江氏と近いように見受けられるので、その意味からも「遣り残した仕事」という意識があるのかもしれない(ただ、その細江英公氏自身は、既に「いわゆるオリジナルプリント」の世界から遠ざかりつつある)。
まぁ、だからこそ美術マーケットの現状を憂い、かつて傑作と呼ばれた作品や、その流れを汲むような作品を市場に出す意味があるとも考えているのだろう。



ただねぇ、それでもなお写真という表現手段には「超現実性」や「メタフィクション性」を、そしてなにより「神話を解体する冷静さ」を求めたかったんだな。
まぁ、個人的には、だけど…



もちろん、オリジナルプリント販売そのものを全否定するつもりはないし、そもそも最初に書いたようにオリジナルプリントだからこそ表現できる領域があることは、自分自身も十分に理解しているつもりだ。そして、表現を保存するという意味も含めた、販売行為の重要性もね。
ただ、オリジナルプリントマーケットの再構築に熱心な人々に対しては、オリジナルプリントの価値を高めようとするがあまり、ややもすると写真が否定し続けてきたはずの「アウラ」や「芸術の神話性」を、全く無批判に受け入れようとしているのではないかと思えてならない危うさがある。
だからこそ自分はどうしても肯定的に受け止めることが出来ないのだ。



かつて『provoke』において細江英公氏と、当時細江氏が推進していたオリジナルプリント販売を批判し、リアリズム写真に伍してコンポラ写真を世に問うていたのは、写真によって「芸術という神話を解体」するためではなかったのか?
そして、過去に日本の写真作家や関係者がオリジナルプリントマーケットの形成を妨害したという事実に対しても、写真や作品制作りに対する態度と同様の真摯さで向き合わない限り、一時的にマーケットが形成されたとしても、それは一過性のブームで終息してしまうのではないか?



少なくとも、オリジナルプリント販売のスター作家として森山大道氏の名前を見かけるたび、ちょっとはしごをはずされたようなむなしさを感じてしまうのだ。
こんな大道なら、まだ「腐女子の男装コスプレセルフやカラミ、リスカ痕のアップ」の方が、ナンボかマシだろうってね…



「写真: 見えるもの/見えないもの」展
会場: 東京藝術大学 大学美術館・陳列館
スケジュール: 2007年05月29日 ~ 2007年06月17日
開館時間: 10:00-18:00
住所: 〒110-8714 東京都台東区上野公園12-8
電話: 03-5685-7755


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